2023年9月22日金曜日

現代連句の40年

日本連句協会の前身である連句懇話会が創立されたのは1981年のことだった。私の連句歴は約30年で、創立時のことは直接知らないが、昨年『現代連句集Ⅳ』の編集に関わって、現代連句史を振り返る機会を得た。
最近、山地春眠子さんから「杏花村」のコピーをいただいた。「杏花村」は、わだとしお(村野夏生)が1977年に創刊した月刊俳諧誌で、1985年に100号で終刊するまで続いた。いわゆる「連句復興期」における東京義仲寺連句会の活動がよく分かるので紹介しておきたい。まず前提となる話になるが、1960年代以降の連句復興は伊勢派の俳諧師・根津芦丈をルーツとする。芦丈を中心として清水瓢左、野村牛耳、東明雅などの連句人が連句の普及につとめた。年譜のかたちで整理しておこう。

1959年 「都心連句会」創立
1961年 「信州大学連句会」創立。根津芦丈指導(東明雅・高橋玄一郎・小出きよみ・宮坂静生・池田魚魯)
1965年 都心連句会第一連句集『艸上の虹』
1966年 義仲寺史蹟保存会設立認可(境内に「昭和再建碑」保田与重郎)。1967年、機関紙「義仲寺」創刊 
1969年 都心連句会第二連句集『むれ鯨』
1971年 東京義仲寺連句会、第一回俳諧時雨忌(10月10日)を機に野村牛耳・林空花・高島南方子・わだとしお・星野石雀・真鍋天魚・珍田弥一郎などが参加
1972年 東明雅『夏の日』(角川書店)
1978年 東明雅『連句入門』(中公新書)。山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)
1981年 連句懇話会結成、12月会報第1号発行。阿片瓢郎(連句研究)・大林杣平(都心連句会)・岡本春人(連句かつらぎ)を求心力とし、代表幹事に上記三名のほか、わだとしお(杏花村)が加わる。幹事は宇咲冬男・城戸崎丹花・国島十雨・見学学・伴野渓水・土屋実郎・永田黙泉・松村武雄・宮下太郎・山地春眠子。

東明雅は信州大学連句会で連句を修得し、『夏の日』はその成果。『連句入門』はさらに体系化された連句入門書となる。東は1982年に「猫蓑」を結成。(戦後の関西連句は橋閒石の「白燕」創刊にはじまり、東京の動きとも連動しつつ、独自の展開を見せるがここでは触れない。)
さて、「杏花村」に戻るが、東京義仲寺連句会は自由人の集まりだった。俳諧の伝統を継承しつつ、参加者には詩人や作家もいて、先進的な試みをしている。「杏花村」は、わだとしおの発行になっており、現代連句に果たした彼の功績は大きい。山地春眠子の『現代連句入門』の第六章「連句を読む」に収録されている作品は、「杏花村」の昭和52年・53年に掲載されているもので、この本が東京義仲寺連句会の熱気を背景に生まれたものであることが改めてわかる。どういうメンバーがいたのか、作品名と捌を挙げておく。歌仙「紫陽花の庭」(星野石雀捌)・脇起り歌仙「絵のしま」(高藤馬山人捌)・第三起こり胡蝶「蟬時雨」(林空花捌)・胡蝶「蕉庵余寒」(眞鍋天魚捌)・歌仙「幻戯興行」(山地春眠子捌)・歌仙「巷地獄」(中津川洪捌)・歌仙「トランプの城」(わだとしお捌)・歌仙「花菜漬」(星野石雀捌)・歌仙「八衢の星」(水野隆捌)・ソネット「夢較べ」(珍田弥一郎捌)・ソネット「寒紅」(珍田弥一郎捌)・六行四連「雪雲の時間」(山地春眠子捌)。 ここでは『現代連句集』に収録されていない作品を「杏花村」からいくつか紹介しておく。

歌仙「鷺の蓑毛」  馬山人捌

  木で眠る鷺の蓑毛も冴えかへり  天魚
   危き夢を紡ぐ朝東風      洪
  蛙鳴く遠音にハープ搔き立てて  洪
   波止場通りでコーヒーを飲む  素女
  月光の斜めにさして印度貴石   浩子
  レモンの匂ふ少年の街     石雀
ウ 翼竜の骨掘る岡のうそ寒く    春眠子
   透明族のふえしキャンパス   徒司
  排気筒(マフラー)の音高らかにはためきて  欣二
   皺手振りつつ道にたたずむ   以登
  大伴旅人の大臣(うし)の笑みかへり   馬山人
   二重廻しに秘めし恋の香    浩子
  ふるへつつ下る最上の雪見船   徒司
   地下の酒場で似顔絵を描く   石雀
  金太郎飴切る音のあざやかに   天魚
   寝覚めの床にうぐひすの声   以登
  はるばると花神訪ねて月の宿   徒司
   和布刈(めかり)神社の春のことぶき   欣二

長くなるので歌仙の後半は省略。馬山人・高藤武馬は国文学者・俳人。著書に『奥の細道歌仙評釈』『芭蕉連句鑑賞』『桃青俳諧談義』などがある。天魚・真鍋呉夫は小説家・俳人。句集『雪女』など。
「杏花村」昭和53年5月号は〈高橋玄一郎追悼〉の号になっている。玄一郎と野村牛耳の文音両吟歌仙が掲載されているので、その表六句だけ紹介する。

プルシャンブルー黙示の傾斜草紅葉  玄一郎 
 三日月からむ送電の塔       牛耳
銃身を磨く射程は夜寒して      玄一郎
 古稀のあるじのいまだ俊足     牛耳
声秘めてうのはなくだし窓明り    玄一郎
 罷りて候蟾蹲る          牛耳

この歌仙は『落落抄』(高橋玄一郎文学全集第一巻)にも収録されているが、「定型を」「変型し」「異端へ」のうち、「異端へ」の部に分類されているのは興味深い。同号には東明雅の追悼文も掲載されていて、こんなふうに書かれている。

「―先生、黒色火薬はどうしましたね。爆発しますかね?」、これは高橋玄一郎さんが、時折私をからかった言葉である。黒色火薬とは新しい俳諧〈連句〉とその理論のことであった。私どもはこれを作りあげ、行きづまっている現代文学を一挙に粉砕しようと考えて来たのである。

私は高橋玄一郎についてかねてから関心をもっているので、別の機会に改めて取り上げてみたい。また、野村牛耳の連句観についてもいつか詳しく調べてみたいと思っている。
1985年、東京義仲寺連句会は「風信子の会」(村野夏生・別所真紀子)、「馬山人の会」(高藤馬山人・川野蓼艸)、「水分会」(真鍋天魚)などに分離。「風信子」はのちに「あゝの会」(村野)と「解纜」(別所)に分かれる。「水分会」からは浅沼璞が育った。
10月8日に大阪天満宮で開催される「第17回浪速の芭蕉祭」では「連句ブームの行方―現代連句の40年」というタイトルの講演と実作会を行う。資料に基づいたお話ができることと思っている。

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