2023年1月13日金曜日

「文藝」2023春号

すでに鏡開きが済んでいるが、お餅の俳句を。

餅負うて豊旗雲の裾をゆく    橋閒石
梁に雪の重さの雑煮かな
ゆうぐれは不思議かな餅ふくれだし

一句目「豊旗雲」は瑞祥の雲。「わたつみの豊旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」万葉集の中大兄皇子の歌で有名(結句の読みは諸説ある)。「豊旗雲の裾」とは何だろう。二句目の「梁」は「うつばり」と読ませる。三句目、日常の状景が不思議に変化する。この三句は澁谷道のエッセイ集『あるいてきた』(紫薇の会、2005年)の巻頭の文章から。澁谷道といえば、次の句が彼女の俳句開眼の作品として知られる。

馬駆けて菜の花の黄を引伸ばす   澁谷道

彼女の俳句の師は平畑靜塔。この句を差し出したとき靜塔は「あなたは俳句開眼しましたね」と言ったそうだ。「このとき、著者は大阪女子医専の学生であった。西東三鬼や私が時に触れ教導していた同校の俳句会に出席していた頃の作品であり、『天狼』初期の遠星集にも入選したこの句は、はっきり記憶に残っている」(澁谷道第一句集『嬰』、平畑靜塔の序)
個人的に印象の深いのは次の句だ。

ままごとのやうなもてなし蟬羽月  澁谷道

さて、今回取り上げたいのは「文藝」2023春号の特集「批評」。瀬戸夏子と水上文の責任編集である。特集の「はじめに」で瀬戸夏子はこんなふうに書いている。
「もちろん、いま批評をやろうなんて、どうかしているのかもしれない。あまりのも批評が困難な時代だ」「けれど、『困難』だと感じるのはなぜだろう、とも思う。『困難』なのは《これまで》の批評でしかないんじゃないだろうか?」「完璧ではない批評はそれでも、いつでも《これまで》を見つめながら、それぞれの切実さでそれを相対化することで生きながらえてきたのではなかっただろうか?ならば勇気を持って、平凡に、大胆に、《これまで》を裏切りながら言うべきなんじゃないだろうか?」
瀬戸と水上の対談「なぜ、いま『批評』なのか」で水上は瀬戸の文章「誘惑のために」の次の部分に言及している。
「なぜ女の作品を評するのがこわいのか。盗まれたくないから、どれだけこき下ろしてもそこに薄皮一枚の肯定を挾まなければいけないと知っているからだ。その薄皮一枚のことをここで仮にシスターフッドと呼んでみようか?その薄皮一枚の肯定は批評のキレを奪い、その薄皮一枚の言い訳のためにレトリックは精彩を欠き、それを以ってわたしは生涯二流の批評家にしかなれないことを知らされる」
「文藝」2020年秋号に掲載された瀬戸のこの文章は高橋たか子の『誘惑者』について書いている。友人を三原山へと誘う『誘惑者』の主人公、夫の飲み物にヒ素を垂らすモーリヤックの『テレーズ・デスケール―』。矢川澄子、中島梓、森茉莉などのさまざまな人物の姿が揺曳する。
前述の瀬戸の文章を水上は次のように受け止めている。
「女性同士の関係はそこだけで完結できるはずなのに、なぜか外側の男性社会的なものに勝手に消費されたり、利用されたりしてしまう。だから『薄皮一枚の肯定』を挟まないといけない。男性同士の関係だったら挟まなくていいものが発生してしまい、『批評のキレ』を奪うことになる」
女性が女性の表現者について論じるときの困難さ。小説論だけではなくて、短詩型文学のの短歌、俳句、川柳ではどうなんだろう。
「文藝」の特集はまだ充分読みきれていないが、斎藤美奈子インタビュー「文学史の枠を再設定する」、大塚英志インタビュー「ロマン主義殺しと工学的な偽史」など、興味深い内容だ。齋藤美奈子はベテランらしく次のように言っている。
「私から見ても『今ごろ何言ってんのかな』と思うことは正直あります。そんなことは何十年も前から言ってたよって。だけど先行者がそれを言うのは反則なのね。だって、いま初めて考えて、発見して、自分の生き方を問い直そうとする人がいつの時代もいるわけじゃない?フェミニズムって個々の生き方にすごく関わっているし、そのぶん格闘も必要だから」
水上文の「シェイクスピアの妹など生まれはしない」はヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』の「ジェイクスピアの妹はおそらく若くして死んだだろう。当時の女性を取り巻く状況を鑑みるに、たとえ彼女は生まれたとしても一語たりとも書くことなく、無名のまま埋葬されるほかなかっただろう」を導入とする金井美恵子論。瀬戸夏子の「うつしかえされた悲劇」は瀬戸の偏愛する三島由紀夫『豊穣の海』論。ほかに、齋藤真理子の韓国文芸批評についての文章や西森路代の「批評が、私たちを一歩外に連れ出すものだとしたら」など、読みどころが満載である。

すでに旧聞に属するが、「川柳スパイラル」12号では〈「女性川柳」とはもう言わない」〉を特集した(2021年7月)。そのときは瀬戸夏子の短歌のほか歌人の川野芽生、乾遥香、牛尾今日子に川柳を書いてもらった。あと評論として髙良真実の「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」、松本てふこ「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」、小池正博「『女性川柳』とはもう言わない」を掲載した。この特集は外山一機が松本の論を取りあげたほかには特に注目されなかったが、現代川柳においてジェンダーの問題をとりあげた企画が皆無ではなかったことだけ言っておきたい。次に引用するのは「『女性川柳』とはもう言わない」の一節。

〈明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子(麻佐子)の「魚」(一九七八年十二月創刊)である〉
〈川柳には阿木津英も瀬戸夏子も髙良真実もいない。ジェンダー論から現代川柳が本格的に論じられるようになるのはこれからのことである〉

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