2023年1月27日金曜日

別所真紀子『風曜日』(深夜叢書社)

1月22日
朝日新聞朝刊「短歌時評」に山田航の「いま、ネット短歌史」が掲載されている。同人誌「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」について触れているが、「かばん」の特集については本時評の12月25日でも言及したことがある。山田は「ネットはもはや社会的インフラである。ネット短歌も死後になった現在だからこそ、あらためてネット短歌史を振り返ろうという企画だろう」「ネットメディアと短歌の関係の研究は、まだ始まったばかりだ」と述べている。
現代川柳の場合はネット句会がまだ始まったばかりで、2022年に顕在化した感がある。今後どのように展開してゆくのか未知数の部分もあるが、チェックしておく必要がありそうだ。

1月×日
温泉が好きである。 昨年は連句集『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会)の編集と私の第三句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)の発行にエネルギーを費やした。疲労回復には温泉につかるのが一番だ。
草津温泉と伊香保温泉に行くことにした。テレビでよく取り上げられる草津温泉の湯畑の夜間ライトアップと昼間の雪景色を堪能。温泉が「湯水のように」という形容さながら湧き出ている。裏草津と西の河原公園も散策して、次は伊香保石段街へ。ここには伊香保を愛した徳冨蘆花記念文学館がある。蘆花の『順礼紀行』(中公文庫)から。
「今年三月の初め、或る日伊香保の山に雪を踏みて赤城の夕ばえを眺めし時、ふと基督の足跡を聖地に踏みてみたく、かつトルストイ翁の顔見たくなり、山を下りて用意もそこそこ順礼の途に上りぬ」
この旅で蘆花はエルサレムを訪れ、ヤスナヤ・ポリヤーナでトルストイに会っている。もう一冊、蘆花の『謀叛論』(岩波文庫)から引用しておこう。
「諸君、我々は生きねばならぬ、生きるためには常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」

1月×日
別所真紀子の作品集『風曜日』(深夜叢書社)を読む。「句詩付合」「二行詩による半歌仙の試み」「俳句」「連句」の四章から成る多面的な付合文芸の作品集である。
まず「二行詩」から紹介する。俳諧研究誌「解纜」に掲載された作品で、俳句と別所の詩とのコラボレーションになっている。たとえば「筑摩川」という作品。

筑摩川春行水や鮫の髄   其角

 断ち割られた頭蓋骨を
 おんなは籠に入れていた

 まっかに泡だつ半分の口がうたう
 ころしたのね ころしたのね
 
 そうよ お酒で煮てあげるわ
 おんなはうっとりつぶやいた

其角には「草の戸に我は蓼くふほたる哉」「詩あきんど年を貪る酒債哉」「いなづまやきのふは東けふは西」「切られたる夢は誠か蚤の跡」「十五から酒を呑み出てけふの月」などの有名句があるが、掲出の「筑摩川春行(く)水や鮫の髄」は信濃の筑摩川(千曲川)一帯の地形を鮫にたとえて、そのなかを流れる春の雪解け水を鮫の髄と表現した、いわゆる「見立て」の句。別所はこの句の「鮫の髄」からまったく別のイメージを展開させている。
別所真紀子は詩人・連句人であると同時に『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『江戸おんな歳時記』などの俳諧女性史の第一人者で、五十嵐浜藻を主人公にした歴史小説の書き手でもある。其角については『詩あきんど其角』という小説も書いている。
現代連句の世界では眞鍋天魚(呉夫)、村野夏生、別所真紀子などの東京義仲寺連句会のメンバーの作品がひとつのエポックを画するもので、本書の「連句」の章から別所・村野の両吟歌仙「鈴玲瓏」のウラの部分を紹介しておく。

いるか定食くらふ流亡の民われは  夏生
 サマルカンドの月凍るなり    真紀
青無限ハッブル膨張宇宙論
 蜂の巣見つけたる一大事
あどけなき老女を捨てに花の奥
 湖のおぼろに魂鎮まれる

『風曜日』というタイトルは画家で詩人の佐伯義郎による。佐伯には詩集『風曜日』(1980年)がある。「句詩付合」からもう一篇「蝶飛ぶや」を引用して、本書の紹介を終わりたい。

蝶飛ぶや此世に望みないやうに   一茶

 はる という初々しい名の少女は
 地平の天際をかろやかに駈けて消えた
 青いスカアトをひろげて ひるがえして

 アナクシビア・モルフォ 密林の美神
 きらめく青いスカアトのような鱗翅を
 展げて 展げたまま 永遠に 刺されて

1月×日
「川柳北田辺」128号。巻頭の「放蕩言」で、くんじろうが次のように書いている。
「昔、筒井祥文と『川柳倶楽部・パーセント』を立ち上げたとき、密に『川柳の梁山泊』を目指そう、大勢の漫画家が集った『ときわ荘』にしたいと酒を飲みながら語り合ったものだ」

カンガルーを追う中華鍋振りながら   井上一筒
6Bの雲丹をどなたか貸してくれ   くんじろう
鉛筆と消しゴムほどの仲でなし      森茂俊
仙洞御所とは長い廊下で繋がれる   笠嶋恵美子
阿弖流為の叫びシベリア寒気団    宮井いずみ
乱世でござるキティちゃん見え隠れ  酒井かがり

「らくだ忌」第2回川柳大会が3月18日にラボール京都で開催される。兼題と選者は次の通り。「泡立つ」(湊圭伍)、「二周半」(暮田真名)、「生い立ち」(真島久美子)、「無い袖」(八上桐子)、「ぶらり」(新家完司)、「雑詠」(くんじろう)。SNSやネット句会もあれば、座の文芸としてのリアルな句会にこだわっているところもある。それぞれの場が活性化してゆくことが望まれる。

2023年1月20日金曜日

文学フリマ京都7

1月15日(日)に「文学フリマ京都7」がみやこメッセで開催された。京都の文学フリマもすでに7回目になる。主催者の発表では出店者・一般来場者あわせて2424名の参加者があり、うち出店者は約615名だったという。
「川柳スパイラル」からも出店し、川柳句集のほかに連句関係の『現代連句集Ⅳ』も販売した。久し振りにお目にかかる方やはじめて川柳のブースを訪れた方ともお話しができてよかった。今回は文フリ当日手に入れた冊子を紹介していきたい。

「西瓜」第7号は江戸雪をはじめ15人の歌人が集う同人誌。
笹川諒「白く複雑な街」は最初に詞書があって次のように書かれている。

こころに白い街を広げながら暮らしている。
白さと複雑さがたびたび同義であることは、優しいことだと思う。

デイリードリーマー 学んだ知識から致命的なひとつを引くのが得意  笹川諒
もし過去に戻るとしたらあの夜に英詩の訳の課題はしない
みなそれぞれに芸術を砥ぐこの白い街の夕べはすべてあなた

三田三郎「ZOZO臓」から。

単に酒が管を通過するだけなのに酔いという脳の自意識過剰   三田三郎
内臓で野球チームを作ったら肝臓はきっと2番セカンド
肝臓を連れ戻したら説教する「辛いときこそ逃げちゃいけない」

三田と笹川の「ぱんたれい」3号が3月には出るそうなので楽しみだ。
もう少し「西瓜」の作品を紹介しておく。

サンドイッチに何を挟むか聞きたくて話が途切れるのを待っていた  嶋田さくらこ
風の音飛行機の音 何の音だろうね答えが欲しいのじゃなく    とみいえひろこ
岬まで行こうと歩きだすきみは岬に胸があるように行く       江戸雪
永遠など気持ちが悪い寝転んで喉から奥へ流れる鼻血        虫武一俊
これ以上モラトリアムをこじらせてどうする蟬の抜け殻を踏む    土岐友浩

次に「ぬばたま」7号より。

駆け上る必要はない階段も駆け上がり これ から どうしよう?  乾遥香
話してもオタク友達相手にはあなたを推しと呼ばないでいる     大橋なぎ咲

「ぬばたま」は1996年生まれによる短歌同人誌。同人は現在25~26歳。「ぬばたま世代のリアル」という特集が組まれている。「短歌の友だちいる?」「賞のことどう思ってる?」「結社楽しい?」「あなたの中での総合誌の位置づけは?」「ポリティカル・コレクトネスとその周辺について、ひとこと。数年前の歌壇と比較して何か変わった感じする?」などの質問に同人とゲストの髙良真実が答えている。「短歌ブーム」についてどう思う?という質問には私も興味があるので、書きぬいておく。「なんでブームなんだろうね。純粋読者が増えたのか、他ジャンルの文芸の人たちが短歌を買いはじめたのか、両方?」「もう10年位言われてませんか?」「あんまりブーム感じてない」「SNS(特にツイッター)に合うからかな~」「ブームでたくさん短歌に関する本が出るのはうれしいが、質が保証されないものもあるので最低限は維持されてほしい」「短歌botのフォロワー数の増加を見て、ほんとにブームなんだなと思いました」など様々な見方がある。

俳誌「翻車魚」6号。巻頭に細村星一郎・白野・奥村俊哉による「リアルタイム共作」として俳句10句が掲載されている。次のような作品。

人型兵は朧の猿にしか撃てない
文脈になかった化粧水を買う
三日前なら馬だった桃源郷

Googleドキュメントを利用し、三人の意志で10句連作を完成させたという。まず「猿」「化粧水」「三日」などの単語をドキュメント上の一枚のシートに書き込む。共作者がフレーズを加え、一句が出来上がっていく。「化粧水」に対して「文脈に沿って化粧水」というフレーズがある時点では付いていたが、最終的には掲出句のかたちで三人が合意。「三日」の場合は「三日前なら馬だった」というフレーズに共作者のひとりが「桃源郷」の語を書き込み合意される。プロセスはもっと複雑なようだが、共同制作における連句の三句の渡りや天狗俳諧とはまた違った試みである。
高山れおな「『尾崎紅葉の百句』補遺」が掲載されているのに注目した。高山は『尾崎紅葉の百句』(ふらんす堂)を出したばかりだが、そこには紅葉のいろいろな傾向の句が収録されていて興味深い。

鯨寄る浜とよ人もたゞならず  尾崎紅葉
渾沌として元日の暮れにけり
星既に秋の眼を開きけり
二十世紀なり列国に御慶申す也

『百句』には「紅葉が俳句でめざしたもの」という解説が添えられているが、「翻車魚」の「補遺」ではでは紅葉の句について「新年の句が妙に充実している」「挨拶句が巧い」「女性に視線を向けた句が多い」という三点を挙げている。高山が「補遺」に挙げている句から。

瓦屋根波も静に初日かな    尾崎紅葉
過ぎがてに草摘み居るや小前垂
火を吹くや夜長の口のさびしさに
葱洗ふ女やひとり暮れ残る

最後に「翻車魚」掲載の佐藤文香「愛のほかに」から。

海を来てこの街を迂回する冬      佐藤文香
こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに
Farmers market 蜂蜜がある愛のほかに

2023年1月13日金曜日

「文藝」2023春号

すでに鏡開きが済んでいるが、お餅の俳句を。

餅負うて豊旗雲の裾をゆく    橋閒石
梁に雪の重さの雑煮かな
ゆうぐれは不思議かな餅ふくれだし

一句目「豊旗雲」は瑞祥の雲。「わたつみの豊旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」万葉集の中大兄皇子の歌で有名(結句の読みは諸説ある)。「豊旗雲の裾」とは何だろう。二句目の「梁」は「うつばり」と読ませる。三句目、日常の状景が不思議に変化する。この三句は澁谷道のエッセイ集『あるいてきた』(紫薇の会、2005年)の巻頭の文章から。澁谷道といえば、次の句が彼女の俳句開眼の作品として知られる。

馬駆けて菜の花の黄を引伸ばす   澁谷道

彼女の俳句の師は平畑靜塔。この句を差し出したとき靜塔は「あなたは俳句開眼しましたね」と言ったそうだ。「このとき、著者は大阪女子医専の学生であった。西東三鬼や私が時に触れ教導していた同校の俳句会に出席していた頃の作品であり、『天狼』初期の遠星集にも入選したこの句は、はっきり記憶に残っている」(澁谷道第一句集『嬰』、平畑靜塔の序)
個人的に印象の深いのは次の句だ。

ままごとのやうなもてなし蟬羽月  澁谷道

さて、今回取り上げたいのは「文藝」2023春号の特集「批評」。瀬戸夏子と水上文の責任編集である。特集の「はじめに」で瀬戸夏子はこんなふうに書いている。
「もちろん、いま批評をやろうなんて、どうかしているのかもしれない。あまりのも批評が困難な時代だ」「けれど、『困難』だと感じるのはなぜだろう、とも思う。『困難』なのは《これまで》の批評でしかないんじゃないだろうか?」「完璧ではない批評はそれでも、いつでも《これまで》を見つめながら、それぞれの切実さでそれを相対化することで生きながらえてきたのではなかっただろうか?ならば勇気を持って、平凡に、大胆に、《これまで》を裏切りながら言うべきなんじゃないだろうか?」
瀬戸と水上の対談「なぜ、いま『批評』なのか」で水上は瀬戸の文章「誘惑のために」の次の部分に言及している。
「なぜ女の作品を評するのがこわいのか。盗まれたくないから、どれだけこき下ろしてもそこに薄皮一枚の肯定を挾まなければいけないと知っているからだ。その薄皮一枚のことをここで仮にシスターフッドと呼んでみようか?その薄皮一枚の肯定は批評のキレを奪い、その薄皮一枚の言い訳のためにレトリックは精彩を欠き、それを以ってわたしは生涯二流の批評家にしかなれないことを知らされる」
「文藝」2020年秋号に掲載された瀬戸のこの文章は高橋たか子の『誘惑者』について書いている。友人を三原山へと誘う『誘惑者』の主人公、夫の飲み物にヒ素を垂らすモーリヤックの『テレーズ・デスケール―』。矢川澄子、中島梓、森茉莉などのさまざまな人物の姿が揺曳する。
前述の瀬戸の文章を水上は次のように受け止めている。
「女性同士の関係はそこだけで完結できるはずなのに、なぜか外側の男性社会的なものに勝手に消費されたり、利用されたりしてしまう。だから『薄皮一枚の肯定』を挟まないといけない。男性同士の関係だったら挟まなくていいものが発生してしまい、『批評のキレ』を奪うことになる」
女性が女性の表現者について論じるときの困難さ。小説論だけではなくて、短詩型文学のの短歌、俳句、川柳ではどうなんだろう。
「文藝」の特集はまだ充分読みきれていないが、斎藤美奈子インタビュー「文学史の枠を再設定する」、大塚英志インタビュー「ロマン主義殺しと工学的な偽史」など、興味深い内容だ。齋藤美奈子はベテランらしく次のように言っている。
「私から見ても『今ごろ何言ってんのかな』と思うことは正直あります。そんなことは何十年も前から言ってたよって。だけど先行者がそれを言うのは反則なのね。だって、いま初めて考えて、発見して、自分の生き方を問い直そうとする人がいつの時代もいるわけじゃない?フェミニズムって個々の生き方にすごく関わっているし、そのぶん格闘も必要だから」
水上文の「シェイクスピアの妹など生まれはしない」はヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』の「ジェイクスピアの妹はおそらく若くして死んだだろう。当時の女性を取り巻く状況を鑑みるに、たとえ彼女は生まれたとしても一語たりとも書くことなく、無名のまま埋葬されるほかなかっただろう」を導入とする金井美恵子論。瀬戸夏子の「うつしかえされた悲劇」は瀬戸の偏愛する三島由紀夫『豊穣の海』論。ほかに、齋藤真理子の韓国文芸批評についての文章や西森路代の「批評が、私たちを一歩外に連れ出すものだとしたら」など、読みどころが満載である。

すでに旧聞に属するが、「川柳スパイラル」12号では〈「女性川柳」とはもう言わない」〉を特集した(2021年7月)。そのときは瀬戸夏子の短歌のほか歌人の川野芽生、乾遥香、牛尾今日子に川柳を書いてもらった。あと評論として髙良真実の「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」、松本てふこ「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」、小池正博「『女性川柳』とはもう言わない」を掲載した。この特集は外山一機が松本の論を取りあげたほかには特に注目されなかったが、現代川柳においてジェンダーの問題をとりあげた企画が皆無ではなかったことだけ言っておきたい。次に引用するのは「『女性川柳』とはもう言わない」の一節。

〈明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子(麻佐子)の「魚」(一九七八年十二月創刊)である〉
〈川柳には阿木津英も瀬戸夏子も髙良真実もいない。ジェンダー論から現代川柳が本格的に論じられるようになるのはこれからのことである〉

2023年1月6日金曜日

「江古田文学」特集・小栗判官のことなど

新年おめでとうございます。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。
まず、歳旦三つ物です。

歳時記の頁を繰れば初山河
 さあ召し上がれ福茶一服
NO WAR ロックの響き拡がりて

年末に届いた書籍・雑誌を読んでいる。
「江古田文学」111号の特集は小栗判官。「山椒太夫」や「信太妻」などと並んで有名な説経節の物語である。「信太妻」は葛葉狐の話で、かつて葛葉稲荷の前を通って毎日職場へ通勤していたことがある。「小栗判官」については、一昨年の和歌山の国民文化祭のときに熊野古道を歩き、湯の峰温泉のつぼ湯も見てきたので馴染がある。「江古田文学」の特集では、「小栗判官と照手姫・翻案朗読本」(翻案・上田薫)が収録されていて、熊野の場面は次のようになっている。

餓鬼阿弥殿を担いでいた道者は、湯壺の方に籠を降ろし、
「さあ、これが湯ノ峰温泉の湯壺でござる。これからこの餓鬼阿弥を湯壺にいれて、七七日の間、本復するのを待ちたいところだが、我らはこれから本宮、新宮を廻る道者であるからそれも叶うまい。これから先は、熊野権現様のご加護を祈り、湯守に預けていざ本宮に参ろうではないか」

餓鬼阿弥は病者となった小栗判官の姿である。さて、本誌には浅沼璞が「『をぐり絵巻』大和言葉の変奏—連歌ジャンルとの類似性を視野に」を執筆している。その中に寛正六年、朝倉敏景が杣山城を攻撃したときの陣中での連歌会のエピソードが出てくる。

朝風にもまれて落るかいて哉
 鶉に交る水鳥の声
沢沼のほとりかつかつ野となりて

発句の「かいて」は楓だが、敵の杣山城を守っているのが甲斐守祐徳なので甲斐手が掛けてある。朝倉勢によって楓が散るように敵が落城するということのようだ。さらに浅沼は一世紀後、三好長慶の連歌との類似についても言及している。

 芦間にまじる薄一村(「すすきにまじる芦の一むら」とする書もある)
古沼の浅き方より野となりて

花田清輝の「古沼抄」(『日本のルネッサンス人』)にもあるエピソードである。花田の文章は個人的には私が連句に関心をもつ根拠のひとつになっているので、この話題をもう少し続けると、吉村貞司の『桃山の人びと』では三好長慶の連歌会について次のように書かれている。
「三月五日、長慶は飯森城に弟冬康・連歌師牧宗養・里村紹巴などと連歌の会を開いていた。あたかもその時、弟三好義賢は岸和田城を討って出て、久米田に敵勢と激戦をまじえていた。長慶はその報を得ていたはずだ。しかし連歌をつづけた。そんなばかなことがあるものかという人もある。私も最初そう思った。私の頭には『太平記』の千早攻めがあり、長期にして無為に苦しむ包囲陣が、ひまつぶしに連歌を催したものぐらいにしか考えていなかった」
『常山紀談』では実休(義賢)討ち死にの報のあと連歌を止めて出陣したことになっている。それにしても、なぜ連歌なのか。吉村貞司は「彼らはいつ戦死するかわからない職業に従い、いつもおのれの死と対決していなければならなかった」「手段を問わず、おのれの存在を、運命を、意義づけるものにすがりつき、むさぼりつきたかった。それが禅であり芸術であり茶であり、花であった」と述べている。
「江古田文学」に戻ると、高橋実里の「自分自身に着地する—説経節『小栗判官』」や人形浄瑠璃猿八座公演「をぐり」の写真(撮影・笹川浩史)、ふじたあさや「御門から閻魔まで」(『小栗判官』に題材をとった『をぐり考』は1999年に熊野本宮大社の大斎原に野外舞台を組んで上演されたという)、三代目若松若太夫の語本「小栗判官一代記」などが掲載されていて、テクストと語り物、芸能とのリンクが総合的に見渡せる内容になっている。

川柳に話題を移すと、京都で発行されている川柳誌「凜」92号に村井見也子の「川柳三十年、この出会い」が掲載されている。京都の川柳界は1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」の三つに分かれたが、「新京都」の北川絢一郎が亡くなったあと、村井見也子が「凜」を立ち上げた。村井は2018年に亡くなったが、今号に掲載されたのは村井が1994年9月に「京都新聞」に執筆した文章の再録である。村井が取り上げているのは次の四人の作者で、現在の川柳の傾向とは異なるところも多いが、先人の作品として知っておかなくてはならないと思われるので、紹介しておく。

百冊の本をまたいでなお飢えに  北川絢一郎
悲の面はたった一つで下りてくる 定金冬二

北川絢一郎は京都の革新川柳を牽引したひとり。北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)から何句か抜き出してみよう。

庶民かな同心円をぬけられぬ      北川絢一郎
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち

定金冬二は津山の出身。津山番傘川柳会を創立。富田林市に移住したあと、「一枚の会」を創立した。冬二の句集『無双』に寄せて北川絢一郎が次のようなエピソードを書いている。句会の帰途、いつもの喫茶店である女性川柳人が「どんなにしたら冬二先生みたいに川柳が上手になりますの…」と問いかけると、冬二は「それはなア、心にいっぱい悲しみを溜めてなアー」と言いかけて、あとの言葉が続かなかったというのだ。「悲の面はたった一つで下りてくる」は冬二の代表作で、確か津山に句碑が建てられている。

おんなとは哀しいときも何か提げ    定金冬二
穴は掘れた死体を一つ創らねば
にんげんのことばで折れている芒
折り鶴が翔ぶ青空が痛くなる

絢一郎・冬二に続いて、村井見也子は次の二人の女性川柳人の作品を引用している。

靴をそろえて償いが一つ済む   前田芙巳代
子を産まぬ約束で逢う雪しきり  森中惠美子

ここでは女性川柳人について述べる余裕はないが、時実新子とは異なる傾向の作者として、前田芙巳代、森中惠美子、村井見也子、渡部可奈子などがあげられるだろう。

付合文芸である連句(Linked Petry)も前句付をルーツとする川柳も言葉と言葉の関係性の世界である。今年も連句と川柳を両輪として表現活動をしていくつもりだが、断絶する言葉と人々を何がしかリンクすることができればいいなと思っている。