2022年7月9日土曜日

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

第12回高田寄生木賞は千春の「川柳とパートナーと私」が受賞した。この賞は野沢省悟の編集発行している「触光」が募集しているもので、当初は川柳作品が対象だったが、第7回から「川柳に関する論文・エッセイ」を募集するようになった。千春のエッセイは川合大祐句集『スロー・リバー』や千春自身の『てとてと』出版の経緯を述べたものである。選考は野沢自身が行っているが、傾向としては評論よりもエッセイに重心が置かれているようだ。千春の文章は「触光」74号に掲載されているので、そちらをお読みいただきたい。私もこの賞に二度応募したことがあり、今回は第8回(2018)のときに書いたものを再録しておきたい。少し以前の文章なので若干古くなっている部分があるが、基本的な問題意識はいまも変わっていない。

滋野さちと兵頭全郎―「現実」と「拡張現実」―

時代の変化が激しい。
グローバル化、金融資本主義、ネオリベなどによって格差や紛争が世界規模で広がっている。現実の急激な変化についてゆくことはむつかしい。また、インターネットやSNSの普及によって、従来の書物を中心とした教養体系が崩壊し、サブカルチャーだと思っていたコミックやアニメはいまや若者の常識となっていて、コミックやゲームの話についてゆくことが困難になった。
それではデジタルや仮想現実の世界だけが優位なのかというと、一方で現実回帰も進んでいる。たとえば、CDではなくてLPレコードが静かなブームになっているという。ジャケットを含め「情報」ではなくて「物」としての所有感を得ることができるからだそうだ。アイドルも以前のようなテレビやレコードで遠くから眺め憧れている存在ではなくて、ライブアイドルは握手したり実際に触れあったりすることができる存在になっている。虚構ではなくて現実の時代がやってきたのである。
文学は現実から独立した虚構の世界を構築するものだと私は思っていた。川柳が文学であるならば、川柳においても作者や環境から自立したテクストとして作品を作り、読むべきである。これがテクスト論の立場である。けれども、現実は虚構を超えて予想できないスピードで進んでいる。いま世界の各地で戦争や飢餓や病気によってたくさんの人が死んでいる。日本に住んでいるとそのような現実を直接目にする機会はない。けれども、インターネットやSNSからは悲惨な現実の映像が流れ込んでくる。ネットやSNSは現実から逃避する働きをすることもあるが、拡大された現実と向き合うツールでもある。現実は目に見えるものだけではなく、その上にバーチャルな情報を重ねることによって拡大される。このような現実を「拡張現実」と呼ぶ。
このような時代に川柳は現実と虚構をどうとらえ直すべきだろうか。本稿では滋野さちと兵頭全郎という二人の対極的な川柳人の作品を取り上げて考えてみたい。この二人に何の関係があるのかと思われる向きもあるだろう。けれども、この二人の対極的な表現者の作品を通して現代川柳の最先端の課題をさぐろうというのが本稿のテーマである。

ソマリアのだあれも座れない食卓 滋野さち

「杜人」創刊七十周年記念大会(2017年11月)での作品である。兼題「席」、選者は高橋かづき。
ソマリアは日本からは遠い国で、内戦とか海賊とか断片的な情報は入ってくるものの、この国の現実に向かいあう機会はほとんどない。けれども、滋野は川柳のかたちでソマリアの現実と向き合った。焦点は食卓にしぼられている。食卓に家族や人々が集まって食事をする。それは人間として生きる基本的に必要な情景である。まず食事ができるということが生存の出発点なのだ。けれども、ここでは食卓に誰も座れない。不在なのである。戦争や飢えや社会の混乱がその背後に提示され、「だあれもいない」という不在が強調される。
ソマリアに実際に行って現実を見ることはむつかしい。だから、川柳人は想像力をはたらかせて現実をとらえようとする。日本のテレビでは放映されなくても、海外のメディアやSNSなどによって、現代ではいろいろな映像を見ようとすれば見ることができるだろう。新聞の見出し程度のことばで残酷な現実をとらえようと思えれば、安易で薄っぺらな表現になってしまう。滋野さちはそのような陥穽におちいることなく、時事的なテーマを書くことのできる数少ない川柳人である。
滋野さち句集『オオバコの花』(2015年5月、東奥文芸叢書)から彼女の作品を抜き出してみよう。

川 流れる意味を探している   滋野さち
米を研ぐ昨日も今日も模範囚
落人の家系どこまで不服従
十本の指を何回生きるのか
相討ちの顔で朝食食っている
杉はドーンと倒れ私のものになる

滋野は川に託して流れる意味、人生の意味を問うている。米を研ぐ毎日を「模範囚」ととらえる感覚は、毎日の生活に対する違和感から生じるのであり、「不服従」の感覚をどこかで抱えていることになる。
日常の中に生きながら、日常を超える生の意味を問う、それが滋野の「私性」である。現実に埋没するのではなく、現実を見据え、現実を超える視線が社会や世界に向けられるとき、滋野の批評性が発揮されることになる。

雨だれの音が揃うと共謀罪    滋野さち
親知らず抜くと国家が生えてくる
戦争は卵胎生ときどきアルビノ
ペットです軍用犬に向きません
自分史が有害図書の棚にある
ステルスが来るってよゲンパツ飛び越えて

時事句は「消える川柳」と呼ばれることが多い。詠まれた時点ではインパクトがあるが、時間の経過とともに古くなり、忘れられてゆく。射程距離のきわめて短い作品になってしまうのだ。時事を詠みながら、普遍性をもつ作品を書くのは至難の業だといえる。
滋野の時事句が普遍性をもつのは、それが作者の「私性」とわかちがたく結びついているからだろう。第三者的な視点ではなく、滋野は「私」の視点から出発する。

着地するたび夢精するオスプレイ 滋野さち

この句が発表されたとき、私は秀句として注目した。人によっては「オスプレイ」の「オス」を「メス」に引っ掛けた言葉遊びと捉えて否定的に見る向きもあるかもしれない。けれども、私はそういうふうには受け取らなかった。一見するとオスプレイという凌辱する側の視点から書かれているように見えるが、この句は凌辱される側から書かれているのだ。受身形で書くとインパクトが弱くなるので能動形で書かれているが、決してオスプレイの側に立った句ではない。冷徹に詠むことによって基地の不条理さが際立つところに政治性と文学性を両立させる滋野の到達点がある。
このような滋野さちの川柳とは対極的な作品を書いているのが兵頭全郎である。

たぶん彼女はスパイだけれどプードル    兵頭全郎

「川柳スパイラル」創刊号(2017年11月)掲載の作品で、〈『悲しみのスパイ』小林麻美MVより〉というタイトルの十句のうちの一句である。 小林麻美は「雨音はショパンの調べ」などの曲で知られ、70年代から80年代にかけて活躍したアイドルである。全郎の句は彼女のミュージック・ビデオから連想して作った句になる。この句の作中主体である「彼女」は現実の彼女ではなく、「映像としての彼女」、「アイドルとしての彼女」である。だから、彼女がスパイであると同時にプードルであることに何の不思議もないのだ。
現実から出発するのではなくて映像などから触発されて作品を書くのは全郎のひとつの特徴である。全郎句集『n≠0 PROTOTYPE』(2016年3月、私家本工房)から何句か抜き出してみよう。

どうせ煮られるなら視聴者参加型 兵頭全郎
付箋を貼ると雲は雲でない
地球のない時代の青のインク壺
へとへとの蝶へとへとの蕾踏む
おはようございます ※個人の感想です

一句目、テレビなどの映像の世界を「視聴者参加型」と言っている。受動的に映像を見るのではなく、こちらからも参加しようというのだが、それはどっちみち煮られてしまうというペシミスティックな認識があるからだ。二句目、「雲」は「雲」であるはずなのに、付箋を貼ると別のものに変容するという。ここでは実体と名前が乖離している。三句目は「地球のない時代」に飛躍している。そんな時代にインク壺があるはずがないのだが、これは言葉のなかでだけ成立する世界である。四句目はナンセンスのようだが、「いろはにほへと」の「へと」を使った句であって、作句の出発点が現実ではなく言葉である。五句目はテレビ・ショッピングなどでよく聞くフレーズだが、「おはようございます」という挨拶さえ個人の感想に解消されてしまっている。
全郎の作品においては世界を批評する根拠である「私」というようなものはすでに解体・消失しており、むしろ「私性」というフィルターを通さないことによってとらえがたい現実の一端を切りとることに成功しているように見える。
現実を現実のままとらえる従来の方法ではすでに拡張された現実をとらえきることはできない。現実と虚構との関係は常に問われなければならないし、虚構を書けばそれですむというものでもない。変転する世界を川柳はどのように書くのかを考えるときに、滋野さちと兵頭全郎を統一的にながめる視線のなかに現代川柳の可能性があるのではないだろうか。

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