2022年7月1日金曜日

Z世代の川柳と短歌―暮田真名と初谷むい

暮田真名の『ふりょの星』と平岡直子の『Ladies and』が左右社から発行され、現代川柳の季節がやって来たという感じがする。これまでも先人たちの努力によって川柳は継承・発信されてきたのだが、従来の川柳界の枠を越えて現代川柳が盛り上がりを見せている。その直接的な転機となったのは2017年5月に中野サンプラザで開催されたイベント「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」かもしれない。このときの句会で私ははじめて暮田真名に出合ったのだが、参加者の中には初谷むいもいた。

東京ははんこにどと会えないのかな  初谷むい
印鑑の自壊 眠れば十二月      暮田真名

兼題は「印」。小池正博と瀬戸夏子の共選で、上掲の二句は選者二人ともに選ばれている。暮田はこの少し前に現代川柳に関心をもったようだが、このイベントに参加したときのことを次のように書いている。
「そんな折、タイミング良く瀬戸夏子と小池正博の『川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな』が開催された。後半は瀬戸、小池に加え兵頭全郎、柳本々々という四名のパネリストが、各々の選んだ現代川柳の十句をもとに現代川柳の可能性を探るという内容だった。ここで川柳の鑑賞が扱われていたことは、川柳への抵抗を軽減させてくれた。特に柳本々々のスリリングな語りに惹きつけられたことを記憶している。また、このときミニ句会のために初めて川柳を作った。ビギナーズラックというべきか、その句が瀬戸、小池の両氏に抜かれ、調子に乗って句作を続けている」(「川柳人口を増やすには」、「杜人」263号、2019年9月)
その後の暮田真名の活躍はネットや雑誌などでよく知られている。暮田の句集『ふりょの星』はZ世代の川柳句集と言われているが、それでは暮田真名のどこが新しかったのだろうか。Z世代とは1990年代半ばから2000年代はじめにかけて生まれた世代をさすようで、ネットを駆使した情報収集・発信を得意とすると言われている。暮田は川柳をはじめてから二年後の2019年に句集『補遺』(私家版)をだしているし、ネットプリント「当たり」の発行、「こんとん句会」の参加者をネットで募るなど、従来の川柳人とは異質な発信の仕方をしている。それだけに句会を主戦場とする川柳人にはまだ十分認知されていないが、『ふりょの星』がベテランの川柳人たちによってどう評価されるかは、今後のことになるだろう。
今回はそういう発信の仕方についてではなくて、暮田の作品が従来の川柳と比べてどこが新しいのかを問うことにしたい。作品の新しさにもいろいろあって、川柳とは無関係の世界からいきなり川柳の世界に登場して作品を書き出すような表現者の新しさもあれば、川柳の遺産を知悉したうえで新しい作品領域を切り開いていくような表現者もある。ここではいささか恣意的ではあるが、暮田の作品と先行世代の川柳作品とを比べてみることにしたい。

ぎゅっと押しつけて大阪のかたち 久保田紺
県道のかたちになった犬がくる  暮田真名

「かたち」を詠んだ二句。久保田紺の「大阪のかたち」は具体的には表現されていないが、「大阪のかたち」からたとえば大阪寿司のイメージを思い浮かべることができる。暮田の「県道のかたち」は具体的な像を結ばないし、ましてその犬がどんな姿をしているのか分からない。言葉だけで成立しているナンセンスな世界なのだ。

多目的ホールを嫌う地霊なり     石田柊馬
本棚におさまるような歌手じゃない  暮田真名

この二句は発想が似ている。柊馬の句には強烈なメッセージ性があり、どんな目的にでもこだわりなく対応できるような存在に対する嫌悪感が顕わである。暮田の作品ではそのような自己主張は薄められている。

さびしくはないか味方に囲まれて  佐藤みさ子
恐ろしくないかヒトデを縦にして  暮田真名

発想ではなく文体が似ている。佐藤の作品には箴言に似た普遍性を感じるのだが、暮田の句からは感覚の独自性を感じる。本来ヒトデは横なのかどうかも定かではないが、それを縦にすることが楽しいか、それとも恐ろしいか。そんなことを考えた人は今までいなかっただろう。

都鳥男は京に長居せず       渡辺隆夫
京都ではくびのほきょうを忘れずに 暮田真名

暮田の作品にはめずらしく批評性を感じる句である。渡辺隆夫は句集『都鳥』で京都を諷刺対象にしたあと、さっさと関東に帰っていった。この場合は首の補強の方が嫌味の度合いはきついかもしれない。
恣意的に二句を並べてみただけなので確かなことは言えないのだが、暮田が先行する川柳作品を読み込んでいることが感じられる。「OD寿司」は石田柊馬の「もなか」連作と比較されるだろうが、その止めの句(最後の句)は次のようになっている。

山の向こうにやさしいもなかが待っている 石田柊馬
もし寿司と虹の彼方へ行けたなら     暮田真名

連作の最後をオプティムズムでしめくくりたいという気持ちはよくわかる。けれども、「虹の彼方」は暮田にしては甘すぎる。もし、この止めの句が柊馬の句のパロディであり、そこまで意識して詠まれているとすれば相当なものだ。

初谷むいの方に話を移そう。「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」のあと、初谷は「川柳スパイラル」4号のゲスト作品に川柳10句を発表しているが、ここでは「ねむらない樹」6号に掲載された作品(川柳5句・短歌5首)のなかから二組紹介しておこう。

終末論うさぎに噛まれた跡がある
うさぎ屋さんがめっきり開店しなくなる 終末のうわさを信じてる

会いたくなるからおれは人には戻らない
変だよ 手紙も電話も手話も花火も会いたくなるからだめなんて変

初谷は川柳も書けるが、やはり歌人なのだなと思う。突き放した断言よりも「私性」の表現の方が彼女の本領なのだろう。掲出の二首は歌集『わたしの嫌いな桃源郷』では「終末概論」の章に収録されている。別の章にはこんな歌がある。

知らない町でパン屋を探すなきゃないでよかったけれどパン屋はあった 初谷むい

探しているパン屋はないならないでかまわない。けれども、あるならそれはちょっと嬉しいことだ。絶対的なものはすでになく、希望が実現することも特に期待されていない。桃源郷といえば陶淵明の「桃花源記」が有名で、李白の「桃李園」などが思い浮かぶ。文人たちは文芸の理想の場を求めたが、そのような場所は言葉の世界においても構築することがむずかしい。ユートピアとはどこにもない場所という意味だそうだ。

「川柳スパイラル」次号15号(7月25日発行予定)では暮田真名と平岡直子について特集する。『ふりょの星』句集評は我妻俊樹が執筆、一句鑑賞は柳本々々・榊原紘・笹川諒・湊圭伍・三田三郎・大塚凱・瀬戸夏子・中山奈々の8人が書いている。また、「川柳スパイラル」創刊5周年の集い(8月6日、東京・北とぴあ)では暮田と平岡の対談のほか、飯島章友・川合大祐・湊圭伍の座談会が予定されている。

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