2017年6月3日土曜日

渡辺隆夫とキャラクター川柳

1「人間は油断をすると、すぐ真面目になってしまう」(渡辺隆夫)

「バックストロークin東京」(2005年5月)のシンポジウム「軽薄について」における渡辺隆夫の発言から。
隆夫さんが亡くなったことを3月に聞いたが、この時評では何も書かなかった。隆夫さんとは「バックストローク」同人として交流があったし、彼の句集『魚命魚辞』と拙句集『水牛の余波』をセットにして句評会を開催したこともあった(2011年7月)。
いま渡辺隆夫について真っ先に思い出すのはこの言葉である。

2私性の抹殺

句評会で私は『魚命魚辞』について次のように語った。

〈私はこれまで渡辺隆夫の川柳を「私性の抹殺」「諷刺対象の創出」「キャラクター川柳」という視点から読んできましたが、本句集を読んでキーワードは「昭和」だと思いました。隆夫さんの「昭和」に対する落とし前のつけ方として読んだわけです。
川柳は本来第三者性の立場から詠まれてきたので、「私性」が問題になるのは近代川柳以後です。隆夫さんは近代川柳の行き詰まりの打開を川柳本来の第三者性に求めていると考えられますが、その際の風刺対象をどう作るか。その最大の手法を私は「キャラクター川柳」と考えています〉

「私性の抹殺」「諷刺対象の創出」「キャラクター川柳」―あのとき私は何を言いたかったのだろう。改めて考えてみたい。

3さまざまな一人称

脱ぐときの妻は横目で僕は伏目     (『宅配の馬』)
ちょっと見てよ死体(わたし)の焼け具合 (『都鳥』)
しばらくね私蛇姫すっぽんぽん     (『亀れおん』)

この三句について一人称の使い方を比べてみたい。
一句目の「僕」は作者自身とも読めるが、二句目では「死体」に「わたし」というルビが付いている。死者の視点で詠まれており、語っているのは死者自身ということになる。三句目の「私」は「蛇姫」というキャラクターが語っている。虚構の度合いがエスカレートしているのだ。「作品=作者の自己表現」だとか「作中主体=作者」とかいう前提はまったく見られず、「私性」というようなものは最初から否定されている。だから、私は隆夫の作品を「私性の抹殺」という捉え方をしたのだった。
隆夫作品は川柳の第三者性をもっともよく体現している。
川柳は本来、自己表現や私性の表現ではなく、第三者の立場から人間や社会を揶揄するものであった。第三者だからこそ無責任=自由にカラリと明るい句を詠めるのだと彼は考えたのだろう。隆夫作品に対しては「私情開陳のカモフラージュ」(石田柊馬)という見方もあるし、たとえば「お別れにお金ほしいわ夏木立」というような句に対して、「エンターティメントとしての一人称」(古俣麻子)と言われることもあった。
人称に関して「飛行機のように電車も突っ込んだ」という句について荻原裕幸は、作家個人でもない世間一般の声でもない「非人称」の声がひびいていると評した。一人称は作者の「内面」や「思い」を表現しやすいが、絶望的な題材を前に、もはや人称の枠のなかでは語りきれない声が、作者を離れた、「非人称」の話法になったというのだ。
この句はJR福知山線の脱線事故を詠んだ時事句である。このような句作の中に隆夫の第三者性が典型的に表れている。荻原の評に対して、渡辺隆夫は「『非人称』という文字を見たとき、私は『非人情』と読んでハッとした。私の句が、しばしば、被災者や遺族への配慮を欠き、弱者に対する同情が足りない、と人情第一主義者に嫌われていたからだ」(「人称へのこだわり」)と述べている。被害者や犠牲者に感情移入してしまえば、このような句を書くことは不可能になる。「私」とは無関係であるからこそ、テロも事故も書くことができるのだろう。

4諷刺対象の創出

渡辺隆夫の句集では、三句または四句がセットになっていることが多い。章ごとにテーマ設定がされていることもある。これは諷刺対象を意識的に作り出すための方法である。たとえば、『魚命魚辞』第五章では「魚の国」が設定されている。

乙姫社の魚語辞典はまだ出ぬか
シーラカンスは魚気の多い編集長

「魚の国」があって、魚の出版社「乙姫社」がある。編集長はシーラカンス。まず、この漫画的乗りをおもしろいと思わない人にはこの句集は無縁だろう。人間なら「ヤマ気」が多いのだろうが、魚だから「魚気」が多い。出そうとしている本は『魚語辞典』。このようにして一句一句を積み上げることによって、隆夫はひとつのセカイを創り上げてゆく。何のためにセカイを創り上げるか。そのセカイを風刺対象にするためだ。風刺対象がなければ風刺することができない。

5キャラクター川柳

アニメや漫画を作るときに、女の子に猫の耳を付けようとか、この主人公に剣を持たせようなど、キャラクターが重要な役割を果たしている。ミッキーマウスやドラえもん、キティちゃんなどはだれでも知っているキャラクターである。そのような「キャラクター川柳」として、たとえば渡辺隆夫の「ベランダマン」が思い浮かぶ。

雨夜のラマダン月夜のベランダマン
屋上のベランダマンは人畜無害
シリウスも凍るベランダ喫煙所
ベランダマンをパンパン叩く隣の嫁

句集『黄泉蛙』の作品である。スーパーマンやスパイダーマンのようなかっこいいキャラではなく、ベランダマンはベランダでこっそり煙草を吸っている人畜無害で卑小な存在である。ベランダマンはいかにも川柳的なキャラクターであろう。

6「現代における一般的な読みとはマンガ的読みだ」(渡辺隆夫)

アニメやマンガのキャラクターを直接の素材として作句するのは今ではよく見られる方法である。隆夫の川柳にもマンガ・アニメのキャラクターを用いたものがある。

原子力銭湯へ行っておいでバカボン
テポドンに紅の豚ぶちかまし

「キャラクター川柳」は作者と作品を切り離すための方法として有効である。
「作品=作者の自己表現」だとか「作中主体=作者」という近代的な文芸観の行き詰まりを打開するために、隆夫は「キャラクター川柳」に到達したのだと私は思っていた。

7「なんでもありの五七五」(渡辺隆夫)

けれども、渡辺隆夫がやろうとしていたのは、私が隆夫作品にめんどうな回路を通ってアプローチしたようなことではなくて、もっとストレートな何かであったかもしれない。

還暦の男に初潮小豆めし
老妻に教わる月々の処置
TOTOに坐る牡丹となりにけり
芍薬は立ってTOTOしていたり

渡辺隆夫の句集の中で最も顰蹙を買った(と思われる)句集『亀れおん』から。「性転換」というタイトルが付いている。
還暦の男になぜ初潮があるのか、と考えるような人には意味が分からない作品である。とにかく、還暦の男に初潮があった。お目出度いといって「小豆めし」を炊いてもらったのである。毎月生理があるという体験ははじめてだから、妻にどうすればいいか教えてもらうことになる。TOTOは便器だろう。立てば芍薬、座れば牡丹。
隆夫は生物学者だったから、昆虫などの雌雄同体とか性の転換とかいうことを見慣れていたことだろう。それを人間に適用すればどうなるか。
キャラクター川柳どころではない。隆夫は性差を超越させてしまった。いや、超越というのではなくて、女性の性の具体を男性に川柳のなかで体験させてしまった。
「なんでもありの五七五」とは渡辺隆夫の川柳定義である。「なんでもあり」だから定義にはならないのだが、考えてみるとこれはおそろしい定義である。「それは川柳ではない」という類の枠組み設定や排除の論理が通用しなくなるからだ。私たちは渡辺隆夫のように「なんでもあり」と言い切る勇気があるだろうか。

8「川柳には、引き継ぎ・引き渡す程のスンバラシイ伝統なんか、なーんもない」(渡辺隆夫)

「バックストローク」15号の「現代川柳の切り口」で「川柳の伝統とは何か」を取り上げたときに、隆夫は「なーんもない」と書いてきた。
私は何もないところに何かを作りあげようという立場であるが、最近になって何もないことの風通しのよさということもまたあるのかなと思うようになった。

9「悪意というのは、人の心の内側に向かって深く静かに潜行していくというイメージがあります。一方、軽薄は、外側に向かっているエネルギーといいますか、発散していくベクトルを持っておりまして、無責任とか無節操とか、無思想とか、とにかく無茶苦茶に無作法そのものが軽薄と考えます」(渡辺隆夫)

「バックストロークin東京」、「軽薄について」から。
最後に隆夫の言葉として私が切実に思い出すのは次のことである。

10「川柳は外向的でないと生きてゆけないのである」(渡辺隆夫)

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