俳句同人誌「里」2月号の特集は「還暦15人衆を二度童子として送り出す」となっている。
「里」では今年から、五年に一度、還暦祭を開催するという。対象はその年に満59歳から64歳になる方々。15人の句が各10句ずつ掲載されている。
羽蟻の夜畳に染みの広がりぬ 水内和子
節分を越え執念の季語料る 虎時
嘘と烏瓜人類は必ず滅びる 瀬戸正洋
当尾の地布団にしたるねむり地蔵 木綿
裏山の冬竹青し大川小 原爽風
がめらのかたちごじらにかはるなつのくも 月湖
星座の名すぐに忘れる鍋焼きうどん 森泉理文
喧騒の煮凍りてゐる朝かな 木村蝸牛
椅子の背に背を付けざるを雪しぐれ 島田牙城
冬眠の自分が誰か考へをり 仲寒蟬
蛇穴に入る尻も野心も食み出して 小豆澤裕子
ささめごとして夏月にすはれけり 登貴
風邪薬百の色持つ夜来る 大西龍一
凍星の声聞くことに専念す 六
あすよりは記憶のなかの雪うさぎ 谷口智行
2月11日に「牙城・寒蟬と仲間たちの還暦を祝う夕べ」というパーティが新大阪で開催され、上記の面々(欠席者もあるが)を中心に「里」ゆかりの俳人たちが集まった。私は邑書林から句集を出しているし、「里」も毎号読んでいるので出席させていただいた。知人もいるがハンドルネームのような俳号の方も多くて、どんな人たちかという興味もあった。同じテーブルに藤原龍一郎・小林苑を・谷口智行などがいて、有意義な時間を過ごすことができた。茨木和生の挨拶にはじまりフォーマルな集まりかと思ったが、酒宴が進むにつれ、仲寒蟬が河童の扮装で現われるなど、おもしろい集いであった。中山奈々が立派に司会をつとめた。
折から島田牙城の『俳句の背骨』が発行されたところで、牙城の俳人としての考えがよくわかる評論集になっている。季語やかなづかいに関しては俳句プロパーの問題なのでさておいて、他ジャンルの人間にも読みやすく興味深いのは「芭蕉と現代俳句」「波多野爽波の矜持」の二つの講演である。「里」誌にも掲載されたことがあるので、私も読んだ覚えがある。牙城は次のように書いている。
「俳句といふのは、正岡子規以来、さまざまな考へ方が注入されまして、自分には作れないやうな俳句の世界も多岐にわたつて廣がつてゐます。今や何でもありの時代です。即ち、僕が作つてゐるやうな俳句だけが俳句なのではないのと同じやうに、皆さんが信じて作つてをられる俳句もまた、それだけが俳句なのではないんですね。他者の俳句、僕は大つ嫌ひな言葉なんですけれど、『流派』、この流派とやら譯のわからないものを超えて、ぜひ、さまざまな人の俳句を讀んで頂きたいと思ひます」(「芭蕉と現代俳句」)
「里」2月号に話を戻すと、「この人を読みたい」のコーナーで田中惣一郎が佐藤智子を取り上げている。
春炬燵その人と居てつらくない 佐藤智子
雪まろげ牛乳が手に入ったら
千両を見ると嬉しい鳥だった
俳句をはじめて3年だという。川柳の世界にいると若い感性に触れる機会が少ないので、とても新鮮に感じた。「春炬燵」の句は「その人と居てつらくない?」とつい疑問形に読んでしまうが、疑問形ではなく本当に「つらくない」と断言しているのだ。ふつうは人と居ると何がしかの「つらさ」を感じるのだが、「その人」といっしょに居てつらくないのは稀有のことなのだろう。
田中惣一郎は佐藤智子の句には直接触れずに、こんなことを書いている。
「そうして言葉は流れる。今もどこそこで流れ続けているし、その結果誰かは喜んだり、また殴られたりもするのだが、そういうこととは本当に関係なくただ言葉は流れ続ける。それがやっぱり何だかかなしい気がしてくるのはどうやら、どう考えても俳句のせいであるらしい。
俳句を知った私にとって、言葉とは俳句である」(「殴り返す言葉」)
「俳句雑誌管見」のコーナー。堀下翔が「批評性―外山一機」を書いていて、昨年12月の第25回現俳協青年部シンポジウムで神野紗希が「今の時代が詠まれていると思う10句」の一句として外山の次の句を挙げたことから話を始めている。
赤紙をありったけ刷る君に届け 外山一機
詳細は省くが、「仕掛けを盛り込むあまり批評が何回転もしてしまい、本来の意図が妙に見えづらくなるのが外山の句の特徴」「言葉が消費される時代に、動かしがたく言葉を配置し、その時代の空気感を立ち上げる。たいへんな工夫である」「こうした言語操作をむなしく思う読者もいよう。作者自身がその一人なのかもしれない」などの堀下の指摘を興味深く読んだ。
「俳句」の外山一機の俳句時評、「短歌」の瀬戸夏子の短歌時評は私も追いかけてゆきたいと思っている。
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