2016年9月24日土曜日

野間幸恵における言葉の関係性

佐藤文香が『俳句を遊べ』の中で「打越」という言葉を使ってから、私の周囲の川柳人のあいだでも「打越」の考え方がちらほら話題になっている気配である。私は連句人でもあるから、連句用語の「打越」をあまり安易に使ってほしくない気持ちもある一方、そこを入り口として連句精神が普及していくなら歓迎すべきだとも思う。

本日は連句論を展開するつもりはなく、野間幸恵の句集『WATER WAX』についての感想を書いてみたい。この句集は早くからいただいていたが、今までゆっくり読む時間がとれなかった。野間とは五月の「川柳フリマ」のときに会ったが、短い立ち話をしたにとどまる。会場には句集の解説を書いている柳本々々も来ていた。野間の句集は『ステンレス戦車』『WOMAN』も手元にあって、拙著『蕩尽の文芸』では野間について次のように触れている。

「  琴線は鳥の部分を脱いでゆく   野間幸恵

この句を私は『琴線→鳥の部分→脱いでゆく』の三つの部分に解体して読んでいるのだが、それを連句の三句の渡りに変換すれば、たとえば次のようになるかも知れない。

琴線はわが故郷の寒椿
鳥の部品を包む冬麗
うすもののように記憶を脱いでゆく

前句と付句の二句の関係性、三句の渡りの関係性を、もし一句で表現しようとすれば、線条的な意味の連鎖はいったん解体され、日常次元を超えた言葉の世界がそこに成立する。そのことによって、作品は広い時空を獲得することができる。一句によって表現できるスケールは本来、大きなものであるはずだ」(「川柳の飛翔空間」)

文中の三句の渡りは私が勝手に考えたもので、野間の俳句とは無関係なので、念のため。私の考えは基本的には変わっていないが、『WATER WAX』では野間の言葉の関係性はさらに自在に展開している。たとえば、こんなふうに。

耳の奥でジャマイカが濡れている    野間幸恵
音感やタランチュラが澄んでいる
キリンの音楽で不在を考える
胞子など子供の手から暮れてゆく
ブナの森小さくたたんでしまいけり
紅茶とは誰もいない庭である
もう二度と馬は霧で出来ている
酒樽のふつつかに帰りたいだろう
この世でもあの世でもなく耳の水

私の好みから言えば二物の取り合わせより「三句の渡り」を一句の中で実現している句がおもしろいと思う。それを一句として成功させるには繊細な言語感覚を必要とする。三段切れなどは児戯に類するのだ。
こういう書き方の遠源は攝津幸彦だろう。

路地裏を夜汽車と思う金魚かな    攝津幸彦

そういえば、攝津は野間の次の句を「私の好きな女流俳句」の一句として挙げていた(『俳句幻景』)。

一反木綿雨後をふくらむジャック&ベティ  野間幸恵

そして攝津は「俳句の方法による一行詩の自律に挑み、幾多の男性俳人が敗れ去った荒野で、ねばり強く言葉と交換する幸恵」とコメントしている。
ただし、「三句の渡り」理論から言えば、掲出句は「一反木綿」と「ジャック&ベティ」が固有名詞の打越となり、必ずしも成功しているとは言えない。

手を洗う鯨へ愛を切り子かな    『ステンレス戦車』
左京区を上がる恥骨は打ちどころ  『WOMAN』
うっとりとアンモナイトを遅れるか 『WATER WAX』

先日、「川柳カード」12号の合評会があって、同人・会員作品を改めて読み直した。その中に次の句があった。

本堂に密度の雨がオスとメス   榊陽子
カンガルーは腐った水蜜桃だよ
なお父はテレビの裏のかわいそうです

天狗俳諧の書き方は昔からあるが、効果的な作品にどう高めてゆくか、それぞれの作者の腐心するところだろう。
五月に話したときに野間は「急に句が書けなくなるときがある」と言った。「私はまだそういうレベルにまで到達していません」と答えた私を、彼女は「謙遜する人は苦手だ」とあっさり切り捨てた。野間の句集のあとがきにはこんなふうに書いてある。
「言葉で描く世界はいつもミラクル。最大と最小が隣り合わせ。その中で『私』など全く不要で、大切なのは『関係性』だと思っています」

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