2014年9月20日土曜日

湊圭史の仮説の家

9月14日、「文学フリマ大阪」に行った。
今年は「川柳カード」として出店するつもりで、参加申し込みのメールまで送ったのだが、その後もう一度返信メールするのを忘れて手続き完了に失敗した。まあいいか、というので、当日会場には行ってみたが、お目当ては吉岡太朗の第一歌集『ひだりききの機械』(短歌研究社)である。

ごみ箱に天使がまるごと捨ててありはねとからだを分別している   吉岡太朗
兄さんと製造番号二つ違い 抱かれて死ぬんだあったかいんだ
おりがみを折るしか能のないやつに足の先から折られはじめる
あじさいがまえにのめって集団で土下座をしとるようにも見える
ふいとったらそれが顔やとわかるけど問題はふきおえてからなんです
両手とも左手なのでひだりがわに立たないとあなたと手をつなげない

連作として作られているけれど、連作の枠組みを外しても共感できる歌が多い。抒情性から批評性への道筋は川柳人にも無縁ではない。「膜があんのに出てきたから聖なる御子 穴がないのにひり出されたら聖なる雲子」など、渡辺隆夫が読んだら喝采するだろう。
会場には同人誌やフリーペーパーなどいっぱい置いてあって、活字だけの誌面構成とはずいぶん違う。こちらの頭の中が変わらなければ、若い世代にも魅力的な川柳誌の実現など望むべくもない。

「井泉」59号、巻頭の招待作品は湊圭史の「仮説の家」15句である。

教科書の表紙の光沢はぬかるみ
半分にすると時計は寂しがる

ぴかぴか光る新しい教科書もぬかるんでいる。これから新しいことを学ぶ喜びのなかに、それとは相反する感情が混じっている。足をとられるような困難な感覚。
食べ物を半分に割って、分け合って食べる。二人の間には共感が生まれるが、では時間を分け合うことはできるだろうか。半分にされた人間が互いに他の半分を求め合うように、半分にされて時計は他の半分を求め合う。けれども、半分にされた時計はすでに自分の時間を刻みはじめているのだ。

ハンモックらしく二枚舌を使う
ストローの袋のような鳥のような

比喩の句が二句続く。
ハンモックは二枚舌を使うことがよくあるのだろうか。
ストローの袋のような、鳥のような存在とは何だろう。
ストローを出したあと袋はもう要らない。
ゴミ箱に捨てられるのだが、私たちはそれを意識することさえなく捨てている。
では鳥は?
鳥は飛び立ってゆくことができるのではないか。
「ストローの袋」でもあり「鳥」でもあるような存在。

和音階は蟻の耳には聞こえない

逆に言えば、蟻の耳に聴こえているのは不協和音である。
あちらこちらからノイズが聞こえ、その中で蟻は地を這っている。

目を覚ますまた揺れているフライパン
思い返してはフルートの口になる
くるぶしと買い物かごと地平線

日常性を詠んでいる。
日常性はいとおしいものであるが、退屈なものでもある。
日常性のなかにふと過去の時間が紛れ込む。そのとき人はフルートの口になる。

しりとりの終わりに「生んでくるわ」
天井に並んで生える歯がきれい
拍手した手がふっくらと焼き上がる
すこし小さい骨格標本のまえで

結婚生活の中で子どもが生まれる。
尻取りの「生んでくるわ」の前の言葉は何だったのだろう。
そして、あとの言葉は?

永遠を引っ掻いてゆくパイプ椅子
頑張るとペットボトルが立ち上がる
一人ずつ小さな靴でさようなら

「仮設の家」ではなく、「仮説の家」である。
すべては仮説なのだ。
生活・現実・日常性。そういうものの中に、別の現実や時間が重なってくる。
グッバイ・デイ。
この家は変容しながら明日も続いてゆく。
湊圭史は現代詩や俳句の世界でも活躍しているが、彼の川柳作品には今まで少しなじめない部分があった。けれども、今回の「仮説の家」15句は川柳形式と見事に親和していると思った。

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