たまには伝統川柳の見学もしておこうと思って、8月31日(日)、「京都番傘創立85年記念川柳大会」に行ってみた。番傘の大会に参加するのは「番傘川柳本社創立85年大会」以来のことである。
「京都番傘」は昭和5年に創立され、初代会長は平賀紅寿。
碁盤目に世界の京として灯り 平賀紅寿
『柳多留』の巻頭句「五番目は同じ作でも江戸生まれ」の江戸意識に対して、京都を前面に押し出した句である。京都番傘の機関誌は『御所柳』だが、創立当初は『レフ』という誌名だったという。「一眼レフ」などというときの「レフ」である。個人的な感想だが、『レフ』という誌名を捨てたのは惜しいことである。
洛北の虫一千を聴いて寝る 岸本水府
以前からこの句は洛北のどこで作られたのか気になっていたが、森中恵美子の「京番と水府を語る」の話で、水府が戦時中、京都に疎開していたころの句であることが分かった。水府は一乗寺に疎開していたという。
ついでだが、西田当百に次の有名な句がある。
ないはずはない抽斗を持って来い 西田当百
『川柳塔』9月号(「柳多留十二篇研究」)を読んでいて、『柳多留』に「無いはづはないと跡から蔵へ行く」の句があることを知った。主人や番頭が蔵へ行くのではおもしろくない。母や女房がドラ息子または亭主が勝手に持ち出したのをとがめる句のようだ。当百は古川柳の味を受け継いでいることになる。
喜多昭夫歌集『君に聞こえないラブソングを僕はいつまでも歌っている』から。
克明にすこしみだらに原発の腸(はらわた)描かば愉しからまし 喜多昭夫
フクシマを脱出したし 原発も 原発管理人も 桃も
無花果の葉もて国会議事堂を蔽いかくせばよいではないか
二句目は塚本邦雄の有名な歌を踏まえながら、そこに「桃も」と付け足している。批評性のある歌だが、次のような多様な作品がある。
「人生は苦しい」(たけし)「人生はなんと楽しい」(永井祐)
文学フリマで出会った君をとりあえず作中主体であることにして
許されてしまうさびしさ むささびが木から木へ飛ぶとき四角なり
手まひまをかけられ育った僕たちが品川できれいな点呼をうける
金魚にはたくさん種類がありますから最寄りの駅までお越しください
番号のつけられていないどうぶつをしずかに数えるコビトカバまで
なんかこうぶっきらぼうに見えるけどかゆいところに手が届くひと
緞帳のように降りくるものがある 見えなくなるまで見るということ
「井泉」58号、島田修三が「玉城徹の歌をめぐって」を書いている。
島田は「他人の人生につきあうのは厄介でもあるし、億劫なことでもある」と断ったあとで、玉城徹の歌について次のように書いている。
「だから私は玉城徹の人生には深入りしたことがない。深入りはしなかったが、玉城の歌集を読んでいると、向こうから彼の人間や人生が湧き水のようにこちらへ侵入してくる」「歌はそこに文学的境涯のコンテクストを据えなければ、優れた個性=差異性は容易にとらえがたい文学だということだ」
有力同人をあいついで失った「井泉」だが、これからもがんばってほしい。
今年の「俳句甲子園」は開成高校が優勝した。
決勝では開成高校と洛南高校が戦った。
「船団」102号に清水憲一が「高校生と俳句」というエッセイを書いている。
清水は洛南高校俳句部の元顧問である。数学の教師であるにもかかわらず、なぜ俳句部の顧問を引き受けたのか、その経緯が語られている。
「蝶」209号にも「土佐高校俳句同好会」の「俳句甲子園全作品」が取り上げられていて、宮﨑玲奈の20句も掲載されている。
華やかな部分だけが注目され、その成果を見て安易に「同様のことを川柳でも」などと言う人がいるが、俳句甲子園の立ち上げには主催者・スタッフの並々でない努力があったうえに、その維持には若い俳句ボランティアたちの下支えが欠かせない。
すぐれた俳句表現者の系譜を若い世代が受け継いでいることがベースにあると言える。
「船団」掲載の芳賀博子のエッセイ「杉浦がいるところ」。
今回取り上げられているのは重森恒雄である。
一塁が遠くてバスを待っている 重森恒雄
フェンスまで届かぬ会心の当たり
訣別をするために打つホームラン
跳び箱を跳ぶポケットのものを出し
飛行機のかたちに折って手を放す
重森が南海ホークスのファンだとは知らなかった。
現代川柳では『新現代川柳必携』(三省堂)が出版された。そろそろ大書店の店頭に並ぶころである。本書については次回に改めて紹介する。
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