2011年5月27日金曜日

詩性と大衆性

最初に川柳大会のご案内を二つ。
6月12日(日)に「全日本川柳2011仙台大会」が開催される。震災で開催があやぶまれるなか、予定通り実施されるという。主催は全日本川柳協会。
「川柳ステーション2011」は6月4日(土)開催。青森の「おかじょうき川柳社」創立60年記念大会。

先週書いたことを補足して「杜人」の物故川柳人に触れておく。大友逸星が菊池夜史郎について書いている(「杜人」187号)。昭和27年、「杜人」同人。古武士のような風貌のなかにある諦観的なものを言動の端々に感じさせる人だったという。「川柳で日記を書く。自己凝視、自己顕示に一生を賭ける」という作句姿勢。昭和46年3月、石巻の山林で自死。

透明の海へくらげの溶けんとす    菊池夜史郎
海の色くらげ溶けんとして溶けず

さて、青森から出ている川柳誌に「触光」(編集発行人・野沢省悟)がある。2009年6月には大友逸星川柳人生60年、高田寄生木川柳人生50年の記念大会が開催された。そして、今年、高田寄生木(たかだ・やどりぎ)賞が新設され、「触光」22号に発表されている。各選者の特選句を紹介する。このうち宮本めぐみの作品が「第一回高田寄生木賞」を受賞している。

樋口由紀子選  林檎はトマトとの関係性を否定する 木下草風
木本朱夏選   焼け跡の次のページにいる蛍    悠とし子
渡辺隆夫選   スーパーの屋根に三割引の月    小暮健一
梅崎流青選   水洗いしれば消えゆくほどの罪   嶋澤喜八郎
高田寄生木選  献体を決めて夕日の中にいる    宮本めぐみ

「川柳塔」5月号は「西尾栞・17回忌特集」。
「栞この一句」のコーナーで、小島蘭幸が次の句を取り上げている。

自我没却という泳ぎ方である    西尾栞

平成2年「第8回夜市川柳大会」の課題吟「泳ぐ」の天位の作品だという。西尾栞は麻生路郎に師事、「川柳塔」主幹をつとめた。次に挙げるような作品が彼の代表作であるが、「自我没却」のような句も作っていることをはじめて知った。

あの晩の風邪よと女嬉しそう   西尾栞
働いた色で夕陽も沈むなり
人恋し人煩わし波の音

川柳誌「バックストローク」34号から。本誌にも伝統的な書き方の句はけっこう多い。

コレクションのひとつ大粒なる泪     広瀬ちえみ
立ちこめる沼気いずれは浄閑寺      山田ゆみ葉

広瀬ちえみの作品は文句なく大衆性をもっている。
ゆみ葉の句は、これぞ古川柳の味である。花又花酔(はなまた・かすい)の「生れては苦界死しては浄閑寺」を踏まえている。

めでたくも飴一粒に収斂す    筒井祥文
抽斗にねむる鉱物はいやらしい  湊圭史

「めでたくも」「いやらしい」の感情語が使われている。
筒井の句。「飴一粒」に収斂する事態がある。それがどのような事態であるかはひとまず置くとしても、「めでたくも」は反語や皮肉とも受け取れる。私はこれを人間の行為はしょせん飴一粒に収斂する程度のものだという皮肉と読むが、飴一粒に収まってめでたいことだと肯定的に読む読者があってかまわないと思う。読みの両義性の問題である。
一方、湊の句について、「いやらしい」は反語ではなく、そのままの意味に受け取れる。

京都の川柳誌「ふらすこてん」(発行人・筒井祥文)15号から、井上一筒の作品をご紹介。

農協の裏の抜糸から戻る         井上一筒
御手付き中﨟ジオラマを掠める
カーナビの隅紅巾の乱終わる
雅楽頭殿めし粒が付いてます

以上の句では、時間と場所が齟齬するような二者があえて取り合わせられている。現代絵画の場合でも一つの画面に時空の異なるものが描かれることは珍しくない。川柳で同じことをやっていけないはずはない。「御手付き中臈」が何でジオラマを掠め取ったりするのだろうと悩まずに、漫画として受け取ればいいようだ。「めし粒が付いてます」は伝統的川柳の発想だが、「雅楽頭」のことにして新鮮味を出している。

高知の「川柳木馬」128号。
同人作品と前号批評、高知県短詩型文学賞受賞作品などで誌面構成されている。同大賞作品の山下和代(「木馬」同人)「かじられた林檎」から何句か紹介する。

きっぱりのできぬ兎の耳を切る     山下和代
かじられた林檎こっそり席に着く
ルート2をひらいて祇園祭かな
耳元のバイリンガルの蚊をたたく

内田万貴が「挑発する句語たち」で書いているように、昨年2010年は「第2回木馬川柳大会」や『超新撰21』への清水かおりの参加など特記すべきできごとがあった。今年になってもその勢いは続き、清水かおりは短歌誌「井泉」39号に巻頭・招待作品を発表している。

それはもう心音のないアルタイル    清水かおり
梅園の返書をなめている姉妹
とめどなく鳥 荒事は木のうしろ
爪を剪るとき水売りの記憶

「川柳木馬ぐるーぷ」は高知の地方集団にとどまらず、「作家群像」など、これまで全国の川柳人に対して発信してきたのが魅力であった。それにしては今号の木馬誌面はややグループ内で閉じている印象がある。よりオープンな発信を期待したい。

今週は川柳諸誌をあれこれ紹介してみた。
川柳は(俳句のルーツである俳諧も)庶民文芸として生成・発展してきたから、「大衆性」「庶民性」は切り離せないものであり、「共感性」「普遍性」がベースにある。詩性と大衆性の間で揺れ動きながら進んでいくのが川柳の宿命なのだろう。
過渡の時代にふさわしく、川柳もまた混沌としている。

0 件のコメント:

コメントを投稿