4月に仙台の川柳人・大友逸星がなくなった。
4月9日のブログでも触れた「杜人」初句会の記録で逸星さんの発言を読み、お元気でよかったと思っていた矢先のこと、4月17日に訃報が入ったのだった。中途半端なことを書くとかえってこの巨星の足跡に対して失礼かと思って控えていたが、いま書いておかないともう書く機会も失われてしまうことをおそれ、今回大友逸星の川柳を取り上げることにしたい。
まず『新世紀の現代川柳20人集』(北宋社)から作品を引用する。
血液が欲しくて並ぶ兵馬傭 逸星
炎天の蔦ずるずると日野富子
激安の卵を買えば鶏の貌
生臭いままで終わろう鰯たち
幽霊になった訳など忘れたわ
何をしたのか鉈を洗っている
泡立草のまっただ中の大丈夫
これが川柳の骨法をふまえた逸星の実力である。「炎天の蔦ずるずると」から「日野富子」への詩的飛躍。「卵」から「鳥の貌」への気味悪さ。「幽霊になった訳など忘れたわ」という自在な口語。そして作品の根底にあるメッセージ性。
大友逸星(おおとも・いっせい)は大正13年、仙台生まれ。昭和23年、「川柳杜人社」同人に。前年の昭和22年にはすでに添田星人が同人になっていた。星・星コンビの誕生。
逸星の川柳は「杜人」と切り離しては語れない。
「杜人」は昭和22年(1947)10月、新田川草(にった・せんそう)によって創刊された。創刊同人は、川草のほかに渡辺巷雨、庄司恒青、菊田花流面(かるめん)。杜人の句会は川草の経営するパン屋の2階でやっていたという。
『現代川柳ハンドブック』(雄山閣)の新田川草の項は逸星が書いている。それによると―
〈川柳の自在性と来たるべき光芒を求めて若い同人を糾合研鑽し、石原青竜刀との「川柳詩、非詩」論争を展開した田畑伯史、スタンダード的名著『現代川柳のサムシング』(昭和62年)の著者今野空白等を輩出する〉
豪放にして繊細、ふてぶてしいまでの行動力と評された新田川草は、深酒の果てに昭和47年死去。
逸星は「杜人」200号記念号(2003年12月)に、かつての同人たちに対する追悼句「弔句曼荼羅」を掲載している。すでに過去となってしまったそれぞれの川柳人の風貌や内面のドラマが一瞬よみがえるようである。
新田川草(ビール党) 川草戻れよ冷やっこいビールだよ
菊田花流面(膀胱癌) 放尿をしに行ったきり空の果て
渡辺巷雨(ジャン名人) マージャンの音を零してゆく車
菊池夜史郎(日和山で自殺) ともしびを消し早春の風が逝く
田畑伯史(海峡で自殺) 津軽海峡竜巻を登る馬
今野空白(外科医) ひまわりのどっと崩れて神無月
さて、「杜人」224号に広瀬ちえみが「杜人の星―大友逸星小論―」を書いている。
〈「杜人」創刊号から読んだとき、まっさきに感じたのは逸星の句が強烈なパワーを持ち始めたのは60歳頃からだということだった。ここ20数年の句が輝いているということを逸星に言うと「若いときは食うのに追われていたからな」と返ってくる。〉
広瀬は逸星の句を年代順に紹介している。次に挙げるのは20代から40代の句。「杜人」のバックナンバーから添田星人が抄出したものだという。
(20代)
膝抱けば膝も己といふぬくみ
鳥といふ悲しきばかり気を配り
冬眠すすべては大地の脈となり
娶ろうよ人形ふわり緋をこぼす
犬の尿意が一本杉を廻る
(30代)
缶ビール吹上げた夜汽車の女
此の顔 鋳造されて都会の襞
乳配れば雪に牙あり壜を噛む
如何なる星の下か子を叩く手となりぬ
群盗の一人となりて暁の雲に乗る
(40代)
金、吾、暦、三題噺に笑わぬ妻
夜の螺旋を転げた無理算の顔よ
階段をも一つ降りた握手など
七色の噴水急に嘘をつく
匕首の形に化石する愛か
逸星個人の川柳史と同時に、彼が生きてきた川柳状況の変遷をも同時に感じさせる。
石田柊馬は〈「杜人の星―大友逸星小論―」につづけて〉(「杜人」225号)で、広瀬ちえみの逸星論に続けるかたちで、逸星の20代の川柳について、「まっすぐに、作者の現実の感動がことばとなって、読者の感動に対応している」と述べている。「膝抱けば」の句の「ぬくみ」は、他者と通い合う、誰もが求めていたこの時代特有の「ぬくみ」だったと言うのだ。それは現在の川柳の書き方とは随分異なった位相にある。
30代の逸星は7年間東京へ出たらしい。
この時期の川柳は案外(?)おもしろい。「此の顔 鋳造されて都会の襞」。そして、柊馬が絶唱だという「乳配れば雪に牙あり壜を噛む」。
40代の句。「匕首(あいくち)」「化石」ときて「愛か」につなげる書き方は、現在ではもう書きにくくなっている。現在では言葉がフラットになっていて、一句の中でこういう重たい言葉を三つも使うことができない。ただ、この書き方の遠い残響・ヴァリエーションとして「バックストローク」34号の広瀬ちえみの句「コレクションのひとつ大粒なる泪」を連想することはできるかもしれない。
そして広瀬の言う60代以降の豊饒。
坂を生み続けるいざなぎいざなみ
天才を水に流したかもしれぬ
戦争は一つの卵しか生まぬ
蠅一匹と弔問に駆けつける
老斑の一つは正倉院らしい
戦争と地震のどちらかに○を
逸星の功績のひとつは後進を育てたことにある。
添田星人と大友逸星による対談「杜人創成期の活気」(「杜人」213号)で、両人は次のように発言している。
星人 考えてみると、杜人というか川草の偉いところは、いわゆる「先生」を作らなかったことだね。ワイワイやりながらも自分が殿様にならないで、みんなと同じ仲間だという意識が強かったんじゃないか。
逸星 杜人はそういう伝統が連綿と60年間続いてきたんだ。同じ目的達成のために上意下達式の組織を作るというグループではなかったね。それぞれ川柳は作るが目的はみんな違うという純粋な「同人誌」なんだよ。
主宰なき自由な川柳グループの精神は残された者たちに受け継がれていくことだろう。
泡立草のまっただ中の大丈夫 逸星
女の子が一人寺からついてくる
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