2011年4月9日土曜日

川柳における「俳句の季語」に相当する語

仙台で発行されている柳誌「杜人」2011年春号(229号)が届いた。
編集人・広瀬ちえみの挨拶文が同封されている。震災のお見舞いを述べたあと、次のように書かれている。日付は3月22日。
「宮城県は仙台市中心部、仙台市郊外のライフラインが少しずつ整いつつあります。ガソリン以外は、食料等も並ばずに買えるようになってきました。避難を余儀なくされている方々には申し訳ない気持ちでいっぱいですが、元気になれるところから早く元気になり、それを伝えることが励ましになるようにと願っています」
また、本誌の最後のページには「3・11 東日本大震災」という短文が掲載されている。
「3月11日午後2時46分、死ぬかと思うほど揺れた。グラウンドに避難しながら『杜人』の発行は無理なのではないかと頭をよぎった」
以下、発行までの事実経過である。
3月4日 印刷所への入稿
3月9日 一校目のゲラが印刷所から届く。
3月9日・10日 校正を終えて、念のため11日にもう一度見てから12日に印刷所へ渡す予定だったが、震災のため無理と判断、親戚の家に避難したあと13日に家に戻る。
「14日朝6時、玄関をドンドン叩く音がする(停電でインターホンは鳴らない)」
印刷所の方がやってきたのだ。「無事だったの」と同時に叫ぶ。
「印刷所は家具が倒れ、活字などばらばら落ちたのだという。それでも『杜人』の発行に責任を果たそうと、その一念で約束の12日、13日に何度も我が家に来たのだという」
3月16日 二校目のゲラが届く
3月22日 第二校・校了
3月25日 発行
震災を乗り越えて発行された柳誌のひとつのケースとしてご紹介させていただいた。これは美談ではない。原稿を預かっている者の責任感だろう。

さて、「杜人」今号の内容は、地震以前の平穏な「杜人」の記録である。〈実況!「杜人句会」〉では、今年の正月句会の様子がテープ起こしされている。「杜人」句会は、同人や投句者を含め30名ほどで毎月行われているという。
宿題は「ラーメン」と「浮」、席題「子どもが描いた絵」(印象吟)。
注目したのは次の句に対する評である。

二本足一本浮いているこの世

〈久子 せっかく二本足をもらいながら、その二本の足をきちんと地面につけて生きてこなかったかも。
 裕孝 これは二本と一本という対比と、この世とあの世という区分けの中でささやかに作ったという感じだな。すっきりしているね。(自分の句をさりげなくほめる)
ちえみ でもさ、「この世」はやめた方がいいんじゃない。いっぱいあるよ、「この世」の句。
裕孝 でもさ、あの世よりこの世のを作った方がいいと思うよ。もちろん「この世」の句はいっぱいある。ちえみにも、千草にもあるし、みさ子さんにはなかったか?
みさ子 あります!
逸星 やっぱり作者は苦しんだんだよ。下五をどう持ってこようかなって。それでひょいとこの世にしたんだ。
裕孝 便利な言葉なんですよね。この世は。おさまりがつくしね。
ちえみ わたしたちの「この世」よりこの句の出来はどうかな?使うなら越えなきゃね、フフフ。
節子 「この世」は川柳の季語だから〉

話題になっているのは下五の「この世」で、「―――この世」という止め方が常套的ではないかということである。下五に限らず、この言葉自体、川柳でよく使われるので、「川柳の季語」だというのだ。俳句の季語に相当する語が川柳でも決め台詞として使われるという意味だろう。川柳を作るときに経験的に思い当たることであり、同様の発言は他の句会でも耳にしたことがある。
俳句の季語には「本意」というものがあり、歴史的に蓄積された語のイメージがある。それにどう寄り添うか、どう外したりずらしたりしていくかということが俳人の意識するところだろう。「川柳の季語」という場合、似たような言い方に「キイ・ワード」という用語がある。俳句でも季語にこだわらない立場をとる人は、「季語」ではなくて「キイ・ワード」だと主張する。「川柳の季語」と「キイ・ワード」が同じかどうかは分からないが、重なる部分はあるだろう。ただし、川柳の分野でキイ・ワードによって句を体系的に分類する試みはあまりみかけない。
結局、俳人と川柳人とでな脳内にもっている辞書が違うのだという気がする。俳人は「歳時記」を持っているが、川柳人はまた別の「辞書」を持っている。それは現実の辞書ではなくて、川柳人の頭の中だけに存在している。
「杜人」を読みながら、そのようなことを考えているうちに、宮城県でまた余震のニュースがあった。早く静かな時間に戻ることを祈っている。

お手洗い借りるこの世の真ん中で    広瀬ちえみ
この世から剥がれた膝がうつくしい   倉本朝世
さくらさくらこの世は眠くなるところ  松永千秋
れんげ菜の花この世の旅もあと少し   時実新子

(追記)
「凛」45号(2011年4月1日発行)に広瀬ちえみが「この世の問題」について次のように書いている。
「川柳に季語があるはずもないのだが、季語のような働きをする象徴的なことばがたくさんあると、交流している俳人たちにことあるたびに私は述べてきた」
その具体例として「駱駝」が挙げられている。「駱駝」は動物そのものの意味であると同時に「砂漠をゆく困難な情況」や「荷物を背負わされる不条理やおかしさ」などのメタファーとして了解されるという。
それでは、俳句の季語と川柳の象徴語との違いはどこにあるか。
「端的に違いを言うなら、季語には時間の蓄積があり、川柳の象徴語にはそれがない」
広瀬自身による問題の整理として紹介しておく。

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