2011年4月23日土曜日

だし巻き柊馬

「第4回バックストロークおかやま川柳大会」が4月9日に開催された。その第1部のテーマが「だし巻き柊馬」。昨年の「石部明を三枚おろし」に続いて、今年は石田柊馬を料理しようというのである。聞き手は畑美樹・清水かおりの二人。石田は現代川柳における屈指の実作者・批評家であるが、その川柳歴をまとめて聞くことのできる機会はあまりない。セレクション柳人『石田柊馬集』の年譜を見ても、ごく簡略なものにすぎず、柊馬のシャイな一面をあらわすのだろうが、川柳をはじめてから2000年ごろまでの川柳活動に関して何も記載されていない。

今回の企画には伏線がある。パネラーの清水かおりが語っていたように、「バックストローク」27号で「石田柊馬をやっつけろ」という特集を組んで、広瀬ちえみ・樋口由紀子・清水かおり・畑美樹が柊馬を批評したことがあった。広瀬・樋口のふたりは存分に柊馬をやっつけたのに、清水・畑の二人はやさしい性格が災いしたのか、批評しきれなかった。今回の企画はそれを補うものと言えるかもしれない。ちなみに「だし巻き柊馬」のタイトルは畑美樹が考えたそうだ。
当日はメモをとっていたのだが、いつの間にかなくしてしまったので、本稿は記憶による雑駁な印象であり、当日語られなかったことも勝手に想像して書いている。いずれ「バックストローク」誌にテープ起こしが掲載されるだろうから、正確なことは後日そちらの方をご覧いただきたい。

若き日の石田柊馬が菓子職人としてスタートしたとき、労働の現場と人間性とのギャップは大きなものであったと思われる。「年譜」には「1957年 中学を出て洋菓子製造販売の会社に就職。製造現場で、愚鈍で機転の利かぬ者にとっての40年間」とある。もともと彼は文芸が好きだっただろうが、この現実と内面との落差は表現へのエネルギーとなっただろう。川柳への視点は中立的なものではなく、党派的(政治的党派のことではない)なものとなったと想像できる。社会性川柳に向かう萌芽が彼の中に必然的にあったのだ。ちょうど時代は大衆文化の盛んだったときである。映画の全盛期でもあった。文芸に関して言えば、彼の眼の届くところに3種の短詩型文芸誌があった。「川柳」と「冠句」と「俳句」である。「川柳」は「平安川柳社」。冠句は京都では盛んで、昭和2年、太田久佐太郎が冠句普及のための機関紙「文芸塔」を創刊して以来の伝統がある。俳句は「角川俳句」であった。この三種のうち、俳句と冠句は半年、または一年で読むのをやめ、川柳が残った。彼が平安川柳社に手紙を出すと、句会に来たまえということになって、柊馬の川柳人生がはじまる。

「平安川柳社」は昭和32年の創立から昭和52年に解散するまで、京都の川柳界を集合する柳社であり、福永清造・北川絢一郎・西沢青二などがいた。「平安」の誌面は、同人創作欄・投句欄「蒼龍閣」・革新系投句欄「新撰苑」に分かれていた。
柊馬が影響を受けた川柳人として名前が挙がったのは、冨二・豊次・ゆきらの三人である。
中村冨二は戦後の革新川柳を代表する人物。「パチンコ屋オヤ貴方にも影がない」などの作品で知られるが、一方で「良心も頭がはげてる」などの伝統的作品をつくる懐の深さをそなえていた。
堀豊次は「平安」の中で「本格」と「革新」をつなぐパイプ役的存在で、ヒューマンな庶民性に立脚していた川柳人である。
所ゆきらは「石庭」(竜安寺石庭をモチーフにした連作)などが印象的な好作家である。
この3人を挙げたところに、何となく柊馬の位置がうかがえる。

彼は「社会性川柳」から出発したが、社会性が個の内面に向かい、さらに女性の情念に特化されていったときに、違和感を感じただろう。「社会性」ではもうやってゆけない、ここに柊馬の一種の方向転換があり、彼の先駆的なところである。
時代に根ざし時代の主流にいる人間は、その時代とともに古びてしまうことがある。柊馬がその弊から免れているとするならば、それは何故なのか。

渡辺隆夫は『石田柊馬集』の解説で次のように書いている。
〈 「バックストローク」創刊以来の連載エッセイ「詩性川柳の実質」は、これまでの川柳人生の総決算かと思うばかりの集中である。戦後の川柳革新とは詩性獲得へのプロセスであったかと、私など、今ごろになった教えられた始末である 〉
けれども、柊馬自身が「詩性」をよしとしているかは微妙である。ここが彼の一筋縄ではいかないところである。彼が「バックストローク」誌に「詩性川柳の実質」を精力的に書き続けている内的モチーフは何かというところに柊馬を読み解くヒントがありそうだ。

バックストローク・アクアノーツの読みに関して、彼は読みの基準を三点挙げた。
川柳木馬の大会で披露した選句基準と微妙に違うように聞こえたので、テープおこしに注目したい。

『超新撰21』(邑書林)の「清水かおり小論」で、堺谷真人は清水の川柳に「前衛俳句との形態的類似」が見られることを指摘した。

たてがみの痕跡の首絞めてやる   清水かおり
怒らぬから青野でしめる友の首   島津亮

一方、清水かおりは昨年12月の「超新撰21」竟宴で、自分は前衛俳句をまったく読んでいないと述べた。影響を受けたとすればむしろ石田柊馬の「トルコ桔梗の青見せてから首しめる」からだという。今回、清水はそのことに触れ、柊馬は当然先行する島津亮を読んでいるはずであり、自分は島津の作品を読んでいなかったが、これからはそういう表現史にも目配りしてゆきたいということを述べた。

最後に「柊馬」の由来であるが、「平安」に同じ名前の者が多かったので号を付けることになり、「あんたの家紋は」ときかれて「柊」紋と答えたのが柳号になったということだ。

「だし巻き柊馬」で語られたことは柊馬のほんの一部で、語られなかったことは多いだろう。聴衆もそのように受け止めたようである。しかし、時間の制約がある中で、畑美樹はよく柊馬の発言を引き出すことに成功し、清水かおりは柊馬との関連でむしろ自らの川柳について語った。畑や清水の世代が柊馬に強い関心をもつことは心強いことである。かつて埴谷雄高は「精神のリレー」ということを語ったが、そんな言葉をふと思い出した。大会の詳細は「バックストローク」35号(7月下旬発行)に発表される。

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