2011年4月29日金曜日

樋口由紀子エッセイ集『川柳×薔薇』

最近「×」という記号が気になってしかたがない。今まで気づかなかったが、注意して見ると「×」という記号が雑誌や広告にも散見される。「+」でも「&」でも「VS」でもなく「×」なのだ。
樋口由紀子のエッセイ集『川柳×薔薇』(ふらんす堂)は美しい装丁のハンディな本に仕上がっている。これまで彼女が書きためてきた散文の中から、評論というほど堅苦しくなく、かといって個人的経験に流れるのでもなく、川柳と川柳人を語りながら著者の肉声が伝わってくる文章を集めている。川柳人が書くエッセイとはこのようなものかと思わせる。この種の本が川柳界では案外なかったのである。
本書は4章に分かれていて、Ⅰが総論的役割(評論集ではないので、「総論」というのも変だが)、Ⅱが句集評(書評)、Ⅲが女性川柳人についての文章、Ⅳが個人的語り口の文章(もっともエッセイ的文章)となっている。これに「はじめに」「一句鑑賞」「あとがき」が付く。
「はじめに」はこんなふうにはじまっている。

「なぜ川柳なのだろうと思う。人生の大半を川柳に陣取られるなんて考えもしなかった」

「陣取られる」という言葉によって、読者はいきなり樋口由紀子の川柳ワールドの中心に立たされる。「陣取る」とは戦国武将のようでもあり、子どもの「ごっこ遊び」のようでもある。「川柳」が筆者の人生の中にどっかと陣地をとってしまったのである。
樋口は強烈な印象を残す言葉の使い手である。
「はじめに」の一部分は本書の帯にも採用されているが、帯文の中からさらに次の一文を抜き出してみよう。

「読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである」

彼女の散文にはアフォリズム的要素がある。独自の発想と感性によって書かれているから、数千字の評論よりもインパクトを読者に与えるのだ。
「週刊俳句」209号で五十嵐秀彦は本書収録の「固有性と独自性―池田澄子小論」を取り上げている。五十嵐が引用しているのは次の一節だ。

「川柳は垂直に勢いよくボールを落下させる快感を口語体のわかりやすさで味わう。しかし、池田は何を書くかを基点に、そこからいかに書くかと具体的な輪郭と実景でボールを大きく投げる。口語体がボールの回転をなめらかにし、大きな弧を描く役目をし、奥行きをもたらす。弧は問いであり、問いが答えである。決してボールの着地点が答えではない。彼女の口語は現状を大きく超えていく」

五十嵐はさらにここから「弧は問いであり、問いが答えである」を抜き出して、彼の文章のタイトルにしている。樋口の文章の凝縮力とアフォリズム的性格がそうさせるのだろう。彼女の文章は読む者の心にさまざまなものを喚起する。それは樋口の文章に内在しているものに限らず、樋口の文章を契機として読み手の心の中に喚起されるものだろう。連想が読者の中で広がり、触発された発想が枝葉を伸ばして、言葉の世界へと誘われるのだ。

Ⅱでは石部明『遊魔系』・渡辺隆夫『亀れおん』・石田柊馬『ポテトサラダ』などが取り上げられ、Ⅲでは佐藤みさ子・加藤久子・草地豊子・松永千秋などの女性川柳人が論じられている。どの川柳人を書くときも、その人物像は樋口由紀子独自の見方によって染められている。中立とか客観的という言葉は彼女の辞書にはない。

「石部明が黒いズボンしか穿かないことを知っている人はいるだろうか」「黒しか穿かないのはこだわりでも、黒が好きなためでもなく、彼には隠しておきたいものがあるからなのだと気がついた。黒いズボンを穿くことで、彼は尻尾、つまり病気を隠し続けているのだと」(「究極のアンビバレンス」)
「私が佐藤みさ子の文章を最初に読んだのは、『裁縫箱』というエッセイである。今から十八年くらい前であろうか、『こんな川柳人が仙台にいます』と加藤久子から送られてきたそれは、原稿用紙に鉛筆で書かれていた。一読して私はしばらく動けなくなった。未知の佐藤みさ子という人が私の中で大きく膨れ上がったのだ」(「身体を使って精神を守る」)
「彼女の独特の文体を私は密かに『久子の大玉転がし』と呼んでいる。自分の身長より高く大きな玉を旗のあるところまで転がしていく、小学生の頃運動会でよくした競技である。紅か白の大きな玉に言葉を乗せて小柄な久子が転がしていく」(「言葉の重み」)

人間にはさまざまな面があるから、見る人によって人物像は複雑に変化する。しかし、著者は人物を強烈な一点から照射することによって印象的なキャラクター・スケッチに成功している。佐藤みさ子の「裁縫箱」というエッセイは『セレクション柳論』(邑書林)に収録されているから、機会があれば読んでいただきたい。

本書を読むと著者がもっとも好む実作者は中村冨二と攝津幸彦であることがわかる。
一番好きな川柳人は? ― 中村冨二
あなたのもっとも好きな俳人・川柳人は? ― 攝津幸彦
この二つの答えは矛盾しない。
樋口由紀子が時実新子のもとで川柳のスタートをきったことはよく知られている。けれども、両者の資質はまったく異なっていた。本書には本格的に新子を論じた文章は収録されていない。樋口にとって新子川柳はすでに決着済みの問題である。川柳において「師系」というものが意味をもつとしたら、このようなかたちでのみ意味をもつだろう。亜流として受け継ぐことは文芸の領域では無意味である。

さて、本書のⅣはやや個人的な語り口のエッセイを集めている。それだけにいっそう「樋口由紀子らしさ」は炸裂している。

〈 そういえば、なにげなく読んだ新聞記事に目が釘付けになり、「ああ、私には俳句は詠めない、川柳でよかった」と痛切に思ったことがあった。長谷川櫂の「古典について」というエッセイで朝日新聞に数日連載されていた。「古典を学ぶとは一も二もない。幾度も自分を殺すことである。そして、言葉のはるか彼方から響いてくる言葉の声に耳を澄ます」ものであり、「個性、才能、自己表現。そんな恥ずかしいものを見せびらかしたい人は勝手に見せびらかしてくれ。早晩、時間がきれいに洗い流してくれる」と書いていた。「個性、才能、自己表現」どれも私の憧れるものである。たとえそれが取るに足らない恥ずかしいものであっても私はそれにこだわりたいし、そこで表現していきたい 〉(「詠めばわかる」)

本書はいろいろな読み方ができるだろうが、「現代川柳への理解の書」としても有効である。本書に紹介されている川柳作品によって、現代川柳になじみのない読者にもおおよその輪郭がつかめることだろう。
巻末近くに収録されている「虫であった頃に見ていた東京タワー」では「やまだ紫」について書かれている。この文章は「生命の回廊」Ⅱに発表されたもの。この本は夭折した歌人・笹井宏之を追悼するために伊津野重美によって創刊された。樋口の文章にも鎮魂歌的雰囲気がある。

世界と調和している川柳人というものはイメージしにくいが、樋口もまた世界との異和を感じ、川柳という文芸に選ばれた一人である。彼女の作品にもエッセイにも川柳性の聖痕が明らかに見てとれる。川柳は新しいプリズムを通して現代的光輝を放つ。もっとも川柳的であることによって、川柳のワクを越えた短詩型の言葉の世界を照射する。樋口由紀子はそのようなプリズムなのである。

2011年4月23日土曜日

だし巻き柊馬

「第4回バックストロークおかやま川柳大会」が4月9日に開催された。その第1部のテーマが「だし巻き柊馬」。昨年の「石部明を三枚おろし」に続いて、今年は石田柊馬を料理しようというのである。聞き手は畑美樹・清水かおりの二人。石田は現代川柳における屈指の実作者・批評家であるが、その川柳歴をまとめて聞くことのできる機会はあまりない。セレクション柳人『石田柊馬集』の年譜を見ても、ごく簡略なものにすぎず、柊馬のシャイな一面をあらわすのだろうが、川柳をはじめてから2000年ごろまでの川柳活動に関して何も記載されていない。

今回の企画には伏線がある。パネラーの清水かおりが語っていたように、「バックストローク」27号で「石田柊馬をやっつけろ」という特集を組んで、広瀬ちえみ・樋口由紀子・清水かおり・畑美樹が柊馬を批評したことがあった。広瀬・樋口のふたりは存分に柊馬をやっつけたのに、清水・畑の二人はやさしい性格が災いしたのか、批評しきれなかった。今回の企画はそれを補うものと言えるかもしれない。ちなみに「だし巻き柊馬」のタイトルは畑美樹が考えたそうだ。
当日はメモをとっていたのだが、いつの間にかなくしてしまったので、本稿は記憶による雑駁な印象であり、当日語られなかったことも勝手に想像して書いている。いずれ「バックストローク」誌にテープ起こしが掲載されるだろうから、正確なことは後日そちらの方をご覧いただきたい。

若き日の石田柊馬が菓子職人としてスタートしたとき、労働の現場と人間性とのギャップは大きなものであったと思われる。「年譜」には「1957年 中学を出て洋菓子製造販売の会社に就職。製造現場で、愚鈍で機転の利かぬ者にとっての40年間」とある。もともと彼は文芸が好きだっただろうが、この現実と内面との落差は表現へのエネルギーとなっただろう。川柳への視点は中立的なものではなく、党派的(政治的党派のことではない)なものとなったと想像できる。社会性川柳に向かう萌芽が彼の中に必然的にあったのだ。ちょうど時代は大衆文化の盛んだったときである。映画の全盛期でもあった。文芸に関して言えば、彼の眼の届くところに3種の短詩型文芸誌があった。「川柳」と「冠句」と「俳句」である。「川柳」は「平安川柳社」。冠句は京都では盛んで、昭和2年、太田久佐太郎が冠句普及のための機関紙「文芸塔」を創刊して以来の伝統がある。俳句は「角川俳句」であった。この三種のうち、俳句と冠句は半年、または一年で読むのをやめ、川柳が残った。彼が平安川柳社に手紙を出すと、句会に来たまえということになって、柊馬の川柳人生がはじまる。

「平安川柳社」は昭和32年の創立から昭和52年に解散するまで、京都の川柳界を集合する柳社であり、福永清造・北川絢一郎・西沢青二などがいた。「平安」の誌面は、同人創作欄・投句欄「蒼龍閣」・革新系投句欄「新撰苑」に分かれていた。
柊馬が影響を受けた川柳人として名前が挙がったのは、冨二・豊次・ゆきらの三人である。
中村冨二は戦後の革新川柳を代表する人物。「パチンコ屋オヤ貴方にも影がない」などの作品で知られるが、一方で「良心も頭がはげてる」などの伝統的作品をつくる懐の深さをそなえていた。
堀豊次は「平安」の中で「本格」と「革新」をつなぐパイプ役的存在で、ヒューマンな庶民性に立脚していた川柳人である。
所ゆきらは「石庭」(竜安寺石庭をモチーフにした連作)などが印象的な好作家である。
この3人を挙げたところに、何となく柊馬の位置がうかがえる。

彼は「社会性川柳」から出発したが、社会性が個の内面に向かい、さらに女性の情念に特化されていったときに、違和感を感じただろう。「社会性」ではもうやってゆけない、ここに柊馬の一種の方向転換があり、彼の先駆的なところである。
時代に根ざし時代の主流にいる人間は、その時代とともに古びてしまうことがある。柊馬がその弊から免れているとするならば、それは何故なのか。

渡辺隆夫は『石田柊馬集』の解説で次のように書いている。
〈 「バックストローク」創刊以来の連載エッセイ「詩性川柳の実質」は、これまでの川柳人生の総決算かと思うばかりの集中である。戦後の川柳革新とは詩性獲得へのプロセスであったかと、私など、今ごろになった教えられた始末である 〉
けれども、柊馬自身が「詩性」をよしとしているかは微妙である。ここが彼の一筋縄ではいかないところである。彼が「バックストローク」誌に「詩性川柳の実質」を精力的に書き続けている内的モチーフは何かというところに柊馬を読み解くヒントがありそうだ。

バックストローク・アクアノーツの読みに関して、彼は読みの基準を三点挙げた。
川柳木馬の大会で披露した選句基準と微妙に違うように聞こえたので、テープおこしに注目したい。

『超新撰21』(邑書林)の「清水かおり小論」で、堺谷真人は清水の川柳に「前衛俳句との形態的類似」が見られることを指摘した。

たてがみの痕跡の首絞めてやる   清水かおり
怒らぬから青野でしめる友の首   島津亮

一方、清水かおりは昨年12月の「超新撰21」竟宴で、自分は前衛俳句をまったく読んでいないと述べた。影響を受けたとすればむしろ石田柊馬の「トルコ桔梗の青見せてから首しめる」からだという。今回、清水はそのことに触れ、柊馬は当然先行する島津亮を読んでいるはずであり、自分は島津の作品を読んでいなかったが、これからはそういう表現史にも目配りしてゆきたいということを述べた。

最後に「柊馬」の由来であるが、「平安」に同じ名前の者が多かったので号を付けることになり、「あんたの家紋は」ときかれて「柊」紋と答えたのが柳号になったということだ。

「だし巻き柊馬」で語られたことは柊馬のほんの一部で、語られなかったことは多いだろう。聴衆もそのように受け止めたようである。しかし、時間の制約がある中で、畑美樹はよく柊馬の発言を引き出すことに成功し、清水かおりは柊馬との関連でむしろ自らの川柳について語った。畑や清水の世代が柊馬に強い関心をもつことは心強いことである。かつて埴谷雄高は「精神のリレー」ということを語ったが、そんな言葉をふと思い出した。大会の詳細は「バックストローク」35号(7月下旬発行)に発表される。

2011年4月15日金曜日

橘高薫風の抒情

橘高薫風が亡くなったのは平成17年4月24日、享年79歳であった。もうすぐ丸6年になるので、「川柳塔」4月号が「橘高薫風七回忌特集」を組んでいる。
橘高薫風(きつたか・くんぷう)は大正15年生まれ。昭和32年、麻生路郎に師事して「川柳雑誌」編集部に入る。昭和40年、「川柳塔社」創立委員、平成6年主幹に就任した。朝日新聞「なにわ柳壇」の選者を長年つとめ、代表句に「恋人の膝は檸檬のまるさかな」がある。一般読書界にはカラーブックス『川柳にみる大阪』(保育社、藤沢桓夫との共著)で知られているかもしれない。田辺聖子著『川柳でんでん太鼓』(講談社文庫)にも薫風の作品が何句か取り上げられている。
「川柳塔」の特集の中では、桒原道夫の「強靭な抒情」が薫風川柳の特質を論じていて注目される。桒原は薫風川柳の特質を「抒情」と捉え、薫風自身の次の言葉を引用している(以下、薫風および薫風論の文章は桒原による)。

「私は川柳という文芸は知らなかったけれど、元来短歌や俳句は好きで、作句はしなかったが鑑賞は学生時代から長い療養生活中にかけて常に親しんでいたので、抒情から抒情へ傾かざるを得なかったのである。路郎先生は少しずつ抒情句も採って下さるようになった。私の抒情が先生の採用に耐える水準に立ち至ったのだと思った」(「私の志向する川柳」)

薫風本来の抒情性が麻生路郎によっていったん抑えられ、深化された抒情となって川柳作品に結実したことがうかがえる。
次に薫風の第一句集から第四句集までのタイトルと代表句を紹介する。

砂丘有情 お前と月の出を待とう (第一句集『有情』昭和37年)
恋人の膝は檸檬のまるさかな   (第二句集『檸檬』昭和40年)
恋人がいま肉眼に入り来る    (第三句集『肉眼』昭和48年)
紫陽花の炎群愛不動かな     (第四句集『愛染』昭和61年)

桒原は「薫風川柳に対する評言」をいくつか引用している。たとえば早川清生はこんなふうに述べている。

「最初の句集『有情』において、すばらしい抒情で我々を圧倒した彼は、ある場合抒情作家などという名が却って負担となり、呪縛となって彼を制約したことと思うが、『檸檬』では期待どおりその重みに堪えて、みごとな成長をみせている」(「未来へ続く抒情」)

自らの資質について薫風は意識的であったのだろう。彼は若いころ「知的抒情」ということを唱え、「人間(生活)諷詠といわれる川柳で、恒久不変の人情を詠むにも、現代に生活するにふさわしい知的な眼の裏付けがなくては適わぬ」「知的抒情こそ、現代川柳の糧であると言えるのではなかろうか」(「前号作品評 知的抒情」)と述べている。
川柳の師である麻生路郎の作風との違いについても「先生のには生活の臭いが沁み込んでいるのに、私のはきれい事で終っている脆弱さが顕著だ。今になって気付いても遅いのだが、この差は如何ともし難い」(「路郎の精神 川柳の質的向上」)と言う。

薫風にとって「抒情性」と「川柳性」をどのように統一するか、川柳形式においてどのように「抒情性」を実現するかが課題であったように思える。一般に「抒情性」は感傷的なものとして否定的に見られることが多いからである。桒原は薫風川柳の抒情性を「強靭な抒情」という言葉で呼び、「脆弱な抒情」と区別して論じている。
「抒情性」の対極にあるものとして「散文性」が考えられる。川柳を考えるときに「散文性」は避けて通れない問題である。現実を直視し、現実の暗部を表現しようとするときに、散文的要素・散文精神がどうしても入り込んでくる。ある意味でそれは川柳の強みとなるかも知れない。それでは、薫風は散文的現実を見ようとしなかったのだろうか。そういう文脈で考えてみると、「川柳ジャーナル」(昭和48年12月)の句集紹介「肉眼」における石田柊馬の文章を桒原が引用しているのは大変興味深い。

〈 いつであったか、数人であるきながら、ぼくは著者にぶしつけな質問をしたことがある。
「薫風さんは芭蕉より蕪村、近代では丸山薫がお好きでしょう」
「そうやねえ。好きやねえ。それに山村暮鳥やなあ」
「薫風作品の色彩感でそれはよくわかりますよ。でも、美意識から離れたような、人と人とのふれあいの哀しみとか、もっと暗いものはお書きにならない」
「それはやっぱり、ぼくの眼の前で、今まであんまり暗すぎるやりきれんものばっかり見て来たからやろなあ、きたないものばっかり見すぎて来て―」
ぼくの筆力ではとても橘高薫風の、その口調を活字で再現できないが、とにかく、暗いきたないものを見すぎてきた、という一語が今もぼくの耳奥に在る 〉

薫風の伝記的事実には興味はないが、蕪村の句に「地獄のような現実」が詠まれていないように、薫風作品にも地獄的現実は表現されていない。けれども、「暗いきたないもの」をくぐりぬけたところに薫風作品が成立しているとすれば、それもひとつの川柳精神であろう。

第五句集『古稀薫風』以後、薫風は『師弟』『橘高薫風川柳句集』『喜寿薫風』を発行している。私が手元に持っているのは『古稀薫風』(沖積社)であるが、「あとがき」によるとこの句集を沖積社から出版したのは、「青玄」の伊丹三樹彦の紹介によるらしい。「青玄」と関西川柳界とはけっこう交流があったようだ。『古稀薫風』から抜き出しておく。

労働歌蟻が歌えば凄かろう
四面楚歌故郷は豆の花の頃
島一つ買うて暮らせば涼しかろ
勲章の欲しい七才七十才
煮凍りよ少年の日は貧しかりき
コスモスのほったらかしの美しさ
立ちたくて立ちたくて蛇木に登り
路郎忌に言葉を飾る人ばかり
喃妻よ鮎まで値切ることはない
明けましておめでとう無言電話にも
勾玉をじいは磨いているのだよ
犬小屋にペンキで窓が描いてある
富士山の藍に一礼してしまう

老年の句にもけっこうおもしろい味があるという気がする。口語音数律を基本とする川柳だが、薫風作品では文語も多用され、俳句的手法も散見される。次の代表作二句では「切れ字」が使われている。

恋人の膝は檸檬のまるさかな
人の世や 嗚呼にはじまる広辞苑

今は違う単語で始まっているようだが、かつての「広辞苑」は「嗚呼」で始まっていた。俳人であれば「人の世」の部分に季語をもってくるだろう。「かな」とか「や」の使用が気になるところだが、俳句に親しんでいた薫風にとって、切れ字の使用は自然だったかもしれない。
田辺聖子は次のように述べている。「薫風氏の句柄はつねに端正で品格がある。氏の句には『なり』『たり』『かな』など俳句風の切れ字もわりに使われるが、しかし好もしき軽みがあり、これはやはり川柳の境地であろう」(『川柳でんでん太鼓』)
桒原道夫は俳句の影響として次の句を挙げている。

頑徹な鯛の頭の骨を見よ     橘高薫風
こほろぎのこの一徹な顔を見よ  山口青邨

「鯛の頭の骨」に川柳性があると薫風は考えたのだろう。言い切ることの背後に言わなかったことがある。言わなかったことがにじみだして抒情になり、作品の品格となる。そのような作句態度が俳句的手法を導入することで果たせるものかどうかは議論が分かれるところだろう。

2011年4月9日土曜日

川柳における「俳句の季語」に相当する語

仙台で発行されている柳誌「杜人」2011年春号(229号)が届いた。
編集人・広瀬ちえみの挨拶文が同封されている。震災のお見舞いを述べたあと、次のように書かれている。日付は3月22日。
「宮城県は仙台市中心部、仙台市郊外のライフラインが少しずつ整いつつあります。ガソリン以外は、食料等も並ばずに買えるようになってきました。避難を余儀なくされている方々には申し訳ない気持ちでいっぱいですが、元気になれるところから早く元気になり、それを伝えることが励ましになるようにと願っています」
また、本誌の最後のページには「3・11 東日本大震災」という短文が掲載されている。
「3月11日午後2時46分、死ぬかと思うほど揺れた。グラウンドに避難しながら『杜人』の発行は無理なのではないかと頭をよぎった」
以下、発行までの事実経過である。
3月4日 印刷所への入稿
3月9日 一校目のゲラが印刷所から届く。
3月9日・10日 校正を終えて、念のため11日にもう一度見てから12日に印刷所へ渡す予定だったが、震災のため無理と判断、親戚の家に避難したあと13日に家に戻る。
「14日朝6時、玄関をドンドン叩く音がする(停電でインターホンは鳴らない)」
印刷所の方がやってきたのだ。「無事だったの」と同時に叫ぶ。
「印刷所は家具が倒れ、活字などばらばら落ちたのだという。それでも『杜人』の発行に責任を果たそうと、その一念で約束の12日、13日に何度も我が家に来たのだという」
3月16日 二校目のゲラが届く
3月22日 第二校・校了
3月25日 発行
震災を乗り越えて発行された柳誌のひとつのケースとしてご紹介させていただいた。これは美談ではない。原稿を預かっている者の責任感だろう。

さて、「杜人」今号の内容は、地震以前の平穏な「杜人」の記録である。〈実況!「杜人句会」〉では、今年の正月句会の様子がテープ起こしされている。「杜人」句会は、同人や投句者を含め30名ほどで毎月行われているという。
宿題は「ラーメン」と「浮」、席題「子どもが描いた絵」(印象吟)。
注目したのは次の句に対する評である。

二本足一本浮いているこの世

〈久子 せっかく二本足をもらいながら、その二本の足をきちんと地面につけて生きてこなかったかも。
 裕孝 これは二本と一本という対比と、この世とあの世という区分けの中でささやかに作ったという感じだな。すっきりしているね。(自分の句をさりげなくほめる)
ちえみ でもさ、「この世」はやめた方がいいんじゃない。いっぱいあるよ、「この世」の句。
裕孝 でもさ、あの世よりこの世のを作った方がいいと思うよ。もちろん「この世」の句はいっぱいある。ちえみにも、千草にもあるし、みさ子さんにはなかったか?
みさ子 あります!
逸星 やっぱり作者は苦しんだんだよ。下五をどう持ってこようかなって。それでひょいとこの世にしたんだ。
裕孝 便利な言葉なんですよね。この世は。おさまりがつくしね。
ちえみ わたしたちの「この世」よりこの句の出来はどうかな?使うなら越えなきゃね、フフフ。
節子 「この世」は川柳の季語だから〉

話題になっているのは下五の「この世」で、「―――この世」という止め方が常套的ではないかということである。下五に限らず、この言葉自体、川柳でよく使われるので、「川柳の季語」だというのだ。俳句の季語に相当する語が川柳でも決め台詞として使われるという意味だろう。川柳を作るときに経験的に思い当たることであり、同様の発言は他の句会でも耳にしたことがある。
俳句の季語には「本意」というものがあり、歴史的に蓄積された語のイメージがある。それにどう寄り添うか、どう外したりずらしたりしていくかということが俳人の意識するところだろう。「川柳の季語」という場合、似たような言い方に「キイ・ワード」という用語がある。俳句でも季語にこだわらない立場をとる人は、「季語」ではなくて「キイ・ワード」だと主張する。「川柳の季語」と「キイ・ワード」が同じかどうかは分からないが、重なる部分はあるだろう。ただし、川柳の分野でキイ・ワードによって句を体系的に分類する試みはあまりみかけない。
結局、俳人と川柳人とでな脳内にもっている辞書が違うのだという気がする。俳人は「歳時記」を持っているが、川柳人はまた別の「辞書」を持っている。それは現実の辞書ではなくて、川柳人の頭の中だけに存在している。
「杜人」を読みながら、そのようなことを考えているうちに、宮城県でまた余震のニュースがあった。早く静かな時間に戻ることを祈っている。

お手洗い借りるこの世の真ん中で    広瀬ちえみ
この世から剥がれた膝がうつくしい   倉本朝世
さくらさくらこの世は眠くなるところ  松永千秋
れんげ菜の花この世の旅もあと少し   時実新子

(追記)
「凛」45号(2011年4月1日発行)に広瀬ちえみが「この世の問題」について次のように書いている。
「川柳に季語があるはずもないのだが、季語のような働きをする象徴的なことばがたくさんあると、交流している俳人たちにことあるたびに私は述べてきた」
その具体例として「駱駝」が挙げられている。「駱駝」は動物そのものの意味であると同時に「砂漠をゆく困難な情況」や「荷物を背負わされる不条理やおかしさ」などのメタファーとして了解されるという。
それでは、俳句の季語と川柳の象徴語との違いはどこにあるか。
「端的に違いを言うなら、季語には時間の蓄積があり、川柳の象徴語にはそれがない」
広瀬自身による問題の整理として紹介しておく。

2011年4月2日土曜日

句集評ということ―『魚命魚辞』と『アルバトロス』

渡辺隆夫の句集『魚命魚辞』(邑書林)が発刊されて二ヶ月が経過した。まだ句集評はあまり出ていないようだが、「週刊俳句」204号で堀本吟と澤田澪が感想を書いている。

堀本は「 エンターテイメント川柳の大家・渡辺隆夫」として、「 渡辺隆夫の川柳を、大嫌いだという人が幾人もいるが信じられない、私は大好きである」「なぜなら、平気で悪口を言っている人には平気で悪口が言えるからだ」「 思い切って『キタナイ』ことを言う、ので、思い切って『キタナイ』と言える。この人はエロチズムよりスカトロジーの人だ」「思い切り『アホなこと』と言うので、思い切り『あんたアホか』と言える」などと述べている。

次に澤田澪は「 本気-渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』読後評-」で、句集のあとがきに「次回こそオッタマゲルゾ」と予告してあるが、「充分にオッタマゲた。すこぶるオッタマゲである」と述べている。句集の題名自体がパロディであり、タブーをおかすものであることを指摘したあと、隆夫川柳のおもしろさについて次のようにいう。
「季語があって五七五だから俳句なのか、それとも川柳句集だから川柳なのか。もう、そんなことはよく分からない」「渡辺隆夫作品が面白いのは言葉や表現という目に見えるものだけではない。余裕がある。一句の姿勢にゆとりがあるため、こちらは油断する。油断しても許してくれる」「渡辺隆夫の魅力はその面白さにあり、それは前述のように『王様は裸だ』と言ってしまうような子どもの残虐なまでの純真さと『実は僕も裸だ』と言ってしまうようなワンパクさにあり、それを視点のユニークさと表現の確かさが支え、それらはゆとりをもって形成されている。」

2人とも取り上げているのは「ブリューゲル父が大魚の腹を裂く」という巻頭句。句集の序文で森田緑郎が指摘しているように、「秋の暮れ大魚の骨を海が引く」(西東三鬼)を連想させるが、堀本は「それはただしい鑑賞法なのだろうか?又、事実的に三鬼のマネだったとしてもソレガどうした、トイエル」と述べている。その上で、三鬼との違いは、「三鬼の句は風景の面白さ。隆夫の句は、風景のなか中の行為のおもしろさ」だという。「三鬼の観念の風景、隆夫の観念の行為。川柳俳句の振り分けは別として、表現の本道の知的作業にもとづくもので、渡辺隆夫は、その本道にしたがって、極めて知的に通俗川柳(市民に差し出すエンターテイメント)の文体をつくっている。その通俗性はますます洗練されている」
一方、澤田は「隆夫句と三鬼句はともに魚という命の名残・残骸を詠んでおり、それが秋と呼応して全体としての詩を生み出している。ただ隆夫句には三鬼句にはないものを強烈に感じる」という。

以上は俳人が読んだ『魚命魚辞』の感想であるが、川柳人による句集評はまだ見かけない。川柳界で句集評が出にくい傾向があるのは、そもそもこれまで句集が発行されることが少なかったからである。いささか過去のことになるが、山村祐は「句集は墓碑銘ではない」という文章で次のように述べている。

「わが川柳界で昨年中何冊の句集が出版されたか、何冊の柳論集が出されたであろうか。少くとも十年二十年川柳を創ってきた人に一冊の句集もないことは、決して誉められたことではない。聞くところによると、一生に一冊の句集を出したいという言葉を吐く人があるそうである。もちろんそれは各人の自由には違いない。しかし、大家に納って、自分の墓を造るような気持で、豪華な句集一冊を残すような気風があるとしたら大へん悲しいことである」(1957年2月「天馬」2号、『短詩私論』所収)

現在では情況が変わってきて川柳句集も随分刊行されるようになってきたが、出された句集に対する評価という作業がまだ等閑にされている。

句集を読んだ読者の受け止め方はさまざまである。すぐには言葉にならない感想というものもあって、それはそれで大切なことだろう。読書界には書評というシステムが成立し、上梓された作品や句集に対する批評と紹介の役割を果たしている。そこには当然、無視や黙殺というかたちの最も厳しい評価もあるわけだ。複数の書評が出た場合、それらを一冊の「ブックレビュー」にまとめる場合もある。
短歌界ではいつからか(80年代くらいからだろうか)、歌集に対する批評会が開かれるようになった。そのような歌集の批評会に私も行ってみたことがあるが、なかなか厳しいものである。儀礼的なお祝い気分ではなくて、歌集の弱点があばかれ、場合によっては罵倒される。歌集を出して、なぜこれほど批判されなければならないか、落ち込む作者もいると聞く。けれども、それは作品評であって、作者の人格を否定しているわけではないのだ。その区別がきちんとしているから、悪評は次のステップに進むための糧となる。
川柳界では儀礼的な出版記念会はたくさんあるが、このような意味での句集の批評会がなされたことを寡聞にして聞かない。該当するのは樋口由紀子の『容顔』出版記念会(1999年8月)くらいだろうか。

さて、句集に対する評は時間がたってから現われることがある。
「船団」88号(2011年3月)掲載の芳賀博子による丸山進句集『アルバトロス』(風媒社)にたいする評もそのひとつである。『アルバトロス』は2005年9月の発行。「セレクション柳人」(邑書林)の刊行がはじまったのと同じ年である。アルバトロスは「あほうどり」という意味で、あとがきによると〈「アルバトロス」は漢字では「信天翁」とも書き、おめでたい雰囲気があるし、ゴルフ用語ではイーグルの更に上の奇跡に近い一打というラッキーな意味もある〉ということだ。
芳賀が挙げているのは次のような句である。

中年のお知らせですと葉書くる
つまらない物を分母に持ってくる
酒飲むとけものの匂いする手足
鑑定をしてもやっぱり柿の種
父帰る多肉植物ぶら下げて

丸山の代表作(と私が思っている)「追い詰められてブラジャーの真似をする」が入っていないのが少し残念。『アルバトロス』に対する読者の反応は次のようなものだったという。

「興味深いのは読者のリアクションが時に対照的だったこと。近年の現代川柳の詩性に走り過ぎる傾向を案じたり、警戒したりしていた人たちは『やっぱり川柳はこうでなくっちゃあ』とニンマリし、サラ川や時事川柳の類かと気軽に手に取った人たちは『おっと、川柳ってこうだったの!?』と不意打ちをくらったかのようだった」

芳賀は丸山の川柳を「サラリーマン川柳」とは言っていないが、「サラリーマン川柳に注目している」という書き出しに続いて句集『アルバトロス』を取り上げ、「中年サラリーマンの悲哀」という紹介の仕方をすると、丸山の作品は「サラリーマン川柳」そのものだと読者に受け取られかねない。丸山の作品は「サラリーマン川柳」の要素と同時にそれを超克する要素という二面性を持っている。たぶん芳賀もそういうことを言いたかったのだろう。『アルバトロス』には「しおり」が付いていて、荻原裕幸は「時事川柳ともサラリーマン川柳とも似て非なる丸山進的な文体は、笑いのあるなしにかかわらず、現実を歪曲はしないけれどもどこかに救いと呼びたくなるような快い感触を添えて手渡してくれる」と書いている。
丸山の作品が常に「サラリーマン川柳」との関連と距離という文脈で紹介されるのは、彼にとって幸でもあり不幸でもあるのだろう。

芳賀は『アルバトロス』以後の作品も3句紹介している。

折れてくれ折れ線グラフなのだから
彼岸過ぎ三遊間が空いている
旧石器時代のような愛し方

「彼岸過ぎ」の句は「川柳みどり会」の「第17回センリュウトーク」(2008年)で天位を取った作品。この3句は丸山の現在の句境をよくあらわしている。
市井に生きる人間の哀歓を手放すことなく、それを超克する契機をも含んでいる丸山進の川柳は、『アルバトロス』以後どのような方向に向かっていくのだろうか。

生きてればティッシュを呉れる人がいる   丸山進