2010年12月8日、柴田午朗が亡くなった。享年104歳。
柴田午朗は明治39年4月28日、島根県生まれ。島根県川柳協会初代理事長。
松江高等学校時代から川柳に興味を持ち、京都帝国大学経済学部在学中に番傘川柳社の本社句会に通う。昭和31年、句集『母里』発行。序文は岸本水府、母里(もり)は午朗の故郷の地名である。
今回は「番傘」の川柳に大きな足跡を残したこの川柳人のことを取り上げる。
昭和44年(1969年)1月から昭和46年12月まで、柴田午朗は「番傘」一般近詠選者を務めた。この頃に出た句集『痩せた虹』の「自序」には次のように書かれている。
「お隣の俳句の世界を覗いてみると、その作品に理論に、われわれの世界とは比較にならぬ大波に揺れ動いている。まさに壮絶という外はない。ではいったい現代川柳はどうあるべきか。それはなかなかむずかしい問題で、たゆまぬ作句の努力と研究なくしては、容易に結論の出せる筈のものではない。私は現在番傘近詠の選を担当しているが、少しでも番傘川柳前進の目的に近づくために、若干の努力を試みている。然しこれはなかなか困難な仕事で、自分の力不足を嘆くばかりである」
ここには「現代川柳はどうあるべきか」という真摯な危機意識がうかがえる。「自序」では上記の引用部分に先立って次のような文章が書かれていた。
「昭和のはじめ頃、岸本水府、小田夢路、木村小太郎の諸先輩に可愛がられ、私の川柳作句の道は、まことに楽しく順調であったともいえよう。しかし四年前に逝かれた水府先生を最後に、今はこうした大先輩はこの世にない。しかも1970年代という未曽有の変革時代に一歩を踏み入れた現代である。私は自分の作品の未熟さを反省しながらも、現代川柳はこれでいいのか、と再びおもうのである」
岸本水府をはじめとする川柳の先達はもういない。1970年代を迎えて「現代川柳はこれでいいのか」「どうあるべきか」という問題意識と責任感が伝わってくる。
それでは、柴田午朗の選とはどのようなものだったのだろうか。『川柳総合大事典・人物編』(雄山閣)には「〈川柳に詩性を〉として番傘川柳の流れを変える。この時代に若い作家が多く育った」とある。この柴田午朗の選に共鳴していろいろな人が投句したが、金築雨学もそのひとりだった。
午朗の言う「番傘川柳前進」「若干の努力」とは〈川柳に詩性を〉ということだったようだ。〈川柳に詩性を〉という場合、それがどのような〈詩性〉であるかが問われるところである。『痩せた虹』の「自序」にも「生活詩」という言葉があるから、それは日野草城の言う「諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩」のようなものだったかも知れない。
句集『痩せた虹』(昭和45年)から何句か引用してみよう。
落ちる鴨少年の目に残る 柴田午朗
姥の面美しすぎて裏がえす
爪切りを嫌いなひとに借りられる
だまって読みだまって返すほかはなし
友だちに叛いてひとり詩を愛す
ふるさとを跨いで痩せた虹が立つ
人も道具も素朴に生きるほかはなし
「痩せた虹」とはポエジーに満ちた言葉である。午朗の愛用語だろう。
続いて『黐の木』(もちのき・昭和54年)から少し引用する。
男老いてコップの水をひといきに
裏切ってみかんの筋が歯に残る
遠花火わびしきものは何ならん
おもしろくおかしく笛は吹くものぞ
『空鉄砲』(昭和62年)では句集名を次のように説明している。
「出雲地方には『空鉄砲』という言葉がある。秋の田に群る雀おどしの空砲のことだが、考えてみると、私の一生は長いばかりで、丁度この空鉄砲のようなものではなかったか、と自嘲をこめて反省している」「だがたった一つ、この長い間を、たゆまずに続けたことがある。川柳作句だ」
子が欲しやくちなわ掴む子が欲しや
点前しずかに脱税のはかりごと
君の句も古い古いと風そよぐ
人間の不幸をたべて虫は死んだ
良寛読む隠岐は佐渡よりやや南
村おこし牛の言葉が分らない
逢いにゆく道ふくろうが知っている
そして旅今日は魚臭の町をゆく
子に見せる勲章を持つカタツムリ
一日に玉子を一つ生んで青葉
隠岐の海カレイの唄に雪が降る
よもぎ餅くやしきものが掌にのこる
茄子焼いてあしたは好きなひとが来る
冬の蠅冬の蜂みなわれに似る
晩年になってからも句集を出し続けたが、95歳のときの句集『重い雨戸』(平成13年)を取り上げてみよう。
椎の老木芽を出した僕も生きる
何故だろうふるさとの虹が痩せる
僕の顔色猫に分かってこまります
なぜここにある僕のメガネが
若い頃にもマラソンは嫌だった
昔の人は山に登って何をした
くすり指と名づけた人は誰だろう
歌人の小高賢は最近「老いの歌の可能性」についてしばしば述べている。高齢歌人の短歌には思いがけない面白さがあるのではないかと言うのだ。高齢歌人の私性には、若年歌人の私性とは一味違った「私性の朧化」があり、そこに積極的な面白さを見ていこうということのようだ。
柴田午朗は高齢川柳人と呼ばれるにふさわしい仕事を残している。『重い雨戸』には永田暁風が「跋」を書いている。午朗は暁風の句集にすべて序文を書いている。今度は逆に暁風が跋文を書いたのである。午朗は暁風より三歳上。ちなみに、暁風が第五句集『ベレー帽』(2002年)を出したのは92歳のときである。
「痩せた虹」は川柳人・柴田午朗が生み出したもっとも美しい言葉である。伝統川柳の良質の部分を体現した人がまた一人いなくなった。
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