11月17日、イーブル名古屋で「ねじまき句集を読む会」が開催された。青砥和子『雲に乗る』(新葉館出版)と瀧村小奈生『留守にしております。』(左右社)の二句集を読む会である。
午前の部は青砥和子の句集について。なかはられいこ、米山明日香歌、笹田かなえの三人が句集からピックアップした作品を丁寧に読んでゆく。
なかはらは「家族や身近な人がモチーフになった初期だと思われる作品群」と「「書き続けることで進化あるいは深化した作品群」が混在していると述べ、「生活者青砥和子から川柳作家青砥和子まで」、章立てのあいまいさを指摘した。
それぞれの事情があってイオンまで (どんな川柳人・一般人にも〇な佳句)
母さんが最新兵器しょってくる (?な句=誉め言葉)
泡だったままで閉店いたします (なぞの主体)
夜の芯になろうと回る観覧車 (個性的な空間の捉え方)
米山明日歌は「青砥和子の雲の乗り方を探る」という視点から、第一章は「子の目を通して自分がどう写っているか。母として子にどう接したらいいか模索している」、第二章は「家族から離れ父母、弟、妹と自分の関係を今の自分が、見つめ直し新たな発見をする」、第三章は「作者の中で一章と二章がつながり、力の抜けた言葉があふれだす」とまとめた。
手の中の海を息子が見せにくる (第一章)
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ (第二章)
善人って砂をまぶして出来上がる (第三章)
笹田かなえは「何か」をその句に対して言いたくなる」句を選んだとして次のように分類した。
猫を抱く桃井かおりの顔で抱く (時代性・同年代としての共感)
こめかみをグリグリ八合目ですね(生活の中での川柳的な視線を感じた句)
サーカスの虎の気だるい肩の骨 (発見のある句)
しあわせってこんなんぎんなん見つけた(内在律の優れていると感じた句)
仮に地球だったらと青蜜柑剥く (青砥和子の個性を感じた句)
「ねじまき句会」のメンバーによる『雲に乗る』からの一句選も発表されていて、人気のあった推奨句として次の二句を挙げておく。
父はただ穴を掘ったとしか言わぬ
吊るされるだけでこんなに美しい
それぞれのパネラーが丁寧に句を読み込んでいて、句集を通読したときには見逃していた中にもいい句が多いことに気づいた。句の読みが充実しているのも、ふだんの「ねじまき句会」での読みの積み重ねによるのだろう。配付されたレジュメにあげられていない句で、私がいいと思ったのを二句挙げておく。
交番でモーゼの長き旅終わる
房長き藤すれすれの逃げやすさ
休憩をはさんで、午後は瀧村小奈生の句集について。パネラーは、おかださなぎ、猫田千恵子、八上桐子の三人である。
まず、おかだの選んだ句から。
きょうもまだ雨音になれなかったな (水のさまざまなすがた)
ひっぱると夜となにかが落ちてくる (なにかを見ている)
夏よ!(曖昧さを回避していない) (活きている口語表現)
わたしたち海と秋とが欠けている (たしかな抒情)
次に猫田千恵子の選句から。
降る雨のところどころが仏蘭西語 (全身で感じる)
愛じゅせよジュークボックスからじゅせよ (音を楽しむ)
靴踏んで、ねえ、白すぎるから踏んで (いたずらっぽく笑う少女)
ばあちゃんは走ったことのない系譜 (絵のないしかけ絵本)
八上桐子は「『留守にしております。』は、なぜ気持ちいいのか?」という観点から次のような句を抽出した。
長い夜そっと剥がしている音だ (響かせる音・耳の作家)
雨が海になる瞬間の あ だった(すぐ乾く雨・ささやかな偶然)
春楡のように家族であったこと (ささやかな偶然)
参加者は「ねじまき句会」のメンバーだけでなく、川柳観も多様であり、いろいろな意見が聞けて有益だった。川柳の句会では選だけがあって、作品の読みがほとんどなく、「ねじまき句会」が読みを重視する句会であることが実感された。終わりの挨拶で、なかはられいこが「ここまで来るのに二十年かかった」と語ったのが印象的だった。
最後に、当日の司会を担当した俳人の二村典子が今年三月に上梓した句集『三月』(黎明書房)から好きな句を紹介しておきたい。
野遊びの誰の話も聞いてない 二村典子
蝶の昼鏡の昼におくれつつ
たんぽぽの料理に欠かせない弱気
あっ足をふっ踏まないであめんぼう
否と応 蓮の浮葉の間には
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