2023年12月22日金曜日

2023年回顧(連句篇)

昨年『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会)の編集にたずさわって、現代連句の歴史を改めて振り返ってみる機会をえた。連句に対する関心は潜在的に広がっている。小津夜景は『現代連句集Ⅳ』にエッセイを寄稿していて、連句実作の経験をふまえてこんなふうに書いている。
「連句を始めて以降、俳句を作ったりエッセイを書いたりしていると、そのたびに『ううむ、連句に教わった所作や技術ってこんなにも応用が効くんだ!』としみじみ思うし、わけても発想の飛ばし方を学び、また実践するといった訓練によって得たものは本当に多い」(「連句の愉しみ」)
また古楽器演奏者の須藤岳史と小津の往復書簡『なしのたわむれ』(素粒社)の「おわりに」では「この往復書簡は『対話』ではなく、連句の付けと転じによる『響き合い』の作法に則ったほうがよさそうだ」と気づいたことに触れられている。対話というものは凡庸な芝居に走りやすく、正反合のスペクタクルになりがちだけれど、そもそも対話というものはすれ違いが美しいもの、嚙み合わない瞬間にこそきらきらしたせつなさがこぼれると彼女は言っている。これって連句の呼吸そのものではないだろうか。
『現代連句集Ⅳ』には堀田季何も寄稿している。堀田は「楽園俳句会」を主宰していて、連句の心得がある。小澤實の「澤」の系統の俳人には連句に関心のある方が多い。「楽園」の連句会には、日比谷虚俊などの若手連句人もいる。
ほしおさなえは『連句年鑑』令和五年版にエッセイ「言葉の園で出会ったもの」を寄稿している。彼女は『言葉の森のお菓子番』(大和書房)の作者で、小説には連句の場面が描かれている。連句との関わりについて、カルチャーセンターの連句講座(講師は村野夏生)を受講したことを述べたあと、エッセイではこんなふうに書かれている。
「その後カルチャーセンターの講座は閉じてしまったのですが、村野先生の連句会に参加するようになり、連句の世界に夢中になりました。会のメンバーはわたしよりずっと年上の方ばかりだったのですが、皆さん信じられないくらい教養があるのです。それも皆さんそれぞれさまざまな職業で活躍されている方なので、大学人のような浮世離れした教養ではなく、清濁合わせた生きた教養と言いますか、パワフルで癖の強い方が多くて、気圧されることばかりだったのですが、その席で耳にした話はいまもずっと心の中に残っています」
1977年、わだとしお(村野夏生)は、月刊俳諧誌「杏花村」創刊。今年「杏花村」バックナンバーのコピーを入手したが、山地春眠子『現代連句入門』(1978年杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)に収録されている連句作品は主として「杏花村」第一巻・第二巻に掲載されたものである。1985年、「杏花村」は100号で終刊。東京義仲寺連句会は「風信子の会」(村野夏生・別所真紀子)、「馬山人の会」(高藤馬山人・川野蓼艸)、「水分会」(真鍋天魚)などに。「風信子」はのちに村野夏生の「あゝの会」と別所真紀子の「解纜」に分かれる。ほしおさなえが参加した連句会は「あゝの会」である。
「杏花村」1978年5月号は〈高橋玄一郎追悼〉号。同号には東明雅の追悼文も掲載されている。《「―先生、黒色火薬はどうしましたね。爆発しますかね?」、これは高橋玄一郎さんが、時折私をからかった言葉である。黒色火薬とは新しい俳諧〈連句〉とその理論のことであった。私どもはこれを作りあげ、行きづまっている現代文学を一挙に粉砕しようと考えて来たのである》
1981年、連句懇話会(現在の日本連句協会)が結成される。懇話会ができたことについて、『連句新聞』増刊号vol.1のインタビューで山地春眠子は次のように語っている。
「なんとなくじゃない?誰がなにをしたということではない。もちろん、明雅さん、牛耳さんが連句のグループ、信大連句会とか義仲寺連句会とかを作ってくれたからなんだけれど、それはそれぞれ、日本のことを考えて作ったわけではないので、たまたまそういう流れがあった。誰が旗振って、やろうとしたわけでもないように思う。気がついてみたら、あっちでもこっちでも仲間ができていた」
とてもおもしろい発言である。あちらこちらにグループができているというのは連句にとって理想的な状況だ。連句は各地の小グループを基本とするのであって、大人数を組織して集まるというようなものではない。連句というものは上からのトップダウンではなくて、下からのボトムアップが本来の姿なのだろう。

今年7月に発行された『江古田文学』113号の特集は「連句入門」だった。「はじめに」で浅沼璞は『江古田文学』で連句の特集を組むのは1991年1月の特集「連句の現在」以来であると述べ、「この二十年、私にとっての連句とは、学生を介して如何に『連句入門』を再構築するか、その試行錯誤にほかならなかった」と書いている。そのことを反映して本誌には学生による連句実作とそのレポートが満載となっている。

以下、主な連句大会の入選作品を紹介しておこう。
4月に松山で開催された「えひめ俵口全国連句大会」、愛媛県知事賞の歌仙「冷や飯」の巻から。

埋もれし遺跡のミイラ黄砂降る   裕子
 古代舞曲の音色嫋やか      光明
本草学野草を摘んで乾かして    満璃
 県民挙げて目差す長命      裕子

7月16日に郡上八幡で「第36回連句フェスタ宗祇水」が開催された。郡上踊りにちなんで「かわさきの座」「春駒の座」「三百の座」の三座に分かれて歌仙を巻いた。歌仙「はるかに天守」の巻から。

ナビ席にコロンの香りとどまりて  憲治
 録画ボタンを押せば修羅場に   絶学
死神が募集している闇バイト    憲治
 売れっ子作家正月多忙      寿典

伊賀上野の第77回芭蕉祭、連句の部の特選、半歌仙「這ひ出よ」の巻から。発句は芭蕉の句で、脇起しになる。

這ひ出よ飼屋が下の蟾の声    芭蕉
 土間の隅には行水の桶     谷澤 節
眠たげな頑是無き児を背に負ふて 松本奈里子
散歩がてらに九九を数える   もりともこ

10月29日には加賀市で国民文化祭石川「連句の祭典」が開催。文部科学大臣賞、半歌仙「遡りては」の巻から。

遡りては流されて春の鴨   名本敦子
 やまあららぎの尖る銀の眼 久 翠
暮れ遅し陶土る背に月射して 杉山豚望
 コンビニコロッケ一個百円 大西素之

あと各地の連句会の作品を紹介しておく。
徳島県連句協会発行の「ロータス」20号。半歌仙、獅子、二十韻、短歌行、ソネット、オン座六句、千住など多彩な形式の作品が収録されている。オン座六句「いぼむしり」より。

うかうかと生きてゐるなりいぼむしり 早見敏子
 さうか昨日は後の名月       洛中落胡
もてなしの膳は当初の銘酒にて     迷鳥子

「白老連句を楽しむ会」は2019年12月に発足。会誌「ななかまど」がこの12月に創刊されたのでご紹介。ちなみに白老町では2020年にウポポイ(国立アイヌ民族博物館)が開館している。

神謡の伝はる里や冬銀河    中嶋祐子
 手話講座終へはめる手袋   田村キク
ケーキ好き少女は夢のパティシエに 祐子
 (半歌仙「神謡の里」)

11月に「解纜」37号が届いたが、この号で「解纜」は終刊するという。これも時の流れであり、連衆はそれぞれの場で出発することになるのだろう。歌仙「海くれて」から。

古民家を買へば妖怪付きでした  真紀
 監視カメラは巧く隠せよ    緋紗
京なまりねっとりとして花篝   京

次回は1月5日の予定です。よいお年を。

2023年12月15日金曜日

2023年回顧(川柳篇)

「川柳スパイラル」19号の特集は「石田柊馬の軌跡」である。追悼号とは銘うっていないが、同人・会員の作品に柊馬作品を踏まえた句が多く掲載されている。

夕暮れのポテトサラダという合図     畑美樹
コン・ティキもジンタも青い原っぱに   一戸涼子
にっこりと断言「妖精は酢豚に似ている」 悠とし子
もなかわっと泣いてから永久機関     兵頭全郎
むかつくぜネクタイ置いて逝くなんて   石川聡

また湊圭伍、畑美樹、清水かおり、飯島章友の追悼文が掲載されている。畑と清水はともに「バックストローク」35号に掲載された「だし巻柊馬」の企画で柊馬の自宅を訪れたときのことを書いている。同誌から石田柊馬の川柳歴を再掲しておくと次のようになる。

本名・石田宏。京都市生まれ。十代の後半で川柳と遭遇。「平安川柳社」入会。「川柳ジャーナル」1973年10月~1975年2月(終刊号)編集。「川柳サーカス」「コン・ティキ」を経て2000年「バックストローク」同人。以後も「川柳カード」(2012年)、「川柳スパイラル」(2017年)の創刊同人として現代川柳の第一線で活動をつづけた。句集にセレクション柳人2『石田柊馬集』(邑書林、2005年6月) 句集『ポテトサラダ』(コン・ティキ叢書、2002年8月)。共著『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)『セレクション柳論』(邑書林)『はじめまして現代川柳』(書肆侃々房)。

柊馬は論・作の両面において現代川柳をリードする存在だったが、彼の仕事の全貌をまとまったかたちで知ることはむずかしい。句集については『ポテトサラダ』と『セレクション柳人・石田柊馬集』があるが、それ以降の句集はまとめられていない。評論については膨大な量にのぼると思われるが、川柳誌やネットの掲示板にそのつど発表されたもので、資料収集からはじめる必要がある。柊馬の仕事については今後、折に触れて語り継がれることが望まれる。

現代川柳のイベントとしては11月19日に東京・王子で開催された「川柳を見つけて」が注目される。暮田真名『ふりょの星』、ササキリユウイチ『馬場にオムライス』の合同批評会であるが、パネラーに穂村弘、平岡直子、川合大祐、郡司和斗を迎えて、それぞれの視点から語られた。
当日のレポートについてはすでに「ダ・ヴィンチWEB」に掲載されている(ライター・高松霞)。また来年3月に発行される「川柳スパイラル」20号にもイベントの記録が掲載されることになっている。 パネラーの平岡は暮田の句の言葉の見せ方について、「何の根拠もない組み合わせではなく、言葉と言葉との間に社会的文脈とは異なるつながりがある」「自分の都合より言葉の都合をきくことが優先されている」というようなことを語った。今年見聞きした川柳についての言説の中で最も印象に残る発言であった。

ネットを中心とした川柳の動きを振り返っておこう。
「川柳スパイラル」18号では「ネット川柳の歩き方」(西脇祥貴)を特集。Twitter(現在はX)、オンライン句会、オンライン講座、スペース、ツイキャス、川柳ユニットなどに渡って、ネット川柳を展望している。
まつりぺきんの編集発行による『川柳EXPO』は投稿連作川柳アンソロジーで、投句者51名(ぺきんの作品もプラスされて52名)、各20句だから1040句の川柳作品が集まった。第2集の募集もすでにはじまっている。
成瀬悠はネットプリント「現代川柳アンソロ」を第2号まで発行している。ひとり2句を募集してネプリで配信するという方法で、第1号63名、第2号57名の参加があった。
「川柳を見つけて」のイベントと前後して、川柳句集が次々に発行されている。森砂季の『プニヨンマ』、成瀬悠『序章あるいは序説もしくは序論』、南雲ゆゆ『姉の胚』、小野寺里穂『いきしにのまつきょうかいで』など。またササキリユウイチの第二句集『飽くなき予報』もすでに発行されている。時代のスピードが速くなってきた。

現代川柳への関心の高まりは歌人で川柳の実作をする人が増えてきたことと、ネット川柳の隆盛による。作者もヴァラエティに富んでいて、現代詩や演劇などさまざまな分野で活動している表現者が川柳に入ってきている。歌人の場合、従来は短歌の「私」と「私性川柳」の共通性が言われていたが、現在はむしろ短歌の私性が苦手な人が川柳に可能性を求めて実作に手を染めているケースが多いようだ。

「文学界」10月号の巻頭に暮田真名の「夢み」10句が掲載された。女鹿成二の写真とのコラボ。そのうちの5句をご紹介。

言いなりになって瑪瑙のアップリケ  暮田真名
本能で改編期だとわかるのよ
伝記的事実と寝てはだめだった
顔のまわりにハートがないの
筆算できみのこころが早わかり

今年も暮田真名の活躍がめざましかった。暮田の『宇宙人のためのせんりゅう入門』(左右社)が近日中に販売開始になる。

さて、既成の川柳人の側にはどのような動きがあっただろうか。
「アンソロジスト」vol.6(田畑書店)の特集《川柳アンソロジー みずうみ》は監修・永山裕美、川柳作品各20句でなかはられいこ・芳賀博子・八上桐子・北村幸子・佐藤みさ子が参加。樋口由紀子の解説が付いている。

文脈のどこを切っても水が出る   なかはられいこ
栞はらりと歳月のいずこより    芳賀博子
藤房のふるえる自慰に耽る舟    八上桐子
きれいごとセット郵便局で買う   北村幸子
でんわするちがう水路にいるひとへ 佐藤みさ子(以下5句)
行列に飽きた自分にも飽きた
B29をうつしたはずの水溜り
火口湖に生きた魚はおりません
空うつす湖面のようなこどもの目

あと、青砥和子『雲に乗る』(新葉館)も紹介しておきたい。

微笑みをまた間違えて然るべく   青砥和子
霙という半端なものが降ってきた
陸に杭打つから壊れていくんだよ
銃口の先に豆煮る人がいる
折鶴は重なるように睦み合う

ベテランの川柳人にはこれまでの経験と技術の蓄積があるので、句集のかたちで世に示すことが求められていると思う。

2023年12月8日金曜日

澤好摩の百句(高山れおな・「翻車魚」7号)

「翻車魚」7号に高山れおなの「澤好摩の百句」が掲載されている。
澤好摩は高柳重信に師事し、「俳句研究」の編集に携わった。1991年に俳誌「円錐」を創刊。現代俳句のなかで独自の存在感をもつ人だった。 高山れおなは次のように書いている。
「今回の『澤好摩の百句』は追悼企画のように思われるに違いない。しかし、結果的にそうなったにせよ、本来そのつもりではなかった。昨春、『尾崎紅葉の百句』の原稿を書いて面白かったものだから、私は引き続き『〇〇の百句』を『翻車魚』誌上で個人的にシリーズ化する気になった」
百句の評釈はそれぞれおもしろいものだが、ここでは二句だけ紹介する。

三日月を三日見ざれば馬賊かな
「蓼太の〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉のパスティーシュである。これもリフレインの句で、その調子の良さについ読み流してしまいそうになるが、「三日月を三日見ざれば」とはずいぶん奇矯なことを言うものだ。三日月とは新月を一日目としての三日目の月をさすのであって、四日目以降の月はもとより三日月ではない。三日月を三日見ないという言い方は一種のナンセンスなのだ、ナンセンスな原因から『馬賊かな』というナンセンスな結果が生じている」

百韻に似し百峰や百日紅
「百韻は連歌・俳諧の最も一般的な形式。重畳する峰々の変化に富むさまを喩えた。百の字の三たびの反復が掲句の眼目でもあれば、目障りなところでもある。掲句の前には〈鯨ゐてこその海なれ夏遍路〉が、次には〈山清水この上にもう家なきと〉が並ぶ。山清水の句について味元昭次は、〈標高七百余。高知県大豊町西峰〉にての作と証言する(「澤好摩の気になる一句」)。〈妻の里〉であるこの〈まことに美しい山里〉へ、味元は澤と横山康夫を案内した。夏遍路および百韻百峰の句も、この土佐への旅での作なのだろう。言葉遊びの句とのみ見てしまうとややあざとく、中遠景に山々を近景に百日紅を配した俳句的遠近法も鈍重に感じられるが、めでたい百の字を重ねた土地褒めの挨拶にこそ真意があった」

味元昭次が編集発行している「蝶」263号に今泉康弘が「酒と俳句の日々―澤好摩とぼく」を書いている。
「1985年の夏、ぼくは山田耕二に連れられて、荻窪にある澤好摩のアパート・宝山荘を訪問した。ぼくは十八歳だった。このときが澤好摩との初対面である。ぼくたちは夕方遅くまでいて、澤好摩から俳句の話を聞いたり、お酒をご馳走になったりした。そのとき、句集『印象』を貰った。1982年に刊行された第二句集だ。その見返しに、澤好摩は美しい筆跡で、こう書いた―『今泉詞兄、冥き噴水蛹よ翅の彩を急げよ 澤好摩』。『噴水』は『ふきあげ』、『彩』は『いろ』と読むのだ、と澤好摩は言った」
同誌の「澤好摩五十句」(横山康夫抄出)から五句紹介する。

天に雨の降り残しなし鬼薊    澤好摩
風邪を着て風に遅れるいもうとよ
三日月を三日見ざれば馬賊かな
深海に自らひかるものら混む
跳ぶ墜ちる走る躓くエノラ・ゲイ

私は「豈」の句会で一度だけ澤好摩と同席したときに、拙句を選んでもらったことがある。こんな句である。

パジャマ姿で鶴の行方を追いかける   小池正博