2017年7月15日土曜日

最近の短歌表現の変化―「井泉」76号

夏も本番になり、寝苦しい夜が続いている。七月に届いた諸誌を読みながら暑さをしのごう。

私が現代短歌の動向を知るための情報を得ている短歌誌のひとつに「井泉」がある。創刊号から送っていただいているが、特に〈リレー小論〉のコーナーは重宝している。今月の76号のテーマは「私が注目する最近の短歌表現の変化」。堂園昌彦の〈むき出しの「私」からサバイバルへ〉は仲田有里の歌集『マヨネーズ』のことから話をはじめている。

本を持って帰って返しに行く道に植木や壊しかけのビルがある  仲田有里
友達が帰って行った夜の外流しに貝を集めて捨てる   

一首目の「植木」や「壊しかけのビル」、二首目の「貝」に作中主体の感情や意味を投影するのが従来の短歌の詠み方・読み方なのかもしれない。たとえば、二首目なら友達が帰ったあとの空虚感(上の句)と食べた貝の貝殻だけを捨てる行為(下の句)がうまくマッチしているというような?けれども、堂園はこんなふうに書いている。

〈通常の短歌ならばあるであろう象徴的意味がこの「植木」や「ビル」にはないし、「貝」も同様に主体の不如意を表す道具にはなっていない。だからこそ読者は予定調和ではない語に驚き、何か不可解なものを受け取ったかのように、歌はざらつきを残す。仲田の歌の特異なところは、歌を俯瞰して意味づけをするメタレベルが一切ないということである。逆に言えば、その分生々しい「私」が歌の中に生きている。〉

堂園は仲田の作品に2000年代の口語短歌のひとつの極点を見ている。メタレベルを介在させずに「私」を描くこと。「メタレベルの消去、あるいは後景化」と彼は言っている。
興味深いのは堂園がこれを子規の方法論と重ねていることだ。「和歌の俳句化」「歌の言葉の中から主観的な用語を省き、客観的な事物のみ」を描くこと。
斉藤斎藤の口語短歌論を援用しながら、堂園は2000年代の若者短歌の特徴を〈むきだしの「私」〉だという。
これに対して2010年代の若者短歌の特徴は何か。

野ざらしで吹きっさらしの肺である戦って勝つために生れた   服部真里子

服部真里子・木下龍也・藪内亮輔の短歌を挙げて、その特徴を堂園は「スタイルを選択すること」「プリ・インストールされたサバイバル意識のようなもの」と呼んでいる。
〈むきだしの「私」〉ではなくて、パソコンにあらかじめインストールされているソフトを選ぶようにスタイルを選択する。「スタイルを選択するとは要するに、メタレベルを自分で選び取ることだ。」メタを消去した「私」が直接社会と向き合うのではなくて、自己に適したスタイルによって社会と向き合う。それだけ、今の現実が苛酷なものになっているのだろう。

7月17日に「現代歌人集会春季大会」が大阪で開催される。「調べの変容~前衛短歌以降~」というテーマで穂村弘の講演のほか、大辻隆弘の基調講演、堂園昌彦・阿波野巧也・河野美砂子のパネルディスカッションなどが予定されているので、楽しみにしている。

俳誌「里」7月号、特集「長谷川晃句集『蝶を追ふ』の路地をさまよう」。
天宮風牙が先月号に続いて5月の「川柳トーク」のことを紹介している。田中惣一郎、堀下翔の連載にも注目。

ふらここよあなたは人を許したか    長谷川晃
今そこで笑ってくれた蝶を追ふ
柿一つ心臓一つ同じである

「蝶」226号(7・8月号)、たむらちせい・森武司の両巨頭の句。

人生には飽きて河豚鍋には飽きず    たむらちせい
染卵は兎の卵ですか はい
遠い国の蝶を殺して微笑して

色事師来て冷麺を啜りおり       森武司
青大将次の頁で被曝せり
ミサイルが飛ぶ豌豆が煮えている

「核ボタンきつねのぼたんどれがどれ」(たむらちせい)について山田耕司が鑑賞を書いている(『円錐』73号より転載)。川村貴子の連載、若い俳人の大学生活がうかがえて好ましい。

川柳誌「凜」70号、桑原伸吉が巻頭言で村井見也子の第二句集『月見草の沖』(あざみエージェント)を紹介。
村井は北川絢一郎に師事、「平安川柳社」「新京都」を経て「凜」を創刊。第一句集『薄日』から26年を経ての上梓となる。

そうだまだ人形になる手があった    村井見也子
もの言わぬ爪から順に切ってゆく
月見草の沖へ捧げるわが挽歌

「草原」93号。竹内ゆみこの巻頭言。朝日新聞「俳句界に新風 若者が同人誌」(6月13日)に触れて、若者の川柳に対する捉え方について書いている。作品欄から。

あなたと私どちらかきっとアメフラシ  赤松螢子
毛皮のマリーだった頃 若かった頃   山口ろっぱ
遠縁の魚に倣い斑紋つける       徳山泰子
いい子なんだねいつでも首は定位置に  竹内ゆみこ

最後に、みつ木もも花句集『もも色ノイズ』から。

引き金に訂正印が押してある      みつ木もも花
いい分を溜め込んでいる股関節
苦痛がとれたら造花になっていた
とりあえず浅いところで握手する
ファスナー壊れてこれ以上隠せない

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