2016年8月5日金曜日

天国へいいえ二階へ行くのです(飯田良祐)

「ユリイカ」8月号の特集「あたらしい短歌、ここにあります」が話題になっている。
「ユリイカ」はかつて(2011年10月)「現代俳句の新しい波」で俳句を取り上げ、そのときも私は書店に買いに走ったが、今度は短歌ということになる。
予想していたものとは少し違っていたが、それなりにおもしろいものだった。
まず、穂村弘と最果タヒの対談がある。
次に「短歌/イラスト」として雪舟えまの10首が掲載。雪舟えまがここにくるのか。
さらに「新作5首」として15人の作品が掲載されている。
ネットなどですでにいろいろ感想が書かれているが、歌人でない人の作品が多く載っている。歌人からは俵万智・斉藤斎藤・瀬戸夏子など、歌人以外の人では戸川純・ミムラ・壇蜜・ルネッサンス吉田などが名前を連ねている。
「あたらしい短歌、ここにあります」と言いながら、どこがあたらしいの?と首をかしげる作品もあって、玉石混淆。知らない人も多く、プロフィールが一切付いていないのは、15人を同一平面上に置いて「短歌」として読めばいいという意図だろうか。「ユリイカ」は短歌誌ではないから、「歌壇」とか「短歌界」などというものはここにはなく、一般読者の視点で編集されているとも言える。
評論は現代短歌の世界でよく名前を見かける人が担当していて、ある意味で順当な感じ。その中で新鮮だったのは、梅﨑実奈の「純粋病者のための韻律」である。梅﨑は書店員だが、短歌や短詩型文学に理解のあるカリスマ店員として知られている。彼女はこんなふうに書いている。

〈「歌集、売れてほしくないんですか」
イベントの打ち上げで同席した歌人にずっと気になっていた疑問をぶつけてみたことがある。ずいぶんぶしつけで失礼な質問だけれど、どうしてもきいてみたかったのだ。歌集というのは売るための仕組みがきちんと整っておらず、実際に現場で扱っている側としては本当のところどう考えているのか知りたかった〉

〈「文学です。どうぞ」と差し出すのでは今、マスは受け取ってくれない。店でも詩歌コーナーに迷い込んでしまって「なにここ、ポエムじゃん」と笑いながら人が立ち去っていく姿を今まで何度も見てきた。そのたび思う。文学じゃ、だめなのか。詩じゃ、だめなのか。ことばそのものじゃ、だめなのか〉

本を売るという現場で日々戦っている人の思いがここには述べられている。

短歌の発信については加藤治郎が「短歌の新しさ」を、荻原裕幸が「インターネットと短歌」を書いている。加藤はツイッター「サイレンと犀」(岡野大嗣の短歌と安福望のイラスト)について、フォロワーが11886人にのぼることを紹介したあと、次のように述べている。

〈短歌雑誌・結社誌は、歌壇のコアである。そことは別のところに短歌の読者がいる。短歌の実作者ではない読者が多いと想定する。その読者層の獲得は、長年のテーマなのである。少なくとも「サイレント犀」は、地滑り的な変動を起こす契機となったのではないか〉

そして加藤は〈「サイレント犀」のようなオープン化に短歌の未来はある〉と言うのだ。
いかに私たちがクローズドな世界の狭い視野のなかで生きているかを改めて意識させられる。

さて、7月30日、大阪・上本町の「たかつガーデン」で「飯田良祐句集を読む集い」が開催された。
良祐は2006年7月29日に亡くなったから、ちょうど没後10年になる。川柳は句会がなければ人が集まらない。ただ作品を読むためだけに川柳人が集まるのは稀有のことである。10年が経過して良祐の作品がどう読まれるのか。
ゲストに岡野大嗣を招いた。良祐とは何の面識もないのに、句集『実朝の首』を購読してくれた純粋読者のひとりである。句集の中からいくつかの句を選んで読みを語ってもらった。
岡野大嗣が選んだのは次の句である。

下駄箱に死因AとBがある
バスルーム玄孫もいつか水死体
ポイントを貯めて桜の枝を折る
母の字は斜体 草餅干からびる
吊り下げてみると大きな父である
百葉箱 家族日誌は発火する
当座預金に振り込めと深層水
言い訳はしないで桶に浮く豆腐
沸点ゼロで羽化 名前のない鳥
きっぱりとことわる白い白い雲

外を歩いているうちに死因が靴の裏に貼りついてくることがある。それを下駄箱という空間に入れておく。死因にはAとBがあるのがおもしろい。
二句目の場所はバスルーム。子孫として「玄孫」が出てくる。そんな未来の時間での死を思い浮かべている。
三句目の作中主体はポイントを貯めるのが嫌いな人なのだろう。持ちたくもないカードをいつの間にか持たされている。ポイントが貯まったらふつうはいいことをするのに、ここでは桜の枝を折るというよくないことをしてしまっている。
正確に再現できていないが、岡野はこんな感じで10句を丁寧に読んでいった。

小池正博は次の5句を選んだ。

パチンコは出ないしリルケ檻の中
ハハシネと打電 針おとすラフマニノフ
二又ソケットに父の永住権
自転車は白塗り 娼婦らの明け方
げそ天のひとり立ち滂沱の薄力粉

固有名詞、父母に対する感情、大阪の雰囲気の三点が指摘された。
良祐が読んだ本そのものかどうかは分からないが、永田耕衣や定金冬二の句集、寺山修司『書を捨てよ、町に出よう』、実朝の『金槐和歌集』、リルケ『マルテの手記』、西脇順三郎『詩学』など、良祐の句に出てくる文学者の本が会場に展示された。
第二部は、くんじろうの司会で参加者ひとりひとりが良祐の思い出や作品について語った。

『実朝の首』は飯田良祐の句集としては不完全なもので、未収録作品の中にもいい句がいくつかある。当日「補遺」として配布されたが、その中から紹介しておく。

天国へいいえ二階へ行くのです
前みつをつかんだのに何故泣いている
うむを言わさない魚屋のゴム長
イージーリスニングな時計屋のオヤジ
何ですかという虫を食べている
イットウォズマイマザー鉢を割っていた
線条痕がある等伯のふすま絵
あてどない春を炒めるゆりかもめ

私たちはもう飯田良祐の新しい作品を読むことができないが、彼の残した作品の読みを深めていくことができる。飯田良祐の川柳がこれからも読み継がれ語り継がれてゆくことを望んでいる。

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