秋は文芸のイベントがいろいろ開催されるが、この前の土日の両日に大阪でもふたつのイベントがあった。
9月19日(土)には「マラソン・リーディング」が十三のカフェスロー大阪で開催された。マラソンリーディングが大阪で開催されるのははじめてらしい。
午後2時にはじまって6時半まで、四部に分かれてプログラムが続いたが、まず第一部で興味をひかれたのは香川ヒサの朗読。アイルランドで朗読したという短歌に英訳が付く。英訳は香川自身の手による。国際連句のことなどが連想された。
第二部のトップは今橋愛。今橋愛はマイナビブックス『ことばのかたち』に連載した『ここと うたと ことばのれんしゅう』の中から六首朗読した。これに舞踏家の周川ひとみの踊りがつく。私は最前列で見ていたが、周川の踊りには迫力があった。
私が短歌に接触していたのは十年くらい以前のことで、そのころ買った今橋の歌集『О脚の膝』が手元にある。司会の田中槐の『退屈な器』を読んだのもそのころだ。時の流れを感じる。
第三部、田中ましろは映像と短歌の朗読を組み合わせて発表。「青くてすこし苦い」という青春物。
第四部、最初の紺野ちあきは「国会前十万人デモ」と「箱根駅伝」の詩を朗読。気骨のある女性がいるものだ。龍翔は和田まさ子の詩「安心」を朗読。帰ってから調べてみると「詩客」に掲載されていた。
朗読にはそれぞれのスタイルがあって、それぞれおもしろかったのだが、この日いちばん私の心に迫ったのは正岡豊の朗読。どこがよかったのか、言葉ではいえない。
トリは石井辰彦の朗読「アフリカを望んで」。テクストが配布されたので、もらって帰った。
久し振りに朗読を聞いておもしろかったけれど、少し疲れた。帰りは中崎町でひとり宴会。
9月20日(日)には「文学フリマ大阪」が堺市産業振興センターのイベントホールで開催された。前日に続いてこちらにも参加した人は多いようだ。
詩歌では短歌のブースが多くて、川柳からは唯一の出店である(そんなことは何のウリにもならない)。いろいろな人が来場されていて、お話したり交流できたりして楽しかった。初対面の方に声をかけられるのも嬉しいことである。ただ「川柳カード大会」のときにも宣伝しておいたのに、川柳人の来場が少なかったのが残念である。若くて表現意欲のある人たちがこんなにいることを肌で感じることが刺激になるからだ。
当日手に入った同人誌の中からいくつか紹介しておきたい。
まず、BL俳句誌「庫内灯」。当日の午後、フリマと同じ会場の別室で「BL句会」も開催されたようだ。
ワンドロで佐藤文香の俳句「夜を水のように君とは遊ぶ仲」に付けられた絵が掲載されている。
逸脱のたのしさでヨットには乗らう 佐々木紺
まんべんなくシャワーまんべんなく拭かず なかやまなな
屠蘇苦し君のおさない舌である 久留島元
火事が見たいよ火のそばで火の中で 岡田一実
短歌同人誌「率」による「SH2」。
「SH」の瀬戸夏子・平岡直子・我妻俊樹に加えて今回は宝川踊・山中千瀬も参加して川柳を書いている。特におもしろいとおもったのは山中と平岡の作品。
なんとなく個室に長居してしまう 山中千瀬
あとのないしらうおたちの踊り食い
ちょっと泣きアクエリアスで補った
生活に降る雨なんの罰でもなく
100年のやばいゲームを続けよう
すぐ来て、と水道水を呼んでいる 平岡直子
雪で貼る切手のようにわたしたち
ネガフィルム界から紫芋来たる
星の数ほど指輪のいやらしい用途
煙草かと思って火をつけて吸いました
最後に自由律俳句誌「蘭鋳」を紹介しておきたい。
自由律俳句には短律と長律とがあるが、今回の特集は「長律」。過去篇と現代篇の二部で構成されている。自由律には短律と長律とがあるはずなのに、なぜ長律は滅び短律だけが残ったのか。矢野錆助は高柳重信の次の言葉を引用している。
「そして、わずか十五年の大正時代が終わったとき、長律の作品は跡かたもなく滅び去り、尾崎放哉を見事な典型とする短律の作品だけが残ったが、たとえ自由律俳句といえども俳句形式の思想は、本来もっとも饒舌から遠いものであろうことを思うならば、それも一つの必然であった」(「俳句形式における前衛と正統」)
川柳人でもあった山村祐の「短詩」が長律派と短律派に分裂して崩壊していったことなどが連想される。「蘭鋳」の特集は高柳が滅びたという「長律」の復権という意味があるだろう。橋本夢道の「無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」などは川柳人にも人気のある句である。
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