きちんと読めないままに諸誌・句集が手元にたまっている。今回は川柳・俳句をとりまぜて取り上げてゆきたい。
自由と平和たなびくランジェリーショップ 濱山哲也
「触光」42号から「第5回高田寄生木賞」大賞作品。渡辺隆夫特選。
雲や霞がたなびくように自由と平和がたなびいている。ランジェリーショップでは自由と平和の下着を売っているのだろうか。
タスマニアデビルに着せる作業服 森田律子
「触光」42号。「第5回高田寄生木賞」樋口由紀子特選。
動物の句は私もいろいろ作ったが、タスマニアデビルはまだ使ったことがない。しまった、先を越されたと思う。オーストラリアのタスマニア島に棲息。デビル(悪魔)という名前がついているが、写真で見るとかわいい感じがする。有袋類。
掲出句ではデビルに作業服を着せてしまった。仕事をしなければばらないのなら、デビルもたいへんなことだ。
三月の震災・サリン・東京空襲 滋野さち
「触光」42号。会員自選作品。
同誌の誌上句会の選評で滋野はこんなふうに書いている。
「毎日、事件・事故が報道される。身近なことから、遠い国の戦争のことまで、驚いたり怒ったり、世間の人に知らせ、訴えたい気持ちはよくわかる。漏れ続ける汚染水のこと。核廃棄物のこと、辺野古をめぐる永田町と沖縄知事のこと。しかし、それらを、第三者的の眺めて、羅列してもうまく句にはならない」
そして掲出句を自ら「失敗作の見本」と言っている。失敗作かどうかは別として滋野の問題意識は貴重だ。
つぶつぶを分ける貴方はどうします 草地豊子
「井泉」63号。同誌は短歌誌だが、巻頭の招待作品に他ジャンルの作品を掲載。ときどき川柳も招待される。
草地の作品は「どうします?」というタイトルの15句。「それほどの人気は無いが人は良い」「ゴキブリは急ぐ私と遊ばない」「コンビニの数と失踪者の数と」「コンニャクの揺れに任せるのか国家」など、日常性と批評性が取り交ぜられている。
掲出句では何を分けているのか分からないが、つぶつぶになったものを分けているのだろう。分けたもののうちどっちをとるか、あるいは分けるのか分けないのか、読者に問いかけている。
蟻地獄しんと美僧が落ちてくる 金原まさ子
「豈」57号。招待作家作品から。50句のうちの一句。
「カタツムリはミタ・目をあけて眠るから」「耳鼻科で逢い三半規管へ深入りす」「赤鱏をしばくとき切り出しを使う」「串のレバーに蛍がついていやせぬか」「ゼブラゾーンで消え縞パンツのパン職人」など自在な作品が並んでいる。
掲出句から安部公房の『砂の女』を連想したり、「もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ」(広瀬ちえみ)を思い出したりして楽しい。落ちてくるのが美僧というのがいい。
歳をとって硬直してゆく人もいるが、老齢を迎えて句がますます華やぐ人もいるものだ。
提灯をさげているなら正装だ 我妻俊樹
「SH」から。
「川柳フリマ」のために歌人の瀬戸夏子と平岡直子が作った「川柳句集」である。ゲストに我妻俊樹が参加している。
提灯をさげるのは誰か。作中主体を書かないことによって含みのある表現が可能となる。闇夜に提灯をさげるのは現実のことだが、妖怪だと読むと「怖い川柳」になる。百鬼夜行の正装である。
風の吹く窓辺で「ノン」という手紙 峯裕見子
『川柳サロン・洋子の部屋』Part3から。
本多洋子の同名のホームページの冊子版で3冊目になる。今回は点鐘散歩会の作品と本多のエッセイを中心に収録されている。
掲出句は2011年8月京都市美術館で開催された「フェルメールからの手紙」展を見て詠まれたもの。アムステルダム国立美術館所蔵の「手紙を読む青衣の女」である。
フェルメールの作品は「ルーブル美術館展」でも見られるし、東京展のあとは京都にも巡回するので楽しみである。
潜むには睫毛が上を向きすぎる 久保田紺
久保田紺句集『大阪のかたち』から。川柳カード叢書の第一巻『ほぼむほん』(きゅういち)、第二巻『実朝の首』(飯田良祐)に続く第三巻。
前二巻が難解だったのに対し久保田紺作品は読みやすいという声を聞くが、本当にそうだろうか。
隠れたいのに睫毛が上を向きすぎているので身を隠すことができないというのだ。そんなことがあるはずがないのに、何となく可笑しい。
きれいなひとと目があって風船ガム 岡田幸生
『無伴奏』拾遺から。
岡田幸生は自由律俳句の作家。1996年に『無伴奏』が出て、今度の新版には拾位60句が付いている。
「遠い美人に人違いの会釈されている」という句もある。
花眩暈わがなきがらを抱きしめむ 冬野虹
『冬野虹作品集成』(書肆山田)第一巻「雪予報」から。
全三巻で第二巻「頬白の影たち」には詩が、第三巻「かしすまりあ」短歌などが収録されている。
冬野虹が生前に出版したのは句集『雪予報』のみだったという。このことは冬野が特定のジャンル内での自己完成をめざすような表現者ではなかったことを示している。言いかえれば、残された作品自体より冬野虹そのひとの存在が大きかったということだ。けれども、私たちはかたちとして残された作品を通してしか冬野を知ることができない。時間をかけて作品集成を読みたいと思う。
つゆくさをちりばめここにねむりなさい 冬野虹
金魚藻をふたつつないでねむりなさい
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