5月5日、津田清子が亡くなった。享年94歳。
津田清子は前川佐美雄に師事して短歌をはじめたが、やがて橋本多佳子と出会い俳句に転じた。「天狼」にも投句して山口誓子の指導を受けている。「圭」主宰。私の敬愛する関西の俳人がまたひとりいなくなった。
句集『無方』を改めて読んでみた。
はじめに神砂漠を創り私す 津田清子
『無方』の巻頭句である。
1993年、津田は写真家の芥川仁に誘われアフリカのナミブ砂漠へ旅行した。このとき72歳。この句集で第34回飯田蛇笏賞を受賞している。
砂漠の句だけが収録されているのではなくて、他の吟行句も含まれているのだが、砂漠の句の印象が強烈だ。砂漠に立ったとき、対峙する自己もまた強烈に意識されたに違いない。
無方無時無距離砂漠の夜が明けて
「無方」は『荘子』秋水篇から取られたという。
津田は神田秀夫の『荘子』の講座を聞きに東京まで通っている。
『荘子』は清子の気質にぴったりかなったのだろう。
唾すれば唾を甘しと吸ふ砂漠
句集のあとがきに次の言葉がある。
「最大の悲哀は、私自身に私自身が未だに解らないということである。だから私は八十歳になっても九十歳になっても俳句を作り続けなければならないのである」
これはすごいと思う。五十歳や六十歳で行き詰まったり創作意欲を失ったりする私たちに活を入れるような言葉である。
「俳句研究」2002年9月号に桂信子と津田清子の対談が掲載されている。タイトルは「私たち死なれませんね!」。(「俳句研究」という雑誌も今はなくなった)
こんなやりとりがある。
桂 でも、あなたは砂漠へ行ったり、ものすごく遠いところに行っておられる。
津田 みんなと同じものを見ているとみんなと同じ俳句しかできないから、違うところを見たほうがいいんです。
桂 私は砂漠より海底のほうがきれいでいいと思いますけど。
津田 きれいすぎる。砂漠のように何もないほうが自分だけ残ってしまう。
桂 砂漠にはまた行きたいと思われるんですね。
津田 はい。砂漠には蛇もいてないし、ラクダ、ライオン、トラもいませんでした。
また、山口誓子についてこんなことも言っている。
津田 先生の若い頃は、それこそ先生のものさしにはまらない俳句があったら、ちょっとものさしを広げたりしてすくい取ってくださったんですけれど、晩年になってきますとものさしがきちっと決まってしまった。決まってもいいんですけれど、「天狼」の人々が無理して誓子先生のものさしにはまるような句しか作らなくなった。
この対談のあと桂信子は惜しくも亡くなった。
津田清子には二度会ったことがある。
2005年7月、堀本吟・長岡千尋による「第六回短詩型文学を語る会」では「津田清子と旅」というテーマを取り上げた。そのときの打ち合わせと本番のときの二回である。
私の役割は橋本多佳子と津田清子の吟行句を比べて読んでいくというものだった。清子は多佳子のお供をしてしばしば吟行に出かけている。そのときの二人の句を比較してみるとおもしろいと思ったのである。
そこで『礼拝』から橋本多佳子との旅の句を抜粋し、『海彦』『命終』所収の多佳子の句と並べてみた。たとえば、昭和27年10月、清子は多佳子に伴われ、信州へ四泊六日の旅に出る。
リンゴ採り尽くすまで樹の上にゐる 津田清子
林檎にかけし梯子が空へぬける 橋本多佳子
「私と清子さんはリンゴ採りの梯子にのぼり、枝から直かにもぎとって食べた。鮮しい果肉は固く酸がつよかった。浅間の溶岩の原の夕焼けには身の底までしみる淋しさがあった」(橋本多佳子)
津田清子といえば、第一句集『礼拝』の序文を思い出す。この序文は山口誓子が書いている。
〈 いつの新年だったか、私は新聞社の依頼によって南極を詠って詩一篇を作ったことがある。その詩を見せたとき清子は言下に「正直な詩ですね」と云った。私を正直詩派としたのである。これは清子に不正直詩派的なところがあることを物語る 〉
これを読んだとき私は度胆を抜かれた。誓子に対して「正直な詩ですね」と言い放つことができる弟子が津田清子のほかにいるだろうか。清子を「不正直詩派」と呼ぶ誓子もまた相当なものだ。ジャンルは異なっても私は津田清子から文芸の本質的な部分を教わったような気がする。
最後に『礼拝』から一句引用しておきたい。
虹二重神も恋愛したまへり 津田清子
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