関西短詩型文芸の地盤沈下が言われるようになって久しい。
俳句について言えば、かつて関西には独自の存在感を示す俳人が何人もいた。
鈴木六林男・永田耕衣・八木三日女・橋閒石などの名が思い浮かぶ。これらの一時代を画した作者たちが亡くなったあと、関西の短詩型の世界は何だか元気がない。
そういう不満を吹き飛ばすように、このたび関西の若手俳人の作品のアンソロジーとして『関西俳句なう』(本阿弥書店)が刊行された。
塩見恵介による「はじめに」には次のように書かれている。
〈「関西俳句なう」は2011年1月1日より、俳句グループ「船団」の関西在住若手メンバー六人で立ち上げました情報サイトです〉
〈2000年代以降、社会情勢の影響が多分にあると思われますが、総合誌の話題はどうしても首都圏が中心となっており、関西に住む我々にとっては少し残念な思いをすることの多い日々が続きました〉
〈本書は、2012年現在、「船団」に所属している若手作家13人と他結社・個人の作家13人の書簡交換形式による作品五十句の発表の場としました〉
本書の帯には端的に「東京がなんぼのもんじゃ」と書かれている。
13組26人の各50句のほかミニエッセイも収録されているが、ここでは私が個人的に興味をひかれた〈久留島元VS岡田一実〉の組み合わせを取り上げる。
まず、久留島元の作品から。久留島の50句には「妖怪の国」というタイトルが付けられている。
静粛に! 今夜稲妻鑑賞会
倉阪鬼一郎の『怖い俳句』(幻冬舎新書)の巻頭には芭蕉の句「稲づまやかほのところが薄の穂」が取り上げられている。倉阪はこんなふうに書いている。
〈「言ひおほせて何かある」とは芭蕉の俳言の一つですが、これは怖さを醸成する場合にも当てはまります。「怖がらせるには、まず隠せ」といったところでしょうか〉
稲妻は恐怖を起こさせる状況設定として、しばしば用いられる。ところが久留島のこの句では、みんながガヤガヤ言いながら稲妻を鑑賞している。「ちょっと静かにしなさい」と注意しなければならないほどだ。現代では恐怖ですら消費の対象となってしまっている。
日本は妖怪の国春の川
川柳で「妖怪」という言葉を用いると「妖怪のような人」という揶揄の意味になってしまうが、この句ではそこまでの意味性は込められていないようだ。『遠野物語』や水木しげるの漫画に描かれているような妖怪の棲息する国であると言っている。妖怪は夏に似合うのに、ここでは「春の川」と取り合わせられている。
きつね来て久遠と啼いて夏の夕
きつねが来てコンと啼いたというだけの句である。それを「久遠」と書いたところに機知を感じる。狐はふつう冬の季語だが、ここでは夏にしている。
鳥の巣に鳥がいるとは限らない
では、何がいるというのだろう。おそろしいものがいるのではないか。
久留島は妖怪研究者でもあって「是害房絵巻」に関しては第一人者である。
是害房という唐土の天狗が日本にやってきて日羅房という日本の天狗と対面する。是害房は日本の僧侶と力比べを試みるが、高僧によって次々と撃退される。傷ついた是害房を天狗たちが介抱し、送別会を開いて、是害房は唐土に帰ってゆく、というような話である。
私は京都国立博物館でこの絵巻を見たことがあり、おもしろいなと思って記憶に残っている。恐ろしいはずの天狗が俳諧性をもって描かれているのだ。
台風の目の中にいるおばあさん
このおばあさんは恐ろしい存在かもしれないし、ユーモアを感じさせる存在かもしれない。そういう二重の存在として、いかようにも受け取れるように思う。
では、続いて岡田一実の作品から。
とほくに象死んで熟れゆく夜のバナナ
遠景には死んだ象がいる。近景には熟れたバナナがある。バナナは象の好物であるはずだが、それを食べる象はもういない。
蟷螂のしづかに草を持てあます
蟷螂が草の上でじっとしている。
たぶん餌となる虫がくるのを待っているのだろうが、虫はいつまでもやってこない。
蟷螂は時間を持てあましているようだが、次の瞬間には餌をとらえるかもしれない。持てあましながら、緊張しているのだ。
象も蟷螂も「もの」でありながら、かすかに喩としての意味を感じさせる。
白鳥が白くてどうでもよくて好き
本当に「どうでもよい」のだろうか。「どうでもよい」と言わないと苦しいほど好きなのではないか。
昨年発行されたこの作者の句集『境界‐border』に「はくれんの中身知りたし知らんでも良し」という句があった。二律背反的な感情がつきまとうのだ。
焚火かの兎を入れて愛しめり
最初読んだとき、焚火の中に兎を放り込むのかと思ってドキッとした。しかし、そうではなくて、焚火の輪のなかに兎も入れて一緒に暖をとっているのだろう。「かの」という言葉から三橋敏雄の「絶滅のかの狼を連れ歩く」を連想する。狼ではなくて兎をつれているのだろう。
茎容れて吸はれながらに水澄めり
花瓶に花を活けると茎は水を吸う。花の茎の水を吸われることによって花瓶の水は澄んでゆくのだ。吸われることによって濁ってゆくのではなくて、澄んでゆくと見たところに作者の感性がある。
十年以上前に巻いた妖怪賦物・胡蝶「一反木綿」の巻がある。
別所真紀さんの発句は「わが死後は一反木綿秋の風」。
抽斗からその時の付句が何句か出てきたので、書き留めておきたい。
座敷わらしと仲良しになり 漠
塗り壁にぶつかるまではともに行く 正博
妙齢をおいてけ堀の夕映に 漠
膝のあたりに人面の瘡 正博
ドラキュラに母あることのかなしさよ 真紀
(花の座では次の句を付けている。)
花の下天狗評定続きをり 正博
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