2015年2月20日金曜日

兵頭全郎の川柳

「川柳木馬」143号の巻頭言(「一塵窓」)で清水かおりが「高知県短詩型文学賞」について述べている。受賞作品が難解であるという意見があるらしい。清水は川柳部門の「難解」がこの十数年間でどう変化したのか、次のような作品を例に挙げている。

償いの縄がするする降りてくる    大破(平成8年度)
老いるのは切ない川は蛇行する     望(平成10年度)
砂の国巨象が足を踏み入れる     鮎美(平成15年度)
自惚れはないか真っ赤な唐辛子   知華子(平成16年度)
ギター掻く第六弦は父であり     浩佑(平成23年度)
明日の子へひみつひみつの国渡す   郁子(平成25年度)

そして清水は次のようにコメントする。
「読み手が思う難解はおおむね比喩、暗喩の解釈についてであるが、作品上大きな変化は感じられない」「どんな文芸の現場にも『難解』は存在する。たびたび論の俎上に上げられる現代川柳のそれは、比喩の解りづらさから、言葉と言葉の飛躍の距離へと少しずつ変化をしてきているという状況がある」
比喩・暗喩(メタファー)は結局のところ「意味性」につながる。〈「暗喩(意味)」から「言葉の飛躍」へ〉という清水の分析は、現代川柳の先端的情況に対応している。

さて、本号では「作家群像」のコーナーに兵頭全郎の60句が掲載されている。
その巻頭句と前掲の「高知県短詩型文学賞」と比べてみるとおもしろい。

償いの縄がするする降りてくる    海地大破
足並みを揃えて竜が降りてくる    兵頭全郎

「償いの縄」は「償いという縄」で「縄」は「償い」の比喩である。縄だから「するする降りてくる」という言葉につながるので、意味的には「償い」が目の前にあらわれるという状況である。「私」(作中主体)が償いをするのか、誰かが「私」(作中主体)に償うために縄を降ろしてくれたのか、どちらとも読めるが、それは大きな問題ではない。
一方、全郎の句では「竜」は意味に置き換えられない。暗喩と受け取って無理に意味に置き換えて読むこともできるが、きっとつまらない読みになってしまうだろう。これを挨拶句として読むと、たとえば年賀状にこの句が書いてあれば、新年の挨拶になる。
湊圭史は次のように書いている。

「一見ふつうの歳旦のあいさつ句に見えて、しかしなぜ『足並みを揃えて』くるのかを立ち止まって考えると、一句から歳旦にあたって不可欠な目出度さがすーっと、風から空気が抜けるように、抜け出ていくような気がする。読後振り返ってみると、手ごたえのある句の『中心』的なものがなかったことに気づかされる。句の中の言葉がひとつの意味や読みに集約されていくのが通常のかたちでの作品の『読み』だとすれば、兵頭全郎の句とはどこかでそうした解釈的な『読み』を拒むように書かれているのだ」

再び海地大破の句と比較すると、大破の句には「償い」という意味の中心が存在するのに対して、全郎の句では「竜」は一義的な意味を提示しない。「足並みを揃えて」という部分にかすかに意味性が感じられるが、これを全体主義批判などと結びつけるのは読みすぎだろう。意味の中心がなく、しかも一句全体として何かを詠んでいる。そのような書き方が意識的にされていることになる。

受付にポテトチップス預り証
狼尾男カバンの中の灰
船頭を触れれば溶ける糸で編む
当駅一等地に遮音室はある
夜姫に光の当たる夜がくる
馬術部に預けた砂を返してもらう

湊圭史と江口ちかるが解説を書いていて、湊の文章はすでに引用したが、湊はさらに「取り合わせ」と「取りはやし」という用語を使って注目すべきことを言っている。
俳句では「取り合わせ」「配合」ということが言われる。「二物衝撃」という言葉もある。
「発句は取り合わせものなり」とは芭蕉の有名なことばだが、「取りはやし」とは「取り合わせ」た二つの要素をいかに一句のなかで結びつけるのか、ということらしい。
全郎の句は「二物衝撃」や「意表」をねらっているのではない、と湊は見ている。

「全郎の『取りはやし』の主要パターンのひとつは、二つの要素の異質性を『ぶつからないように』強調するところにある」
「全郎句の『取りはやし』では、各句のなかの二つの直線は簡単に互いを位置づけられないように配置されている。平行も交差もしない『ねじれ』の位置に置かれていると言い換えてもよい」
「全郎句の言葉は一句のなかでも、一つの平面に収束していかないで、読者の読みを複数のバラバラの方向に連れていこうとするのだ」

全郎は「作者の言葉」でこんなふうに書いている。
「伝達の道具としての言葉から伝達の機能を抜くとどうなるのか」
「私はこう思う」ではなくて「読んでくれた方がそこで感じた気持ち」こそが作品の真価になる。そう思いながら彼は「ガラスの小瓶」を作っている、というのだ。
では、「ガラスの小瓶」(作品)をどのように作るのか。
「私はこう思う」を出発点にしないならば、出発点は言葉しかない。
従来の全郎作品はテーマとなる「言葉」をまず決めて、そこから連作を書き上げるという傾向が強かった。そこに彼の作品のおもしろさと同時に単調さがあった。今回の60句は多彩であり、新鮮な感じがした。
ただこのような書き方を続けるのは困難な作業だから、ふと気が弱ったときには、たとえば「寝言ではあるが鋭いご指摘で」のような意味性にもたれた句が混じってくることになる。「蜘蛛の巣のどこから補助線をひくか」は隠喩と読まれても仕方がない書き方である。
「私はこう思う」を出発点にしない書き方にはまだまだ可能性がある。
冒頭に紹介した清水かおりの認識に重ねて言えば、現代川柳の先端部分は西脇順三郎の詩学の方向性で進んでいるのだ。即ち〈意味から言葉の飛躍へ〉。

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