先週ご案内した5月17日の「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」の件、ホームページを立ち上げたのでご覧いただければ幸いである。
http://senryu17.web.fc2.com/
さて今回は川柳誌を逍遥しながら、気になる作品を読んでみることにしたい。
雛壇の一番下の舌濡れる 青砥和子
「触光」41号掲載。
「雛壇の一番下」と「舌濡れる」を「の」で繋いでいる。
雛壇の一番下には何があるのだろう。
これを、たとえば五人囃子だとすると、笛を吹いている雛人形の舌が濡れているように見える、という写生の句になる。
一番下が雛壇の最下段ではなくて、さらにその下に存在するもの、段全体を支えているものだとすると、それが「舌」だというのは何やら妖しい雰囲気となる。
「一番下の舌」と書いてあるが、この「の」に前後をつなぐ役割はあまりなくて、一種の切れだとすると、「雛壇の一番下」と「舌濡れる」は別のことになり、この舌は見ている人の舌だとか、女の子の舌だとかいう解釈が生まれる。
「下」「舌」の発音の共通性から一句が出来ているので、それをおもしろいと思うか、わざとらしいと思うかによって読者の受け止め方は異なってくる。
青砥和子は瀬戸市在住の川柳人。川柳をはじめて9年ほどになるという。同号の「触光の作家」というコーナーに青砥が取り上げられていて、彼女はこんなふうに書いている。
「そろそろと作句して、自分の思いがなんとか十七文字であるから言葉で伝わらないもどかしさ、描写の難しさをしみじみ感じている。更につきまとう既視感。快感を知ったが故に迷路に深くはまり込んでしまったようだ。しかし、幸いにもその迷路は、私にとって今は不快」ではない」
掲出句はそういう試行・迷路の中で生まれた一句だと読める。
オオバコもアザミも私の子ではなく 滋野さち
「触光」41号から、もう一句。
むつかしい言葉は何も使われていないのだが、案外わかりくい句である。
オオバコもアザミも野に咲く雑草である。そういう雑草の立場に共感して「オオバコもアザミも私の子」というのなら、よく分かるのだが、ここでは「私の子ではなく」と言って突き放している。
植物だから私の子ではないのは当然である。では、このオオバコやアザミは喩なのだろうか。川柳的喩・メタファーとして植物はよく使われる。けれども、この句ではメタファーとして使われているのでもないようだ。
この句のベースにあるのは何らかの断念の気持ちであるように思う。自然との共生ではなくて、断絶の思いなのだろう。
「触光」今号から滋野は誌上句会の選を担当している。題は「煙」。次に挙げるのは滋野が秀作選んだ句のひとつ。
あのけむり地方葬送かも知れぬ 小暮健一
滋野は選評の中でこんなふうに書いている。
「感動は人それぞれです。つまらないと言う人もいれば、同じ句を名句だと言う人もいます。選者の好みで、何点とか順位を決められて、人の目に触れることなく、句が捨てられてしまうのは、理不尽な気がします」「目の前のくすぶる煙に拘らず、視野を広く想を飛ばし、ことばにすることが作句の大切な要素ではないでしょうか」
大阪府交野市で「川柳交差点」という句会が毎月開催されている。代表・嶋澤喜八郎。この2月の例会で第94回となる。その様子が「川柳交差点」95号に掲載されている。ここでは井上一筒の作品を紹介しよう。
河童逃げ込んだニジェール共和国 井上一筒
梅田から地下鉄で行く淡路島
一筒の句の作り方がうかがえる。
一句目は「河童」という題。『遠野物語』や芥川龍之介の小説に登場する河童だが、遠くニジェールへと飛躍させている。
二句目は「可笑しい」という題。梅田から淡路島まで地下鉄で行けたらおもしろいだろうという、ありえないことを詠んでいる。
ちなみに「河童」の選者は筒井祥文で、祥文の軸吟は「飛行機を降りてきたのは皆カッパ」。また、「可笑しい」の選者は酒井かがりで、軸吟は「ウルトラマンなのに三分以上甘えてる」。それぞれ句会を楽しんで遊んでいる様子が伝わってくる。
井上一筒(いのうえ・いーとん)。号は麻雀のピンズの一にちなむ。
本多洋子のホームページ「洋子の部屋」から。
死ぬときはびわこになると思います 本多洋子
ガラスの蝶の透ける血の道海へ海へ
前者は第19回杉野十佐一賞の大賞作品。
後者は1995年の川柳公論大賞作品。
この20年の間に本多洋子の軌跡がある。
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