大阪市立美術館で「岸田劉生展」が開催されている。劉生といえば麗子像で、会場には麗子をモデルにした絵がいっぱいであった。劉生の自画像など見せられても嬉しくないが、麗子には顔がほころぶのである。菊慈童麗子、二人麗子、麗子曼荼羅、寒山風麗子まである。特に寒山風麗子には驚いた。道釈人物画によく出てくる「寒山拾得」の寒山である。髪は蓬髪で爪は長くのび、不気味に笑っている。麗子は劉生によって寒山に見立てられたのである。この父は娘に対して何ということをするのだろう。麗子はモデルとして箱の上に数時間も坐らされ、身動きすることも許されない。娘の苦痛に父親の画家が気づくことはなかった。けれども、麗子は性格がゆがむこともなく、『父・岸田劉生』(中公文庫)という本を書いている。
劉生の描いた「林檎三個」という油絵がある。この絵について麗子はこんなふうに書いている。
「林檎三個」という絵は机の上に三つの林檎が並んでいる絵で、構図からいえば何のへんてつもないものであるが、この絵は病と闘う父が、自分の一家三人の姿を林檎に託して描いたときいているので、なお私にはそんな気がするのかも知れないが、この絵をみていると三つの林檎は互いに、いたわりあい、愛の歌をつつましく奏で、たがいに耳を澄ませてその歌にきき入っているような気がする。(『父・岸田劉生』)
これは私にとって軽いショックであった。
リンゴはリンゴであるはずだ。セザンヌのリンゴはリンゴそのものだろう。
けれども、麗子にとってリンゴが三人の家族に見えてしまうということは、麗子の側にそう見るだけの文脈(コンテクスト)があったからである。
さて、もう10月に入っているのだが、今回は9月に送っていただいた諸誌を逍遥してみる。まず、「ふらすこてん」17号(9月1日発行)から。
愛に至らず猫は臨時の筆なりき きゅういち
少年琴になりたりし日傘廻しをり
鑑真和尚のクローンではないか 井上一筒
四十個入りのお安い海だった
馬になるものを拡げる午後一時 筒井祥文
情報のひとつに入れる鮭の貌
現代川柳の世界では、猫が「臨時の筆」であったり、鑑真和尚がクローンであったりする。目に見える現実とは次元の異なる言葉の世界である。一方で、筒井は同誌に「番傘この一句」を連載して、伝統川柳の評価を試みている。この号では「銃身を磨くと浮いてくる血糊」(隅田外男)を取り上げ、「鳥獣を愛でながら殺すという矛盾を犯すのが人間。その矛盾を具象として見事に取り出している」と評している。また「番傘」誌が震災句で溢れていることについて、「如何せん『恐怖、悲惨、絶句、命の重さ、想定外、牙』等の言葉の繰り返しだ。つまり震災に対する感想、もしくは新聞の見出し止まりなのだ」と述べている。そんな中で筒井が評価するのは次のような句である。
文明を飲んで吐き出す大津波 松岡真子
なにもかも流され残ったのは明日 小寺竜之助
「津波の街に揃ふ命日」(『武玉川』)を越える句は、なかなか書けそうもない。震災の当事者、仙台の川柳人たちはどのような作品を書いているだろう。「杜人」231号(9月25日発行)から。
戦争を日に晒しても晒しても 加藤久子
天の邪鬼同士で顔が伸びている
拾ってきたものでワタシが出来上がる 広瀬ちえみ
きつねさんたぬきさんがいて波が立つ
水面のどれも花びらではないの 佐藤みさ子
土蔵崩れて千年分のきものたち
無いと言え目に見えぬから無いと言え
私は「消える川柳」としての震災句を否定するものではないが、直截的な震災句より、このような作品の方が射程距離は長いだろう。
川柳誌ではないが「かむとき」25号(9月20日発行)。平成3年に「日本歌人」の有志が「鬼市」の誌名で創刊した。表紙題字は山中智恵子。途中で誌名を変更して本号に至る。編集発行人・佐古良男。本号から樋口由紀子が参加して、「短歌誌」から「詩歌文藝誌」を目指すという。
綿菓子は顔隠すのにちょうどいい 樋口由紀子
ああそれは借りっぱなしの算数ドリル
白菜に豚肉挟むときトラブル
うずくまる癖がなければ死んでいた 猫麻呂
横縞の服のひとだけ救われる
「あっ今日は」とつぶやき消えた友の霊
樋口は「なくもんか」というエッセイも書いている。「なくもんか」という映画の話からはじめて、「川柳は喜怒哀楽をよく題材にする。特に『哀』は人の心を捉えやすく、容易く感情移入できるので、共感と感動を呼び込むキーワードである」と述べる。映画「なくもんか」がありきたりのパターンの筋に怪優・阿部サダオを放り込むことによって支離滅裂化したように、川柳の言葉と言葉との関係性の上に「阿部サダオ」が登場してほしい、と述べている。
暗がりに連れていったら泣く日本 樋口由紀子
マグリットの絵に「これはリンゴではない」というのがある。カンヴァスにはまぎれもなくリンゴの絵が描かれている。けれどもタイトルには「これはリンゴではない」と書かれている。シニフィアンとシニフィエとの不一致。いろいろな表現があるものだ。
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