川柳を中心とする短詩型サイト「s/c」が9月はじめに立ち上げられた。運営している湊圭史は俳人・詩人・外国文学研究者であり、最近は川柳人として「バックストローク」「ふらすこてん」などに作品を発表している。「s/c」の意味はいまのところ不明であるが、sは川柳のことかと憶測している。短詩作品欄には樋口由紀子の川柳や荒木時彦の短詩、久留島元の俳句などが掲載され、評論欄には湊自身の評論が掲載されている。
さて、先日そこに掲載された彼の評論〈 現代川柳とは何か?―「なかはられいこと川柳の現在」を読む― 〉は現代川柳の問題点に鋭く切り込む内容となっている。湊はこんなふうに述べている。
〈川柳ジャンルにおいては、「川柳の奥深さ」といった経験則からの実感の吐露か、「誰でも出来る」といった類の一般向けの惹句、また歴史的発展をどこかで止めて割り出したジャンル規定には出くわすものの、現代までの発展に則って現在の社会と対峙するようなジャンル像で説得力のあるものにはなかなかお目にかかれない。〉
〈「長くやれば分かる」という経験一辺倒の姿勢で、新しく参入したものに手掛かりとなるパースペクティヴもまったく見せられないようでは、ジャンルとしての発展も望めないのではないか。要するに、外部を意識した自己省察があまりにもなさ過ぎるのだ。〉
こういう問題意識から彼は、なかはられいこの第二句集『脱衣場のアリス』の巻末対談「なかはられいこと川柳の現在」を取り上げる。この句集は2001年4月に発行されていて、すでに過去の話だろうと思っていたが、今回の湊による読み直しによって巻末対談の現代的意義が甦ったことになる。この対談は本来、なかはらとその句集『アリス』のおもしろさをアピールするためにプロデューサー役の荻原裕幸によって企画されたものであるが、穂村弘というすぐれた表現者の眼にさらされ、川柳とは何かという問いをつきつけられることで、現代川柳全体が強力な外部・他者と向かい合うことになった。ここでは、湊の引用している穂村弘の発言をもう一度たどりながら整理し、最後に湊自身の提言について検討してみることにしたい。
議論の発端は、倉本朝世がこの句集を象徴している一句として「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」を挙げたのに対して、穂村弘がこの句は全然よくないと疑義を呈したところからはじまる。湊も引用している穂村弘の発言を改めて確認してみよう。
《この句の「鳥」の持っている衝撃力と、さっきあげていた、〈五月闇またまちがって動く舌〉の「舌」が持っている衝撃力では、もう格段に「舌」の方が強いと思うんです。あるいは、
開脚の踵にあたるお母さま
という句の「お母さま」が持っている衝撃力は、もしそれを測る装置があれば、非情に高い値になると思うんです。》
《これは想像なんですが、「またまちがって動く舌」とか、「踵にあたるお母さま」という句は、フォルムの要請というか、定型で書いてこられて、その中でつかんできた言葉なんじゃないか。それに対して「えんぴつは」の句は初めから持ってらしたある世界観みたいなものではないでしょうか。》
《ぼくはこういう内容がいけないとは思わないけど、これをフォルムの中で提示されたときに、まったく反論の余地がないという点で、逆に意味がないんじゃないかというふうに思うんです。》
ここで例句として取り上げられているのは次の3句である。
えんぴつは書きたい鳥は生まれたい
五月闇またまちがって動く舌
開脚の踵にあたるお母さま
「えんぴつは」の句は作句のモチーフそのものである。倉本はこれをなかはらの現在を象徴する句だと見ており、また、「五月闇」については季語を川柳ではこういうふうに使えるんだよと提示している点を評価する。一方、穂村は作者の世界観をそのまま提示することに意味はないと言う。穂村の発言を敷衍すれば、「えんびつは書きたい鳥は生まれたい」という思いが最初にあったとしても、それをたとえば「鳥は書きたいえんぴつはうまれたい」と無理にでも反転させるところに創作の意味があるということだろう。穂村は定型のなかでつかみとってこられた言葉の衝撃力という点で「五月闇」「開脚の」の方を高く評価している。
十年後の今日の眼で見れば、「えんぴつは」は共感と普遍性に基づいた書き方であり、「五月闇」「開脚の」は言葉の力による書き方のように見える。穂村のよく知られた「共感と驚異」という二分法で言えば、「えんぴつ」は共感の句、「五月闇」「開脚」は驚異の句ということだろう。
では、倉本が「えんぴつは」を評価した根拠は何か。「もちろん、言葉の衝撃力という点ではもっといいのがたくさんあります。でも、等身大の彼女が一番よく表われているのは、やっぱりこれだと思うんです」という発言から、その根拠は「作者」ということになるだろう。作品の背後には作者が貼り付いているというのは、川柳の世界では根強い考え方である。湊はこの倉本発言を「後退した視点」と見る。穂村はテクスト論の話をしているのに倉本の発言は作者論の話になっているからだ。作者から自立した川柳作品の可能性が探られていたこの時期に「等身大の彼女」を根拠とすることは確かに弱点をもつ捉え方である。ただ、「等身大の作者」ではなくて、「作品を通して構築される作者」まで否定できるかどうかはまだ川柳の世界では論議されていない。
問題はこの両傾向の作品が一冊の句集の中に混在していることである。穂村はこんなふうに発言している。
《ぼくは「お母さま」とか「またまちがって動く舌」という方向へどんどん行けばいいのにと思う、結果がどうなるのか、それはわからないけど。〈えんぴつは書きたい鳥は生まれたい〉とか、第一句集の〈にんげんがふたりよりそうさみしいね〉は、ぼくにはどうしてもネガティブにしか見えないんですけど、もしかすると、そこに見えていない価値観っていうのか、川柳の価値観があるのかな。》
これに対して石田柊馬はこう答えている。
《石田 これは、場の要請というか、座の要請、その場によって思考レベルを上下させることが川柳には多くあります。
穂村 場というのは、読者ですか。
石田 句会とか、大会とか、そこに集まる人たち、その理解レベル、読解レベルです。 》
湊はこの発言を的外れだと言っている。確かにテクスト論から言えば的外れだろうが、石田はそう言うしかなかっただろう。短歌の読者と川柳の読者は違う。短歌のような純粋読者は川柳には存在せず、句会・大会で出会う川柳人がそのまま川柳の読者そのものであるからだ。句会・大会ではよほど偏狭な選者でない限り、どのような傾向の作品でも一定以上の水準にある作品であればそれを選ぶだろう。一般論として、そのような習慣が句集の編纂に影響しないとは言えない。
大会・句会の座における多様な価値観が一冊の句集という文学的テクストにまで持ち込まれるのはなぜか。提示されているのは次のような考え方である。
1 石田柊馬の言う「座の要請」あるいは「記録性」という考え方
2 荻原裕幸の言う「地と文(もん)」という考え方
3 穂村弘の言う川柳的価値観(ストレート・アッパー・フックを繰り出す自在感)
この点については最後にもう一度触れる。
穂村はさらに「川柳のアイデンティティ」について質問している。
《穂村 川柳のアイデンティティというか、川柳の生命線というか、俳句から川柳を分けて、なおかつそこに存在意義を与えている本質は何か、ということを明らかにしたいんです。》
川柳性とは何かというのは危険な問いである。
まして、現代川柳史の流れのなかで『脱衣場のアリス』のどこに川柳性があるのか、という問いに答えることは至難の業であろう。「俳句とは何か」という問いに簡単には答えられないように、「川柳とは何か」という問いにもまた簡単には答えられない。無理に簡単に答えようとすれば、「穿ち」と「機知」などという後退した答えになってしまう。石田柊馬の次の指摘は、歴史的な視点からの一つの示唆を与えてくれる。
《石田 昭和三十年代に現代川柳をかなり先鋭的にやってくれた、河野春三や堀豊次さんたちの句集についての考え方は、川柳の句集を出す場合には時系列でありたいという、これは一つの川柳観なんです。かなり大胆な発言ですが、川柳というものを自分に引きつけての発言と思います。一人の人間像としてやっているんですね。》
《穂村 この(=『脱衣場のアリス』の)タイトルといい、冒頭の文といい、読者を誘導しようという意図で付けられている。すると、それはぼくたちがふだん慣れ親しんだ価値観だからよくわかるのだけれど、川柳の句集は時系列でありたいとか、座によって表現が変わってくるっていうのは、見慣れない、聞き慣れない価値観なんです。いつも最高の場を想定して書けばいいじゃないかと思うんです。実際には存在しないほどの最高の場に向けて、最高の言葉で書けばいいんじゃないかと。それで驚異的なものを含まないものは、全部落としてしまえばいいじゃないかと、そういう発想になってしまうんです。》
河野春三を中心とする現代川柳は川柳におけるモダンの確立を目指していたのであり、一人の人間の自己表現であった。そういう川柳観から別の川柳観へと移行するところに『脱衣場のアリス』は生まれたのであり、にもかかわらず作者論の残滓は残っているのである。即ち、「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品とが混在するところに、この句集の過渡的性格がうかがえる。現在の時点から見ると、そんなふうに思えるが、ただし、「言葉の強度」だけで成立している一冊の川柳句集はまだ存在しないとも言える。
では、そろそろまとめに入っていこう。
湊圭史は『脱衣場のアリス』を河野春三流の時系列を重視する価値観とは対極にあるものと見ている。一人の人間像ではなく、むしろ統一的人間像が困難になっていくゼロ年代の状況を提示していると見るのだ。では、この句集における「川柳性」はどこにあるのか。穂村が川柳についてイメージしたような自在感を、川柳の根拠として川柳人の言葉として理論的・戦略的に構築していくことを湊は求めているようだ。「最高の場」を固定することなく、場から場へとフットワークを生かしながら、有効打を放っていく自在性が逆に川柳の魅力ではないか、というのが湊の立場である。「こうした自由度を川柳が持つ、というのは、魅力的な視点ではないか」
繰り返すが、湊の文章によって改めて問いかけられているのは、価値観の異なる句が一冊の句集に混在するのは何か、それを許容する川柳的価値観があるのか、そのような「川柳性」とは何か、ということである。この問いに直接答えることは難しいが、一般化したかたちで整理してみる。
1 それは「座の文芸」としての川柳の性格による。「前近代の可能性」という視点はここから派生する。
2 それは川柳が連句の平句をルーツとすることによる。連句の平句における変化、ヴァラエティが川柳にも引き継がれているという湊圭史自身の考え方。
3 それは「川柳の幅」である。「川柳の幅」とは、伝統川柳と革新川柳の混在を抱え込む立場から用いられた言葉であるが、ここでは「作者の思い」を根拠とする作品と「言葉の強度」を根拠とする作品との過渡的なせめぎあいという意味で使用する。
4 場から場へと転じるフットワークの自在さこそ川柳の魅力である。これも湊圭史の考え方による。
5 それは元来、川柳というジャンルが不純物を含み、ひとつの統一的原理からはみ出す領域を常にかかえているからである。これは川柳の弱点ではなく、大きな魅力である。
「川柳性」とは何かという問いに答えることはとても難しい。私が川柳に関心をもった10年以前にも、川柳とは何かという問いに対するヒントとなるのは、石田柊馬の「幻の前句」「前句からの飛躍」論と樋口由紀子の「ことばの力」、渡辺隆夫の「何でもありの五七五」くらいしかなかった。元来、川柳は自律的ジャンル論では割り切れない不純な部分を含む文芸である。どのような規定もそこから大切な部分が抜け落ちてしまう。従来の「川柳性」を規定しようとする論者が失敗したり、複数要素の複合としてしか規定できなかったのはそのためである。石田柊馬が「川柳が川柳であるところの川柳性」とだけ言ってその内実を言おうとしないのは、はぐらかしというより賢明な態度である。
「川柳性」については問い続けられなければならないが、それは戦略的な問いであり、本質的には一人の川柳人が生涯をかけて問い続けるべきものであると思う。
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