2010年8月20日金曜日

夏を振り返って

今年の夏も終盤に入った。手元にある7・8月の川柳誌・川柳同人誌から、今何が問題となっているかを探ってみたい。

◇「川柳木馬」125号

古谷恭一の巻頭言(「一塵窓」)では「会社の寿命三十年説」を話の枕にして、企業が生き続けて発展するには人材の交代が必要であり、自己変革を遂げて別の生命体に再生しなければ激変する世界を乗り切っていけないと述べている。恭一は「川柳木馬」が創立30年を越えたことと重ねているのである。今年9月には「第2回木馬川柳大会」が高知で開催されることになっている。どのような大会になるのか、期待される。
「川柳木馬」誌面に話を戻すと、清水かおりの前号評に注目した。その中で内田万貴の2句が取り上げられている。

  肉厚な言葉に挟み込むわけぎ  内田万貴
  冷蔵庫から桜開花を逆探知

「内田万貴の木馬作品は題吟として拵えた句が多いのだが、出来ればもっと雑詠に挑戦して欲しいと思っている。内田の言語展開は驚くほど幅がひろいからだ」と清水は述べている。
「題詠として拵えた句」から「雑詠」へ。
その間で、作者の真の個性が言葉によって立ち表れてくることを清水は述べているに違いない。
事情は少し違うが、「作家群像」のコーナーで取り上げられている富山やよいに対する野口裕の論にも似たような観点を感じた。
野口の富山やよい論では、まず「俳諧は三尺の童にさせよ」という芭蕉の言葉を引用し、富山やよいの中の子どもが万華鏡をのぞくように眼前の光景を捉えていく、という言い方をしている。しかし、その光景はどれも同じように見えてしまうのであり、その原因は言葉が作者の手の内に入っていないからだ、と野口は批評する。
よく言われることだが、「子どものような眼」というのは実は大人の目である。ミロの絵画は子どものように純粋と言われるが、もちろんミロは大人であって、大人の描いた子どものような絵であるところに意味があるのである。
野口に富山やよい論を書いてもらったことは、彼女の幸運だろう。言葉を手の内にすることによって、言葉による自己の世界が生まれる。そして、その次に、そのような言葉による自己の世界を破壊する苦しみがくる。川柳もまた言語表現であるかぎり、そういう道筋になるだろう。

◇「ふらすこてん」10号

京都から筒井祥文が発行している本誌も10号を迎えた。
玉野川柳大会で特選を取った小嶋くまひこの作品を探したが、残念ながら掲載されていない。
同人作品欄「たくらまかん」から、兵頭全郎の作品。

  内海氏がもうひとりいる月の裏
  区役所の木佐貫さんを別の目で
  額を外すと流れ出るキョーちゃん
  切捨御免あとは名札にしまいます

全郎は実体験からではなくて、モチーフを決めることによって川柳を書くタイプである。そして、そのモチーフとは言葉である。今回は「名前」である。なぜ内海氏なのかと問うことにはあまり意味がない。ただ、作者の創作過程は何となく想像がつく。「内海氏」と「月の裏」をつなぐのは、「月の海」という言葉である。ただし、真偽は保障しない。
最後の句はテーマを言いすぎていて、蛇足感がある。

◇「水脈」25号

北海道から発信されている川柳誌。(編集・浪越靖政)
筒井祥文が前号評を書いている。
興味深いのは「創連」という形式で、先行する川柳のイメージを受けて自作川柳とする。川柳と連句の中間形態と言えようか。

 さむらいを乗せてうれしい縄電車   涼子
 トンネルを出ると満開の花見席    むさし
 どこまでもピンクあふれるカバの口  麗水

◇「点鐘じゃあなる」2010年8月号

8月4日の点鐘散歩会の記録が掲載されている。四天王寺吟行である。
川柳には珍しく、この会では吟行に出かけている。机の上で句を書くのではなく、実際に物を見て句を書くことによって新鮮な作品が生まれる、という墨作二郎の考え方による。この日は21人が参加。

  長い手の先を見に行こうと思う     峯裕見子
  経を読むいちにちいちじくのいちにち  辻嬉久子
  凭れたら凭れかえしてくる仁王     前田芙巳代

盂蘭盆会前の四天王寺は生と死とが交錯する場であった。

◇「川柳びわこ」566号

「点鐘散歩会」のときに峯裕見子から「川柳びわこ」8月号をもらった。
平賀胤壽が「前月近詠鑑賞」を書いている。「結跏趺坐 徐々に西瓜になってゆく 美幸」についての句評はこんなふうに書かれている。「ここでは作者自身が結跏趺坐していなければならない。もちろん想像だけでもよい」「詩的表現として『西瓜』がもっとも相応しいものかどうか」―このあたりが鑑賞のポイントだろう。近詠欄から。

  預かった何か動いている袋      峯裕見子
  カーテンの向こうの明日はあかるいか

峯裕見子の才能をもってして、この境地にとどまっているのは、何だか残念である。誰にでも分かる平易な川柳は、他の川柳人にまかしておけばいいのだ。

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