2023年4月7日金曜日

かつて連句ブームがあった

「短歌ブーム」だという。NHKの朝ドラ「舞いあがれ!」で短歌を作る登場人物が描かれ、「クローズアップ現代」で短歌ブームが取り上げられた。マスコミの話題になる機会が増えたことで目に見えて短歌ブームが実感される。振り返ってみると今までにも短歌ブームは何度かあり、俵万智の『サラダ記念日』のときとか、桝野浩一の「かんたん短歌」のときのことが思い出される。桝野の『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)が出たのが2000年11月で、マスノ短歌教の信者として当時高校生だった加藤千恵がテレビに登場したのを記憶している。ブームというのはつかみどころのないものだし、「短歌ブーム」をどう受け止めるかは歌人に任せておけばよいことだが、今回の話題はかつて連句界にも「連句ブーム」といわれる時期があったということについてである。
話の順番として、まず「連句」について触れておくが、昨年から今年にかけて現代連句のアンソロジーが2冊出ている。3月に発行された『連句新聞』増刊号は、高松霞と門野優がネットで運営している「連句新聞」の冊子版である。「連句新聞」は2021年春にスタートし、年に4回更新、四季に合わせた連句作品と連句内外の表現者のコラムを掲載している。今回の冊子は二周年を記念して編集されたもの。巻頭に別所真紀子が「江戸俳諧に見るフェミニズム」を寄稿している。別所は現代連句を牽引する連句誌のひとつ「解纜」のリーダー。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『「言葉」を手にした市井の女たち』(オリジン出版センター)など俳諧における女性史の第一人者であり、『つらつら椿・浜藻歌仙帖』(新人物往来社)など俳諧小説の作者でもある。ちなみに五十嵐浜藻は小林一茶などとも交流があった江戸期の女性俳諧師。『連句新聞』増刊号で別所は次のように書いている。
「江戸期を通して百冊以上の女性選集が出版されているこの国は、世界に類をみないフェミニズムの先進国であった。そしてそれは、俳諧という形式あればこその成就と言えるであろう」
コラムは中村安伸・堀田季何・中山奈々・竹内亮・北大路翼・暮田真名・大塚凱・福田若之が執筆。現代連句作品が9巻収録されているが、歌仙のほかに非懐紙・箙・胡蝶・獅子・短歌行などの形式があり、ヴァラエティに富んでいる。あと、山地春眠子のインタビューが掲載されていて貴重だ。
もう一冊の連句アンソロジーは『現代連句集Ⅳ』で、日本連句協会創立40周年記念として発行されたもの。小津夜景「連句の愉しみ」、堀田季何「連句が好きだから」の二本のエッセイ、「日本連句協会の歩み」、座談会「現代連句の伝統と多様性」などのほか全国の連句グループ作品84巻が収録されている。「連句新聞」とともに現代連句を展望するのに便利である。

「連句ブーム」と言われたのは1970年代後半から80年代にかけてのことで、正岡子規によって否定されたと思われていた連句復興のきざしがあらわれてきた。伊勢派の俳諧師・根津芦丈の指導のもと1959年に「都心連句会」が、1961年に「信州大学連句会」が創立された。さらに、1971年には野村牛耳の指導で「東京義仲寺連句会」が開かれた。野村牛耳の師系は根津芦丈だからいずれも旧派の系譜につながるが、「東京義仲寺連句会」には林空花、わだとしお、高藤馬山人、真鍋天魚、珍田弥一郎など俳諧復興の新風を志すメンバーがそろっていた。
ここで俳諧における旧派と新派の説明をしておくと、根津芦丈は『芦丈翁俳諧聞書』(東明雅)でこんなふうに言っている。「それで儂はね、何の、子規が明治二十六年頃、その新聞の『日本』でね、旧派ひっぱたいてね、いる最中に儂ら旧派の凌冬(馬場凌冬)という人にならって、旧派のヘエその先生が日本一いいと思って習っている時にまあ、旧派ひっぱたくだね。くそみそに、今に旧派のえらい人にたたかれるぞと思っていたが、たたく人は一人も出っこなしで、子規の独り舞台で、新派おこしちまって…(後略)」
子規が連句を否定して起こしたのが新派、従来の伊勢派・美濃派などの伝統的俳諧が旧派である。根津芦丈は旧派の俳諧師だが、新派でも高浜虚子は連句肯定の立場で、高浜年尾や阿波野青畝に連句を受け継ぐよう指示した。
さて、1972年に東明雅の『夏の日』(角川書店)が刊行され、1978年には東明雅『連句入門』(中公新書)、1978年に山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)が上梓された。70年代後半から80年代にかけて連句入門書が書店の店頭に並ぶようになった。そういう機運のなかで1981年、連句懇話会(日本連句協会の前身)が結成される。発起人は阿片瓢郎(「連句研究」)・大林杣平(「都心連句会」)・岡本春人(「連句かつらぎ」)。
『連句新聞』増刊号のインタビューで山地春眠子は「なぜそういう運動が起こったのでしょう」という質問に答えて次のように言っている。
「なんとなくじゃない?誰がなにをしたということではない。もちろん、明雅さんとか、瓢左さん、牛耳さんが、連句のグループ、信大連句会とか義仲寺連句会とかを作ってくれたからなんだけれど、それはそれぞれ、日本のことを考えて作ったわけではないので、たまたまそういう流れがあった。誰が旗振って、やろうとしたわけでもないように思う。気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」
この発言には韜晦している部分もあるのだろうが、「気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」というのはおもしろいし、文芸が盛り上がるときの機運はそんなふうであればいいなと思う。
「連句懇話会会報」第1号(1981年12月)の「連句懇話会創立総会記」で阿片瓢郎は次のように語っている。
「けだし最近連句ブームの声が高いですが、俳句人口なり俳誌の数を比べると格段の相違があります。その上一部には連句をすると俳句が下手になるとの俗説があります。併し連句人の俳句には面白さがあります。文士方の連句も週刊誌を賑わせており、名古屋では連画制作の企てもあり、海外でも連句愛好者が増えていると伝えられ、連句ブームは多面的に拡がりつつあります。従って現在の連句ブームを一時的なものでなく定着させるには、各結社の伝統と特徴を守りながら、それぞれ連句の錬磨に努力し、後世に残し得る立派な作品を創ることが必要と思います。そのためには各結社が自由に交流できるよう垣根を設けず風通しをよくすることが大切で、本会はその機会を増やすことを念頭としております」
その後、俳誌に連句特集が組まれたり、連句イベントが興行されたり、詩人をはじめ他ジャンルの表現者が連句に参加するなどの動きがあったが、それも2000年代初めまでで、連句に対する一般読者の関心は薄れていった。「連句ブーム」にしても、もともとブームと呼べるほどのものではなかったという意見もある。 けれども共同制作(座の文芸)としての連句に対する潜在的な表現意欲はいつの時代にも存在しているのであって、それがどのような形で噴出してくるのかは予測しがたいものがある。連句愛好者は全国に散在しており、「座」という場がいったん提示されれば個別に参加者たちが現れてくる。
次に挙げるのは連句誌「みしみし」11号。「みしみし」は2009年からネット上で歌仙を巻いている三島ゆかりによる座。不定期刊で冊子版も出している。歌仙「休日」の巻の表六句より。

休日や筍の皮うづ高し     苑を
 匂ひ立ちたる首夏の手間ひま ゆかり
売るための石ころいくつ持ち寄つて りゑ
 ほそきゆびもて掬ふさざなみ 青猫
水もまた満ちて迎ふる月今宵  らくだ
 椋鳥のしづまる並木をゆけば 槐

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