2022年6月17日金曜日

初谷むい『わたしの嫌いな桃源郷』のことなど

初谷むいの第二歌集『わたしの嫌いな桃源郷』(書肆侃侃房)が5月に刊行された。初谷のことを最初に意識したのはツイッター名の「む犬」が記憶に残ったからだったか、それとも短歌の友人から若手歌人では初谷むいが面白いと聞いたからだっただろうか。2017年の「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」にも彼女は来ていたはずだし、「川柳スパイラル」も毎号送っている。第一歌集の『花は泡、そこにいたって会いたいよ』は話題をあつめ、収録されている短歌はいろいろなかたちで引用された。
今度の歌集のタイトル『わたしの嫌いな桃源郷』とはずいぶん反語的である。帯の「不完全なぼくらの、完全な世界へのわるぐち」というキャッチ・コピーも二律背反的だ。巻頭には次の歌が掲載されている。

それはたとえば、百年育てて咲く花を信じられるかみたいな話?

百年育てれば咲く花というものがあるのか、ないのか。ペシミスティックなこの世界でそのような花の存在を信じるのは、すでに自分がいなくなった世界に希望が持てるかどうかという「信」のレベルの話になる。「それはたとえば」と言っているから、この歌の前に省略されているものがある。また、最後に疑問符がついていて、相手に対する問いかけになっている。意識されているのは相手との関係性なのだろう。

だから世界を愛しているよ 花器として余談の日々をうつくしくゆく
この世界に出口などないたそがれがみえるあたしは変わらずここにいる

生きづらい世界がこのようなものとしてとらえられている。出口のない世界と変わらない「私」。けれども、「私」は世界を愛しているし、美しいものと思おうとしている。花を飾るのは現実が酷薄であるからだ。

ぼくたちは海を見ながら飽きていく貝を拾ってすべてを捨てて

海を見ながらの感想。相手との関係性はやがて飽きられ、貝殻のように拾ったり捨てたりする。やがて終わるものであるからこそ、いまは完全でありたいのだ。 この歌集には「わたし」「ぼく」「あなた」「きみ」などの人称代名詞が頻出する。良くも悪くも短歌なのだなあと思う。他者との関係性は恋愛の場面に典型的にあらわれるから、恋歌が多くなるのは当然なのだろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』でシャルロッテはウェルテルにとって世界そのものが凝縮したような存在であって、失恋は世界との断絶を意味してしまう。人間関係は行きづまると息苦しいので、すこし別の題材に目を転じたくなる。初谷の第一歌集で私が気に入っているのは「全自動わんこ」だが、第二歌集では「二次元の女の子」が登場する。

よろしくねあたし二次元の女の子おなかは空かないけどここにいる
あたし二次元の女の子この世界に生まれたきもちくらいわかるよ

短歌の話題を続けよう。
内山晶太・染野太朗・花山周子・平岡直子の四人による同人誌「外出」は評価が高いが、すでに7号まで発行されている。今号では花山周子が63首発表しているのが注目される。

くちびるは煙草の灰を量産しなお燃え残る唯一のもの     内山晶太
はなびらのほうから触れにくる時期は遠さがふいに親しさを増す

赤ちゃんは自分のサイズがわからずにスマホのなかへ送られてくる  平岡直子
勝手に泡が出てくる勝手に泡が出てくるこれ鬱なのかなあ

怒りとは自己憐憫なりあじさいの若葉が指にざらついている  染野太朗
切る人の独占欲の表れだそうだよ髪を切られる夢は

新しくしたカーテンが生活になじむ速度が鬱だと思う     花山周子
机の下に乾電池拾うこのなかに電気は残っているのだろうか

紀野恵編集の「七曜」204号。紀野の歌集『遣唐使のものがたり』については以前紹介したが、本誌では白居易の漢詩からインスピレーションを得た二次創作「楽天生活」が連載されている。

暮讀一巻書 會意如嘉話   ゆふべ読むふみ こころにひびく
しろねこも世かいをおもふぼくだつて生きていくこと大切なんだ  紀野恵

藤原龍一郎『寺山修司の百首』(ふらんす堂)が発行された。藤原の『赤尾兜子の百句』をこのコーナーで取り上げたことがあるが、今回は寺山修司の短歌である。寺山については改めて説明する必要もないだろうが、藤原は解説で次のように書いている。
「かつて寺山修司はサブカルチャー・シーンのスーパースターであった。いや、サブカルチャーというより、正確にはカウンター・カルチャー・シーンといった方がよいだろう。寺山修司の表現行為は、すべてのジャンルのメインストリームに対する明確で意志的なカウンターであった」
よく知られている歌ばかりだが、何首か引用しておきたい。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
わが撃ちし鳥は拾わで帰るなりもはや飛ばざるものは妬まぬ
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭

「マッチ擦る」について藤原は「この一首は極めつけのカッコよさだ。日活アクション映画の石原裕次郎や小林旭を連想しても差し支えない。寺山修司は通俗性もやさしく包み込んでいるのだから」と書いている。藤原の解説も本書の魅力である。ちなみに寺山は川柳界では「川柳は便所の落書きになれ」という発言で有名。

私は「写生」という方法には興味がないから、アララギ派の短歌は無縁だと思っていた。けれども藤沢周平の『白埴の瓶』という長塚節を主人公とする小説を読んで、アララギの短歌に少し触れる機会があった。子規の没後に「馬酔木」そして「アララギ」を作ったのは伊藤左千夫と長塚節である。

牛飼いが歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる     伊藤左千夫
人の住む国辺を出でて白波が大地両分けしはてに来にけり

馬追虫の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし  長塚節
白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり

この程度の歌は私でも暗誦している。この二人を並べて論じているのが土屋文明である。文明の『短歌入門』のなかの「短歌小径」では子規・左千夫・節の三者の短歌を比較しながら、特に左千夫と節の変遷を克明にたどっている。左千夫の初期の作品に「森」の題詠がある。

かつしかや市川あたり松を多み松の林のなかに寺あり  伊藤左千夫
かつしかの田中にいくつ神の森の松を少み宮居さぶしも
森中のあやしき寺の笑ひ声夜の木霊にひびきて寂し

手許にある『伊藤左千夫歌集』ではこの三首のうち前の二首が収録されていて、三首目は掲載されていない。三首目は子規の写生概念からはみ出すのだろう。土屋文明は「写生」と「趣向」という言葉を用いている。三首目は趣向の強い歌ということになる。ところが、私は三首目の方がおもしろいように感じる。俳句では「景気」と「趣向」という言い方をする。私が蕪村を好きなのは、景気の句の背後に趣向が隠されているという二重性が楽しめるからである。
左千夫の歌集を読んでみて驚いたのは晩年の恋歌である。『野菊の墓』の作者だから純情な恋かと思っていたら、そうではない。一方の長塚節にも恋歌がある。アララギ派では断然、茂吉がおもしろいと思っていたが、先入観をはずせば、左千夫や節の作品もそれなりにおもしろい。あと、永井佑が「近代の短歌を完成させてその後のあらゆる変革を呑み込み、短歌の外側にいる人の頭に?マークを浮かばせる特有の磁場を作り上げた人、現在まで通用している短歌のOSを書いた人間、それがどうも土屋文明みたいなのだ。短歌の秘密のかぎは土屋文明が持っている」(「土屋文明『山下水』のこと」、「率」5号)と書いているのを読んでから土屋文明のことが気になっていたが、『短歌入門』を読むと、そういうこともあるかなとも思った。

2022年6月3日金曜日

江田浩司歌集『メランコリック・エンブリオ』

江田浩司の第一歌集『メランコリック・エンブリオ』が現代短歌社から文庫版で発行された。本書は1996年、北冬社より刊行されたもので、そのときの栞(岡井隆・谷岡亜紀・藤原龍一郎)も収録され、文庫版解説(神山睦美)、江田浩司自筆略年譜、文庫版あとがきが付いている。歌集名のメランコリック・エンブリオは「憂鬱なる胎児」という意味で、次のような歌が詠まれている。

やさしさは海鳴りの時期 エンブリオ翼の生えたメランコリック   江田浩司

「時期」には「とき」というルビがふられている。「憂鬱な胎児」については後で触れるとして、私が江田の名を意識したのは山中千恵子論の書き手としてであった。あと、同人誌「ES」は19号から終刊の30号まで手元にあって、江田浩司、加藤英彦、谷村はるか、山田消児などの名前は読者の私にとって親しいものだった。 ちょうど、短歌の「私性」をめぐる議論を山田消児が展開していて、それは山田の『短歌が人を騙すとき』(彩流社)にまとめられている。この評論集に収録されている「『私』に関する三つの小感」で山田は現代川柳について触れている。山田が引用している川柳作品は次のような作品だ。

弟が銀の燭台狙いおる      石田柊馬
赤ん坊と視線が合わぬように産む 佐藤みさ子
月光に臥すいちまいの花かるた  石部明
町ふたつ越えて決闘しに行くの  広瀬ちえみ

あと、文中には『セレクション柳論』(邑書林)についても言及されている。のちに「現代川柳ヒストリア(川柳フリマ)」(2016年5月)のイベントを開いたときに山田をゲストに招いた。このときの対談「短歌の虚構・川柳の虚構」は「川柳カード」12号(2016年7月)に掲載されている。
また、江田は万来舎のウェブサイト「短歌の庫」に評論を掲載していて、第171回「小池正博句集『水牛の余波』を読んで思ったこと」では現代川柳について触れている(『緑の闇に拓く言葉』2013年、万来舎)。
「ES」26号(2013年11月)は「妖怪」という特集で私は「逗子物語」20句を寄稿している。

物の怪の棲む寺だから夢精する    小池正博
かの人はおのれの舌に火をのせて言葉の井戸を覗きこみたり 江田浩司

では本題の江田の歌集に戻ろう。第一歌集だけあって作者の初心や時代性が刻印されている。本書の歌は六部に分けられているが、その第一部から何首か引用してみよう。

憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる
人生のオルガスムスに鰭を振る冷たき楕円浮かびくるなり
ちぐはぐな羽打ち振りて首一つキャベツ畑を越えてゆくなり
どのように傷つけたらば楽しからんわたしの中に眠るわたしを
さかしらに君の詩想をなめているわが舌にふる刺のあまさよ
われはまた観念の豚まろびつつ知の脱糞を拝みており
なんという詩型か俺の狂気さえ小間物店にならぶ言の葉

「憎しみの翼」は巻頭歌。憎しみの翼をもつ少年を詠んで、文学的出発を告げる歌になっている。二首目は自足した円的世界ではなくて、楕円を詠んでいることが注目される。中心がひとつである円に対して、焦点が二つある楕円の世界である。現実との異和をかかえる心性にとっては一元論的な円より二元論的な楕円のイメージがふさわしい。三首目の羽は現実を越えてゆくことへの希求だろう。永遠に守ろうとする日常的現実を永遠に越えてゆこうとするのだが、山崎方代の「そこだけが黄昏れていて一本の指が歩いてゆくではないか」が「一本の指」なのに対して、江田が「首一つ」と詠んでいるのは興味深い。歌集にには巻末エッセイ「他者の声」という文章が収録されていて、作者が他者と出会うことによって自己を意識化するに至った経緯が述べられている。それでめでたしめでたしならば話は簡単だが、自意識と他者との関係性は痛みを伴うもので、上掲の四首目から七首目までは内部の「私」に対する二律背反的な思いと短歌という詩形に対する自嘲がテーマとなっている。
巻末の自筆年譜によると、この作者の青春は70年代後半から80年代にかけてのようだが、歌集からその時代の雰囲気がうかがわれ、現在の青春の姿とはずいぶん違う。個人的にはATG(アート・シアター・ギルド)の映画や小川徹が編集していた「映画芸術」などを思い出す。
さて、歌集の第三部には「メランコリック・エンブリオ」の章があり、最初に紹介した歌のほかに次のような作品が詠まれている。

夜明は股を開き鏡を見てささやくくちびるの傷—雨が
パゾリーニの恋人にならん死を生みて少女は濡れるまで闇が好き
落ちる君の手 瞳の中の七つの鐘は七つの封印
無数の翼よポプラは郵便配達に三度詩を語る
わが内に卵の孵る所あり 昏きあけぼのを予言しており

映画のイメージが点在するし、セックスの欲望もベースに感じられる。「メランコリック・エンブリオ」(憂鬱なる胎児)というタイトルそのものがフロイトと結びつけて論じられやすいが、ここには母胎から苦に満ちた世界への誕生にうめくような作品の姿がある。生まれ出た幼児は自己中心性をもっているが、独我論や根源的な自己中心性を越えてゆくためには他者との出会いが必要となる。他者によって意識化された「私」は再び他者の視点によって「私」を相対化しなければならない。第二部にマヤコフスキー、ローザ・ルクセンブルク、ツェランなどの名が出てくるが、特に重要だと思われるのは俳諧との出会いだろう。第三部の「思考する卵」の章では俳句と短歌がセットで掲載されている。

  父の髪を梳けば卵が転がりぬ
その先は測定不能らんらんと転がってゆくずぶ濡れ卵
  混血の卵は北へ転がりぬ
自裁するコトバは無量の鏡かな泥にまみれて卵は笑う
  思考の枠をメタメタメタと寒卵
ヘテロエッグに抒情をすこし擦り付けて国境線で酔っぱらってさ

江田は大学で村松知次に俳諧を学んでいる。村松友次は俳句・連句の世界では村松紅花として知られている。江田の歌集『逝きし者のやうに』には村松知次を追悼する歌が収められている。

紅花とふ俳号を虚子に賜りて風花のごとき俳句をなしぬ

『メランコリック・エンブリオ』には903首の短歌と33句の俳句が収録されていて、さまざまな読み方ができると思う。作者の原点、出発点が第一歌集としてきちんとまとめられているのはしあわせなことだ。歌集にはこんな歌もある。

ガス室に入る間際に犬を撫でほほえみているユダヤの子供