今年も残り少なくなり、一年を振り返ってみる時期となった。「俳句年鑑」「短歌研究年鑑」「現代詩年鑑」など各ジャンルの年鑑も発行されているが、多くの書き手が大震災のことから始めている。やはり3・11を抜きにしては今年を語ることはできないのだ。
「今まで隠されていたものが震災によって一挙に顕現した」(岩成達也・「現代詩セミナーin神戸・2011」)という言い方を借りれば、原発安全神話などいかに根拠のないものであったかが今にしてわかる。
茨城在住の被災者である関悦史は「バックストロークおかやま大会」(4月)に選者として参加した際に、関西の大地が揺れもなく平穏であることに対する違和感・ギャップを語っていた。大会の翌日、関を案内して訪れた山科の毘沙門堂では満開の桜が咲きほこり、人々は花に酔い痴れているのだった。それは非難されるべきことではなく、関東と関西の実感の違いであり、そのこと自体は当然であるとも言える。
川柳人の震災に対する対応はさまざまである。川柳誌における「応援の一句」などの企画が目についたが、くんじろうは「応援絵手紙」を3月24日以来毎日描き続けネットを通じて発信している。
「3・11以後、表現は変わったか」というテーマについても、さまざまな言説が見られた。
3・11以後、表現は変わった、変わらざるをえないというのが一つの立場。
自己確立した表現者にとって、表現が変わるはずがないというのが別の立場。
表現が変わったのではなくて、それを見る側のものの見方が変わったのだという言い方もある。
「震災句を書くべきか」についても、「自分は書く」「自分は書かない」の両者は分かれる。どちらがよいというのではなく、それぞれの選択であろう。
震災に関して聞いた言葉のうちでもっとも衝撃的だったのは「津波てんでんこ」という言葉である。津波がきたときはそれぞれてんでに逃げなければならない。人を助けようとしていると、いっしょに津波にのまれてしまう。この言葉を提唱・普及させた山下文夫さんの訃報が先日の新聞に載っていた。
さて、川柳の世界では今年どのようなことが起こっていたか。
それぞれの川柳人が作品を書き続けていたのはもちろんだが、川柳を「かたまり」として発信する営為が目立ってきた。
今年上梓されて好評だったものに樋口由紀子著『川柳×薔薇』(ふらんす堂)がある。樋口本人は本書をエッセイと言っているが、現代川柳についての評論として読まれる向きもあったようだ。
「大人の判断で書かない方がいいと思われることや暗黙の了解で触れないことになっているものも、川柳では堂々と書いていくことができる。読み手の中にずかずかと入っていき、わざと居心地悪くし、うっとうしく、とんがらせて、強引に意味でねじ伏せていくのも川柳の醍醐味のひとつである」(「はじめに」より)
樋口は「週刊俳句」の裏ヴァージョン「ウラハイ」に毎週「金曜日の川柳」を連載している。相子智恵の「月曜日の一句」と対になるもので、けっこう読んでいる人が多いようだ。ネットというツールを使っての情報発信の在り方のひとつだろう。次に挙げるのは「金曜日の川柳」の第一回で取り上げられた作品。
人間を取ればおしゃれな地球なり 白石維想楼
新家完司著『川柳の理論と実践』(新葉館)はどちらかというと川柳の初心者を対象に書かれていて内向きの印象があるが、入門書から一歩先へ踏み込んだものとして一般読書人にも有益だろう。
句集では渡辺隆夫第五句集『魚命魚辞』、小池正博第一句集『水牛の余波』がともに邑書林から発行された。句集発行と連動して、7月には句集の批評会が開催され、句集の読みが深められた。批評会は俳句・短歌では珍しいことではないが、川柳では出版会というと儀礼的な祝賀会であって、きびしい読みの視線にさらされることはあまりない。今後、句集の発行と批評会の連動が望まれる。
亀鳴くと鳴かぬ亀来て取り囲む 渡辺隆夫
田口麦彦の『アート川柳への誘い』(飯塚書店)は前著『フォト川柳への誘い』をさらに発展させたもので、川柳とアート(絵画・写真・切り絵・書)とコラムのコラボレーションとして一つの方向性を打ち出している。その際、写真やアートに頼るのではなく、川柳作品自体が自立していなければならないのは言うまでもない。
手を見せてごらんあなたの透明度 田口麦彦
イベント・大会関係では、「バックストロークおかやま大会」、「玉野市民川柳大会」「全日本川柳大会」「バックストロークin名古屋」「国民文化祭・京都」などが開催された。「バックストロークin名古屋」では「川柳が文芸になるとき」というテーマでシンポジウムが開催され、歌人の荻原裕幸を迎えて活発な議論が展開された。
川柳誌「バックストローク」は11月に36号を発行して終刊したが、同人・会員のネットワークの中から新たな展開が生まれることが期待される。
今年も川柳人の訃報が続いた。物故されたのは、中田たつお氏、岩井三窓氏、大友逸星氏、添田星人氏、岸下吉秋氏などである。
夏バテの胃をやわらげる嵯峨豆腐 中田たつお
飲みながら話そうつまり恋なんだ 岩井三窓
泡立草のまっただ中の大丈夫 大友逸星
かぎ裂きのままの八月いまも着る 添田星人
魚いずれ木に登る日を憂うべし 岸下吉秋
今年活躍が目立った川柳人のひとりが清水かおりである。
昨年の『超新撰21』に参加した清水は、「豈」52号にも「新鋭招待作家」として作品を発表している。また、インターネット「詩客」の「戦後俳句を読む」のコーナーではさまざまな角度から戦後川柳を紹介している。
夢削ぎの刑かな林檎剥くように 清水かおり
個々の川柳人が作品を書く営為が根底にあるのは当然だが、それを外部に発信することによって川柳はいっそう鍛えられる。内輪でしか通用しない作品と短詩型文学全体のフィールドで読まれていく作品とに峻別されていくのである。そういえば、ウチとソトについて若干の議論があったのも今年だった。
川柳はようやく他者と向き合い、他者によって傷つけられたり理解されたりする段階に入ってきたと言えるだろう。
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