2010年12月24日金曜日

『超新撰21』竟宴レポート

12月23日、東京・市ヶ谷の「アルカディア市ヶ谷」(私学会館)で「超新撰21竟宴」が開催された。当日の様子は今後あちこちで報告されることだろうが、今回は川柳側から見たレポートを書いてみたい。
参加者は約190人。『新撰21』『超新撰21』に入集の俳人や小論執筆者のほか、俳人・歌人・川柳人などジャンルを越えて短詩型文学に関心のある人々が集まった。テーマは「定型 親和と破壊」。
シンポジウムの第1部「『新撰21』『超新撰21』に見る俳句定型への信・不信」は筑紫磐井の司会で進行した。「一年ぶりのごぶさたでございます。昨年は私が若手をいじめたという風評が流布しましたので、今年はしぶしぶ司会をいたします」というのが司会者冒頭の弁である。
筑紫は「俳句の歴史は新人の歴史であった」という観点から、戦後65年間の俳句における新人の歴史を次の4つにまとめた。

①「戦後新人五〇人集」(「俳句」昭和31年4月号特集)
②「第四世代」新人(「俳句」昭和37年1月特集)
③牧羊社処女句集シリーズ新人
④『新撰21』『超新撰21』新人

『新撰21』『超新撰21』に対して「若い者を甘やかすな」という声もあるらしいが、筑紫は「新人は甘やかされて育つ」という反語的な発言によって「時代は新人を待望している」ことを強調した。

磐井発言を受けパネラーの高野ムツオは牧羊社処女句集シリーズに「精鋭句集シリーズ」と「処女句集シリーズ」の二種類があったことを指摘し、そのほかに「50句競作」が印象的だったことを体験的に語った。『新撰21』『超新撰21』はこれらとは性格を異にしていて、個々人の句集として見ることもできるし、世代的・集団的な俳句の概観としても見ることができる、ということである。高野が釘をさしたのは、『新撰21』『超新撰21』に入った人たちは「ひとつの俎板に乗ったのであって、作品の価値が認められたのではない。参加者は勘違いしない方がよい」ということであった。
続いて対馬康子・小川軽舟の発言があり、それぞれ体験的に自らの新人時代を語るものだった。小川は「プロデュースだけでは実りにならない。俳句甲子園などで層が厚くなっていたところにうまくプロデュースができたのではないか」と語った。
鴇田智哉は読者としての立場から、『新撰21』は想定内だったのに対して、『超新撰21』は幅が揺れている、読みきれないという印象を語った。
パネラーの発言が一巡したところで、『超新撰21』の特色に話題が移った。俳壇では「俳句」と「俳句に似たもの」論争があったが、『超新撰21』は『新撰21』より枠組みが拡がっている。
鴇田は「言葉の世界は2階にある」という比喩的な語り方をした。「言葉の世界は2階にあり、その上に3階がある(たとえば「歳時記」による世界)。それは特殊な3階であり、それだけでやっていけるのかと思うときもある。一度2階に降りてみる。そうすれば違う3階があるのではないか」というのだ。これはなかなか興味深い捉え方である。
小川は『超新撰21』についてある種の読みにくさがあると言う。『新撰21』はバランスのとれた句集であるが、『超新撰21』は編集者の意図がギラギラしている。テーマ性があるのだ。小川は種田スガルや清水かおりの作品は「俳句」としてはおもしろく読めなかったという。このあたりから話が核心に入るのかと期待されたが、意外だったのは小川が御中虫はおもしろいと言ったこと。御中虫には「型の引力」が感じられるのだという。え、そうなのか?
最後の高野ムツオの発言は第1部のまとめのような位置を占める。高野は社会性俳句から言葉派(飯島晴子・安井浩司など)への変化によって俳句が難解になった。それがニューウエイブになって俳句を大衆のもとに戻したのではないか、という。それをとらえたのが牧羊社の処女句集シリーズだった。前衛的な俳句のあり方から伝統的な俳句のあり方までさまざまな中で若い世代が活発化した。『新撰21』『超新撰21』についても、従来、新人の発掘は結社単位であったのが、結社主宰者の評価とは別の観点があることが示され、刺激となった。高野は種田スガル・清水かおりの作品について新鮮ではないと言った。島津亮・加藤郁乎に比べると…というのだが、それは比べる方が酷だろう。小川・高野の2人とも評価基準は異なるものの種田・清水の両者に対して否定的だったことは興味深いことである。それでは『超新撰21』の俳句プロパーの作者の作品についてはどんな評価になるのかが問われるところである。俳句自体のおもしろさとは何なのだろう。
高野が最後に「言葉としてどうなのかということが、俳句であるとかないとかいう議論の前に必要」「ひとつの価値観にまとまらないことを前提にしながら議論していく」と述べたのは同感であり、示唆的な発言であったと受け止めている。

シンポジウム第2部「君は定型にプロポーズされたか」は関悦史の司会、パネラーは清水かおり・上田信治・柴田千晶・ドゥーグルJ.リンズィー・高山れおなで進行した。
冒頭で関は「アフォーダンス」ということを述べ、ものが人に働きかけることを指摘した。たとえば、バットがあれば人はそれを振る。ボールがあれば人はそれを投げる。バットを投げる、ボールを振るということは普通しない。同様に形式(俳句)が人に何をさせるか、というのである。
けれどもこの観点を関自身がすぐに引っ込め、上田信治提出資料の「新撰」「超新撰」世代150人150句を中心に話が進行した。
まず、上田は「何も言っていない俳句」について述べ、好きな俳人は素十・爽波であり、「何も言っていないことを取り払ったあとの、うっすらとした感情」について語った。
続いてドゥーグルは海洋生物学者としての体験を述べながら、「事実ではなく真実」「科学研究ではできない側面」について語った。日本語でも英語でも成り立つものはあるが、言語に依存する部分も大きいので、当面は日本語で俳句を書くという。オワンクラゲの話など興味深かった。
清水かおりは「川柳は広くて、統一的な評価基準はない」と述べつつ、読み捨てられる膨大な川柳作品の中で『超新撰21』の形で作品を読んでもらえることは幸せだと言った。『超新撰21』の座談会や小論で自作品と前衛俳句との類似が指摘されていたが、前衛俳句を特に読んだことはない。川柳におけるリアリティについて、事実だけをとらえた日常的・報告的作品が多いが、精神的なリアリティというものがあるとも述べた。
関が「セレクション柳人」シリーズを読んだ印象について、「川柳の作品は一人の作者の顔に結晶しないが、清水作品は作者の顔が見える」と語ったのに対して、清水は「自分は〈私のいる川柳〉を書いているつもりだが、現代川柳の流れとしては作者が見えないといけないという点から解放されている」と答えた。
関悦史には「バックストローク」33号(2011年1月下旬発行予定)に寄稿してもらっており、彼の川柳についての見方についてはそちらを読んでいただければ幸いである。
柴田千晶は「詩」「シナリオ」「俳句」の三つのジャンルにかかわってきたことを体験的に述べながら、「テーマは同じ、いろいろな方法で表現したい」「現代にこだわって書いていきたい」と述べた。柴田のいう「創作の根源にある生きがたさ」については、すべての表現者が思い当たることだろう。
最後に、高山れおなは「メタ俳句」について、「昔はそういう意識はあったが、今は苦しまぎれ」「好きなのは芭蕉と蕪村」「自作は本歌取りと地口で写生句は少ない」「俳句ではなくて発句」などと語った。
パネラーの話が一巡したあと、上田信治が選んだ150句選をめぐって話が進行したが、もう長くなるので省略させていただく。

さて、昨年の『新撰21』と今回の『新撰21』の宴に参加して感じたのは、昨年が俳句だけの閉鎖的な議論だったのに対して、今年はジャンル越境の視点が少しあったので聞いていて居心地がよかったということである。会場には「詩歌梁山泊」の森川雅美が来ていて、宴会二次会で話す機会があった。「詩歌梁山泊」のシンポジウムでは現代詩・俳句・短歌の3点セットだったが、何も川柳を排除したのではなくて川柳に対しても充分好意的であることが分かった。
他ジャンルとの交流が安易には達成できないことは経験的にもよくわかっている。いずれにせよ、しっかりした作品を書いていれば、どこかで人の目に留まるということだ。『超新撰21』に清水かおりが入集したのも、作品そのものが存在してこそのことである。何も肯定的評価とは限らず、これから厳しい批判の目にさらされるとしても、それは句集を出した他の作者にしても同じことだろう。
Aというジャンルにおいておもしろいと言われている作品がBという別のフィールドでは古くさい陳腐な表現にすぎないことがある。だからこそ短詩型の諸ジャンルに対して常に言葉のアンテナを出しておくことが必要なのである。


次週金曜日は大晦日ですので、「週刊川柳時評」は休みます。1月7日から再開する予定です。では、よいお年を。

2010年12月17日金曜日

『超新撰21』を読む

かねて予告されていた『超新撰21』(邑書林)がこのほど発行された。昨年話題になった『新撰21』に続いて、「セレクション俳人」に二冊目の「プラス」が付くことになった。短詩型文学に関心をもつ者にとっては、年末を飾る話題の一冊と言うべきであろう。

巻頭、種田スガルの自由律俳句は、玉石混淆で平凡な句もあるが、とてもおもしろかった。「俳号の種田は高祖母の兄であった種田山頭火から」とあるように、山頭火の血縁にあたる人らしい。けれども、DNAだけで作品が書けるわけもないから、サムシング・エルスの持ち主なのだろう。高山れおなの小論によると、たまたま手にした『新撰21』の北大路翼の作品に触発されて句作をしてみたというのだから、ユニークである。他の作者が顔写真を公開しているのに、「薔薇」の花を掲載しているところ、かつて「豈」で上野遊馬が自分の写真の代わりに「馬」の写真を掲載したときと同じような爽快さを感じる。「薔薇」を持っている指が写っているが、この指だけが種田スガルのものなのだろう。
アンチ定型の自由律は「一人一律」「一句一律」を標榜する。定型に乗せてうたうのではなく、句の内容によってリズムが変わるのである。

母の慈愛降り積もりて 発狂する多摩川べり
開け放つ繊細な谷間に 無毒の侵入りこむところ
伊達メガネ越し 異空間に脳内恋愛す

これらの句の一字空けは川柳人にとっても馴染みのあるものだ。俳句の切れの変わりに、一字空けによって飛躍する。
一方で、発想の平凡を感じさせるのは次のような句である。

終わり方知らぬ堕落の途
無人駅にころがるつぶれたランドセルの記憶
格子路地艶めく京の春の宵
親孝行にしばしの逃避旅行

普遍性によりかかった常識的な発想であったり、安易に定型に近づいてしまったりする。「無人駅のランドセル」という陳腐な風景を私たちはこれまでどれほど見せられてきたことだろう。この人のベースにあるのはエレクトラ・コンプレックスではないのかという気がしないでもない。
けれども、そのような失敗作にも関わらず、この作者には「可能性としての自由律」を感じさせる何かがある。
山村祐はかつて「一呼吸の詩」ということを唱えた。一呼吸の長さによって、句の長さが決定される。呼吸の長さは作者の個性である。ここから短律派と長律派が分かれる。種田スガルの一呼吸はそれほど長くはない。適度の長さといえば良いだろうか。

結合の相性で決まるペンギンの飛距離
猶予を何に賭しはてる

後者は100句の中でただひとつの短律作品である。

事前に発表されていた21人の作者と小論の論者のラインアップを眺めながら、最も期待していたのは山田耕司と四ツ谷龍の組合せである。作品、小論ともに期待を裏切らないものであった。
山田耕司は桐生高校の俳句クラブで今泉康弘とともに俳句を始めた。現在は「円錐」の同人である。

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ
木と生まれ俎板となる地獄かな
狼よ誰より借りし傘だらう
一生にまぶた一枚玉椿
春の夜に釘たつぷりとこぼしけり

100句の中に「長岡裕一郎の急逝の報に接し李白の詩一編により 十三句」が含まれている。

浮雲に定型は無しただ往けり
行く春やゆくならちやんと手を渾れよ

連想するのは「豈」47号に今泉康弘が寄稿した「ミモザの天蓋―長岡裕一郎評伝―」である。長岡は2008年、アルコール依存症の果に肝硬変で亡くなった。句集『花文字館』が残されたが、長岡は「豈」のほかに「円錐」にも句を発表していた。長岡裕一郎の追悼文の中で今泉の文章を越えるものを寡聞にして知らない。
さて、山田耕司についての小論を四ッ谷龍は次のように書き始めている。

「精神の自由を保つということは、人にとりもっとも大切な価値の一つである。とくに創作者にとっては、世間の束縛を受けず自由を維持するという意思は重要なものである」

「常に本質を語れ」というのが批評の要諦であるにもかかわらず、本質論から語り始める批評家はいまどき多くはない。この一節こそ『超新撰21』の白眉であろう。

21人のトリを飾るのが川柳人・清水かおりである。

眦の深き奴隷に一礼す
相似形だから荒縄で縛るよ
想念の檻 かたちとして桔梗
エリジウム踵を削る音がする
手探りでビスマスを塗る青い部屋
落ちたのは海 一瞥の林檎よ

小論は堺谷真人が書いている。堺谷は「収斂進化」について述べている。

「異種の生物が同様の生態学的環境に置かれたとき、身体的特徴が似てくることがある。モグラとケラの前足、魚類とイルカの背鰭などがその好例だ。起源の異なる器官が、互いによく似た機能と構造を持つに至る」

このような観点から、堺谷は清水かおりの作品と昭和30年代の前衛俳句との類似を言挙げする。
他ジャンルと接するときの態度は難しいものである。「川柳」という「他者」を理解しようとするときに、俳人は「俳句」ジャンルにおける類似したものを通路として理解しようとする。それが「前衛俳句」である。
たとえば「俳句」ジャンルにおいて「詩」を表現しようとするときに、「俳句」は「俳句」なのだから、「詩」を表現したければ「詩」ジャンルに行けばよい、という立場がある。以前、堺谷の話を聞いた時に、彼は「詩の場で詩を表現するのではなくて、俳句の場で詩を表現したいのであれば、それも認められるべきだ」というようなことを言っていた。賢明な堺谷は「川柳」に対しても同様のスタンスをとっている。
俳句・短歌を中心とする表現史の中に川柳が加わっていく場合、従来のコンセプトの中で何がしかの位置づけをされることは避けられないかもしれない。「川柳」は「無季俳句」の一種だとか、「俳句ニューウェイヴ」の亜流だとかいう言説を私たちはどれほど聞かされてきたことだろう。
「収斂進化」という捉え方は、従来の柳俳交流史のなかで一歩前進と言えるかもしれない。清水かおりの作品は前衛俳句とは何の関係もないが、彼女の作品が俳句のセレクションの中で遜色なく言葉の力を発揮しているとすれば、それは新たな対話がはじまる契機となるに違いない。

2010年12月10日金曜日

川柳・今年の10大ニュース

早いもので今年もあと3週間になりました。2010年を振り返り、10大ニュースを選んでみました。もとより川柳の世界全体を見渡したものではなく、極私的なものであることをお断りしておきます。

①「Leaf」創刊 1月
新年早々に川柳同人誌「Leaf」が創刊された。同人は吉澤久良・清水かおり・畑美樹・兵頭全郎。4人とも「バックストローク」同人であるが、畑美樹は「バックストローク」編集人、清水かおりは「川柳木馬」の編集人、兵頭全郎は「ふらすこてん」編集人でもある。吉澤久良は「Leaf」の発行人となった。それぞれ作品発表の場を持ちながら、個としての4人が新たな川柳活動の拠点として新誌を立ち上げたことに注目される。その創刊理念は「互評」であるが、この点については、当欄でも「Leafはクローズドな柳誌なのか」で触れたことがある。また、6月の「1+1の会」において吉澤と兵頭による創刊の経緯についての報告があったが、「ナニ、互評をやりたいために創刊したのか」と口の悪い参加者たちから集中砲火を浴びせられることになった。批判も無視も糧にして、やがて川柳の次世代を担うであろう彼らにはどんどん前へ進んでいってほしい。年2回発行で、現在第2号まで出ている。次の3号が真価を問われるところとなるだろう。

②「週刊俳句」まるごと川柳号 3月7日
「週間俳句」3月7日号は「バックストローク」プロデュースによる、まるごと川柳号。石部明・石田柊馬・渡辺隆夫・樋口由紀子・小池正博・広瀬ちえみの作品と川柳小説「小島六厘坊物語」(小池)、「川柳に関する20のアフォリズム」(樋口)、「おしゃべりな風―絵本と川柳」(山田ゆみ葉)、「フィールドに立つ裸形のことば」(湊圭史)から構成。作品と湊の評論は「バックストローク」30号に転載される。まるごと川柳号を機に、「MANO」掲示板のカウンターが一気にまわるかと期待されたが、そういうこともなかった。

③「グループ明暗」ラスト句会 3月
3月21日に「グループ明暗」のラスト句会が豊中市立市民会館ホールで開催された。参加者約80名。「明暗」は定金冬二の「一枚の会」を継承する形で平成9年に発足した。前田芙巳代は岡橋宣介の「せんば」を経て冬二とともに川柳活動を続けた。「せんば」→「一枚の会」→「グループ明暗」という現代川柳のひとつの流れは、ここでひとまず途絶えたことになる。
当日の作品は「明暗」39号(2010年5月発行)に掲載されている。

④「第四回バックストロークおかやま大会」 4月
2007年にはじまったこの大会も今年で四回目を迎えた。参加者約90名。
第1部「石部明を三枚おろし」では、発行人・石部明が自らの川柳歴と川柳の現状について、縦横に語った。
第2部・川柳大会の選者はくんじろう・松永千秋・前田一石・井上せい子・平賀胤壽、共選は佐藤文香・石田柊馬。佐藤文香の「その句がこの社会にどれだけ貢献しないか」という選句基準は大いに反響を呼んだ。
大会の記録は「バックストローク」31号に掲載。

⑤「ハンセン病文学全集」第9巻「俳句・川柳」 7月
「ハンセン病文学全集」全10巻(皓星社)が7月に刊行された「俳句・川柳」編で完結した。この全集は1980年代半ばに企画され、鶴見俊輔・大岡信・加賀乙彦・大谷藤郎の四人が責任編集を務めた。2002年から刊行が始まり、「俳句・川柳」編では田口麦彦が川柳の選と解説を担当した。収録された約4000句は1940年から2003年までに発表された作品群。

麻痺の手に計れぬ重さ小鳥の死
故郷の米洗った水も花へやり
里帰りわたしの村を通るだけ
生きよ生きよ玉菜に肉を包みこむ
本名捨てて人間回復とは何か

⑥第2回木馬川柳大会 9月
9月19日、高知パレスホテルにて開催。
第1回大会が2004年だから6年ぶりの開催である。
事前投句の合評が行われ、林嗣夫(詩誌「兆」主宰)・石田柊馬・吉澤久良の三人によって選と句評が述べられた。選句基準が異なり、選ばれた句も三人それぞれで、違いが際立ったところが興味深かった。
句会に移り、選者は松永千秋・前田ひろえ・原田否可立・小笠原望・古谷恭一。
高知は独自の文学空間であり、その中心に清水かおりがいる。「Leaf」の刊行、木馬大会の成功、『超新撰21』への参加と、この人の活躍から目が離せない。

⑦詩のボクシング全国大会でくんじろうが優勝 10月
7月17日に「詩のボクシング」三重大会で優勝したくんじろうが、10月16日の全国大会でも見事チャンピオンの栄冠に輝いた。詩の朗読という分野でくんじろうが川柳の存在感をアピールした意味は大きい。
なかはられいこはかつて「朗読」というフィールドに打って出ようとしたが、その試みは途中で消えてしまった。くんじろうは全く違った角度から朗読の世界に登場した。「違った角度」というのは語弊があるかもしれない。くんじろうは「川柳」自体の素顔のままで「朗読」フィールドに乱入したのである。彼の朗読は五七五の定型を基本とし、共感と普遍性に基づくこれまでの川柳の書き方を踏襲している。現代詩にあわせて自分を捨てるのではなく、そのまま自己の川柳を持ち込んだのである。これはある意味でコロンブスの卵であった。
今後くんじろうはどのような方向に進んでいくだろうか。
10月から彼は「北田辺句会」を始めて、川柳の普及に努めている。来年も独自の存在感を発揮することだろう。

⑧s/c ゼロ年代50句選
9月に湊圭史が立ち上げた「短詩型サイト」s/cは川柳を中心に短詩型文学の作品・評論・鑑賞を精力的に掲載している。特に〈川柳誌「バックストローク」50句選&鑑賞〉は今年の彼の重要な仕事となった。
この50句選には経緯があって、発端は「現代詩手帖」6月号に「ゼロ年代の短歌100選」「ゼロ年代の俳句100選」が掲載されたことによる。また、高山れおなは「豈Weekly」で独自の100選を発表し、それには評まで付いていた。これらの動きを横目に眺めながら、それでは川柳でも「ゼロ年代の100選」はできないものか、という問題意識が生まれて、湊が自分でやってみようとしたのである。ただ、句集があまり刊行されず、作品が流通しにくい川柳界では全体を展望することが困難なので、「バックストローク」一誌に限定して、作品数も50にしぼったということだろう。
これがこの川柳人を代表する句だろうか?と首をかしげる部分も湊の選にはあるが、彼の50句選を契機として、ゼロ年代の川柳を振り返ってみる作業は必要だし有益でもあるだろう。

⑨『麻生路郎読本』
川柳六大家のひとり麻生路郎についての資料を網羅した一冊。柳誌「川柳塔」は「川柳雑誌」の時代から数えて1000号となり、それを記念して発行された。これで一昨年の『番傘川柳百年史』とあわせて、関西川柳界の両巨頭である路郎・水府、および「川柳塔」「番傘」の歴史が展望できるようになった。
路郎・水府ともにそれぞれの個人史があり、特に若き日の川柳活動にはさまざまな可能性がある。そういう紆余曲折を経て、彼らは「路郎」あるいは「水府」になったのであり、あとに続く者は彼らの権威を鵜呑みにしてはいけないだろう。後進は彼らを乗り越えて進むべきであるし、後進を最も痛烈に批判するものは先人がそれぞれの時点で残した言動であるはずだ。もし「伝統」に意味があるとすればそういう作業を通じてであって、そのための貴重な資料が出揃ったことになる。

⑩『超新撰21』発行 12月
昨年話題になった『新撰21』の続編。『新撰21』がunder40だったのに対して、『超新撰21』は年齢制限がunder50だという。川柳人では清水かおりが入集している。本書の発行がやや遅れ、本日の時点でまだ手元に届いていないので、来週の時評で改めて取り上げることにしたい。

2010年12月3日金曜日

川柳における自由律

「俳句界」12月号の特集「こんなに面白い!現代の自由律俳句」は、「座談会」「自由律俳句 句セレクション」「論考(永田龍太郎)」「私の好きな自由律俳句」から構成されている。自由律俳句といえば放哉・山頭火や住宅顕信がよく話題になるが、現代の自由律作品が取り上げられるのは珍しい。
「句セレクション」「私の好きな自由律俳句」のコーナーから何句か引用する。

生返事の口紅つけている         岡田幸生
どの蟻もつかれていない隊商のラクダだ  塩野谷西呂
今宵さくらと残業いたします       湯原幸三
あじさいといっしょに萎びる       湯原幸三
裸 星降る               中原紫重
虚構ノ美シサ触レレバ風ニナル      近木圭之介

また同誌ではレポートのコーナーで藤田踏青が「でんでん虫の会」について書いている。今年9月19日の句会についての報告である。

少し死に少し生まれて透明都市      藤田踏青
エコー飛び交う海底臓器販売書      吉田久美子
それでも素通り出来ぬポルノ館      前田芙巳代
アリエッティの腸内旅行 本日曇天    吉田健治

これらの句はブラジルの現代美術家エルネスト・ネトの「身体・宇宙船・精神」のイメージ吟であるという。

さて、川柳においても「自由律川柳」の長い歴史がある。
川柳における自由律について展望するのに便利なのは、『自由律川柳合同句集Ⅰ』(昭和16年1月発行、平成5年3月復刻版)の巻末に掲載されている鈴木小寒郎の「自由律川柳小史」である。というよりこの文章以外にはほとんど資料らしいものがないのだ。小寒郎の文章をもとに、自由律川柳の歴史を素描してみよう。
小寒郎が自由律川柳前史として取り上げているものに、井上剣花坊が「江戸時代之川柳」で述べた「破格より向上へ」の理念がある。

年々歳々人同じからず債鬼       井上剣花坊
母のきんちやくから黒い銀貨が出た

剣花坊調と呼ばれる「怒号叱咤的風格」は柳樽寺系破調・自由律川柳に流れている性格であるという。
大正時代に自由律川柳として突出した作品を書いたのが、川上日車である。

信州小諸ただそれだけでよし    川上日車
焔をつかんでは捨てる
鋏できつてしまつた

大正7年1月、岡山で「街燈」が創刊され、河野鉄羅漢・中原我楽太・亀山寶年坊によって自由律川柳が推進された。小寒郎はこの「街燈」を自由律川柳の意識的出発とみなしている。しかし、「街燈」は1年後に休刊し自由律川柳は「分散時代」に入ることになる。

昭和6年、観田鶴太郎は「ふあうすと」誌上に「寺から帰る母へ月夜となつた」「毛糸買ひに出る妻へ時雨れる」などの自由律作品を発表した。「ふあうすと」内部の自由律派の誕生である。やがて鶴太郎は「ふあうすと」を脱退し、昭和10年3月、神戸で自由律川柳の専門誌「視野」を創刊する。
大阪では昭和8年に「手」が、京都では昭和10年に「川柳ビル」が創刊されている。
小寒郎はこの時期を「分散時代」から「集中期の段階」へ入るものと述べている。

貰って来た大根の寒さである      小寒郎
人の噂にならうとする林檎さくりと噛む 鶴太郎
犬は犬の尾に甘んじてゐる       豊次

小寒郎の記述は昭和10年代で終わっている。
戦後の自由律川柳としては、墨作二郎の長律作品が注目されるが、定型とは異なる「一人一律」「一句一律」の可能性は「短詩」誌における短律派と長律派との分裂などを経て、次第に風化していった。
現在、川柳の世界で自由律が論じられる機会は少ないが、実作者としてどのような立場をとるにせよ、自由律川柳の歴史そのものに対して無関心であってはならないだろう。

土ほれば 土 土ほれば土と水     日車