昨年『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会)の編集にたずさわって、現代連句の歴史を改めて振り返ってみる機会をえた。連句に対する関心は潜在的に広がっている。小津夜景は『現代連句集Ⅳ』にエッセイを寄稿していて、連句実作の経験をふまえてこんなふうに書いている。
「連句を始めて以降、俳句を作ったりエッセイを書いたりしていると、そのたびに『ううむ、連句に教わった所作や技術ってこんなにも応用が効くんだ!』としみじみ思うし、わけても発想の飛ばし方を学び、また実践するといった訓練によって得たものは本当に多い」(「連句の愉しみ」)
また古楽器演奏者の須藤岳史と小津の往復書簡『なしのたわむれ』(素粒社)の「おわりに」では「この往復書簡は『対話』ではなく、連句の付けと転じによる『響き合い』の作法に則ったほうがよさそうだ」と気づいたことに触れられている。対話というものは凡庸な芝居に走りやすく、正反合のスペクタクルになりがちだけれど、そもそも対話というものはすれ違いが美しいもの、嚙み合わない瞬間にこそきらきらしたせつなさがこぼれると彼女は言っている。これって連句の呼吸そのものではないだろうか。
『現代連句集Ⅳ』には堀田季何も寄稿している。堀田は「楽園俳句会」を主宰していて、連句の心得がある。小澤實の「澤」の系統の俳人には連句に関心のある方が多い。「楽園」の連句会には、日比谷虚俊などの若手連句人もいる。
ほしおさなえは『連句年鑑』令和五年版にエッセイ「言葉の園で出会ったもの」を寄稿している。彼女は『言葉の森のお菓子番』(大和書房)の作者で、小説には連句の場面が描かれている。連句との関わりについて、カルチャーセンターの連句講座(講師は村野夏生)を受講したことを述べたあと、エッセイではこんなふうに書かれている。
「その後カルチャーセンターの講座は閉じてしまったのですが、村野先生の連句会に参加するようになり、連句の世界に夢中になりました。会のメンバーはわたしよりずっと年上の方ばかりだったのですが、皆さん信じられないくらい教養があるのです。それも皆さんそれぞれさまざまな職業で活躍されている方なので、大学人のような浮世離れした教養ではなく、清濁合わせた生きた教養と言いますか、パワフルで癖の強い方が多くて、気圧されることばかりだったのですが、その席で耳にした話はいまもずっと心の中に残っています」
1977年、わだとしお(村野夏生)は、月刊俳諧誌「杏花村」創刊。今年「杏花村」バックナンバーのコピーを入手したが、山地春眠子『現代連句入門』(1978年杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)に収録されている連句作品は主として「杏花村」第一巻・第二巻に掲載されたものである。1985年、「杏花村」は100号で終刊。東京義仲寺連句会は「風信子の会」(村野夏生・別所真紀子)、「馬山人の会」(高藤馬山人・川野蓼艸)、「水分会」(真鍋天魚)などに。「風信子」はのちに村野夏生の「あゝの会」と別所真紀子の「解纜」に分かれる。ほしおさなえが参加した連句会は「あゝの会」である。
「杏花村」1978年5月号は〈高橋玄一郎追悼〉号。同号には東明雅の追悼文も掲載されている。《「―先生、黒色火薬はどうしましたね。爆発しますかね?」、これは高橋玄一郎さんが、時折私をからかった言葉である。黒色火薬とは新しい俳諧〈連句〉とその理論のことであった。私どもはこれを作りあげ、行きづまっている現代文学を一挙に粉砕しようと考えて来たのである》
1981年、連句懇話会(現在の日本連句協会)が結成される。懇話会ができたことについて、『連句新聞』増刊号vol.1のインタビューで山地春眠子は次のように語っている。
「なんとなくじゃない?誰がなにをしたということではない。もちろん、明雅さん、牛耳さんが連句のグループ、信大連句会とか義仲寺連句会とかを作ってくれたからなんだけれど、それはそれぞれ、日本のことを考えて作ったわけではないので、たまたまそういう流れがあった。誰が旗振って、やろうとしたわけでもないように思う。気がついてみたら、あっちでもこっちでも仲間ができていた」
とてもおもしろい発言である。あちらこちらにグループができているというのは連句にとって理想的な状況だ。連句は各地の小グループを基本とするのであって、大人数を組織して集まるというようなものではない。連句というものは上からのトップダウンではなくて、下からのボトムアップが本来の姿なのだろう。
今年7月に発行された『江古田文学』113号の特集は「連句入門」だった。「はじめに」で浅沼璞は『江古田文学』で連句の特集を組むのは1991年1月の特集「連句の現在」以来であると述べ、「この二十年、私にとっての連句とは、学生を介して如何に『連句入門』を再構築するか、その試行錯誤にほかならなかった」と書いている。そのことを反映して本誌には学生による連句実作とそのレポートが満載となっている。
以下、主な連句大会の入選作品を紹介しておこう。
4月に松山で開催された「えひめ俵口全国連句大会」、愛媛県知事賞の歌仙「冷や飯」の巻から。
埋もれし遺跡のミイラ黄砂降る 裕子
古代舞曲の音色嫋やか 光明
本草学野草を摘んで乾かして 満璃
県民挙げて目差す長命 裕子
7月16日に郡上八幡で「第36回連句フェスタ宗祇水」が開催された。郡上踊りにちなんで「かわさきの座」「春駒の座」「三百の座」の三座に分かれて歌仙を巻いた。歌仙「はるかに天守」の巻から。
ナビ席にコロンの香りとどまりて 憲治
録画ボタンを押せば修羅場に 絶学
死神が募集している闇バイト 憲治
売れっ子作家正月多忙 寿典
伊賀上野の第77回芭蕉祭、連句の部の特選、半歌仙「這ひ出よ」の巻から。発句は芭蕉の句で、脇起しになる。
這ひ出よ飼屋が下の蟾の声 芭蕉
土間の隅には行水の桶 谷澤 節
眠たげな頑是無き児を背に負ふて 松本奈里子
散歩がてらに九九を数える もりともこ
10月29日には加賀市で国民文化祭石川「連句の祭典」が開催。文部科学大臣賞、半歌仙「遡りては」の巻から。
遡りては流されて春の鴨 名本敦子
やまあららぎの尖る銀の眼 久 翠
暮れ遅し陶土る背に月射して 杉山豚望
コンビニコロッケ一個百円 大西素之
あと各地の連句会の作品を紹介しておく。
徳島県連句協会発行の「ロータス」20号。半歌仙、獅子、二十韻、短歌行、ソネット、オン座六句、千住など多彩な形式の作品が収録されている。オン座六句「いぼむしり」より。
うかうかと生きてゐるなりいぼむしり 早見敏子
さうか昨日は後の名月 洛中落胡
もてなしの膳は当初の銘酒にて 迷鳥子
「白老連句を楽しむ会」は2019年12月に発足。会誌「ななかまど」がこの12月に創刊されたのでご紹介。ちなみに白老町では2020年にウポポイ(国立アイヌ民族博物館)が開館している。
神謡の伝はる里や冬銀河 中嶋祐子
手話講座終へはめる手袋 田村キク
ケーキ好き少女は夢のパティシエに 祐子
(半歌仙「神謡の里」)
11月に「解纜」37号が届いたが、この号で「解纜」は終刊するという。これも時の流れであり、連衆はそれぞれの場で出発することになるのだろう。歌仙「海くれて」から。
古民家を買へば妖怪付きでした 真紀
監視カメラは巧く隠せよ 緋紗
京なまりねっとりとして花篝 京
次回は1月5日の予定です。よいお年を。
2023年12月22日金曜日
2023年12月15日金曜日
2023年回顧(川柳篇)
「川柳スパイラル」19号の特集は「石田柊馬の軌跡」である。追悼号とは銘うっていないが、同人・会員の作品に柊馬作品を踏まえた句が多く掲載されている。
夕暮れのポテトサラダという合図 畑美樹
コン・ティキもジンタも青い原っぱに 一戸涼子
にっこりと断言「妖精は酢豚に似ている」 悠とし子
もなかわっと泣いてから永久機関 兵頭全郎
むかつくぜネクタイ置いて逝くなんて 石川聡
また湊圭伍、畑美樹、清水かおり、飯島章友の追悼文が掲載されている。畑と清水はともに「バックストローク」35号に掲載された「だし巻柊馬」の企画で柊馬の自宅を訪れたときのことを書いている。同誌から石田柊馬の川柳歴を再掲しておくと次のようになる。
本名・石田宏。京都市生まれ。十代の後半で川柳と遭遇。「平安川柳社」入会。「川柳ジャーナル」1973年10月~1975年2月(終刊号)編集。「川柳サーカス」「コン・ティキ」を経て2000年「バックストローク」同人。以後も「川柳カード」(2012年)、「川柳スパイラル」(2017年)の創刊同人として現代川柳の第一線で活動をつづけた。句集にセレクション柳人2『石田柊馬集』(邑書林、2005年6月) 句集『ポテトサラダ』(コン・ティキ叢書、2002年8月)。共著『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)『セレクション柳論』(邑書林)『はじめまして現代川柳』(書肆侃々房)。
柊馬は論・作の両面において現代川柳をリードする存在だったが、彼の仕事の全貌をまとまったかたちで知ることはむずかしい。句集については『ポテトサラダ』と『セレクション柳人・石田柊馬集』があるが、それ以降の句集はまとめられていない。評論については膨大な量にのぼると思われるが、川柳誌やネットの掲示板にそのつど発表されたもので、資料収集からはじめる必要がある。柊馬の仕事については今後、折に触れて語り継がれることが望まれる。
現代川柳のイベントとしては11月19日に東京・王子で開催された「川柳を見つけて」が注目される。暮田真名『ふりょの星』、ササキリユウイチ『馬場にオムライス』の合同批評会であるが、パネラーに穂村弘、平岡直子、川合大祐、郡司和斗を迎えて、それぞれの視点から語られた。
当日のレポートについてはすでに「ダ・ヴィンチWEB」に掲載されている(ライター・高松霞)。また来年3月に発行される「川柳スパイラル」20号にもイベントの記録が掲載されることになっている。 パネラーの平岡は暮田の句の言葉の見せ方について、「何の根拠もない組み合わせではなく、言葉と言葉との間に社会的文脈とは異なるつながりがある」「自分の都合より言葉の都合をきくことが優先されている」というようなことを語った。今年見聞きした川柳についての言説の中で最も印象に残る発言であった。
ネットを中心とした川柳の動きを振り返っておこう。
「川柳スパイラル」18号では「ネット川柳の歩き方」(西脇祥貴)を特集。Twitter(現在はX)、オンライン句会、オンライン講座、スペース、ツイキャス、川柳ユニットなどに渡って、ネット川柳を展望している。
まつりぺきんの編集発行による『川柳EXPO』は投稿連作川柳アンソロジーで、投句者51名(ぺきんの作品もプラスされて52名)、各20句だから1040句の川柳作品が集まった。第2集の募集もすでにはじまっている。
成瀬悠はネットプリント「現代川柳アンソロ」を第2号まで発行している。ひとり2句を募集してネプリで配信するという方法で、第1号63名、第2号57名の参加があった。
「川柳を見つけて」のイベントと前後して、川柳句集が次々に発行されている。森砂季の『プニヨンマ』、成瀬悠『序章あるいは序説もしくは序論』、南雲ゆゆ『姉の胚』、小野寺里穂『いきしにのまつきょうかいで』など。またササキリユウイチの第二句集『飽くなき予報』もすでに発行されている。時代のスピードが速くなってきた。
現代川柳への関心の高まりは歌人で川柳の実作をする人が増えてきたことと、ネット川柳の隆盛による。作者もヴァラエティに富んでいて、現代詩や演劇などさまざまな分野で活動している表現者が川柳に入ってきている。歌人の場合、従来は短歌の「私」と「私性川柳」の共通性が言われていたが、現在はむしろ短歌の私性が苦手な人が川柳に可能性を求めて実作に手を染めているケースが多いようだ。
「文学界」10月号の巻頭に暮田真名の「夢み」10句が掲載された。女鹿成二の写真とのコラボ。そのうちの5句をご紹介。
言いなりになって瑪瑙のアップリケ 暮田真名
本能で改編期だとわかるのよ
伝記的事実と寝てはだめだった
顔のまわりにハートがないの
筆算できみのこころが早わかり
今年も暮田真名の活躍がめざましかった。暮田の『宇宙人のためのせんりゅう入門』(左右社)が近日中に販売開始になる。
さて、既成の川柳人の側にはどのような動きがあっただろうか。
「アンソロジスト」vol.6(田畑書店)の特集《川柳アンソロジー みずうみ》は監修・永山裕美、川柳作品各20句でなかはられいこ・芳賀博子・八上桐子・北村幸子・佐藤みさ子が参加。樋口由紀子の解説が付いている。
文脈のどこを切っても水が出る なかはられいこ
栞はらりと歳月のいずこより 芳賀博子
藤房のふるえる自慰に耽る舟 八上桐子
きれいごとセット郵便局で買う 北村幸子
でんわするちがう水路にいるひとへ 佐藤みさ子(以下5句)
行列に飽きた自分にも飽きた
B29をうつしたはずの水溜り
火口湖に生きた魚はおりません
空うつす湖面のようなこどもの目
あと、青砥和子『雲に乗る』(新葉館)も紹介しておきたい。
微笑みをまた間違えて然るべく 青砥和子
霙という半端なものが降ってきた
陸に杭打つから壊れていくんだよ
銃口の先に豆煮る人がいる
折鶴は重なるように睦み合う
ベテランの川柳人にはこれまでの経験と技術の蓄積があるので、句集のかたちで世に示すことが求められていると思う。
夕暮れのポテトサラダという合図 畑美樹
コン・ティキもジンタも青い原っぱに 一戸涼子
にっこりと断言「妖精は酢豚に似ている」 悠とし子
もなかわっと泣いてから永久機関 兵頭全郎
むかつくぜネクタイ置いて逝くなんて 石川聡
また湊圭伍、畑美樹、清水かおり、飯島章友の追悼文が掲載されている。畑と清水はともに「バックストローク」35号に掲載された「だし巻柊馬」の企画で柊馬の自宅を訪れたときのことを書いている。同誌から石田柊馬の川柳歴を再掲しておくと次のようになる。
本名・石田宏。京都市生まれ。十代の後半で川柳と遭遇。「平安川柳社」入会。「川柳ジャーナル」1973年10月~1975年2月(終刊号)編集。「川柳サーカス」「コン・ティキ」を経て2000年「バックストローク」同人。以後も「川柳カード」(2012年)、「川柳スパイラル」(2017年)の創刊同人として現代川柳の第一線で活動をつづけた。句集にセレクション柳人2『石田柊馬集』(邑書林、2005年6月) 句集『ポテトサラダ』(コン・ティキ叢書、2002年8月)。共著『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)『セレクション柳論』(邑書林)『はじめまして現代川柳』(書肆侃々房)。
柊馬は論・作の両面において現代川柳をリードする存在だったが、彼の仕事の全貌をまとまったかたちで知ることはむずかしい。句集については『ポテトサラダ』と『セレクション柳人・石田柊馬集』があるが、それ以降の句集はまとめられていない。評論については膨大な量にのぼると思われるが、川柳誌やネットの掲示板にそのつど発表されたもので、資料収集からはじめる必要がある。柊馬の仕事については今後、折に触れて語り継がれることが望まれる。
現代川柳のイベントとしては11月19日に東京・王子で開催された「川柳を見つけて」が注目される。暮田真名『ふりょの星』、ササキリユウイチ『馬場にオムライス』の合同批評会であるが、パネラーに穂村弘、平岡直子、川合大祐、郡司和斗を迎えて、それぞれの視点から語られた。
当日のレポートについてはすでに「ダ・ヴィンチWEB」に掲載されている(ライター・高松霞)。また来年3月に発行される「川柳スパイラル」20号にもイベントの記録が掲載されることになっている。 パネラーの平岡は暮田の句の言葉の見せ方について、「何の根拠もない組み合わせではなく、言葉と言葉との間に社会的文脈とは異なるつながりがある」「自分の都合より言葉の都合をきくことが優先されている」というようなことを語った。今年見聞きした川柳についての言説の中で最も印象に残る発言であった。
ネットを中心とした川柳の動きを振り返っておこう。
「川柳スパイラル」18号では「ネット川柳の歩き方」(西脇祥貴)を特集。Twitter(現在はX)、オンライン句会、オンライン講座、スペース、ツイキャス、川柳ユニットなどに渡って、ネット川柳を展望している。
まつりぺきんの編集発行による『川柳EXPO』は投稿連作川柳アンソロジーで、投句者51名(ぺきんの作品もプラスされて52名)、各20句だから1040句の川柳作品が集まった。第2集の募集もすでにはじまっている。
成瀬悠はネットプリント「現代川柳アンソロ」を第2号まで発行している。ひとり2句を募集してネプリで配信するという方法で、第1号63名、第2号57名の参加があった。
「川柳を見つけて」のイベントと前後して、川柳句集が次々に発行されている。森砂季の『プニヨンマ』、成瀬悠『序章あるいは序説もしくは序論』、南雲ゆゆ『姉の胚』、小野寺里穂『いきしにのまつきょうかいで』など。またササキリユウイチの第二句集『飽くなき予報』もすでに発行されている。時代のスピードが速くなってきた。
現代川柳への関心の高まりは歌人で川柳の実作をする人が増えてきたことと、ネット川柳の隆盛による。作者もヴァラエティに富んでいて、現代詩や演劇などさまざまな分野で活動している表現者が川柳に入ってきている。歌人の場合、従来は短歌の「私」と「私性川柳」の共通性が言われていたが、現在はむしろ短歌の私性が苦手な人が川柳に可能性を求めて実作に手を染めているケースが多いようだ。
「文学界」10月号の巻頭に暮田真名の「夢み」10句が掲載された。女鹿成二の写真とのコラボ。そのうちの5句をご紹介。
言いなりになって瑪瑙のアップリケ 暮田真名
本能で改編期だとわかるのよ
伝記的事実と寝てはだめだった
顔のまわりにハートがないの
筆算できみのこころが早わかり
今年も暮田真名の活躍がめざましかった。暮田の『宇宙人のためのせんりゅう入門』(左右社)が近日中に販売開始になる。
さて、既成の川柳人の側にはどのような動きがあっただろうか。
「アンソロジスト」vol.6(田畑書店)の特集《川柳アンソロジー みずうみ》は監修・永山裕美、川柳作品各20句でなかはられいこ・芳賀博子・八上桐子・北村幸子・佐藤みさ子が参加。樋口由紀子の解説が付いている。
文脈のどこを切っても水が出る なかはられいこ
栞はらりと歳月のいずこより 芳賀博子
藤房のふるえる自慰に耽る舟 八上桐子
きれいごとセット郵便局で買う 北村幸子
でんわするちがう水路にいるひとへ 佐藤みさ子(以下5句)
行列に飽きた自分にも飽きた
B29をうつしたはずの水溜り
火口湖に生きた魚はおりません
空うつす湖面のようなこどもの目
あと、青砥和子『雲に乗る』(新葉館)も紹介しておきたい。
微笑みをまた間違えて然るべく 青砥和子
霙という半端なものが降ってきた
陸に杭打つから壊れていくんだよ
銃口の先に豆煮る人がいる
折鶴は重なるように睦み合う
ベテランの川柳人にはこれまでの経験と技術の蓄積があるので、句集のかたちで世に示すことが求められていると思う。
2023年12月8日金曜日
澤好摩の百句(高山れおな・「翻車魚」7号)
「翻車魚」7号に高山れおなの「澤好摩の百句」が掲載されている。
澤好摩は高柳重信に師事し、「俳句研究」の編集に携わった。1991年に俳誌「円錐」を創刊。現代俳句のなかで独自の存在感をもつ人だった。 高山れおなは次のように書いている。
「今回の『澤好摩の百句』は追悼企画のように思われるに違いない。しかし、結果的にそうなったにせよ、本来そのつもりではなかった。昨春、『尾崎紅葉の百句』の原稿を書いて面白かったものだから、私は引き続き『〇〇の百句』を『翻車魚』誌上で個人的にシリーズ化する気になった」
百句の評釈はそれぞれおもしろいものだが、ここでは二句だけ紹介する。
三日月を三日見ざれば馬賊かな
「蓼太の〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉のパスティーシュである。これもリフレインの句で、その調子の良さについ読み流してしまいそうになるが、「三日月を三日見ざれば」とはずいぶん奇矯なことを言うものだ。三日月とは新月を一日目としての三日目の月をさすのであって、四日目以降の月はもとより三日月ではない。三日月を三日見ないという言い方は一種のナンセンスなのだ、ナンセンスな原因から『馬賊かな』というナンセンスな結果が生じている」
百韻に似し百峰や百日紅
「百韻は連歌・俳諧の最も一般的な形式。重畳する峰々の変化に富むさまを喩えた。百の字の三たびの反復が掲句の眼目でもあれば、目障りなところでもある。掲句の前には〈鯨ゐてこその海なれ夏遍路〉が、次には〈山清水この上にもう家なきと〉が並ぶ。山清水の句について味元昭次は、〈標高七百余。高知県大豊町西峰〉にての作と証言する(「澤好摩の気になる一句」)。〈妻の里〉であるこの〈まことに美しい山里〉へ、味元は澤と横山康夫を案内した。夏遍路および百韻百峰の句も、この土佐への旅での作なのだろう。言葉遊びの句とのみ見てしまうとややあざとく、中遠景に山々を近景に百日紅を配した俳句的遠近法も鈍重に感じられるが、めでたい百の字を重ねた土地褒めの挨拶にこそ真意があった」
味元昭次が編集発行している「蝶」263号に今泉康弘が「酒と俳句の日々―澤好摩とぼく」を書いている。
「1985年の夏、ぼくは山田耕二に連れられて、荻窪にある澤好摩のアパート・宝山荘を訪問した。ぼくは十八歳だった。このときが澤好摩との初対面である。ぼくたちは夕方遅くまでいて、澤好摩から俳句の話を聞いたり、お酒をご馳走になったりした。そのとき、句集『印象』を貰った。1982年に刊行された第二句集だ。その見返しに、澤好摩は美しい筆跡で、こう書いた―『今泉詞兄、冥き噴水蛹よ翅の彩を急げよ 澤好摩』。『噴水』は『ふきあげ』、『彩』は『いろ』と読むのだ、と澤好摩は言った」
同誌の「澤好摩五十句」(横山康夫抄出)から五句紹介する。
天に雨の降り残しなし鬼薊 澤好摩
風邪を着て風に遅れるいもうとよ
三日月を三日見ざれば馬賊かな
深海に自らひかるものら混む
跳ぶ墜ちる走る躓くエノラ・ゲイ
私は「豈」の句会で一度だけ澤好摩と同席したときに、拙句を選んでもらったことがある。こんな句である。
パジャマ姿で鶴の行方を追いかける 小池正博
澤好摩は高柳重信に師事し、「俳句研究」の編集に携わった。1991年に俳誌「円錐」を創刊。現代俳句のなかで独自の存在感をもつ人だった。 高山れおなは次のように書いている。
「今回の『澤好摩の百句』は追悼企画のように思われるに違いない。しかし、結果的にそうなったにせよ、本来そのつもりではなかった。昨春、『尾崎紅葉の百句』の原稿を書いて面白かったものだから、私は引き続き『〇〇の百句』を『翻車魚』誌上で個人的にシリーズ化する気になった」
百句の評釈はそれぞれおもしろいものだが、ここでは二句だけ紹介する。
三日月を三日見ざれば馬賊かな
「蓼太の〈世の中は三日見ぬ間に桜かな〉のパスティーシュである。これもリフレインの句で、その調子の良さについ読み流してしまいそうになるが、「三日月を三日見ざれば」とはずいぶん奇矯なことを言うものだ。三日月とは新月を一日目としての三日目の月をさすのであって、四日目以降の月はもとより三日月ではない。三日月を三日見ないという言い方は一種のナンセンスなのだ、ナンセンスな原因から『馬賊かな』というナンセンスな結果が生じている」
百韻に似し百峰や百日紅
「百韻は連歌・俳諧の最も一般的な形式。重畳する峰々の変化に富むさまを喩えた。百の字の三たびの反復が掲句の眼目でもあれば、目障りなところでもある。掲句の前には〈鯨ゐてこその海なれ夏遍路〉が、次には〈山清水この上にもう家なきと〉が並ぶ。山清水の句について味元昭次は、〈標高七百余。高知県大豊町西峰〉にての作と証言する(「澤好摩の気になる一句」)。〈妻の里〉であるこの〈まことに美しい山里〉へ、味元は澤と横山康夫を案内した。夏遍路および百韻百峰の句も、この土佐への旅での作なのだろう。言葉遊びの句とのみ見てしまうとややあざとく、中遠景に山々を近景に百日紅を配した俳句的遠近法も鈍重に感じられるが、めでたい百の字を重ねた土地褒めの挨拶にこそ真意があった」
味元昭次が編集発行している「蝶」263号に今泉康弘が「酒と俳句の日々―澤好摩とぼく」を書いている。
「1985年の夏、ぼくは山田耕二に連れられて、荻窪にある澤好摩のアパート・宝山荘を訪問した。ぼくは十八歳だった。このときが澤好摩との初対面である。ぼくたちは夕方遅くまでいて、澤好摩から俳句の話を聞いたり、お酒をご馳走になったりした。そのとき、句集『印象』を貰った。1982年に刊行された第二句集だ。その見返しに、澤好摩は美しい筆跡で、こう書いた―『今泉詞兄、冥き噴水蛹よ翅の彩を急げよ 澤好摩』。『噴水』は『ふきあげ』、『彩』は『いろ』と読むのだ、と澤好摩は言った」
同誌の「澤好摩五十句」(横山康夫抄出)から五句紹介する。
天に雨の降り残しなし鬼薊 澤好摩
風邪を着て風に遅れるいもうとよ
三日月を三日見ざれば馬賊かな
深海に自らひかるものら混む
跳ぶ墜ちる走る躓くエノラ・ゲイ
私は「豈」の句会で一度だけ澤好摩と同席したときに、拙句を選んでもらったことがある。こんな句である。
パジャマ姿で鶴の行方を追いかける 小池正博
2023年11月29日水曜日
『起きられない朝のための短歌入門』
「川柳は外向的でなければ生きてゆけないのである」とは渡辺隆夫の言葉だ。川柳は自分たちの世界に閉じこもっているだけでは刺激もないし発展性もない。同時代の短詩型諸ジャンルで起きていることには常にアンテナを出しておくことが必要となる。川柳に入門書がないわけではないが、評論や読みの分野が弱いので、かつては穂村弘や藤原龍一郎などの歌人の評論集から学ぶことが多かった。最近は歌人の書いたものを読む機会が減ったが、入門書というかたちの短歌実作論として『起きられない朝のための短歌入門』(書肆侃々房)は見逃せない。
本書は我妻俊樹と平岡直子の対談形式で、「つくる」「よむ」「ふたたび、つくる」の三部に分かれている。二人とも現代川柳と交流があり、初心者というより何年も実作を続けている表現者にとって刺激的な内容になっている。
「最初の一首をつくるのは難しくはない。次の一首をつくるのも難しくないかもしれない。難しいのは、自分の短歌を物足りなく感じはじめたときだ」(「はじめに」平岡)
「自分でつくりはじめると、他人の歌にある程度興味が湧いてきて、歌集を読んだりする場合も多いでしょう。いっぱい読めば読むほどつくるほうはスピードダウンするはず。自分のつくろうとしている歌に類想歌があるのがわかるとそれはよけようとするわけだし、知っている歌の数が増えるほど道が狭くなっていく」(平岡)
創作を続けている表現者にとっては誰でも思い当たることだし、切実な問題でもある。
歌会について我妻はこんなふうに語っている。
「歌会もディベートみたいなもので、必ずしも本当にいいと思う歌を推すわけじゃないですよね。その場では一首なり何首なり選ぶ決まりだから、仮にこの歌がいいということにして、その前提で評を組み立てるわけです。だからこそ評の練習になるんだけど、それって半分嘘の評でしょとも思う。そこがわりと歌人の世界の弱さというのかな、半分嘘でも褒められたらうれしいわけだし、人をうれしがらせてしまった評のことは、言った側もどこか信じてしまうんじゃないか」
私は歌会には参加したことがないが、俳句や川柳の句会でも同じようなことはあるだろう。我妻は「短歌の評をする人はほとんど実作者だから、技術論の解説みたいな読み方はだいたい得意だと思うんですよ。でも作品のおもしろいところって、ジャンル内の共有財産みたいなテクニックからはみ出たところにあるものでしょう」とも言っている。評を書く者にとってはコワイことを言う人だ。
詩的飛躍について平岡はこんなふうに言っている。
「詩的飛躍がうまくいっている歌を読むと、『そうだったのか!』って思うもんね。『この言葉とこの言葉にはこういう関係があったのが、いままで意識したことはなかったけど、たしかにそうだ、わたしも心のどこかでは知っていた気がする』みたいな」
11月19日に東京・王子で「川柳を見つけて」というイベントが開催された。暮田真名『ふりょの星』とササキリユウイチ『馬場にオムライス』の合同句評会だったが、パネラーの平岡は暮田の句の言葉の見せ方について、「何の根拠もない組み合わせではなく、言葉と言葉との間に社会的文脈とは異なるつながりがある」「自分の都合より言葉の都合をきくことが優先されている」というようなことを語った。私は暮田の句がなぜおもしろいのか、今までうまく言語化できずにいたが、平岡の説明を聞いて少し納得できるように思った。同時に私が平岡の短歌を読んだときに感じる心地よさの理由もわかったような気がした。
平岡も我妻も独自の短歌観をもっている表現者だ。
(平岡)「わたしの説ではね、歌人のほとんどは『人生派』=自分の人生に準拠した歌をつくっていて、そのなかで『人生―人生派』と『人生―言葉派』に分かれるんです。歌のなかに具体的に『人生』のことが書かれていなくても、歌の外側にある人生情報と照らし合わせることで完成するタイプの歌は広義の『人生派』だと思う」
平岡の「人生―人生派」「人生―言葉派」「言葉―人生派」「言葉―言葉派」という分類は以前にもどこかで読んだことがあるが、「言葉―言葉派」の作品として挙げられているのは次の歌。
才能で電車を降りる 才能でマフラーを巻く おかしな光 瀬口真司
我妻「私は短歌の二部構成って、上下句でかたちが違うことも含めて〈行って帰ってくる〉形式だと思っている」「〈行って帰ってくる〉形式の中にも、〈行ったきり帰ってこない〉とか〈行って帰って、また行く〉みたいなべつの動きの可能性は含まれてるはずなんですよね」
以前、我妻の話を聞いたときにも、「短歌は行って戻ってくる。川柳は引き返さずに通り抜ける」というとらえ方だったことが印象に残っている。
その他、実作のヒントになるような発言が満載だ。本書のタイトルについては対談の最後の方で語られている。
短歌の入門書が立て続けに出版されていて、榊原紘の『推し短歌入門』(左右社)も好評。タイトルの表層的な印象とは異なって、充実した短歌入門書となっている。若い世代の感覚もうかがえ、第二部の短歌の技法では「言葉の欠片を拾ってきて、それを繋ぎ合わせる感覚」「下の句を切り取って別の歌の上の句とくっつけるなど、合成獣(キメラ)のような歌も多いです」と書かれている。これは若い世代の川柳作品からも感じ取れることだ。短歌を読むことについては「特に自分の考えていることなど既にやり尽くされているとか、他の人の作品を読むと自分が作れるものなどない気がしてつらいとか、そんなことを思うかもしれません。しかし、他の人の作品を読むことは、自分自身のことを掘り下げる大きな力になります」と前向きである。
川柳の入門書としては暮田真名の『宇宙人のためのせんりゅう入門』(左右社)が12月下旬に発売が予定されている。
本書は我妻俊樹と平岡直子の対談形式で、「つくる」「よむ」「ふたたび、つくる」の三部に分かれている。二人とも現代川柳と交流があり、初心者というより何年も実作を続けている表現者にとって刺激的な内容になっている。
「最初の一首をつくるのは難しくはない。次の一首をつくるのも難しくないかもしれない。難しいのは、自分の短歌を物足りなく感じはじめたときだ」(「はじめに」平岡)
「自分でつくりはじめると、他人の歌にある程度興味が湧いてきて、歌集を読んだりする場合も多いでしょう。いっぱい読めば読むほどつくるほうはスピードダウンするはず。自分のつくろうとしている歌に類想歌があるのがわかるとそれはよけようとするわけだし、知っている歌の数が増えるほど道が狭くなっていく」(平岡)
創作を続けている表現者にとっては誰でも思い当たることだし、切実な問題でもある。
歌会について我妻はこんなふうに語っている。
「歌会もディベートみたいなもので、必ずしも本当にいいと思う歌を推すわけじゃないですよね。その場では一首なり何首なり選ぶ決まりだから、仮にこの歌がいいということにして、その前提で評を組み立てるわけです。だからこそ評の練習になるんだけど、それって半分嘘の評でしょとも思う。そこがわりと歌人の世界の弱さというのかな、半分嘘でも褒められたらうれしいわけだし、人をうれしがらせてしまった評のことは、言った側もどこか信じてしまうんじゃないか」
私は歌会には参加したことがないが、俳句や川柳の句会でも同じようなことはあるだろう。我妻は「短歌の評をする人はほとんど実作者だから、技術論の解説みたいな読み方はだいたい得意だと思うんですよ。でも作品のおもしろいところって、ジャンル内の共有財産みたいなテクニックからはみ出たところにあるものでしょう」とも言っている。評を書く者にとってはコワイことを言う人だ。
詩的飛躍について平岡はこんなふうに言っている。
「詩的飛躍がうまくいっている歌を読むと、『そうだったのか!』って思うもんね。『この言葉とこの言葉にはこういう関係があったのが、いままで意識したことはなかったけど、たしかにそうだ、わたしも心のどこかでは知っていた気がする』みたいな」
11月19日に東京・王子で「川柳を見つけて」というイベントが開催された。暮田真名『ふりょの星』とササキリユウイチ『馬場にオムライス』の合同句評会だったが、パネラーの平岡は暮田の句の言葉の見せ方について、「何の根拠もない組み合わせではなく、言葉と言葉との間に社会的文脈とは異なるつながりがある」「自分の都合より言葉の都合をきくことが優先されている」というようなことを語った。私は暮田の句がなぜおもしろいのか、今までうまく言語化できずにいたが、平岡の説明を聞いて少し納得できるように思った。同時に私が平岡の短歌を読んだときに感じる心地よさの理由もわかったような気がした。
平岡も我妻も独自の短歌観をもっている表現者だ。
(平岡)「わたしの説ではね、歌人のほとんどは『人生派』=自分の人生に準拠した歌をつくっていて、そのなかで『人生―人生派』と『人生―言葉派』に分かれるんです。歌のなかに具体的に『人生』のことが書かれていなくても、歌の外側にある人生情報と照らし合わせることで完成するタイプの歌は広義の『人生派』だと思う」
平岡の「人生―人生派」「人生―言葉派」「言葉―人生派」「言葉―言葉派」という分類は以前にもどこかで読んだことがあるが、「言葉―言葉派」の作品として挙げられているのは次の歌。
才能で電車を降りる 才能でマフラーを巻く おかしな光 瀬口真司
我妻「私は短歌の二部構成って、上下句でかたちが違うことも含めて〈行って帰ってくる〉形式だと思っている」「〈行って帰ってくる〉形式の中にも、〈行ったきり帰ってこない〉とか〈行って帰って、また行く〉みたいなべつの動きの可能性は含まれてるはずなんですよね」
以前、我妻の話を聞いたときにも、「短歌は行って戻ってくる。川柳は引き返さずに通り抜ける」というとらえ方だったことが印象に残っている。
その他、実作のヒントになるような発言が満載だ。本書のタイトルについては対談の最後の方で語られている。
短歌の入門書が立て続けに出版されていて、榊原紘の『推し短歌入門』(左右社)も好評。タイトルの表層的な印象とは異なって、充実した短歌入門書となっている。若い世代の感覚もうかがえ、第二部の短歌の技法では「言葉の欠片を拾ってきて、それを繋ぎ合わせる感覚」「下の句を切り取って別の歌の上の句とくっつけるなど、合成獣(キメラ)のような歌も多いです」と書かれている。これは若い世代の川柳作品からも感じ取れることだ。短歌を読むことについては「特に自分の考えていることなど既にやり尽くされているとか、他の人の作品を読むと自分が作れるものなどない気がしてつらいとか、そんなことを思うかもしれません。しかし、他の人の作品を読むことは、自分自身のことを掘り下げる大きな力になります」と前向きである。
川柳の入門書としては暮田真名の『宇宙人のためのせんりゅう入門』(左右社)が12月下旬に発売が予定されている。
2023年9月22日金曜日
現代連句の40年
日本連句協会の前身である連句懇話会が創立されたのは1981年のことだった。私の連句歴は約30年で、創立時のことは直接知らないが、昨年『現代連句集Ⅳ』の編集に関わって、現代連句史を振り返る機会を得た。
最近、山地春眠子さんから「杏花村」のコピーをいただいた。「杏花村」は、わだとしお(村野夏生)が1977年に創刊した月刊俳諧誌で、1985年に100号で終刊するまで続いた。いわゆる「連句復興期」における東京義仲寺連句会の活動がよく分かるので紹介しておきたい。まず前提となる話になるが、1960年代以降の連句復興は伊勢派の俳諧師・根津芦丈をルーツとする。芦丈を中心として清水瓢左、野村牛耳、東明雅などの連句人が連句の普及につとめた。年譜のかたちで整理しておこう。
1959年 「都心連句会」創立
1961年 「信州大学連句会」創立。根津芦丈指導(東明雅・高橋玄一郎・小出きよみ・宮坂静生・池田魚魯)
1965年 都心連句会第一連句集『艸上の虹』
1966年 義仲寺史蹟保存会設立認可(境内に「昭和再建碑」保田与重郎)。1967年、機関紙「義仲寺」創刊
1969年 都心連句会第二連句集『むれ鯨』
1971年 東京義仲寺連句会、第一回俳諧時雨忌(10月10日)を機に野村牛耳・林空花・高島南方子・わだとしお・星野石雀・真鍋天魚・珍田弥一郎などが参加
1972年 東明雅『夏の日』(角川書店)
1978年 東明雅『連句入門』(中公新書)。山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)
1981年 連句懇話会結成、12月会報第1号発行。阿片瓢郎(連句研究)・大林杣平(都心連句会)・岡本春人(連句かつらぎ)を求心力とし、代表幹事に上記三名のほか、わだとしお(杏花村)が加わる。幹事は宇咲冬男・城戸崎丹花・国島十雨・見学学・伴野渓水・土屋実郎・永田黙泉・松村武雄・宮下太郎・山地春眠子。
東明雅は信州大学連句会で連句を修得し、『夏の日』はその成果。『連句入門』はさらに体系化された連句入門書となる。東は1982年に「猫蓑」を結成。(戦後の関西連句は橋閒石の「白燕」創刊にはじまり、東京の動きとも連動しつつ、独自の展開を見せるがここでは触れない。)
さて、「杏花村」に戻るが、東京義仲寺連句会は自由人の集まりだった。俳諧の伝統を継承しつつ、参加者には詩人や作家もいて、先進的な試みをしている。「杏花村」は、わだとしおの発行になっており、現代連句に果たした彼の功績は大きい。山地春眠子の『現代連句入門』の第六章「連句を読む」に収録されている作品は、「杏花村」の昭和52年・53年に掲載されているもので、この本が東京義仲寺連句会の熱気を背景に生まれたものであることが改めてわかる。どういうメンバーがいたのか、作品名と捌を挙げておく。歌仙「紫陽花の庭」(星野石雀捌)・脇起り歌仙「絵のしま」(高藤馬山人捌)・第三起こり胡蝶「蟬時雨」(林空花捌)・胡蝶「蕉庵余寒」(眞鍋天魚捌)・歌仙「幻戯興行」(山地春眠子捌)・歌仙「巷地獄」(中津川洪捌)・歌仙「トランプの城」(わだとしお捌)・歌仙「花菜漬」(星野石雀捌)・歌仙「八衢の星」(水野隆捌)・ソネット「夢較べ」(珍田弥一郎捌)・ソネット「寒紅」(珍田弥一郎捌)・六行四連「雪雲の時間」(山地春眠子捌)。 ここでは『現代連句集』に収録されていない作品を「杏花村」からいくつか紹介しておく。
歌仙「鷺の蓑毛」 馬山人捌
木で眠る鷺の蓑毛も冴えかへり 天魚
危き夢を紡ぐ朝東風 洪
蛙鳴く遠音にハープ搔き立てて 洪
波止場通りでコーヒーを飲む 素女
月光の斜めにさして印度貴石 浩子
レモンの匂ふ少年の街 石雀
ウ 翼竜の骨掘る岡のうそ寒く 春眠子
透明族のふえしキャンパス 徒司
排気筒(マフラー)の音高らかにはためきて 欣二
皺手振りつつ道にたたずむ 以登
大伴旅人の大臣(うし)の笑みかへり 馬山人
二重廻しに秘めし恋の香 浩子
ふるへつつ下る最上の雪見船 徒司
地下の酒場で似顔絵を描く 石雀
金太郎飴切る音のあざやかに 天魚
寝覚めの床にうぐひすの声 以登
はるばると花神訪ねて月の宿 徒司
和布刈(めかり)神社の春のことぶき 欣二
長くなるので歌仙の後半は省略。馬山人・高藤武馬は国文学者・俳人。著書に『奥の細道歌仙評釈』『芭蕉連句鑑賞』『桃青俳諧談義』などがある。天魚・真鍋呉夫は小説家・俳人。句集『雪女』など。
「杏花村」昭和53年5月号は〈高橋玄一郎追悼〉の号になっている。玄一郎と野村牛耳の文音両吟歌仙が掲載されているので、その表六句だけ紹介する。
プルシャンブルー黙示の傾斜草紅葉 玄一郎
三日月からむ送電の塔 牛耳
銃身を磨く射程は夜寒して 玄一郎
古稀のあるじのいまだ俊足 牛耳
声秘めてうのはなくだし窓明り 玄一郎
罷りて候蟾蹲る 牛耳
この歌仙は『落落抄』(高橋玄一郎文学全集第一巻)にも収録されているが、「定型を」「変型し」「異端へ」のうち、「異端へ」の部に分類されているのは興味深い。同号には東明雅の追悼文も掲載されていて、こんなふうに書かれている。
「―先生、黒色火薬はどうしましたね。爆発しますかね?」、これは高橋玄一郎さんが、時折私をからかった言葉である。黒色火薬とは新しい俳諧〈連句〉とその理論のことであった。私どもはこれを作りあげ、行きづまっている現代文学を一挙に粉砕しようと考えて来たのである。
私は高橋玄一郎についてかねてから関心をもっているので、別の機会に改めて取り上げてみたい。また、野村牛耳の連句観についてもいつか詳しく調べてみたいと思っている。
1985年、東京義仲寺連句会は「風信子の会」(村野夏生・別所真紀子)、「馬山人の会」(高藤馬山人・川野蓼艸)、「水分会」(真鍋天魚)などに分離。「風信子」はのちに「あゝの会」(村野)と「解纜」(別所)に分かれる。「水分会」からは浅沼璞が育った。
10月8日に大阪天満宮で開催される「第17回浪速の芭蕉祭」では「連句ブームの行方―現代連句の40年」というタイトルの講演と実作会を行う。資料に基づいたお話ができることと思っている。
最近、山地春眠子さんから「杏花村」のコピーをいただいた。「杏花村」は、わだとしお(村野夏生)が1977年に創刊した月刊俳諧誌で、1985年に100号で終刊するまで続いた。いわゆる「連句復興期」における東京義仲寺連句会の活動がよく分かるので紹介しておきたい。まず前提となる話になるが、1960年代以降の連句復興は伊勢派の俳諧師・根津芦丈をルーツとする。芦丈を中心として清水瓢左、野村牛耳、東明雅などの連句人が連句の普及につとめた。年譜のかたちで整理しておこう。
1959年 「都心連句会」創立
1961年 「信州大学連句会」創立。根津芦丈指導(東明雅・高橋玄一郎・小出きよみ・宮坂静生・池田魚魯)
1965年 都心連句会第一連句集『艸上の虹』
1966年 義仲寺史蹟保存会設立認可(境内に「昭和再建碑」保田与重郎)。1967年、機関紙「義仲寺」創刊
1969年 都心連句会第二連句集『むれ鯨』
1971年 東京義仲寺連句会、第一回俳諧時雨忌(10月10日)を機に野村牛耳・林空花・高島南方子・わだとしお・星野石雀・真鍋天魚・珍田弥一郎などが参加
1972年 東明雅『夏の日』(角川書店)
1978年 東明雅『連句入門』(中公新書)。山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)
1981年 連句懇話会結成、12月会報第1号発行。阿片瓢郎(連句研究)・大林杣平(都心連句会)・岡本春人(連句かつらぎ)を求心力とし、代表幹事に上記三名のほか、わだとしお(杏花村)が加わる。幹事は宇咲冬男・城戸崎丹花・国島十雨・見学学・伴野渓水・土屋実郎・永田黙泉・松村武雄・宮下太郎・山地春眠子。
東明雅は信州大学連句会で連句を修得し、『夏の日』はその成果。『連句入門』はさらに体系化された連句入門書となる。東は1982年に「猫蓑」を結成。(戦後の関西連句は橋閒石の「白燕」創刊にはじまり、東京の動きとも連動しつつ、独自の展開を見せるがここでは触れない。)
さて、「杏花村」に戻るが、東京義仲寺連句会は自由人の集まりだった。俳諧の伝統を継承しつつ、参加者には詩人や作家もいて、先進的な試みをしている。「杏花村」は、わだとしおの発行になっており、現代連句に果たした彼の功績は大きい。山地春眠子の『現代連句入門』の第六章「連句を読む」に収録されている作品は、「杏花村」の昭和52年・53年に掲載されているもので、この本が東京義仲寺連句会の熱気を背景に生まれたものであることが改めてわかる。どういうメンバーがいたのか、作品名と捌を挙げておく。歌仙「紫陽花の庭」(星野石雀捌)・脇起り歌仙「絵のしま」(高藤馬山人捌)・第三起こり胡蝶「蟬時雨」(林空花捌)・胡蝶「蕉庵余寒」(眞鍋天魚捌)・歌仙「幻戯興行」(山地春眠子捌)・歌仙「巷地獄」(中津川洪捌)・歌仙「トランプの城」(わだとしお捌)・歌仙「花菜漬」(星野石雀捌)・歌仙「八衢の星」(水野隆捌)・ソネット「夢較べ」(珍田弥一郎捌)・ソネット「寒紅」(珍田弥一郎捌)・六行四連「雪雲の時間」(山地春眠子捌)。 ここでは『現代連句集』に収録されていない作品を「杏花村」からいくつか紹介しておく。
歌仙「鷺の蓑毛」 馬山人捌
木で眠る鷺の蓑毛も冴えかへり 天魚
危き夢を紡ぐ朝東風 洪
蛙鳴く遠音にハープ搔き立てて 洪
波止場通りでコーヒーを飲む 素女
月光の斜めにさして印度貴石 浩子
レモンの匂ふ少年の街 石雀
ウ 翼竜の骨掘る岡のうそ寒く 春眠子
透明族のふえしキャンパス 徒司
排気筒(マフラー)の音高らかにはためきて 欣二
皺手振りつつ道にたたずむ 以登
大伴旅人の大臣(うし)の笑みかへり 馬山人
二重廻しに秘めし恋の香 浩子
ふるへつつ下る最上の雪見船 徒司
地下の酒場で似顔絵を描く 石雀
金太郎飴切る音のあざやかに 天魚
寝覚めの床にうぐひすの声 以登
はるばると花神訪ねて月の宿 徒司
和布刈(めかり)神社の春のことぶき 欣二
長くなるので歌仙の後半は省略。馬山人・高藤武馬は国文学者・俳人。著書に『奥の細道歌仙評釈』『芭蕉連句鑑賞』『桃青俳諧談義』などがある。天魚・真鍋呉夫は小説家・俳人。句集『雪女』など。
「杏花村」昭和53年5月号は〈高橋玄一郎追悼〉の号になっている。玄一郎と野村牛耳の文音両吟歌仙が掲載されているので、その表六句だけ紹介する。
プルシャンブルー黙示の傾斜草紅葉 玄一郎
三日月からむ送電の塔 牛耳
銃身を磨く射程は夜寒して 玄一郎
古稀のあるじのいまだ俊足 牛耳
声秘めてうのはなくだし窓明り 玄一郎
罷りて候蟾蹲る 牛耳
この歌仙は『落落抄』(高橋玄一郎文学全集第一巻)にも収録されているが、「定型を」「変型し」「異端へ」のうち、「異端へ」の部に分類されているのは興味深い。同号には東明雅の追悼文も掲載されていて、こんなふうに書かれている。
「―先生、黒色火薬はどうしましたね。爆発しますかね?」、これは高橋玄一郎さんが、時折私をからかった言葉である。黒色火薬とは新しい俳諧〈連句〉とその理論のことであった。私どもはこれを作りあげ、行きづまっている現代文学を一挙に粉砕しようと考えて来たのである。
私は高橋玄一郎についてかねてから関心をもっているので、別の機会に改めて取り上げてみたい。また、野村牛耳の連句観についてもいつか詳しく調べてみたいと思っている。
1985年、東京義仲寺連句会は「風信子の会」(村野夏生・別所真紀子)、「馬山人の会」(高藤馬山人・川野蓼艸)、「水分会」(真鍋天魚)などに分離。「風信子」はのちに「あゝの会」(村野)と「解纜」(別所)に分かれる。「水分会」からは浅沼璞が育った。
10月8日に大阪天満宮で開催される「第17回浪速の芭蕉祭」では「連句ブームの行方―現代連句の40年」というタイトルの講演と実作会を行う。資料に基づいたお話ができることと思っている。
2023年9月15日金曜日
『川柳EXPO』と文フリ大阪
しばらく時評を休んでいるあいだに、ネット川柳の動きが加速している。
7月に発行した「川柳スパイラル」18号では「ネット川柳の歩き方」を特集した。この分野に詳しい西脇祥貴による労作で、Twitter(現在はXになっているが)、オンライン句会、オンライン講座、スペース、ツイキャス、川柳ユニットなどに渡って、目配りの効いたものになっている。
18号の編集後記には「伝統的な作品と新しい傾向の作品をお風呂を混ぜるように混ぜる」「上層の熱い湯と下層の冷たい水。別に混ぜる必要もないのだが、現代川柳においても従来の川柳と2020年代の川柳を交差させてみたい」というようなことが書かれている。よく考えてみると、このような発想自体がすでに時代遅れのもので、今のお風呂は給湯器から均質な温度のお湯が自動的に出てくるのだ。
8月に入って、まつりぺきんによって『川柳EXPO』が発行された。これは投稿連作川柳アンソロジーの企画で、「何人かが集まり、句単体ではない連作(あるいは群作)という形で、しかも参加費無料で参加できるアンソロジー誌という場で、世に問うてみる」というものだ。5月末にネットで募集され、締切までの1か月間で投句者51名、各20句だから1020句の川柳作品が集まった。ぺきん自身の作品もプラスされて52名のアンソロジーとなっている。参加者にはネットを主な発表舞台としている表現者だけではなく、ベテラン・中堅の川柳人も混じっており、ネット川柳というだけではなく、偏りはあるものの現代川柳を展望するのに便利な一冊となっている。
9月10日に「文学フリマ大阪11」が開催され、『川柳EXPO』のブースが出店。買い求める人も多く、『川柳EXPO』の企画が作者・読者のニーズにかなったものだったことがうかがえる。ネットでの反響もnoteやツイキャスなどで出ている。この勢いはしばらく続きそうだ。
さて、文フリ大阪で手に入れた本と冊子を紹介しておきたい。
まず、牛隆佑の歌集『鳥の跡、洞の音』。彼は結社・同人誌に所属せずに活動を続けているが、それにもかかわらず存在感を発揮している稀有の歌人だ。その第一歌集。
蛇口から落ちずに残る水滴が少し膨らむ ここで叫べよ 牛隆佑
鮫が鮫をやがて人間が人間を食べたのだろう いろとりどりの
心を持つ生卵なら割れながらすみませんもうしわけありません
一番が二番を二番が三番を組み伏せて世界は昼下がり
ありがとう水が流れてきてくれて多目的用小さな海に
とりにくはこんなに寒い冷蔵庫で風邪をひいたりしないのだろう
かなしみの券売機なら一万円紙幣をやろう吐き出せばいい
私が牛隆佑の存在を意識したのは2014年の「大阪短歌チョップ」のときだったが、「ふくろう会議」や「葉ねかべ」の活動でも注目される。文フリで会えばいつも挨拶してくれるので、明るい人かと思っていたが、歌集のあとがきを読むと別の面が見えてくる。表現者であるかぎり、誰でも心の深層にいろいろな思いをもっているものだ。八上桐子、門脇篤史、西尾勝彦が「栞」を書いている。
『川柳EXPO』にも参加している林やは。文フリにも出店していて、詩集『春はひかり』を手に入れる。詩の部分的引用は意味がないかもしれないが、印象に残ったところをいくつかご紹介する。
分子が結合するよりさきに、ぼくたちの概念が、美しいものをしって、ふくれる。どうか眠りから醒めてしまっても、これをはじけないように、神聖としてしまえる、しゅんかんに、とじこめてしまいたい。だって、失いたいさ。失いたい、ものが、あるのだ、もの。(「ルア・ルーナ」)
水面にあこがれていただけで、すばらしいといわれた。あなたは、それだけで、必要とされていた。ここで、あなたは、だれよりも守られて、あたたかくしていて、いつかはひとりになる。意味もなく、産まれてきて、はずかしいよ、もう、産むしかない。(「羊水の詩」)
可憐であればあるほど、肉質で、
きみの、春は、現世、(「羊水の春」)
現代詩を書く人で川柳にも関心のある人が、栫伸太郎や水城鉄茶など、ちらほらと現れてきている。
多賀盛剛の第一歌集『幸せな日々』。第二回「ナナロク社 あたらしい歌集選考会」で岡野大嗣に選ばれたのを機に同社から発行された。多賀の短歌は「MITASASA」のゲスト作品で読んだことがあるし、「川柳スパイラル」15号に川柳を寄稿してもらっている。また連句でも何度か同座したことがある。多賀の作品はひらかな表記の口語短歌でと関西弁の使用が特徴だ。句読点の表記は元歌のまま。
めのまえに、にじいろのしんごうきがあって、いろのかずだけずっとまってた、 多賀盛剛
うちゅうからは、どこみてもうちゅうで、ゆめからはどこみてもゆめやった、
あんごうかしたことばを、そのままこえにだして、そのときのうごきが、あたらしいいみになった、
あめの ひは あしもとが すべるので あめを たくさん のんで みんな おもくなりました
このまちはおもたくて、ここからずっとうごかないから、わたしはずっとこのまちにいる。
さて、9月23日に「川柳スパイラル」大阪句会が上本町・たかつガーデンで開催される。ゲストに橋爪志保を迎えて彼女の短歌と川柳について、また「川柳スパイラル」18号の特集「ネット短歌の歩き方」と『川柳EXPO』の作者と作品についてなど、ホットな話題で意見交換ができることと思う。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか 橋爪志保『地上絵』
くろねこの対義語は盛り塩だろう 橋爪志保「ねこ川柳botの軌跡」(ネットプリント)
「文学界」10月号の巻頭に暮田真名の10句が掲載されたり、「アンソロジスト」vol.6(田畑書店)の特集《川柳アンソロジー みずうみ》(監修・永山裕美、川柳作品各20句・なかはられいこ・芳賀博子・八上桐子・北村幸子・佐藤みさ子、解説・樋口由紀子)など、現代川柳の動きを目にする機会が増えてきている。
7月に発行した「川柳スパイラル」18号では「ネット川柳の歩き方」を特集した。この分野に詳しい西脇祥貴による労作で、Twitter(現在はXになっているが)、オンライン句会、オンライン講座、スペース、ツイキャス、川柳ユニットなどに渡って、目配りの効いたものになっている。
18号の編集後記には「伝統的な作品と新しい傾向の作品をお風呂を混ぜるように混ぜる」「上層の熱い湯と下層の冷たい水。別に混ぜる必要もないのだが、現代川柳においても従来の川柳と2020年代の川柳を交差させてみたい」というようなことが書かれている。よく考えてみると、このような発想自体がすでに時代遅れのもので、今のお風呂は給湯器から均質な温度のお湯が自動的に出てくるのだ。
8月に入って、まつりぺきんによって『川柳EXPO』が発行された。これは投稿連作川柳アンソロジーの企画で、「何人かが集まり、句単体ではない連作(あるいは群作)という形で、しかも参加費無料で参加できるアンソロジー誌という場で、世に問うてみる」というものだ。5月末にネットで募集され、締切までの1か月間で投句者51名、各20句だから1020句の川柳作品が集まった。ぺきん自身の作品もプラスされて52名のアンソロジーとなっている。参加者にはネットを主な発表舞台としている表現者だけではなく、ベテラン・中堅の川柳人も混じっており、ネット川柳というだけではなく、偏りはあるものの現代川柳を展望するのに便利な一冊となっている。
9月10日に「文学フリマ大阪11」が開催され、『川柳EXPO』のブースが出店。買い求める人も多く、『川柳EXPO』の企画が作者・読者のニーズにかなったものだったことがうかがえる。ネットでの反響もnoteやツイキャスなどで出ている。この勢いはしばらく続きそうだ。
さて、文フリ大阪で手に入れた本と冊子を紹介しておきたい。
まず、牛隆佑の歌集『鳥の跡、洞の音』。彼は結社・同人誌に所属せずに活動を続けているが、それにもかかわらず存在感を発揮している稀有の歌人だ。その第一歌集。
蛇口から落ちずに残る水滴が少し膨らむ ここで叫べよ 牛隆佑
鮫が鮫をやがて人間が人間を食べたのだろう いろとりどりの
心を持つ生卵なら割れながらすみませんもうしわけありません
一番が二番を二番が三番を組み伏せて世界は昼下がり
ありがとう水が流れてきてくれて多目的用小さな海に
とりにくはこんなに寒い冷蔵庫で風邪をひいたりしないのだろう
かなしみの券売機なら一万円紙幣をやろう吐き出せばいい
私が牛隆佑の存在を意識したのは2014年の「大阪短歌チョップ」のときだったが、「ふくろう会議」や「葉ねかべ」の活動でも注目される。文フリで会えばいつも挨拶してくれるので、明るい人かと思っていたが、歌集のあとがきを読むと別の面が見えてくる。表現者であるかぎり、誰でも心の深層にいろいろな思いをもっているものだ。八上桐子、門脇篤史、西尾勝彦が「栞」を書いている。
『川柳EXPO』にも参加している林やは。文フリにも出店していて、詩集『春はひかり』を手に入れる。詩の部分的引用は意味がないかもしれないが、印象に残ったところをいくつかご紹介する。
分子が結合するよりさきに、ぼくたちの概念が、美しいものをしって、ふくれる。どうか眠りから醒めてしまっても、これをはじけないように、神聖としてしまえる、しゅんかんに、とじこめてしまいたい。だって、失いたいさ。失いたい、ものが、あるのだ、もの。(「ルア・ルーナ」)
水面にあこがれていただけで、すばらしいといわれた。あなたは、それだけで、必要とされていた。ここで、あなたは、だれよりも守られて、あたたかくしていて、いつかはひとりになる。意味もなく、産まれてきて、はずかしいよ、もう、産むしかない。(「羊水の詩」)
可憐であればあるほど、肉質で、
きみの、春は、現世、(「羊水の春」)
現代詩を書く人で川柳にも関心のある人が、栫伸太郎や水城鉄茶など、ちらほらと現れてきている。
多賀盛剛の第一歌集『幸せな日々』。第二回「ナナロク社 あたらしい歌集選考会」で岡野大嗣に選ばれたのを機に同社から発行された。多賀の短歌は「MITASASA」のゲスト作品で読んだことがあるし、「川柳スパイラル」15号に川柳を寄稿してもらっている。また連句でも何度か同座したことがある。多賀の作品はひらかな表記の口語短歌でと関西弁の使用が特徴だ。句読点の表記は元歌のまま。
めのまえに、にじいろのしんごうきがあって、いろのかずだけずっとまってた、 多賀盛剛
うちゅうからは、どこみてもうちゅうで、ゆめからはどこみてもゆめやった、
あんごうかしたことばを、そのままこえにだして、そのときのうごきが、あたらしいいみになった、
あめの ひは あしもとが すべるので あめを たくさん のんで みんな おもくなりました
このまちはおもたくて、ここからずっとうごかないから、わたしはずっとこのまちにいる。
さて、9月23日に「川柳スパイラル」大阪句会が上本町・たかつガーデンで開催される。ゲストに橋爪志保を迎えて彼女の短歌と川柳について、また「川柳スパイラル」18号の特集「ネット短歌の歩き方」と『川柳EXPO』の作者と作品についてなど、ホットな話題で意見交換ができることと思う。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか 橋爪志保『地上絵』
くろねこの対義語は盛り塩だろう 橋爪志保「ねこ川柳botの軌跡」(ネットプリント)
「文学界」10月号の巻頭に暮田真名の10句が掲載されたり、「アンソロジスト」vol.6(田畑書店)の特集《川柳アンソロジー みずうみ》(監修・永山裕美、川柳作品各20句・なかはられいこ・芳賀博子・八上桐子・北村幸子・佐藤みさ子、解説・樋口由紀子)など、現代川柳の動きを目にする機会が増えてきている。
2023年8月4日金曜日
橋爪志保のネットプリント「千柳」
橋爪志保のネットプリント「千柳」vol.3「ねこ川柳botの軌跡」が発行された(配信はすでに終了)。Vol.1「憂鬱の姫君」、vol.2「ドラムロールの肖像画」につづく三作目で、各100句ずつ発表され、10巻1000句を目標としているので「千柳」と洒落ているらしい。
ネットプリントというツールは短歌でよく利用されていて、「かばん」6月号では「短歌とネットプリント」を特集している。「電子(デジタル)で配信、紙(アナログ)で出力」という切り口で、「令和の現在、電子でのやりとりが増え電子書籍がシェアを拡大しても、平安から続く紙でのやりとりは失われていない。デジタルの利便性を活かしつつ、それでも紙で読みたい・読ませたい私達のニーズに、ネットプリント(ネプリ)はちょうど良くフィットする」と特集の扉に書かれている。
「短歌ネプリの今」という文章がネプリの成り立ちと現状を要領よくまとめていて参考になる。ネプリはインターネット経由で登録した文書ファイルをコンビニのコピー機に登録し、予約番号を入力すればだれでも印刷できるというサービス。富士フイルムビジネスイノベーションがセブンイレブンにこのサービスを提供して開始したのが2003年。その後シャープがファミマ・ローソンに提供にするようになった。コンビニによって予約番号が数字だったり記号だったりして不便だと思っていたが、提供している企業が異なっているのだった。当初、ビジネス文書や写真などを旅先で印刷できるサービスだったのが、クリエーターたちの作品発表の場としても使われるようになったということだ。
「ネプリが、短歌の総合誌や結社誌以外の雑誌で紹介されるまでに認知されてきたのは、歌集を出版している歌人や結社に所属している歌人のみならず、SNSを主な活動の場として日々作品を発表している歌人の活動のおかげであろう」
川柳でもネプリを使った発信が行われるようになって、最近では成瀬悠がツイッターで募集した「Twitter現代川柳アンソロ」が注目される。短歌ではよくあるが、川柳ではパイオニア的な試み。この時評の6月14日でも取り上げている。
橋爪志保の話に戻ると、橋爪は2020年に第2回笹井宏之賞内の永井祐賞を受賞、2021年に第一歌集『地上絵』(書肆侃侃房)を上梓。また2022年3月に川柳のネットプリントvol.1「鬱転の姫君」を発行した。歌集『地上絵』から3首引用しておく。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか
I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
僕たちの時代は来ない 置いたけど届かなかった脚立のように
歌人として嘱望される橋爪がなぜ川柳実作に興味をもったのだろうか。「川柳スパイラル」15号の飯島章友との対談で、橋爪はそのきっかけについて、次のように語っている。
〈「ゆにここカルチャースクール」の暮田真名さんの川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」がきっかけです。それまでも川柳は細々と何かの機会があるごとに作ってはいたのですが、講座をきっかけにモチベーションが上がり、いきなり作る量が増えた、という感じです。ちょうど短歌の新しい連作を作っていたときで、その連作は自分の身を切ったような重い作風のものだったんです。作る楽しみと同時にしんどさがありました。そのしんどさを救ってくれたのが川柳でした。川柳の(短歌よりも比較的)「私」から解放されているという特性に惹かれます〉
千柳vol.1「鬱転の姫君」から5句引用する。
巧妙に電話相手を食べ尽くす
アイコンが似ても嘔吐はいちどきり
蛍より蛍の歴史重すぎる
「嫌なこと次々思い出しマーチ」
ゆびとゆびの間のテキストボックスよ
飯島との対談で橋爪はこんなふうに言っている。
〈「千柳」が結構多くの方にプリントアウトしてもらえたのはやっぱり大きかったですね。こんなに読んでもらえるのだな、と気付けたことは本当にありがたかった。句会はまだ参加したことがないのですが、川柳でやりたいこと・やれることがもう少しわかってきたら、挑戦してみたいです〉
その後、彼女は「川柳スパイラル」大阪句会にも参加したことがあるが、vol.2の発行予定を尋ねたところ100句をそろえるには時間がかかると言っていた。そしてVol.2が2022年9月に、vol.3が2023年7月に発行された。それぞれ5句ずつ紹介する。
vol.2「ドラムロールの肖像画」より。
ドラちゃんはドラムロールの肖像画
ブリリアントな眩暈楽しむ
先方がほしがる星の扇風機
消える手を試した何回も試した
みがわりは無限に入るキャビネット
vol.3「ねこ川柳botの軌跡」より。
ねこたちが電解液に溶ける夜
完璧なねこの額でクロールを
ねこの恋 コミュニケーションぜんぶ傷
くろねこの対義語が盛り塩だろう
転がったねこは明るき羅針盤
「ねこ」の題詠で100句揃えるには作者の力量を必要とするが、世間に流通している「猫川柳」とはまったく異なった世界が成立している。
「川柳スパイラル」18号のゲスト作品にも彼女は10句発表している。川柳実作への意欲が並々ではないことが感じられて心強い。
機器ひとつ生むならきっと水電話 橋爪志保
ネットプリントというツールは短歌でよく利用されていて、「かばん」6月号では「短歌とネットプリント」を特集している。「電子(デジタル)で配信、紙(アナログ)で出力」という切り口で、「令和の現在、電子でのやりとりが増え電子書籍がシェアを拡大しても、平安から続く紙でのやりとりは失われていない。デジタルの利便性を活かしつつ、それでも紙で読みたい・読ませたい私達のニーズに、ネットプリント(ネプリ)はちょうど良くフィットする」と特集の扉に書かれている。
「短歌ネプリの今」という文章がネプリの成り立ちと現状を要領よくまとめていて参考になる。ネプリはインターネット経由で登録した文書ファイルをコンビニのコピー機に登録し、予約番号を入力すればだれでも印刷できるというサービス。富士フイルムビジネスイノベーションがセブンイレブンにこのサービスを提供して開始したのが2003年。その後シャープがファミマ・ローソンに提供にするようになった。コンビニによって予約番号が数字だったり記号だったりして不便だと思っていたが、提供している企業が異なっているのだった。当初、ビジネス文書や写真などを旅先で印刷できるサービスだったのが、クリエーターたちの作品発表の場としても使われるようになったということだ。
「ネプリが、短歌の総合誌や結社誌以外の雑誌で紹介されるまでに認知されてきたのは、歌集を出版している歌人や結社に所属している歌人のみならず、SNSを主な活動の場として日々作品を発表している歌人の活動のおかげであろう」
川柳でもネプリを使った発信が行われるようになって、最近では成瀬悠がツイッターで募集した「Twitter現代川柳アンソロ」が注目される。短歌ではよくあるが、川柳ではパイオニア的な試み。この時評の6月14日でも取り上げている。
橋爪志保の話に戻ると、橋爪は2020年に第2回笹井宏之賞内の永井祐賞を受賞、2021年に第一歌集『地上絵』(書肆侃侃房)を上梓。また2022年3月に川柳のネットプリントvol.1「鬱転の姫君」を発行した。歌集『地上絵』から3首引用しておく。
淀川は広いな鴨川とは全然ちがうなほとんど琵琶湖じゃないか
I am a 大丈夫 ゆえ You are a 大丈夫 too 地上絵あげる
僕たちの時代は来ない 置いたけど届かなかった脚立のように
歌人として嘱望される橋爪がなぜ川柳実作に興味をもったのだろうか。「川柳スパイラル」15号の飯島章友との対談で、橋爪はそのきっかけについて、次のように語っている。
〈「ゆにここカルチャースクール」の暮田真名さんの川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」がきっかけです。それまでも川柳は細々と何かの機会があるごとに作ってはいたのですが、講座をきっかけにモチベーションが上がり、いきなり作る量が増えた、という感じです。ちょうど短歌の新しい連作を作っていたときで、その連作は自分の身を切ったような重い作風のものだったんです。作る楽しみと同時にしんどさがありました。そのしんどさを救ってくれたのが川柳でした。川柳の(短歌よりも比較的)「私」から解放されているという特性に惹かれます〉
千柳vol.1「鬱転の姫君」から5句引用する。
巧妙に電話相手を食べ尽くす
アイコンが似ても嘔吐はいちどきり
蛍より蛍の歴史重すぎる
「嫌なこと次々思い出しマーチ」
ゆびとゆびの間のテキストボックスよ
飯島との対談で橋爪はこんなふうに言っている。
〈「千柳」が結構多くの方にプリントアウトしてもらえたのはやっぱり大きかったですね。こんなに読んでもらえるのだな、と気付けたことは本当にありがたかった。句会はまだ参加したことがないのですが、川柳でやりたいこと・やれることがもう少しわかってきたら、挑戦してみたいです〉
その後、彼女は「川柳スパイラル」大阪句会にも参加したことがあるが、vol.2の発行予定を尋ねたところ100句をそろえるには時間がかかると言っていた。そしてVol.2が2022年9月に、vol.3が2023年7月に発行された。それぞれ5句ずつ紹介する。
vol.2「ドラムロールの肖像画」より。
ドラちゃんはドラムロールの肖像画
ブリリアントな眩暈楽しむ
先方がほしがる星の扇風機
消える手を試した何回も試した
みがわりは無限に入るキャビネット
vol.3「ねこ川柳botの軌跡」より。
ねこたちが電解液に溶ける夜
完璧なねこの額でクロールを
ねこの恋 コミュニケーションぜんぶ傷
くろねこの対義語が盛り塩だろう
転がったねこは明るき羅針盤
「ねこ」の題詠で100句揃えるには作者の力量を必要とするが、世間に流通している「猫川柳」とはまったく異なった世界が成立している。
「川柳スパイラル」18号のゲスト作品にも彼女は10句発表している。川柳実作への意欲が並々ではないことが感じられて心強い。
機器ひとつ生むならきっと水電話 橋爪志保
2023年7月28日金曜日
あたかも俳諧師のように
時評を更新できないまま、一か月が過ぎてしまった。週刊ではなくて月刊になりつつある。この間のことを日記風に書き留めておく。
6月〇日
「解纜連句会」に出席のため東京へ。会場は高円寺の庚申会館。別所真紀子さんの捌きでソネット二巻を巻く。関西では鈴木漠さんの方式でソネットが巻かれることが多く、脚韻を踏む。韻は抱擁韻・交叉韻・平坦韻の三種類がある。この日は抱擁韻と交叉韻の二巻。ソネットは四連の十四行詩だから、抱擁韻の場合はabba/cddc/eff/eggとなる(交叉韻の説明は省略)。「解纜」33号から別所さんの説明を引用しておく。
「連句でソネット形式を始められたのは杏花村塾時代の珍田弥一郎氏であったが、押韻はしなかった。連句の場合、五七五、七七の音数律があり、かつ日本語は頭韻が音楽性を持つので当初脚韻は踏まなかったようだった」「詩人の鈴木漠氏は活字表現としての押韻を唱えられていて、現在の連句界では漠氏に従っている。それもひとつの在り方であろう」
高円寺界隈ははじめてだったので、商店街を探訪。昼食にはベトナム料理のフォーを注文。連句会終了後、数人で居酒屋に行き、さらにひとりでお酒も飲める異色の古書店に入る。なかなかおもしろい街だ。
6月〇日
「草門会」に出席。山地春眠子さんの捌きでソネットを巻く。この日は珍田弥一郎方式で韻は踏まない。珍田弥一郎によるソネットの説明を紹介しておく。
「ソネット俳諧を試みて何回目かになるが、ひとつはっきりしてきたことがある。十四行四章は四面の鏡からなる部屋だということだ。これが円形の鏡・円形の部屋にならないためには、各面のつなぎ目が明確に切れていなければならない。切れの強さが次の鏡を立てさせる。そして四面それぞれが同じ色彩・同じ動きであってはならぬこと」(山地春眠子『現代連句入門』による)
ソネットといっても、それぞれのルーツがあり、創作イメージが異なっている。春眠子さんには現代連句の歴史についていろいろ質問したが、『草門帖・7』に「東京義仲寺連句会~草門会」の年譜がまとめてあり、参考になる。
6月〇日
日本連句協会の主催でリモート連句大会。コロナ禍でリアル句会の開催がむずかしくなったときにZoomを使ったリモート連句大会がはじまった。今年はその三回目。8座36名の参加があり、私の担当した座は5名。半歌仙を巻く。リモート連句は遠方の連句人とも一座できるというプラス面がある。リアルの座に比べて雑談などのコミュニケーションがとりにくいところもあるが、一巡したあとは膝送りにしたので、順番が回ってこない人といろいろ話をすることができた。
6月〇日
明石の林崎海岸にあるカレー・ハウス「Babbulkund(バブルクンド)」で連句会。会名は「連句海岸」で主催者は門野優。店名は稲垣足穂の小説「黄漠奇聞」にちなむ。前に海水浴場があり、海開きはまだだが、泳いでいる人もいる。連句会は捌きの私と主催者を除いて定員六名。半歌仙を巻く。連句会終了後、海辺の散策と懇親会。夕陽が美しい海岸だということだが、この日は雲が出ていてはっきり見えなかった。
7月〇日
和歌山県民文化会館で「第9回わかやま連句会」を開催。参加者11名。毎回、連句実作の前に和歌山県にちなんだ文芸の話をしている。南方熊楠・佐藤春夫・小栗判官と熊野古道などを取り上げてきたが、この日は中上健次と熊野大学の話をする。紀州熊野サーガについては『岬』『枯木灘』を中心に登場人物の系図をもとに紹介。熊野大学については、茨木和生や谷口智行など熊野大学俳句部・「運河」などにも触れた。国民文化祭わかやまを契機にはじまった「わかやま連句会」だが、会を重ねるごとに和歌山の文芸に対する理解が深まってゆく。
7月15日
かねて行きたいと思っていた関の弁慶庵を訪ねる。美濃太田から長良川鉄道で関へ。駅から徒歩数分のところに惟然にゆかりの弁慶庵があり、惟然記念館になっている。惟然は芭蕉の弟子で口語俳句の祖と言われる。私は惟然のはじめた風羅念仏に興味があったので、記念館でテープをかけてもらった。
古池やかはづ飛びこむ水の音 なもうだなもうだ
鐘は上野か浅草か なもうだなもうだ
京なつかしやほととぎす なもうだなもうだ
こんな調子で芭蕉の発句を和讃形式にしたもので、十二番まであるが、一番から六番までが惟然の作、七番以降は寺崎方堂作だという。弁慶庵ではすでに伝承が絶え、義仲寺のほうに保存会があるという。 弁慶庵をあとにして、郡上八幡へ向かう。この夜はおどり発祥祭で旧庁舎記念館前で郡上踊りの輪に参加した。
7月16日
第36回連句フェスタ宗祇水。朝、宗祇水の前で発句奉納。「かわさき」「春駒」「三百」の座のそれぞれの発句が披露される。そのあと会場に移動して歌仙を巻く。座名は郡上踊りにちなんだもので、私は「三百」の座に参加。夕方までに巻き上がったあと、再び宗祇水に集合して、巻き上がった歌仙を読み上げるかたちで奉納する。
7月17日
朝、ひとりで宗祇水に行き清流の河鹿蛙の鳴き声を聞きながら缶珈琲を飲む。これで郡上ともお別れだ。高速バスに乗って岐阜へ。郡上八幡になじんだ感覚が岐阜の大都会の雰囲気を受けつけなくなっている。すぐに大垣へ向かった。
水門川沿いの句碑を見ながら「奥の細道むすびの地記念館」へ。芭蕉が大垣を四度訪れていることや谷木因のことなど認識を新たにした。日本連句協会の「会報 連句」6月号の巻頭に紹介されている「はやう咲九日も近し菊の宿」を発句とする歌仙のうち最初の十二句までを刻んだ連句碑も確認できた。
7月〇日
「江古田文学」113号が届く。特集・連句入門。特別講座篇・座談会篇の佐藤勝明は大垣の「むすびの地記念館」の展示の監修者でもある。座談会は日芸江古田キャンパスで行われて、佐藤氏のほかに浅沼璞・高橋実里・日比谷虚俊が参加している。連句界からは佛淵健悟〈「一茶連句入門書」入門〉、小池正博〈「現代連句入門書」入門〉、二上貴夫〈虚栗集「詩あきんど」の巻〉などが掲載。連句人必読の一冊となっている。
6月〇日
「解纜連句会」に出席のため東京へ。会場は高円寺の庚申会館。別所真紀子さんの捌きでソネット二巻を巻く。関西では鈴木漠さんの方式でソネットが巻かれることが多く、脚韻を踏む。韻は抱擁韻・交叉韻・平坦韻の三種類がある。この日は抱擁韻と交叉韻の二巻。ソネットは四連の十四行詩だから、抱擁韻の場合はabba/cddc/eff/eggとなる(交叉韻の説明は省略)。「解纜」33号から別所さんの説明を引用しておく。
「連句でソネット形式を始められたのは杏花村塾時代の珍田弥一郎氏であったが、押韻はしなかった。連句の場合、五七五、七七の音数律があり、かつ日本語は頭韻が音楽性を持つので当初脚韻は踏まなかったようだった」「詩人の鈴木漠氏は活字表現としての押韻を唱えられていて、現在の連句界では漠氏に従っている。それもひとつの在り方であろう」
高円寺界隈ははじめてだったので、商店街を探訪。昼食にはベトナム料理のフォーを注文。連句会終了後、数人で居酒屋に行き、さらにひとりでお酒も飲める異色の古書店に入る。なかなかおもしろい街だ。
6月〇日
「草門会」に出席。山地春眠子さんの捌きでソネットを巻く。この日は珍田弥一郎方式で韻は踏まない。珍田弥一郎によるソネットの説明を紹介しておく。
「ソネット俳諧を試みて何回目かになるが、ひとつはっきりしてきたことがある。十四行四章は四面の鏡からなる部屋だということだ。これが円形の鏡・円形の部屋にならないためには、各面のつなぎ目が明確に切れていなければならない。切れの強さが次の鏡を立てさせる。そして四面それぞれが同じ色彩・同じ動きであってはならぬこと」(山地春眠子『現代連句入門』による)
ソネットといっても、それぞれのルーツがあり、創作イメージが異なっている。春眠子さんには現代連句の歴史についていろいろ質問したが、『草門帖・7』に「東京義仲寺連句会~草門会」の年譜がまとめてあり、参考になる。
6月〇日
日本連句協会の主催でリモート連句大会。コロナ禍でリアル句会の開催がむずかしくなったときにZoomを使ったリモート連句大会がはじまった。今年はその三回目。8座36名の参加があり、私の担当した座は5名。半歌仙を巻く。リモート連句は遠方の連句人とも一座できるというプラス面がある。リアルの座に比べて雑談などのコミュニケーションがとりにくいところもあるが、一巡したあとは膝送りにしたので、順番が回ってこない人といろいろ話をすることができた。
6月〇日
明石の林崎海岸にあるカレー・ハウス「Babbulkund(バブルクンド)」で連句会。会名は「連句海岸」で主催者は門野優。店名は稲垣足穂の小説「黄漠奇聞」にちなむ。前に海水浴場があり、海開きはまだだが、泳いでいる人もいる。連句会は捌きの私と主催者を除いて定員六名。半歌仙を巻く。連句会終了後、海辺の散策と懇親会。夕陽が美しい海岸だということだが、この日は雲が出ていてはっきり見えなかった。
7月〇日
和歌山県民文化会館で「第9回わかやま連句会」を開催。参加者11名。毎回、連句実作の前に和歌山県にちなんだ文芸の話をしている。南方熊楠・佐藤春夫・小栗判官と熊野古道などを取り上げてきたが、この日は中上健次と熊野大学の話をする。紀州熊野サーガについては『岬』『枯木灘』を中心に登場人物の系図をもとに紹介。熊野大学については、茨木和生や谷口智行など熊野大学俳句部・「運河」などにも触れた。国民文化祭わかやまを契機にはじまった「わかやま連句会」だが、会を重ねるごとに和歌山の文芸に対する理解が深まってゆく。
7月15日
かねて行きたいと思っていた関の弁慶庵を訪ねる。美濃太田から長良川鉄道で関へ。駅から徒歩数分のところに惟然にゆかりの弁慶庵があり、惟然記念館になっている。惟然は芭蕉の弟子で口語俳句の祖と言われる。私は惟然のはじめた風羅念仏に興味があったので、記念館でテープをかけてもらった。
古池やかはづ飛びこむ水の音 なもうだなもうだ
鐘は上野か浅草か なもうだなもうだ
京なつかしやほととぎす なもうだなもうだ
こんな調子で芭蕉の発句を和讃形式にしたもので、十二番まであるが、一番から六番までが惟然の作、七番以降は寺崎方堂作だという。弁慶庵ではすでに伝承が絶え、義仲寺のほうに保存会があるという。 弁慶庵をあとにして、郡上八幡へ向かう。この夜はおどり発祥祭で旧庁舎記念館前で郡上踊りの輪に参加した。
7月16日
第36回連句フェスタ宗祇水。朝、宗祇水の前で発句奉納。「かわさき」「春駒」「三百」の座のそれぞれの発句が披露される。そのあと会場に移動して歌仙を巻く。座名は郡上踊りにちなんだもので、私は「三百」の座に参加。夕方までに巻き上がったあと、再び宗祇水に集合して、巻き上がった歌仙を読み上げるかたちで奉納する。
7月17日
朝、ひとりで宗祇水に行き清流の河鹿蛙の鳴き声を聞きながら缶珈琲を飲む。これで郡上ともお別れだ。高速バスに乗って岐阜へ。郡上八幡になじんだ感覚が岐阜の大都会の雰囲気を受けつけなくなっている。すぐに大垣へ向かった。
水門川沿いの句碑を見ながら「奥の細道むすびの地記念館」へ。芭蕉が大垣を四度訪れていることや谷木因のことなど認識を新たにした。日本連句協会の「会報 連句」6月号の巻頭に紹介されている「はやう咲九日も近し菊の宿」を発句とする歌仙のうち最初の十二句までを刻んだ連句碑も確認できた。
7月〇日
「江古田文学」113号が届く。特集・連句入門。特別講座篇・座談会篇の佐藤勝明は大垣の「むすびの地記念館」の展示の監修者でもある。座談会は日芸江古田キャンパスで行われて、佐藤氏のほかに浅沼璞・高橋実里・日比谷虚俊が参加している。連句界からは佛淵健悟〈「一茶連句入門書」入門〉、小池正博〈「現代連句入門書」入門〉、二上貴夫〈虚栗集「詩あきんど」の巻〉などが掲載。連句人必読の一冊となっている。
2023年6月14日水曜日
川柳誌とネットプリント
「触光」78号に第13回高田寄生木賞が発表されている。受賞は木本朱夏「白椿のひと―森中惠美子小論」、入賞は滋野さち「社会詠として時事を詠む」、北村克郎「川柳が今、おもしろい」、原田隆子「隆子流『江戸川柳』考」。
高田寄生木賞は川柳に関する論文・エッセイを募集する川柳界で唯一の賞である。今回の受賞作、木本朱夏は「川柳界には二人のエミコがいる」という書き出しで、時実新子(旧姓・森恵美子)と森中惠美子を対照的に取り上げている。
墓の下の男の下にねむりたや 時実新子
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中惠美子
入賞作の中では滋野さちの「社会詠として時事を詠む」に注目した。「時事吟は消え物か」「時事川柳は男性のものか」「時事をどう書くか」「批判をどう書くか」など体験に基づいた滋野の考えが語られている。
「触光」には時事川柳のコーナーがあり、濱山哲也が選をしている。何句か紹介しよう。
WBCわたしのよるのトピックス 勝又明城
鯨幕見ても涙のパンダロス 津田暹
政治家の公平さんの肩をもつ まつりぺきん
産めよ増やせよタイムスリップしたみたい 鈴木節子
外野席から必勝しゃもじ振っている 滋野さち
「川柳木馬」176号。「木馬座の作家」として内田万貴と大野美恵が取り上げられている。
又してもバベルの塔が築かれる 内田万貴
体幹を支えていたのはゼリー質
差し色に清少納言の悪意など
木っ端仏に見入っていたら口説かれる
こんな時に届くワルツの沈殿物
仮の世の裏でカルマの耳打ちが 大野美恵
禁固刑でしょうか無菌室ですか
竹林に隠士の集う蝮草
空席に耳の形を置いてくる
二周目はない缶切りの潔さ
昭和54年(1979年)7月創刊の「川柳木馬」は高知県の若手グループ「四季の会」を母胎とする。誌名の由来は次の句によるという。
目覚めは哀しい曲で始まる回転木馬 渡部可奈子
「長尾鶏」「どろめ」「軍鶏」「土佐犬」などの案があったが、海地大破が掲出の可奈子の句を口づさんで誌名が決定したという。
同人作品からご紹介。
天使・悪魔それぞれの手に紙袋 湊圭伍
視界ゼロどこかで鈴が鳴っている 古谷恭一
器では二度目の味変が始まっている 山本三香子
スローモーションで君の時計を隠したんだ 高橋由美
木が燃える約束通りゆらめいて 清水かおり
月や星について行ってはだめですよ 山下和代
紙媒体の川柳誌二誌を紹介したが、このところネット川柳が元気だ。
6月に入って、成瀬悠によるネットプリント「Twitter現代川柳アンソロ」が発行された。短歌や俳句ではよく見かけるネプリだが、川柳でも試みてみようということで、成瀬の呼びかけに応じて63名126句が集まった(一人2句)。参加者一覧も掲載されているので、ネット川柳の現在を知るのに便利だ。何人かの作品を紹介しておく。
泣いていたから車幅灯だとわかる Ryu_sen
押入れの口内炎が治らない 優木ごまヲ
ベランダで半分行方不明です 石畑由紀子
大丈夫じゃないと言えば良かったな 伊藤聖子
ブロックを嵌めたら夜の完成です 雨月茄子春
栞がない 湾岸で挟む 嘔吐彗星
息継ぎする度襲名しちゃう 栫伸太郎
ヘイトから届くゆるふわ母子手帳 西脇祥貴
ネットプリントの打ち出し期間はもう済んでいるが、秋には第二弾が予定されているという。
もうひとつ、まつりぺきんによる投稿連作川柳アンソロジー「川柳EXPO」が作品募集中。誰でも投稿できるが、ネット上の投稿ページからに限る。投稿作品は未発表の20句からなる川柳連作・群作(タイトルを付ける)。単発作品ではなくて20句セットなので、作者・作品の資質・特性が立ち上がってくることになりそうだ。募集は6月30日まで。
先日の朝日新聞「うたをよむ」(6月11日朝刊)の欄で染野太朗が「文学フリマ」の熱気について書いていた。5月21日の文学フリマ東京では出店者・来場者合わせて1万人を超えた。「文学フリマのたびに膨大な数の短歌が発表されるが、それが読まれる場はいまだにほぼSNSに限られているように思う。分断を越えて読みの場の拡大を、などと『べき』を掲げるつもりはないが、参加した一人として少しでも鑑賞や批評を残していきたいと思った」と染野は書いている。
川柳では文学フリマでの作品発表はほとんどないが、ネットでの作品発表は出始めている。読まれ語り継がれる作品と消えてゆく作品があるのは紙媒体でも同じだが、量産されるネット作品を整理・可視化する試みがいくつか出てきたのは、貴重な情報源となりそうだ。
高田寄生木賞は川柳に関する論文・エッセイを募集する川柳界で唯一の賞である。今回の受賞作、木本朱夏は「川柳界には二人のエミコがいる」という書き出しで、時実新子(旧姓・森恵美子)と森中惠美子を対照的に取り上げている。
墓の下の男の下にねむりたや 時実新子
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中惠美子
入賞作の中では滋野さちの「社会詠として時事を詠む」に注目した。「時事吟は消え物か」「時事川柳は男性のものか」「時事をどう書くか」「批判をどう書くか」など体験に基づいた滋野の考えが語られている。
「触光」には時事川柳のコーナーがあり、濱山哲也が選をしている。何句か紹介しよう。
WBCわたしのよるのトピックス 勝又明城
鯨幕見ても涙のパンダロス 津田暹
政治家の公平さんの肩をもつ まつりぺきん
産めよ増やせよタイムスリップしたみたい 鈴木節子
外野席から必勝しゃもじ振っている 滋野さち
「川柳木馬」176号。「木馬座の作家」として内田万貴と大野美恵が取り上げられている。
又してもバベルの塔が築かれる 内田万貴
体幹を支えていたのはゼリー質
差し色に清少納言の悪意など
木っ端仏に見入っていたら口説かれる
こんな時に届くワルツの沈殿物
仮の世の裏でカルマの耳打ちが 大野美恵
禁固刑でしょうか無菌室ですか
竹林に隠士の集う蝮草
空席に耳の形を置いてくる
二周目はない缶切りの潔さ
昭和54年(1979年)7月創刊の「川柳木馬」は高知県の若手グループ「四季の会」を母胎とする。誌名の由来は次の句によるという。
目覚めは哀しい曲で始まる回転木馬 渡部可奈子
「長尾鶏」「どろめ」「軍鶏」「土佐犬」などの案があったが、海地大破が掲出の可奈子の句を口づさんで誌名が決定したという。
同人作品からご紹介。
天使・悪魔それぞれの手に紙袋 湊圭伍
視界ゼロどこかで鈴が鳴っている 古谷恭一
器では二度目の味変が始まっている 山本三香子
スローモーションで君の時計を隠したんだ 高橋由美
木が燃える約束通りゆらめいて 清水かおり
月や星について行ってはだめですよ 山下和代
紙媒体の川柳誌二誌を紹介したが、このところネット川柳が元気だ。
6月に入って、成瀬悠によるネットプリント「Twitter現代川柳アンソロ」が発行された。短歌や俳句ではよく見かけるネプリだが、川柳でも試みてみようということで、成瀬の呼びかけに応じて63名126句が集まった(一人2句)。参加者一覧も掲載されているので、ネット川柳の現在を知るのに便利だ。何人かの作品を紹介しておく。
泣いていたから車幅灯だとわかる Ryu_sen
押入れの口内炎が治らない 優木ごまヲ
ベランダで半分行方不明です 石畑由紀子
大丈夫じゃないと言えば良かったな 伊藤聖子
ブロックを嵌めたら夜の完成です 雨月茄子春
栞がない 湾岸で挟む 嘔吐彗星
息継ぎする度襲名しちゃう 栫伸太郎
ヘイトから届くゆるふわ母子手帳 西脇祥貴
ネットプリントの打ち出し期間はもう済んでいるが、秋には第二弾が予定されているという。
もうひとつ、まつりぺきんによる投稿連作川柳アンソロジー「川柳EXPO」が作品募集中。誰でも投稿できるが、ネット上の投稿ページからに限る。投稿作品は未発表の20句からなる川柳連作・群作(タイトルを付ける)。単発作品ではなくて20句セットなので、作者・作品の資質・特性が立ち上がってくることになりそうだ。募集は6月30日まで。
先日の朝日新聞「うたをよむ」(6月11日朝刊)の欄で染野太朗が「文学フリマ」の熱気について書いていた。5月21日の文学フリマ東京では出店者・来場者合わせて1万人を超えた。「文学フリマのたびに膨大な数の短歌が発表されるが、それが読まれる場はいまだにほぼSNSに限られているように思う。分断を越えて読みの場の拡大を、などと『べき』を掲げるつもりはないが、参加した一人として少しでも鑑賞や批評を残していきたいと思った」と染野は書いている。
川柳では文学フリマでの作品発表はほとんどないが、ネットでの作品発表は出始めている。読まれ語り継がれる作品と消えてゆく作品があるのは紙媒体でも同じだが、量産されるネット作品を整理・可視化する試みがいくつか出てきたのは、貴重な情報源となりそうだ。
2023年6月2日金曜日
現代川柳の歴史を振り返る
4月からNHK文化センター梅田教室で「はじめまして現代川柳」の講座を開いている。月1回第四土曜日の夜で、第1回「現代川柳とはどういうものか」、第2回「現代川柳の歴史を振り返る」まで終了。ここでは第2回の内容を簡単に述べておきたい。
現代川柳の出発点について定説はないが、戦後の現代川柳の出発は関東では中村冨二、関西では河野春三からはじまったというのが私の考えである。
まず中村冨二の方から話をはじめると、『はじめまして現代川柳』の冨二の解説で私はこんなふうに書いている。
「1948年(昭和23年)の暮れ、まだ闇市の雰囲気の残る川崎駅前で中村冨二はバラック造りの古本屋「なかとみ書房」を開いていた。二坪ほどの仮店舗で、雨が降ると土間には水たまりができた。ある日、ビールの空き箱を逆さにして雑誌を読んでいた冨二の目の前が急に暗くなって、佇んだ一人の青年がいた。この青年・松本芳味と中村冨二の出会いから関東における戦後川柳は始まった」
読者に興味をもってもらえるようにこの部分は物語的に書いている。実際に見てきたわけではないが、いちおう当時の証言にもとづいている。
1950年、冨二は「川柳鴉組」を結成。梅田教室では合同句集『鴉』(1957年)を展示して参加者の手に取ってもらった。冨二のほか星野光一、片柳哲郎、金子勘九郎、山村祐、松本芳味などの作品が収録されている。
『中村冨二・千句集』から5句だけ紹介しておく。
人殺しして來て細い糞をする
セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻
たちあがると、鬼である
パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い
美少年 ゼリーのように裸だね
次に河野春三について。春三は1948年3月に川柳誌「私」を発行。1956年12月に「天馬」創刊。「私」は個人誌だったが、「天馬」は同人誌である。「現代川柳」という呼称が定着したのはこの頃である。
「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」二号・1957年2月の座談会)
春三の作品を紹介しておく。
水栓のもるる枯野を故郷とす
母系につながる一本の高い細い桐の木
死蝶 私を降りてゆく 無限階段の縄
濁流は太古に発し流木の刑
おれの ひつぎは おれがくぎうつ
「水栓」の句について、『はじめまして現代川柳』では次のように解説している。
「一面の焼野原と化した戦後の情景である。焼け残った水道の蛇口から水がポタポタ滴り落ちている」「終戦後、春三は堺市でバラック小屋に住み、自炊生活をしていた。泥棒に二回も入られたが、警察に捕まった泥棒に「お前のうちはとるものが少なかった」と言われたそうだ。関西における戦後川柳の出発点であり、それが水栓のもれる故郷の原風景と重ねあわされている」
その後、紆余曲折があるのだが、1966年8月に「川柳ジャーナル」が創刊される。「海図」「鷹」「不死鳥」「流木」「馬」の各誌を統合するかたちである。教室ではこれらの雑誌の実物を展示。当時の雰囲気を実感するには川柳誌の実物を手にとるのが一番であるが、「川柳ジャーナル」といっても40ページ足らずの薄い冊子なので、逆に幻滅するかもしれない。しかし、「川柳ジャーナル」の時代には現代川柳の多方向に向かう傾向が共存していたので、さまざまな可能性があった。
神さまに聞える声で ごはんだよ ごはんだよ 山村祐
これはたたみか 松本芳味
芒が原か
父かえせ
母かえせ
風が掛けた鍵 開けて逝く誰か 細田洋二
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ
夜の藻を九官鳥でかいくぐる
山村祐は川柳を一行詩ととらえ、川柳を現代詩に解消しようとした。松本芳味は多行川柳の代表的作者。細田洋二は言葉の復権を唱え川柳における言葉派のルーツとなった。
さて、大正末年から昭和初年にかけて新興川柳運動が起こったが、戦前の新興川柳と戦後の現代川柳とはどのような関係にあるのだろうか。両者は無関係で現代川柳は新興川柳の継承者ではないという立場もあるが、私は継承関係はあるという立場であるし、また新興川柳の遺産を継承しなければならないと思っている。そういう意味で『はじめまして現代川柳』の第三章に川上日車、木村半文銭、河野春三、中村冨二、細田洋二の作品を収録している。
人間を摑めば風が手に残り 田中五呂八
人間を取ればおしゃれな地球なり 白石維想樓
竝べ見る宇宙一つはアメーバの 渡辺尺蠖
錫 鉛 銀 川上日車
元前二世紀ごろの咳もする 木村半文銭
あと、講座では実践編として「第55回玉野市民川柳大会」(平成16年7月)のときの兼題「妖精」の入選句を資料として配布した。石田柊馬の「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」が詠まれた大会である。
次回6月24日の教室では「現代川柳をどう読むか」というテーマで、『はじめまして現代川柳』の第一章・第二章に収録されている作者を中心に取り上げる予定である。
現代川柳の出発点について定説はないが、戦後の現代川柳の出発は関東では中村冨二、関西では河野春三からはじまったというのが私の考えである。
まず中村冨二の方から話をはじめると、『はじめまして現代川柳』の冨二の解説で私はこんなふうに書いている。
「1948年(昭和23年)の暮れ、まだ闇市の雰囲気の残る川崎駅前で中村冨二はバラック造りの古本屋「なかとみ書房」を開いていた。二坪ほどの仮店舗で、雨が降ると土間には水たまりができた。ある日、ビールの空き箱を逆さにして雑誌を読んでいた冨二の目の前が急に暗くなって、佇んだ一人の青年がいた。この青年・松本芳味と中村冨二の出会いから関東における戦後川柳は始まった」
読者に興味をもってもらえるようにこの部分は物語的に書いている。実際に見てきたわけではないが、いちおう当時の証言にもとづいている。
1950年、冨二は「川柳鴉組」を結成。梅田教室では合同句集『鴉』(1957年)を展示して参加者の手に取ってもらった。冨二のほか星野光一、片柳哲郎、金子勘九郎、山村祐、松本芳味などの作品が収録されている。
『中村冨二・千句集』から5句だけ紹介しておく。
人殺しして來て細い糞をする
セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻
たちあがると、鬼である
パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い
美少年 ゼリーのように裸だね
次に河野春三について。春三は1948年3月に川柳誌「私」を発行。1956年12月に「天馬」創刊。「私」は個人誌だったが、「天馬」は同人誌である。「現代川柳」という呼称が定着したのはこの頃である。
「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」二号・1957年2月の座談会)
春三の作品を紹介しておく。
水栓のもるる枯野を故郷とす
母系につながる一本の高い細い桐の木
死蝶 私を降りてゆく 無限階段の縄
濁流は太古に発し流木の刑
おれの ひつぎは おれがくぎうつ
「水栓」の句について、『はじめまして現代川柳』では次のように解説している。
「一面の焼野原と化した戦後の情景である。焼け残った水道の蛇口から水がポタポタ滴り落ちている」「終戦後、春三は堺市でバラック小屋に住み、自炊生活をしていた。泥棒に二回も入られたが、警察に捕まった泥棒に「お前のうちはとるものが少なかった」と言われたそうだ。関西における戦後川柳の出発点であり、それが水栓のもれる故郷の原風景と重ねあわされている」
その後、紆余曲折があるのだが、1966年8月に「川柳ジャーナル」が創刊される。「海図」「鷹」「不死鳥」「流木」「馬」の各誌を統合するかたちである。教室ではこれらの雑誌の実物を展示。当時の雰囲気を実感するには川柳誌の実物を手にとるのが一番であるが、「川柳ジャーナル」といっても40ページ足らずの薄い冊子なので、逆に幻滅するかもしれない。しかし、「川柳ジャーナル」の時代には現代川柳の多方向に向かう傾向が共存していたので、さまざまな可能性があった。
神さまに聞える声で ごはんだよ ごはんだよ 山村祐
これはたたみか 松本芳味
芒が原か
父かえせ
母かえせ
風が掛けた鍵 開けて逝く誰か 細田洋二
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ
夜の藻を九官鳥でかいくぐる
山村祐は川柳を一行詩ととらえ、川柳を現代詩に解消しようとした。松本芳味は多行川柳の代表的作者。細田洋二は言葉の復権を唱え川柳における言葉派のルーツとなった。
さて、大正末年から昭和初年にかけて新興川柳運動が起こったが、戦前の新興川柳と戦後の現代川柳とはどのような関係にあるのだろうか。両者は無関係で現代川柳は新興川柳の継承者ではないという立場もあるが、私は継承関係はあるという立場であるし、また新興川柳の遺産を継承しなければならないと思っている。そういう意味で『はじめまして現代川柳』の第三章に川上日車、木村半文銭、河野春三、中村冨二、細田洋二の作品を収録している。
人間を摑めば風が手に残り 田中五呂八
人間を取ればおしゃれな地球なり 白石維想樓
竝べ見る宇宙一つはアメーバの 渡辺尺蠖
錫 鉛 銀 川上日車
元前二世紀ごろの咳もする 木村半文銭
あと、講座では実践編として「第55回玉野市民川柳大会」(平成16年7月)のときの兼題「妖精」の入選句を資料として配布した。石田柊馬の「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」が詠まれた大会である。
次回6月24日の教室では「現代川柳をどう読むか」というテーマで、『はじめまして現代川柳』の第一章・第二章に収録されている作者を中心に取り上げる予定である。
2023年5月26日金曜日
「外出」と「西瓜」、「楽園」
「外出」は2019年5月創刊。内山晶太・染野太朗・花山周子・平岡直子の四人による短歌同人誌である。最新号の九号を「文フリ東京36」で手に入れたので紹介する。
初燕とおく目に追う、人生は思い通りにいくものだから 染野太朗
一頭のキリンのスケールが屹立すキリン一頭が立つ空間に 花山周子
ニジマスが流しの横に置いてあるすべてのものがこわいと思う 平岡直子
いま寒きところは指のほかは腋、風に同調するこの服が 内山晶太
特集は内山晶太歌集『窓、その他』について染野・花岡・平岡の三人が座談会をおこなっている。『窓、其の他』の初版は2012年9月刊行だが、今年になって現代短歌クラッシックスの一冊として新装版が出版された。10年前を思い出しながら、同人で読み直したという。初版が発行されたあと、2013年3月に批評会が開催されていて、パネリストは大島史洋・島田幸典・染野太朗・平岡直子。10年経過しても読み継がれる歌集ということだろう。今回の座談会でも染野は次の歌について述べている。
たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく 内山晶太
この歌について染野は認識や情景を語彙レベルで一般的でないものに異化する力があると言い、平岡は空間が自分の胸のうちにあるという感じだと述べている。
今号の裏表紙には若山牧水の次の文章が掲載されている。
「この正月ころからめつきり身體に出て来た酒精中毒のために旅行はおろか、町までへの外出をもようしなくなつた私にとつてこの松原と濱とは實にありがたい散歩場所であるのである。それも少し遠くまで歩くと動悸が打つので、自分の家に近いほんの僅かの部分を毎日飽くことなく、二度づつ歩いてゐるのである」(「鴉と正覚坊」)
なぜ牧水なのかと思ったら文中に「外出」という言葉があるのだった。牧水は日向の出身。柳田国男の「後狩詞記」で有名になった椎葉村に近い。『旅とふるさと』を読んだことがあるが、牧水の文章は妙な生々しさがあって印象的だ。
「猪狩にはいろいろ面白い形式が行われている。幾人か組んでゆくのであるが、その中の大将ともいうべきは勢子と呼んで、先ず陣地の手配りをする。それから一手に猟犬を使うというような役である。猪が取れれば組の多少に係わらずその頭だけはその勢子に分配される。それからその致命傷をあてた者が同じく片股一本、其の他の部分をば更に組々の人数で等分するのである」(「曇り日の座談」、『旅とふるさと』)
もう一冊、文フリ東京で手に入れたのは「西瓜」。こちらは第八号。
忘れてくれ あの世に半身残したまま街をゆく半透明のひと 楠誓英
命まで取ってください すごろくに駒ではなくて躰を置いた 鈴木晴香
暗闇にジントニックを灯らせてけふを葬る時間に座る 門脇篤史
糸を吐くときの苦しい表情を見守っている夜明けの繊月 曾根毅
鬼になれと先輩の言うその鬼は赤鬼ですか青鬼ですか 三田三郎
助けてとさんざん叫び終えたあとみたいなからっぽさ、安けさ とみいえひろこ
あのように見せたいという欲だけが ビタミン/冬至 星をつなぐね 染野太朗
手はまたも寒い胴体から垂れて朝の光を斬りつつ歩く 江戸雪
作品のほかに三田三郎の随筆「泥酔の経験は人間を謙虚にする」、鈴木晴香の小説「もも」など。読者投稿欄が充実していて、五首セットの連作が多数掲載されている。
最後に、『楽園』第二巻、湊合版から。
人もまた人体模型姫始 堀田季何
マネキンを抱へて春とすれ違ふ
微熱あり基地内部核保有国
ミサイルに雲雀と名づけ放ちやる
クローンの総理百体盆踊
西瓜とは私性を留めたる
叛逆はいつも初鶏刎ねてより
アイシャドウ童女のゆびに照りうらら 南雲ゆゆ
対面の他人も脚の蚊を打ちぬ 日比谷虚俊
東京にあるエモい電柱 日比谷虚俊
連句も掲載されていて、日比谷虚俊「猫撫記」、靜寿美子の「連句入門」など連句に触れた文章もある。
籠のインコに名前教える 慶
一斉に月に傾くバスの客 也
秋刀魚焦がして母はへらへら 日比谷虚俊
初燕とおく目に追う、人生は思い通りにいくものだから 染野太朗
一頭のキリンのスケールが屹立すキリン一頭が立つ空間に 花山周子
ニジマスが流しの横に置いてあるすべてのものがこわいと思う 平岡直子
いま寒きところは指のほかは腋、風に同調するこの服が 内山晶太
特集は内山晶太歌集『窓、その他』について染野・花岡・平岡の三人が座談会をおこなっている。『窓、其の他』の初版は2012年9月刊行だが、今年になって現代短歌クラッシックスの一冊として新装版が出版された。10年前を思い出しながら、同人で読み直したという。初版が発行されたあと、2013年3月に批評会が開催されていて、パネリストは大島史洋・島田幸典・染野太朗・平岡直子。10年経過しても読み継がれる歌集ということだろう。今回の座談会でも染野は次の歌について述べている。
たんぽぽの河原を胸にうつしとりしずかなる夜の自室をひらく 内山晶太
この歌について染野は認識や情景を語彙レベルで一般的でないものに異化する力があると言い、平岡は空間が自分の胸のうちにあるという感じだと述べている。
今号の裏表紙には若山牧水の次の文章が掲載されている。
「この正月ころからめつきり身體に出て来た酒精中毒のために旅行はおろか、町までへの外出をもようしなくなつた私にとつてこの松原と濱とは實にありがたい散歩場所であるのである。それも少し遠くまで歩くと動悸が打つので、自分の家に近いほんの僅かの部分を毎日飽くことなく、二度づつ歩いてゐるのである」(「鴉と正覚坊」)
なぜ牧水なのかと思ったら文中に「外出」という言葉があるのだった。牧水は日向の出身。柳田国男の「後狩詞記」で有名になった椎葉村に近い。『旅とふるさと』を読んだことがあるが、牧水の文章は妙な生々しさがあって印象的だ。
「猪狩にはいろいろ面白い形式が行われている。幾人か組んでゆくのであるが、その中の大将ともいうべきは勢子と呼んで、先ず陣地の手配りをする。それから一手に猟犬を使うというような役である。猪が取れれば組の多少に係わらずその頭だけはその勢子に分配される。それからその致命傷をあてた者が同じく片股一本、其の他の部分をば更に組々の人数で等分するのである」(「曇り日の座談」、『旅とふるさと』)
もう一冊、文フリ東京で手に入れたのは「西瓜」。こちらは第八号。
忘れてくれ あの世に半身残したまま街をゆく半透明のひと 楠誓英
命まで取ってください すごろくに駒ではなくて躰を置いた 鈴木晴香
暗闇にジントニックを灯らせてけふを葬る時間に座る 門脇篤史
糸を吐くときの苦しい表情を見守っている夜明けの繊月 曾根毅
鬼になれと先輩の言うその鬼は赤鬼ですか青鬼ですか 三田三郎
助けてとさんざん叫び終えたあとみたいなからっぽさ、安けさ とみいえひろこ
あのように見せたいという欲だけが ビタミン/冬至 星をつなぐね 染野太朗
手はまたも寒い胴体から垂れて朝の光を斬りつつ歩く 江戸雪
作品のほかに三田三郎の随筆「泥酔の経験は人間を謙虚にする」、鈴木晴香の小説「もも」など。読者投稿欄が充実していて、五首セットの連作が多数掲載されている。
最後に、『楽園』第二巻、湊合版から。
人もまた人体模型姫始 堀田季何
マネキンを抱へて春とすれ違ふ
微熱あり基地内部核保有国
ミサイルに雲雀と名づけ放ちやる
クローンの総理百体盆踊
西瓜とは私性を留めたる
叛逆はいつも初鶏刎ねてより
アイシャドウ童女のゆびに照りうらら 南雲ゆゆ
対面の他人も脚の蚊を打ちぬ 日比谷虚俊
東京にあるエモい電柱 日比谷虚俊
連句も掲載されていて、日比谷虚俊「猫撫記」、靜寿美子の「連句入門」など連句に触れた文章もある。
籠のインコに名前教える 慶
一斉に月に傾くバスの客 也
秋刀魚焦がして母はへらへら 日比谷虚俊
2023年5月19日金曜日
極私的文学フリマ今昔
大阪ではじめて文学フリマが開催されたのは2013年4月のことである。堺市産業振興センターが会場で、自宅から比較的近い場所だったのでどのようなイベントなのか見にいった。たくさんの出店者が駅から会場に向かってキャリーバッグを引いてゆく姿が見られ、自作の同人誌を発信・販売する若い人たちの存在が私にとってはカルチャー・ショックだった。
もうひとつ、刺激を受けたのは2014年7月に難波の「まちライブラリー」で開催された「大阪短歌チョップ」である。トークイベントや朗読イベント、歌会や競技かるたの体験などがタイムテーブルに従って会場のあちこちで開催される。特に興味深かったのは「ネットの短歌はどこへゆく?」というトークセッションで、出演者は田中ましろ、嶋田さくらこ、牛隆佑、虫武一俊などだった。このイベントは2017年2月に第二回が開催されている。
私も真似事をしてみたくなって、2015年5月に「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」を大阪・上本町で開催した。展示解説「雑誌で見る現代川柳史」、対談「川柳をどう配信するか」(ゲスト・天野慶)などで、8ブースの出店があり、来場者74名、懇親会にも34名の参加があった。川柳には人が集まらないと思っていたが、まずまずの成功であった。
文学フリマには2015年9月の第三回文フリ大阪から出店。このときは「川柳カード」の名でブースを開いた。
2016年には5月に「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」を開催。「句集でたどる現代川柳の歩み」(石田柊馬)、対談「短歌の虚構・川柳の虚構」(ゲスト・山田消児)。来場者71名、懇親会22名。以後このイベントは開催していない。9月に第四回文フリ大阪。11月に文フリ東京(このときは出店せず、入場のみ)。
2017年5月「川柳トーク・瀬戸夏子は川柳を荒らすな」を中野サンプラザで開催。翌日が文フリ東京。文フリの前日に東京で川柳句会やイベントを開催するパターンが多くなる。9月第五回文フリ大阪(このときの店名は「川柳サイド」)。堺市での開催はこの年で終わり、翌年から大阪市内のOMMビルに会場が変更される。
2018年には1月の文フリ京都、5月の文フリ東京、9月の文フリ大阪と三都で出店。1月の文フリ京都はみやこメッセで開催され、店名は「川柳スパイラル」。文フリの前日に京都で「川柳スパイラル創刊号合評句会」を開催した。ゲスト・清水かおり。5月の文フリ東京の前日には川柳スパイラル東京句会を実施。ゲスト、我妻俊樹・瀬戸夏子。
2019年は5月の文フリ東京、9月の文フリ大阪に出店。
2020年に入り、コロナ禍のため文フリが中止や制限開催となる。5月の文フリ東京には出店を申し込んでいたが開催中止になり、以後しばらく文フリには出店を控えることになった。2022年9月の文フリ大阪から「川柳スパイラル」の出店を再開。11月の文フリ東京にも参加した。2023年に入り1月の文フリ京都に出店。5月の文フリ東京にも出店する。
詩歌(短詩型)関係では短歌の文フリ参加が多く、俳句は少なく、川柳は皆無である。私のブースでは「川柳から唯一の出店」という自虐的メッセージを掲げていたが特にアピールできたということもなかった。川柳本の販売は文フリでは効率が悪く、川柳大会に持参して販売するのが一番良いという川柳出版社もある。最近になって、少数ではあるものの川柳関係のブースや委託販売で川柳のプリントを置くところも見られるようになってきたのは心強い。また、川柳だけではなく、連句の本も若干のニーズがあるようなので、「川柳スパイラル」のブースには「川柳と連句のお店」の表示をするようにしている。本を売るだけではなくて、来場者とお話する機会があるのも嬉しいことである。
今回は、文フリ前日の5月20日に「川柳スパイラル」東京句会(北とぴあ)、5月21日に文フリ東京に出店となるので、お時間ある方はお立ちよりいただきたい。
もうひとつ、刺激を受けたのは2014年7月に難波の「まちライブラリー」で開催された「大阪短歌チョップ」である。トークイベントや朗読イベント、歌会や競技かるたの体験などがタイムテーブルに従って会場のあちこちで開催される。特に興味深かったのは「ネットの短歌はどこへゆく?」というトークセッションで、出演者は田中ましろ、嶋田さくらこ、牛隆佑、虫武一俊などだった。このイベントは2017年2月に第二回が開催されている。
私も真似事をしてみたくなって、2015年5月に「現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」を大阪・上本町で開催した。展示解説「雑誌で見る現代川柳史」、対談「川柳をどう配信するか」(ゲスト・天野慶)などで、8ブースの出店があり、来場者74名、懇親会にも34名の参加があった。川柳には人が集まらないと思っていたが、まずまずの成功であった。
文学フリマには2015年9月の第三回文フリ大阪から出店。このときは「川柳カード」の名でブースを開いた。
2016年には5月に「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」を開催。「句集でたどる現代川柳の歩み」(石田柊馬)、対談「短歌の虚構・川柳の虚構」(ゲスト・山田消児)。来場者71名、懇親会22名。以後このイベントは開催していない。9月に第四回文フリ大阪。11月に文フリ東京(このときは出店せず、入場のみ)。
2017年5月「川柳トーク・瀬戸夏子は川柳を荒らすな」を中野サンプラザで開催。翌日が文フリ東京。文フリの前日に東京で川柳句会やイベントを開催するパターンが多くなる。9月第五回文フリ大阪(このときの店名は「川柳サイド」)。堺市での開催はこの年で終わり、翌年から大阪市内のOMMビルに会場が変更される。
2018年には1月の文フリ京都、5月の文フリ東京、9月の文フリ大阪と三都で出店。1月の文フリ京都はみやこメッセで開催され、店名は「川柳スパイラル」。文フリの前日に京都で「川柳スパイラル創刊号合評句会」を開催した。ゲスト・清水かおり。5月の文フリ東京の前日には川柳スパイラル東京句会を実施。ゲスト、我妻俊樹・瀬戸夏子。
2019年は5月の文フリ東京、9月の文フリ大阪に出店。
2020年に入り、コロナ禍のため文フリが中止や制限開催となる。5月の文フリ東京には出店を申し込んでいたが開催中止になり、以後しばらく文フリには出店を控えることになった。2022年9月の文フリ大阪から「川柳スパイラル」の出店を再開。11月の文フリ東京にも参加した。2023年に入り1月の文フリ京都に出店。5月の文フリ東京にも出店する。
詩歌(短詩型)関係では短歌の文フリ参加が多く、俳句は少なく、川柳は皆無である。私のブースでは「川柳から唯一の出店」という自虐的メッセージを掲げていたが特にアピールできたということもなかった。川柳本の販売は文フリでは効率が悪く、川柳大会に持参して販売するのが一番良いという川柳出版社もある。最近になって、少数ではあるものの川柳関係のブースや委託販売で川柳のプリントを置くところも見られるようになってきたのは心強い。また、川柳だけではなく、連句の本も若干のニーズがあるようなので、「川柳スパイラル」のブースには「川柳と連句のお店」の表示をするようにしている。本を売るだけではなくて、来場者とお話する機会があるのも嬉しいことである。
今回は、文フリ前日の5月20日に「川柳スパイラル」東京句会(北とぴあ)、5月21日に文フリ東京に出店となるので、お時間ある方はお立ちよりいただきたい。
2023年5月13日土曜日
二つの詩型・現代詩と川柳
「現代詩手帖」5月号に第61回現代詩手帖賞の受賞作品が掲載されている。受賞者は芦川和樹(あしかわ・かずき)と水城鉄茶(みずき・てつさ)。
水城は1992年生まれ。2013年ごろから詩を書きはじめている。今回の受賞作「同じうたをうたう」から一部分を紹介する。
おまえは七五調で詩を書き始めた
かわいくて無残なスープ
階段から零れてくるビー玉の七色
大学ノートの罫線を守らなかった
ぼくはわたしたちになって尊い何かに引きずられ始める
定型とそこからはみ出す部分について触れているのだろうか。「おまえ」「ぼく」「わたしたち」の人称代名詞の使用にも微妙なニュアンスがある。詩の一部分だけ抜き出すのがよいかどうか分からないが、全体像は「現代詩手帖」をお読みいただきたい。
水城鉄茶は川柳も書いていて、「川柳スパイラル」に投句をはじめたのは12号(2021年7月)からだった。
みずうみがみずうみをひんやりとさく (12号)
まばらなる拍手のなかの禁錮刑 (13号)
猫耳に血が 暗転 金属の音 (14号)
キムタクの内部で月を焼いている (15号)
サ終する時も別所にいてほしい (16号)
シーマンのままで面接してしまう (17号)
毎号いろいろな書き方を試みている。抒情的な句もあり、人間の暴力性への風刺、固有名詞やパソコンやゲームなどの現代的用語を用いるなど、多彩な書き方だ。水城は定型と現代詩という二つの形式をもつ表現者である。
3月18日に京都で開催された第2回らくだ忌川柳大会の発表誌が発行された。森茂俊の巻頭言「伝統川柳と現代川柳の融合」が好文章である。森は「伝統川柳」と「現代川柳」は対立せず、同居できるものと確信すると述べ、今回の「らくだ忌」の大会は「現代川柳はもちろん伝統川柳の良さも知る選者にも来ていただきたかった。そしてそれは実現した」と書いている。主催者側の大会開催意図がよくわかる文章である。
各題・天位の句から紹介しておく。
巨大蟹襲来近し野点かな いなだ豆乃助(湊圭伍選)
くちびるはスワンボートの二周半 宮井いずみ(暮田真名選)
スナックの隅で宿題してました 高橋レニ(真島久美子選)
無い袖のあたりはきっと晴れている 大嶋都嗣子(八上桐子選)
虫下し飲んだらぶらりしませんか 榊陽子(新家完司選)
大阪城二つくらいの電気椅子 大嶋都嗣子(くんじろう選)
グローブジャングルジムは月の裏 真島凉
この句について、きゅういちのは次のように鑑賞している。
〈「グローブジャングルジム」から「月の裏」を兼題「二周半」で取るのは選者にはかなり勇気のいる作業ではなかったか?掲句にはどこかノスタルジーが漂う物語を思う〉
グローブジャングルジムは地球儀型の回転式ジャングルジム。「二周半」という題から回転・ジャングルジム・地球・月と連想を飛ばして一句をまとめている。非凡な発想だ。
葉ね文庫で手に入れたパスカの自由律俳句集『集金が来ない』から。パスカとはパステルカーテンということだろうか。良質の自由律作品だと思う。
わざわざ選んだ日の風が強い パスカ
暗い人の中では明るい方だと思っている
乗ってきた観光バスはどれだ
道は合っているが不安
知らない武将の弟の話をされている
前の人がレジで揉め出した
声だけが枯れている花屋
パンダの黒目が難しい
水城は1992年生まれ。2013年ごろから詩を書きはじめている。今回の受賞作「同じうたをうたう」から一部分を紹介する。
おまえは七五調で詩を書き始めた
かわいくて無残なスープ
階段から零れてくるビー玉の七色
大学ノートの罫線を守らなかった
ぼくはわたしたちになって尊い何かに引きずられ始める
定型とそこからはみ出す部分について触れているのだろうか。「おまえ」「ぼく」「わたしたち」の人称代名詞の使用にも微妙なニュアンスがある。詩の一部分だけ抜き出すのがよいかどうか分からないが、全体像は「現代詩手帖」をお読みいただきたい。
水城鉄茶は川柳も書いていて、「川柳スパイラル」に投句をはじめたのは12号(2021年7月)からだった。
みずうみがみずうみをひんやりとさく (12号)
まばらなる拍手のなかの禁錮刑 (13号)
猫耳に血が 暗転 金属の音 (14号)
キムタクの内部で月を焼いている (15号)
サ終する時も別所にいてほしい (16号)
シーマンのままで面接してしまう (17号)
毎号いろいろな書き方を試みている。抒情的な句もあり、人間の暴力性への風刺、固有名詞やパソコンやゲームなどの現代的用語を用いるなど、多彩な書き方だ。水城は定型と現代詩という二つの形式をもつ表現者である。
3月18日に京都で開催された第2回らくだ忌川柳大会の発表誌が発行された。森茂俊の巻頭言「伝統川柳と現代川柳の融合」が好文章である。森は「伝統川柳」と「現代川柳」は対立せず、同居できるものと確信すると述べ、今回の「らくだ忌」の大会は「現代川柳はもちろん伝統川柳の良さも知る選者にも来ていただきたかった。そしてそれは実現した」と書いている。主催者側の大会開催意図がよくわかる文章である。
各題・天位の句から紹介しておく。
巨大蟹襲来近し野点かな いなだ豆乃助(湊圭伍選)
くちびるはスワンボートの二周半 宮井いずみ(暮田真名選)
スナックの隅で宿題してました 高橋レニ(真島久美子選)
無い袖のあたりはきっと晴れている 大嶋都嗣子(八上桐子選)
虫下し飲んだらぶらりしませんか 榊陽子(新家完司選)
大阪城二つくらいの電気椅子 大嶋都嗣子(くんじろう選)
グローブジャングルジムは月の裏 真島凉
この句について、きゅういちのは次のように鑑賞している。
〈「グローブジャングルジム」から「月の裏」を兼題「二周半」で取るのは選者にはかなり勇気のいる作業ではなかったか?掲句にはどこかノスタルジーが漂う物語を思う〉
グローブジャングルジムは地球儀型の回転式ジャングルジム。「二周半」という題から回転・ジャングルジム・地球・月と連想を飛ばして一句をまとめている。非凡な発想だ。
葉ね文庫で手に入れたパスカの自由律俳句集『集金が来ない』から。パスカとはパステルカーテンということだろうか。良質の自由律作品だと思う。
わざわざ選んだ日の風が強い パスカ
暗い人の中では明るい方だと思っている
乗ってきた観光バスはどれだ
道は合っているが不安
知らない武将の弟の話をされている
前の人がレジで揉め出した
声だけが枯れている花屋
パンダの黒目が難しい
2023年5月6日土曜日
「ぱんたれい」3号
かねて発行を待ちかねていた「ぱんたれい」3号が届いた。三田三郎の川柳30句が掲載されている。
全日本喧嘩協会専務理事 三田三郎
甲は乙の罪を見逃すことにする
彗星です将来の夢は衝突です
ビギナーズラックで泣けた赤ん坊
流木を抱いて体重計に乗る
30句全部紹介したいところだが、5句だけにしておく。
「川柳スパイラル」17号の巻頭言で私は次のように書いている。
「近年一種の川柳ブームが起こったのには二つの流れがある。ひとつは歌人のなかに現代川柳の実作をはじめる人が現れたこと、もうひとつはSNSを通じて川柳が発信されるケースが増えたことである。即ち、短歌経由とネット経由で現代川柳の実作品が目に触れるようになってきたことになる」
「ぱんたれい」は短歌誌だが、現代川柳にも理解がある雑誌のひとつだ。三田三郎も笹川諒も川柳を書くが、今回の三田の「酸性雨」30句は本格的な川柳作品として通用するものになっている。誰でもたまたま成功した一句または数句の川柳を書いてしまう可能性がある。けれども30句そろえると、そこに作者の実力がはっきりと表われてくることになるからだ。
今回の三田の作品は30句通して退屈させない。政治用語、法廷用語、身体用語などのさまざまな言葉を使いながら作者独自の発想を打ち出している。「流木」は川柳ではよく用いられるが(「濁流は太古に発し流木の刑」河野春三)、三田は流木といっしょに体重計に乗ってしまった。諧謔はこの作者の持ち味であり、作品の川柳性もそこにある。
「ぱんたれい」3号には歌人のほかに佐藤文香の俳句も掲載されていて、短詩型文学への総合誌的な編集がうかがえて共感できる。川柳人では榊陽子が「界面ロマン」10句を寄稿している。
西暦に絶対服従しちゃいや(な)よ 榊陽子
「西暦に絶対服従しちゃいやよ」「西暦に絶対服従しちゃいなよ」という二重テクストなのだろう。川柳人は相反する二通りの発想をすることがある。一つの事象にたいして複数の物の見方をすることによって世界は相対化される。「右半身」と言えば「左半身」が連想されるし、「上層」を表現することによって逆に「下層」が言外に立ち現れてくる。けれども表現としては二つのうちどちらかを選んで断言しなければならないのだが、この句では二重テクストとして提示している。実験的な書き方だけれど、どちらかに断言するのが川柳本来の書き方とも言える。
同誌の特集1は歌集『鬼と踊る』『水の聖歌隊』を読む。本号の核となる部分だが、これは本誌をお読みいただくことにして、ここでは特集2「MITASASA注目の歌人 金川宏」について紹介しておきたい。金川の新作「午後からのこと」30首から。
猫の骨が透けてみえるようなひかりで組み立ててみる午後からのこと 金川宏
死んでからも木の葉のように吹き溜まる音譜よそんなに鳴らされたいか
我をぬげば梨の花が散る ああこれが最後の扉かもしれないね
三首目「我」には「セルフ」のルビが付いている。
金川は第一歌集『火の麒麟』(1983年)、第二歌集『天球図譜』(1988年)のあと作歌を中断。2018年に30年ぶりに第三歌集『揺れる水のカノン』(書肆侃侃房)を上梓した。三歌集からは笹川と三田が選んだ10首がそれぞれ掲載されている。
火を帯ぶる麒麟となりて黄昏へなだれゆかむを天涯の秋 『火の麒麟』
雪の夜の書庫へ返せばくらぐらとほのほあげゐむ天球図譜は 『天球図譜』
たづねきてひと夜舞へ舞へかたつむり雨を病む樹も風病む鳥も 『揺れる水のカノン』
笹川や三田が将来を嘱望されている若手歌人であるのに対して、金川宏は歌歴が長く、しかも中断をはさみながら再出発をしているから、短歌をめぐるさまざまな経験をしているはずだ。現実と言葉の関係について、金川は次のように書いている。
「現実世界と言葉の世界は、繋がり合うように見えながら、根本的なところで位相を異にするのではないか。言葉には言葉の世界がある。ましてや短歌という特殊な音律空間それ自体が、現実とは切り結びえないものではないのか、と。四十年という時を経ても、この葛藤は続いている」
私性や作品の背後にある作者の人間像が問われる短歌界のなかで強い葛藤があったことがうかがえる。そして金川は次のように言うのだ。「私にとって短歌とは、限られた存在のなかで許される唯一の遊戯と装飾、ものに喩えるなら楽器、それもどんな弾き方もできるポリフォニックな仮想された楽器」。
持続することは大変なエネルギーを必要とする。「午後からのこと」とは暗示的なタイトルだ。現在、第四歌集を準備中というから、それがどのような音を響かせるのか、楽しみに待ちたい。
あと、管見に入った歌集・川柳誌などを紹介しておく。
土井礼一郎歌集『義弟全史』(短歌研究社)は門外漢の私にもおもしろく読めた。
貝殻を拾えばそれですむものを考え中と答えてしまう
脱ぐ靴を並べる床に暗がりの娯楽がすでに始まっている
人間が口から花を吐くさまを見たいと言ってこんなとこまで
君のこと嫌いといえば君は問う ままごと、日本、みかんは好きか
川柳誌からも紹介しておこう。「What`s」4号から。
BBQひとりふたりと減っていく 浪越靖政
両足が底に着いたら教えてね 加藤久子
海中で海の話をしましょうか 妹尾凛
死んでしまった親とこのごろ和解する 佐藤みさ子
黙り続けてつまらぬ人になってきた 鈴木せつ子
できますか自分の水を替えること 高橋かづき
冷凍の虹はいつからあったのか 広瀬ちえみ
新家完司『良い川柳から学ぶ 秀句の条件』(新葉館出版)。「一読明快」とか「平明で深みのある句」とかいう伝統川柳の考え方をベースにしながら、そこから一歩抜け出す工夫について述べている。
無い筈はないひきだしを持ってこい 西田当百
メリケン粉つけても海老はまだ動く 高橋散二
外すたび的は小さくなってゆく 米山明日歌
りんごに生れてメロンになりたがる 田久保亜蘭
コサージュの位置がなかなか決まらない 安黒登貴枝
だれも見なかった桜も散りました 井上一筒
雑巾にされていきいきするタオル くんじろう
物欲が極彩色になっている 鈴木かこ
カニカマと言われなければ解らない 森茂俊
はじまりもおわりも勾玉のかたち 八上桐子
全日本喧嘩協会専務理事 三田三郎
甲は乙の罪を見逃すことにする
彗星です将来の夢は衝突です
ビギナーズラックで泣けた赤ん坊
流木を抱いて体重計に乗る
30句全部紹介したいところだが、5句だけにしておく。
「川柳スパイラル」17号の巻頭言で私は次のように書いている。
「近年一種の川柳ブームが起こったのには二つの流れがある。ひとつは歌人のなかに現代川柳の実作をはじめる人が現れたこと、もうひとつはSNSを通じて川柳が発信されるケースが増えたことである。即ち、短歌経由とネット経由で現代川柳の実作品が目に触れるようになってきたことになる」
「ぱんたれい」は短歌誌だが、現代川柳にも理解がある雑誌のひとつだ。三田三郎も笹川諒も川柳を書くが、今回の三田の「酸性雨」30句は本格的な川柳作品として通用するものになっている。誰でもたまたま成功した一句または数句の川柳を書いてしまう可能性がある。けれども30句そろえると、そこに作者の実力がはっきりと表われてくることになるからだ。
今回の三田の作品は30句通して退屈させない。政治用語、法廷用語、身体用語などのさまざまな言葉を使いながら作者独自の発想を打ち出している。「流木」は川柳ではよく用いられるが(「濁流は太古に発し流木の刑」河野春三)、三田は流木といっしょに体重計に乗ってしまった。諧謔はこの作者の持ち味であり、作品の川柳性もそこにある。
「ぱんたれい」3号には歌人のほかに佐藤文香の俳句も掲載されていて、短詩型文学への総合誌的な編集がうかがえて共感できる。川柳人では榊陽子が「界面ロマン」10句を寄稿している。
西暦に絶対服従しちゃいや(な)よ 榊陽子
「西暦に絶対服従しちゃいやよ」「西暦に絶対服従しちゃいなよ」という二重テクストなのだろう。川柳人は相反する二通りの発想をすることがある。一つの事象にたいして複数の物の見方をすることによって世界は相対化される。「右半身」と言えば「左半身」が連想されるし、「上層」を表現することによって逆に「下層」が言外に立ち現れてくる。けれども表現としては二つのうちどちらかを選んで断言しなければならないのだが、この句では二重テクストとして提示している。実験的な書き方だけれど、どちらかに断言するのが川柳本来の書き方とも言える。
同誌の特集1は歌集『鬼と踊る』『水の聖歌隊』を読む。本号の核となる部分だが、これは本誌をお読みいただくことにして、ここでは特集2「MITASASA注目の歌人 金川宏」について紹介しておきたい。金川の新作「午後からのこと」30首から。
猫の骨が透けてみえるようなひかりで組み立ててみる午後からのこと 金川宏
死んでからも木の葉のように吹き溜まる音譜よそんなに鳴らされたいか
我をぬげば梨の花が散る ああこれが最後の扉かもしれないね
三首目「我」には「セルフ」のルビが付いている。
金川は第一歌集『火の麒麟』(1983年)、第二歌集『天球図譜』(1988年)のあと作歌を中断。2018年に30年ぶりに第三歌集『揺れる水のカノン』(書肆侃侃房)を上梓した。三歌集からは笹川と三田が選んだ10首がそれぞれ掲載されている。
火を帯ぶる麒麟となりて黄昏へなだれゆかむを天涯の秋 『火の麒麟』
雪の夜の書庫へ返せばくらぐらとほのほあげゐむ天球図譜は 『天球図譜』
たづねきてひと夜舞へ舞へかたつむり雨を病む樹も風病む鳥も 『揺れる水のカノン』
笹川や三田が将来を嘱望されている若手歌人であるのに対して、金川宏は歌歴が長く、しかも中断をはさみながら再出発をしているから、短歌をめぐるさまざまな経験をしているはずだ。現実と言葉の関係について、金川は次のように書いている。
「現実世界と言葉の世界は、繋がり合うように見えながら、根本的なところで位相を異にするのではないか。言葉には言葉の世界がある。ましてや短歌という特殊な音律空間それ自体が、現実とは切り結びえないものではないのか、と。四十年という時を経ても、この葛藤は続いている」
私性や作品の背後にある作者の人間像が問われる短歌界のなかで強い葛藤があったことがうかがえる。そして金川は次のように言うのだ。「私にとって短歌とは、限られた存在のなかで許される唯一の遊戯と装飾、ものに喩えるなら楽器、それもどんな弾き方もできるポリフォニックな仮想された楽器」。
持続することは大変なエネルギーを必要とする。「午後からのこと」とは暗示的なタイトルだ。現在、第四歌集を準備中というから、それがどのような音を響かせるのか、楽しみに待ちたい。
あと、管見に入った歌集・川柳誌などを紹介しておく。
土井礼一郎歌集『義弟全史』(短歌研究社)は門外漢の私にもおもしろく読めた。
貝殻を拾えばそれですむものを考え中と答えてしまう
脱ぐ靴を並べる床に暗がりの娯楽がすでに始まっている
人間が口から花を吐くさまを見たいと言ってこんなとこまで
君のこと嫌いといえば君は問う ままごと、日本、みかんは好きか
川柳誌からも紹介しておこう。「What`s」4号から。
BBQひとりふたりと減っていく 浪越靖政
両足が底に着いたら教えてね 加藤久子
海中で海の話をしましょうか 妹尾凛
死んでしまった親とこのごろ和解する 佐藤みさ子
黙り続けてつまらぬ人になってきた 鈴木せつ子
できますか自分の水を替えること 高橋かづき
冷凍の虹はいつからあったのか 広瀬ちえみ
新家完司『良い川柳から学ぶ 秀句の条件』(新葉館出版)。「一読明快」とか「平明で深みのある句」とかいう伝統川柳の考え方をベースにしながら、そこから一歩抜け出す工夫について述べている。
無い筈はないひきだしを持ってこい 西田当百
メリケン粉つけても海老はまだ動く 高橋散二
外すたび的は小さくなってゆく 米山明日歌
りんごに生れてメロンになりたがる 田久保亜蘭
コサージュの位置がなかなか決まらない 安黒登貴枝
だれも見なかった桜も散りました 井上一筒
雑巾にされていきいきするタオル くんじろう
物欲が極彩色になっている 鈴木かこ
カニカマと言われなければ解らない 森茂俊
はじまりもおわりも勾玉のかたち 八上桐子
2023年4月28日金曜日
川柳と連句の句会風景
3月18日
「らくだ忌」第2回川柳大会に出席。会場はラボール京都(京都労働者総合会館)。筒井祥文の追悼のためはじまった大会だが、今回は祥文追悼のスローガンを外している。いつまでも祥文の力を借りずに歩きだそうということらしい。兼題と選者は「泡立つ」(湊圭伍)、「二周半」(暮田真名)、「生い立ち」(真島久美子)、「無い袖」(八上桐子)、「ぶらり」(新家完司)、「雑詠」(くんじろう)。それぞれ難しい(意欲的な)題だ。各題二句出句だが、句会はある意味で選者と投句者の戦いなので、二句とも抜ける(選ばれる)、一句抜ける、二句ともボツになる、それぞれの結果と向き合うことになる。中には悪達者な句もあるので、選者はそういう句に騙されないようにするし、投句者は選者のストライクゾーンを探りながら許容できる範囲で自分の句を詠もうとする。披講の前に選者の短いトークがあって、それぞれ興味深かった。入選上位の句はすでに「川柳らくだ」のフェイスブックで発表されているが、発表誌もいずれ出来上がることだろう。
「川柳スパイラル」17号を会場で配布。会員の西脇祥貴やまつりぺきんと話すことができた。
3月19日
日本連句協会の総会・全国大会に出席。会場は台東区民会館で、浅草寺周辺は観光客でごった返していた。インバウンドが戻ってきたようだ。総会では『現代連句集Ⅳ』や『連句新聞』増刊号の宣伝をする。『現代連句集Ⅳ』の編集の機会に、過去40年間の歴史を調べることができた。先人の連句振興に対する無償の努力は貴重だ。「連句新聞」では山地春眠子が連句復興期の運動が起こった理由について「気がついてみたら、あっちでもこっちでも仲間ができていた」と述べている。こういう状況が再び起こればいいなと思う。
実作会では6人の座で半歌仙を巻く。連句の進行には膝送りと出勝の二通りがあるが、このときは膝送り。座席の順番に付けてゆくので、それ以外の人は雑談する余裕がある。別の座にいた某氏がやってきて、「半歌仙はつまらない、非懐紙か十二調にするべきだ」と口をはさむ。「今日は社交の場なので、半歌仙でよいのだ」と答える。連句には二面性があって、文芸として良い作品を作るという面と連衆との交流をはかるという社交文芸の面がある。
懇親会のあと、神谷バーで飲みたかったが、満席で入れず。喫茶店で遅くまで連句の友人と話した。
3月20日
蘆花恒春園に行く。京王線の芦花公園で下車。一月に伊香保へ行ったときに蘆花記念館を見学して、蘆花が息をひきとった部屋も見てきた。伊香保は『不如帰』の冒頭にも出てくるし、蘆花のお気に入りの場所である。大阪に帰ってから、トルストイのヤースナヤ・ポリャーナを訪れた『順礼紀行』や『思い出の記』などを拾い読みして、蘆花に対する興味が高まった。今回、東京行きのついでに恒春園に行くことができた。高遠彼岸桜が満開だった。
3月26日
第7回わかやま連句会。会場は和歌山県民文化会館。
毎回実作の前に連句や和歌山に関連したお話をしているが、今回は恋句について。
「恋の座といふこと、俳諧用語としては、厳格には使はぬものである。たゞ時として、昔から世間の常識として、稀まれ、月・花の座を言ふやうに言はれてゐる。此文の表題には、何となきことばの練れを愛して、利用することにした」(折口信夫「恋の座」)を前置きとする。恋と愛とは違い、連句の恋句は愛ではなくて恋を詠む。従来は「恋と愛の違い」について、恋は異性への恋、愛は人・家族・自然などの存在全体への愛と説明してきたが、この定義は現在ではすでに問題がある。「恋の詞」ということも言われ、蕉門では言葉にかかわらず、心の恋を重視する。東明雅に『芭蕉の恋句』(岩波新書)があるが、芭蕉は恋句の名手で、『あら野』「雁がねも」の巻の次の付合が有名。
足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人
きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉
かぜひきたまふ声のうつくし 越人
現代連句の恋の例としては次の付合を挙げた。
マサイ族スマートフォンが必需品 節
恋の支障にならぬ遠距離 奈里子
ふたりとも好きになるのは罪ですか 孝子
奥歯が疼く真夜中の夢 節
(国文祭にいがた「冬林檎」の巻)
4月12日
京都での川柳句会に行く前に、三十三間堂を訪れる。修学旅行や観光客が多いので今まで敬遠していたが、何十年ぶりかで入ってみると、仏像の配置が変更されていた。本尊の左右に五百体ずつ計千が並んでいるのは同じだが、二十八部集のうち四体が本尊の四隅に配置されていて、世界観が以前とは変化している。数年前からこうなっているということだ。雨のなか、少し庭園を歩いた。
4月16日
大阪連句懇話会を上本町・たかつガーデンで開催。2012年にスタートしたこの会もすでに41回目になる。昨年6月に創立10年の節目を迎えた。手元に創立のときの案内文が残っている。
「大阪・京都・神戸・奈良はそれぞれの歴史をもち、文化的・風土的にも違いがありますが、豊かな伝統をもち関西文化圏を形成しています。連歌・連句の史跡も多く、連句人にとって魅力ある地域と言えます。関西の連句人のネットワークを広げ、結社のワクを越えて集まることのできる場を求めて、このたび、『大阪連句懇話会』を立ち上げることにしました。連句の歴史を学び、理論と実作を深める場にしたいと思っています」 10年前はこのような気持ちだったのか、と自分でも驚くが、初心に戻らなければと改めて思う。
今回は「連句新聞」の高松霞をゲストに迎え、彼女の人気もあって、20名の参加者があった。12月に東京で開催された「連句の赤い糸」の話や「連句新聞」のこと、ライターの仕事のことなどを聞く。後半は門野優にも入ってもらって、お二人でのトーク。門野は明石で新たに連句会を計画中だという。その後四座に分かれて連句実作。形式は十二調(二座)、ソネット、ひらがなにじゅういん(ひらがな二十韻)。
終了後、会場近くの居酒屋で懇親会。
4月22日
NHK文化センター梅田教室で「はじめまして現代川柳」の第一回講座。全6回の導入部で、現代川柳とはどういうものか、についてザックリした話をする。サラリーマン川柳、シルバー川柳、ユーモア川柳、伝統川柳、社会性川柳、情念川柳、私性川柳、詩性川柳などの例句20句をプリントしたものから、どれが好みかを参加者に選句してもらう。そのあと川柳の基本である問答構造の変遷、現代川柳を読むためのポイントなどを話す。社会性川柳の例として「てぶくろ買いにシリアに行ったままの子は」(滋野さち)を挙げたが、新美南吉の童話「手袋を買いに」を踏まえてシリア内戦をテーマにしている。社会性や諷刺を書くむずかしさについて、たとえば美術でも版画家の浜田知明はこんなふうに言っている。
「諷刺画が優れた絵画であるためには、作品の背後に、作家の厳しい文明批評の眼と、奇知と、人間に対する深い愛情が流れていなければならない。画面は現代の造詣として生きていなければならないし、個性的であり、同時に個性が普遍性をもち、特殊な時代相を描いても、永遠の人間性につながるものでなければならない。われわれが冷厳な眼で周囲の現実を眺めるならば、現代のような社会相は、まさに諷刺画にとって、無限のモティフを提供する宝庫というべきであろう」 浜田知明は「初年兵哀歌」シリーズで有名な版画家で彫刻も作っている。
講座の話に戻ると、ちょうど発行された川柳誌「湖」をとりあげて川柳の選と投句について話し合った。
次回の講座は「現代川柳の歴史を振り返る」というテーマで、新興川柳から現代川柳へのプロセスを代表的な句集や川柳誌を紹介しながら解説する予定。ふだん目にすることのない資料なども見ていただけることと思う。第二回からの受講も可能。
4月23日
膳所の義仲寺・無名庵での連句会。義仲寺では5月の第二土曜に奉扇会があり、奉納する歌仙を巻く。捌きが古くからの知人なので、参加させてもらった。芭蕉の次の句を発句とする脇起こしである。
杜若似たりや似たり水の影 翁
私はふだん捌きをすることが多いので、一連衆として付句が出せるのがありがたかった。膝送りで、付句の合い間の雑談を聞いているのも楽しい。連句の話だけではなくて、連衆のそれぞれの豊富な経験によって話題が広がってゆくのも座の魅力だろう。午前10時半開始で午後4時半には歌仙が巻き上がった。
4月×日
文芸誌5月号は大江健三郎の追悼を掲載している。私が読んだのは「新潮」5月号。「追悼・永遠の大江健三郎文学」というタイトルで川上弘美・島田雅彦・多和田葉子・平野啓一郎・町田康などの文章を載せている。
小説では瀬戸夏子の「原型」も掲載されていて、書き出しは次のようになっている。
「資郎が世紀の大失恋をした次の日、資郎の瞳の中はキリンでいっぱいだった」
続きは実際にお読みいただきたい。
「らくだ忌」第2回川柳大会に出席。会場はラボール京都(京都労働者総合会館)。筒井祥文の追悼のためはじまった大会だが、今回は祥文追悼のスローガンを外している。いつまでも祥文の力を借りずに歩きだそうということらしい。兼題と選者は「泡立つ」(湊圭伍)、「二周半」(暮田真名)、「生い立ち」(真島久美子)、「無い袖」(八上桐子)、「ぶらり」(新家完司)、「雑詠」(くんじろう)。それぞれ難しい(意欲的な)題だ。各題二句出句だが、句会はある意味で選者と投句者の戦いなので、二句とも抜ける(選ばれる)、一句抜ける、二句ともボツになる、それぞれの結果と向き合うことになる。中には悪達者な句もあるので、選者はそういう句に騙されないようにするし、投句者は選者のストライクゾーンを探りながら許容できる範囲で自分の句を詠もうとする。披講の前に選者の短いトークがあって、それぞれ興味深かった。入選上位の句はすでに「川柳らくだ」のフェイスブックで発表されているが、発表誌もいずれ出来上がることだろう。
「川柳スパイラル」17号を会場で配布。会員の西脇祥貴やまつりぺきんと話すことができた。
3月19日
日本連句協会の総会・全国大会に出席。会場は台東区民会館で、浅草寺周辺は観光客でごった返していた。インバウンドが戻ってきたようだ。総会では『現代連句集Ⅳ』や『連句新聞』増刊号の宣伝をする。『現代連句集Ⅳ』の編集の機会に、過去40年間の歴史を調べることができた。先人の連句振興に対する無償の努力は貴重だ。「連句新聞」では山地春眠子が連句復興期の運動が起こった理由について「気がついてみたら、あっちでもこっちでも仲間ができていた」と述べている。こういう状況が再び起こればいいなと思う。
実作会では6人の座で半歌仙を巻く。連句の進行には膝送りと出勝の二通りがあるが、このときは膝送り。座席の順番に付けてゆくので、それ以外の人は雑談する余裕がある。別の座にいた某氏がやってきて、「半歌仙はつまらない、非懐紙か十二調にするべきだ」と口をはさむ。「今日は社交の場なので、半歌仙でよいのだ」と答える。連句には二面性があって、文芸として良い作品を作るという面と連衆との交流をはかるという社交文芸の面がある。
懇親会のあと、神谷バーで飲みたかったが、満席で入れず。喫茶店で遅くまで連句の友人と話した。
3月20日
蘆花恒春園に行く。京王線の芦花公園で下車。一月に伊香保へ行ったときに蘆花記念館を見学して、蘆花が息をひきとった部屋も見てきた。伊香保は『不如帰』の冒頭にも出てくるし、蘆花のお気に入りの場所である。大阪に帰ってから、トルストイのヤースナヤ・ポリャーナを訪れた『順礼紀行』や『思い出の記』などを拾い読みして、蘆花に対する興味が高まった。今回、東京行きのついでに恒春園に行くことができた。高遠彼岸桜が満開だった。
3月26日
第7回わかやま連句会。会場は和歌山県民文化会館。
毎回実作の前に連句や和歌山に関連したお話をしているが、今回は恋句について。
「恋の座といふこと、俳諧用語としては、厳格には使はぬものである。たゞ時として、昔から世間の常識として、稀まれ、月・花の座を言ふやうに言はれてゐる。此文の表題には、何となきことばの練れを愛して、利用することにした」(折口信夫「恋の座」)を前置きとする。恋と愛とは違い、連句の恋句は愛ではなくて恋を詠む。従来は「恋と愛の違い」について、恋は異性への恋、愛は人・家族・自然などの存在全体への愛と説明してきたが、この定義は現在ではすでに問題がある。「恋の詞」ということも言われ、蕉門では言葉にかかわらず、心の恋を重視する。東明雅に『芭蕉の恋句』(岩波新書)があるが、芭蕉は恋句の名手で、『あら野』「雁がねも」の巻の次の付合が有名。
足駄はかせぬ雨のあけぼの 越人
きぬぎぬやあまりかぼそくあてやかに 芭蕉
かぜひきたまふ声のうつくし 越人
現代連句の恋の例としては次の付合を挙げた。
マサイ族スマートフォンが必需品 節
恋の支障にならぬ遠距離 奈里子
ふたりとも好きになるのは罪ですか 孝子
奥歯が疼く真夜中の夢 節
(国文祭にいがた「冬林檎」の巻)
4月12日
京都での川柳句会に行く前に、三十三間堂を訪れる。修学旅行や観光客が多いので今まで敬遠していたが、何十年ぶりかで入ってみると、仏像の配置が変更されていた。本尊の左右に五百体ずつ計千が並んでいるのは同じだが、二十八部集のうち四体が本尊の四隅に配置されていて、世界観が以前とは変化している。数年前からこうなっているということだ。雨のなか、少し庭園を歩いた。
4月16日
大阪連句懇話会を上本町・たかつガーデンで開催。2012年にスタートしたこの会もすでに41回目になる。昨年6月に創立10年の節目を迎えた。手元に創立のときの案内文が残っている。
「大阪・京都・神戸・奈良はそれぞれの歴史をもち、文化的・風土的にも違いがありますが、豊かな伝統をもち関西文化圏を形成しています。連歌・連句の史跡も多く、連句人にとって魅力ある地域と言えます。関西の連句人のネットワークを広げ、結社のワクを越えて集まることのできる場を求めて、このたび、『大阪連句懇話会』を立ち上げることにしました。連句の歴史を学び、理論と実作を深める場にしたいと思っています」 10年前はこのような気持ちだったのか、と自分でも驚くが、初心に戻らなければと改めて思う。
今回は「連句新聞」の高松霞をゲストに迎え、彼女の人気もあって、20名の参加者があった。12月に東京で開催された「連句の赤い糸」の話や「連句新聞」のこと、ライターの仕事のことなどを聞く。後半は門野優にも入ってもらって、お二人でのトーク。門野は明石で新たに連句会を計画中だという。その後四座に分かれて連句実作。形式は十二調(二座)、ソネット、ひらがなにじゅういん(ひらがな二十韻)。
終了後、会場近くの居酒屋で懇親会。
4月22日
NHK文化センター梅田教室で「はじめまして現代川柳」の第一回講座。全6回の導入部で、現代川柳とはどういうものか、についてザックリした話をする。サラリーマン川柳、シルバー川柳、ユーモア川柳、伝統川柳、社会性川柳、情念川柳、私性川柳、詩性川柳などの例句20句をプリントしたものから、どれが好みかを参加者に選句してもらう。そのあと川柳の基本である問答構造の変遷、現代川柳を読むためのポイントなどを話す。社会性川柳の例として「てぶくろ買いにシリアに行ったままの子は」(滋野さち)を挙げたが、新美南吉の童話「手袋を買いに」を踏まえてシリア内戦をテーマにしている。社会性や諷刺を書くむずかしさについて、たとえば美術でも版画家の浜田知明はこんなふうに言っている。
「諷刺画が優れた絵画であるためには、作品の背後に、作家の厳しい文明批評の眼と、奇知と、人間に対する深い愛情が流れていなければならない。画面は現代の造詣として生きていなければならないし、個性的であり、同時に個性が普遍性をもち、特殊な時代相を描いても、永遠の人間性につながるものでなければならない。われわれが冷厳な眼で周囲の現実を眺めるならば、現代のような社会相は、まさに諷刺画にとって、無限のモティフを提供する宝庫というべきであろう」 浜田知明は「初年兵哀歌」シリーズで有名な版画家で彫刻も作っている。
講座の話に戻ると、ちょうど発行された川柳誌「湖」をとりあげて川柳の選と投句について話し合った。
次回の講座は「現代川柳の歴史を振り返る」というテーマで、新興川柳から現代川柳へのプロセスを代表的な句集や川柳誌を紹介しながら解説する予定。ふだん目にすることのない資料なども見ていただけることと思う。第二回からの受講も可能。
4月23日
膳所の義仲寺・無名庵での連句会。義仲寺では5月の第二土曜に奉扇会があり、奉納する歌仙を巻く。捌きが古くからの知人なので、参加させてもらった。芭蕉の次の句を発句とする脇起こしである。
杜若似たりや似たり水の影 翁
私はふだん捌きをすることが多いので、一連衆として付句が出せるのがありがたかった。膝送りで、付句の合い間の雑談を聞いているのも楽しい。連句の話だけではなくて、連衆のそれぞれの豊富な経験によって話題が広がってゆくのも座の魅力だろう。午前10時半開始で午後4時半には歌仙が巻き上がった。
4月×日
文芸誌5月号は大江健三郎の追悼を掲載している。私が読んだのは「新潮」5月号。「追悼・永遠の大江健三郎文学」というタイトルで川上弘美・島田雅彦・多和田葉子・平野啓一郎・町田康などの文章を載せている。
小説では瀬戸夏子の「原型」も掲載されていて、書き出しは次のようになっている。
「資郎が世紀の大失恋をした次の日、資郎の瞳の中はキリンでいっぱいだった」
続きは実際にお読みいただきたい。
2023年4月15日土曜日
我妻俊樹歌集『カメラは光ることをやめて触った』
短歌誌「遊子」29号が届いた。昨年12月に発行されているが、「歌人が詠む川柳」が特集されているので遅ればせながら取り上げる。特集の趣旨は次のように書かれている。
「現代短歌と現代俳句の距離よりも、現代短歌と現代川柳の距離のほうがずいぶんと近いというのは、よく言われてきたことである。感覚的にはそう思っても、どうしてなのか、なかなかうまく説明がつかない」「今回はそういうことも踏まえながら、同人各人が川柳の実作に挑戦してみた」
雲ひとつなくて薄気味悪い空 片上雅仁
カミサマと彫られた岩が追ってくる 久野はすみ
もう何も噛まぬ前歯がまっしろい 白石真佐子
ヒゲダンの好きな男についてゆく 杉田加代子
天井に鬼がいるのを知っている 千坂麻緒
マスクしてどの属性もじぇのさいど 渡部光一郎
ただのシャンプーでした使ってみるまでは 山田消児
使ってみればただのシャンプー 山田消児
ふだん短歌を詠んでいる同人の川柳作品である。それぞれの「川柳イメージ」がうかがえて興味深い。山田消児は同じ素材を二通りの形式で詠んでいる。山田とは2016年5月に「短歌の虚構・川柳の虚構」というテーマで対談したことがある(「川柳カード」12号に掲載)。
あと「遊子」には平岡直子が「川柳は短歌に似ている絶対似ている」という論考を書いている。平岡は第一歌集に続いて川柳句集『Ladies and』を上梓しているが、論考のタイトルは石田柊馬の「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」を踏まえたもの。俳句・短歌・川柳の違いについて平岡の文章の次の一節が注目される
「季語も切れも必要としない川柳は、俳句よりもはるかに自由で、そして、後ろ盾がない。俳句は季語がしゃべり、短歌は〈私〉がしゃべり、川柳はだれがしゃべっているのかわからない」
我妻俊樹の第一歌集『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房)が発行された。我妻の短歌は「率」10号(2016年)に「足の踏み場、象の墓場」として掲載され、本書にも収録されているが、2022年までの歌をまとめた「カメラは光ることをやめて触った」が本編として読めるのはありがたい。
見てくれにこだわるひとの有り金が花びらに変えられて匂うの
質問にいちいち紫蘇の香をつけて忘れられなくしたいのかしら
暴れたりしないと夏の光だとたぶん気づいてもらえなくない?
わたあめにならずに風に奪われた 鳥のすべてに意味をもとめた
橋が川にあらわれるリズム 友達のしている恋の中の喫茶店
「足の踏み場、象の墓場」のときより書き方はさらに多彩に展開している。一首目、「有り金」という俗世間のものが花びらに変容する。見てくれ・有り金・花びら・匂うという視覚から嗅覚への言葉の変化が連句の三句の渡りとはまた異なる感覚で一首の中で実現されている。二首目・三首目のようなシンプルな詠み方もある。流れ去ってゆく不条理な時間のなかで一瞬のときを記憶に刻みつけるために人はいろいろなことをするのだろう。四首目は上句と下句の取り合わせが「奪われた」「もとめた」という動詞文体で統一されている。川柳であれば「わたあめにならずに風に奪われた」で完結し、あとは読者の読みに任せることになるだろう。五首目は瀬戸夏子が栞で取り上げている作品。上句と下句にそれぞれねじれがあり、ふたつのねじれが滲み合うように重ねられていると瀬戸は言う。
ちなみに栞は瀬戸夏子と平岡直子が書いているが、それぞれ次のように述べている。
「この歌集を前にして、可能な限り無力な読者として存在してみたかった、と思った」(瀬戸夏子)
「我妻さんの歌は、無数の蛍が放たれた小さな暗がりもようで、一首の歌がいくつもの呼吸をしている」(平岡直子)
2018年5月の「川柳スパイラル」東京句会において、我妻の「短歌は行って戻ってくる。川柳は引き返さずに通り抜ける」という発言がずっと記憶に残っている。短歌についても本当は通り抜けられると彼は言ったが、『カメラは光ることをやめて触った』を読みながら、行ったり来たりするうちに変な「私」が出てきてしまうのとはまったく異なる、現代短歌の書き方を感じた。「足の踏み場、象の墓場」(「率」10号)の「あとがき」の「書き手など、偶々そこに生えていた草のようなものだ。無駄に繁茂して読者の視界を遮っていないことを願うばかりである」という文章も印象的だった。
いま「葉ね文庫」の壁に芳賀博子の川柳と吉村哲の絵のコラボが展示されている。吉村の絵の人物の後ろ姿がとてもいい。牛隆佑のプロデュース。芳賀の句集『髷を切る』(青磁社)の残部がもうないそうなので、改めて十句挙げておく。
歩きつつ曖昧になる目的地 芳賀博子
壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴
一番の理由が省略されている
欠けているから毎日触れるガラス猫
そこらじゅう汚してぱっと立ち上がる
私も土を被せたひとりです
M78星雲へ帰るバス
みずかきをぱっと開いて転校す
ひきちぎるためにつないでいる言葉
かたつむり教義に背く方向へ
「現代短歌と現代俳句の距離よりも、現代短歌と現代川柳の距離のほうがずいぶんと近いというのは、よく言われてきたことである。感覚的にはそう思っても、どうしてなのか、なかなかうまく説明がつかない」「今回はそういうことも踏まえながら、同人各人が川柳の実作に挑戦してみた」
雲ひとつなくて薄気味悪い空 片上雅仁
カミサマと彫られた岩が追ってくる 久野はすみ
もう何も噛まぬ前歯がまっしろい 白石真佐子
ヒゲダンの好きな男についてゆく 杉田加代子
天井に鬼がいるのを知っている 千坂麻緒
マスクしてどの属性もじぇのさいど 渡部光一郎
ただのシャンプーでした使ってみるまでは 山田消児
使ってみればただのシャンプー 山田消児
ふだん短歌を詠んでいる同人の川柳作品である。それぞれの「川柳イメージ」がうかがえて興味深い。山田消児は同じ素材を二通りの形式で詠んでいる。山田とは2016年5月に「短歌の虚構・川柳の虚構」というテーマで対談したことがある(「川柳カード」12号に掲載)。
あと「遊子」には平岡直子が「川柳は短歌に似ている絶対似ている」という論考を書いている。平岡は第一歌集に続いて川柳句集『Ladies and』を上梓しているが、論考のタイトルは石田柊馬の「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」を踏まえたもの。俳句・短歌・川柳の違いについて平岡の文章の次の一節が注目される
「季語も切れも必要としない川柳は、俳句よりもはるかに自由で、そして、後ろ盾がない。俳句は季語がしゃべり、短歌は〈私〉がしゃべり、川柳はだれがしゃべっているのかわからない」
我妻俊樹の第一歌集『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房)が発行された。我妻の短歌は「率」10号(2016年)に「足の踏み場、象の墓場」として掲載され、本書にも収録されているが、2022年までの歌をまとめた「カメラは光ることをやめて触った」が本編として読めるのはありがたい。
見てくれにこだわるひとの有り金が花びらに変えられて匂うの
質問にいちいち紫蘇の香をつけて忘れられなくしたいのかしら
暴れたりしないと夏の光だとたぶん気づいてもらえなくない?
わたあめにならずに風に奪われた 鳥のすべてに意味をもとめた
橋が川にあらわれるリズム 友達のしている恋の中の喫茶店
「足の踏み場、象の墓場」のときより書き方はさらに多彩に展開している。一首目、「有り金」という俗世間のものが花びらに変容する。見てくれ・有り金・花びら・匂うという視覚から嗅覚への言葉の変化が連句の三句の渡りとはまた異なる感覚で一首の中で実現されている。二首目・三首目のようなシンプルな詠み方もある。流れ去ってゆく不条理な時間のなかで一瞬のときを記憶に刻みつけるために人はいろいろなことをするのだろう。四首目は上句と下句の取り合わせが「奪われた」「もとめた」という動詞文体で統一されている。川柳であれば「わたあめにならずに風に奪われた」で完結し、あとは読者の読みに任せることになるだろう。五首目は瀬戸夏子が栞で取り上げている作品。上句と下句にそれぞれねじれがあり、ふたつのねじれが滲み合うように重ねられていると瀬戸は言う。
ちなみに栞は瀬戸夏子と平岡直子が書いているが、それぞれ次のように述べている。
「この歌集を前にして、可能な限り無力な読者として存在してみたかった、と思った」(瀬戸夏子)
「我妻さんの歌は、無数の蛍が放たれた小さな暗がりもようで、一首の歌がいくつもの呼吸をしている」(平岡直子)
2018年5月の「川柳スパイラル」東京句会において、我妻の「短歌は行って戻ってくる。川柳は引き返さずに通り抜ける」という発言がずっと記憶に残っている。短歌についても本当は通り抜けられると彼は言ったが、『カメラは光ることをやめて触った』を読みながら、行ったり来たりするうちに変な「私」が出てきてしまうのとはまったく異なる、現代短歌の書き方を感じた。「足の踏み場、象の墓場」(「率」10号)の「あとがき」の「書き手など、偶々そこに生えていた草のようなものだ。無駄に繁茂して読者の視界を遮っていないことを願うばかりである」という文章も印象的だった。
いま「葉ね文庫」の壁に芳賀博子の川柳と吉村哲の絵のコラボが展示されている。吉村の絵の人物の後ろ姿がとてもいい。牛隆佑のプロデュース。芳賀の句集『髷を切る』(青磁社)の残部がもうないそうなので、改めて十句挙げておく。
歩きつつ曖昧になる目的地 芳賀博子
壁の染みあるいは逆立ちの蜥蜴
一番の理由が省略されている
欠けているから毎日触れるガラス猫
そこらじゅう汚してぱっと立ち上がる
私も土を被せたひとりです
M78星雲へ帰るバス
みずかきをぱっと開いて転校す
ひきちぎるためにつないでいる言葉
かたつむり教義に背く方向へ
2023年4月7日金曜日
かつて連句ブームがあった
「短歌ブーム」だという。NHKの朝ドラ「舞いあがれ!」で短歌を作る登場人物が描かれ、「クローズアップ現代」で短歌ブームが取り上げられた。マスコミの話題になる機会が増えたことで目に見えて短歌ブームが実感される。振り返ってみると今までにも短歌ブームは何度かあり、俵万智の『サラダ記念日』のときとか、桝野浩一の「かんたん短歌」のときのことが思い出される。桝野の『かんたん短歌の作り方』(筑摩書房)が出たのが2000年11月で、マスノ短歌教の信者として当時高校生だった加藤千恵がテレビに登場したのを記憶している。ブームというのはつかみどころのないものだし、「短歌ブーム」をどう受け止めるかは歌人に任せておけばよいことだが、今回の話題はかつて連句界にも「連句ブーム」といわれる時期があったということについてである。
話の順番として、まず「連句」について触れておくが、昨年から今年にかけて現代連句のアンソロジーが2冊出ている。3月に発行された『連句新聞』増刊号は、高松霞と門野優がネットで運営している「連句新聞」の冊子版である。「連句新聞」は2021年春にスタートし、年に4回更新、四季に合わせた連句作品と連句内外の表現者のコラムを掲載している。今回の冊子は二周年を記念して編集されたもの。巻頭に別所真紀子が「江戸俳諧に見るフェミニズム」を寄稿している。別所は現代連句を牽引する連句誌のひとつ「解纜」のリーダー。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『「言葉」を手にした市井の女たち』(オリジン出版センター)など俳諧における女性史の第一人者であり、『つらつら椿・浜藻歌仙帖』(新人物往来社)など俳諧小説の作者でもある。ちなみに五十嵐浜藻は小林一茶などとも交流があった江戸期の女性俳諧師。『連句新聞』増刊号で別所は次のように書いている。
「江戸期を通して百冊以上の女性選集が出版されているこの国は、世界に類をみないフェミニズムの先進国であった。そしてそれは、俳諧という形式あればこその成就と言えるであろう」
コラムは中村安伸・堀田季何・中山奈々・竹内亮・北大路翼・暮田真名・大塚凱・福田若之が執筆。現代連句作品が9巻収録されているが、歌仙のほかに非懐紙・箙・胡蝶・獅子・短歌行などの形式があり、ヴァラエティに富んでいる。あと、山地春眠子のインタビューが掲載されていて貴重だ。
もう一冊の連句アンソロジーは『現代連句集Ⅳ』で、日本連句協会創立40周年記念として発行されたもの。小津夜景「連句の愉しみ」、堀田季何「連句が好きだから」の二本のエッセイ、「日本連句協会の歩み」、座談会「現代連句の伝統と多様性」などのほか全国の連句グループ作品84巻が収録されている。「連句新聞」とともに現代連句を展望するのに便利である。
「連句ブーム」と言われたのは1970年代後半から80年代にかけてのことで、正岡子規によって否定されたと思われていた連句復興のきざしがあらわれてきた。伊勢派の俳諧師・根津芦丈の指導のもと1959年に「都心連句会」が、1961年に「信州大学連句会」が創立された。さらに、1971年には野村牛耳の指導で「東京義仲寺連句会」が開かれた。野村牛耳の師系は根津芦丈だからいずれも旧派の系譜につながるが、「東京義仲寺連句会」には林空花、わだとしお、高藤馬山人、真鍋天魚、珍田弥一郎など俳諧復興の新風を志すメンバーがそろっていた。
ここで俳諧における旧派と新派の説明をしておくと、根津芦丈は『芦丈翁俳諧聞書』(東明雅)でこんなふうに言っている。「それで儂はね、何の、子規が明治二十六年頃、その新聞の『日本』でね、旧派ひっぱたいてね、いる最中に儂ら旧派の凌冬(馬場凌冬)という人にならって、旧派のヘエその先生が日本一いいと思って習っている時にまあ、旧派ひっぱたくだね。くそみそに、今に旧派のえらい人にたたかれるぞと思っていたが、たたく人は一人も出っこなしで、子規の独り舞台で、新派おこしちまって…(後略)」
子規が連句を否定して起こしたのが新派、従来の伊勢派・美濃派などの伝統的俳諧が旧派である。根津芦丈は旧派の俳諧師だが、新派でも高浜虚子は連句肯定の立場で、高浜年尾や阿波野青畝に連句を受け継ぐよう指示した。
さて、1972年に東明雅の『夏の日』(角川書店)が刊行され、1978年には東明雅『連句入門』(中公新書)、1978年に山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)が上梓された。70年代後半から80年代にかけて連句入門書が書店の店頭に並ぶようになった。そういう機運のなかで1981年、連句懇話会(日本連句協会の前身)が結成される。発起人は阿片瓢郎(「連句研究」)・大林杣平(「都心連句会」)・岡本春人(「連句かつらぎ」)。
『連句新聞』増刊号のインタビューで山地春眠子は「なぜそういう運動が起こったのでしょう」という質問に答えて次のように言っている。
「なんとなくじゃない?誰がなにをしたということではない。もちろん、明雅さんとか、瓢左さん、牛耳さんが、連句のグループ、信大連句会とか義仲寺連句会とかを作ってくれたからなんだけれど、それはそれぞれ、日本のことを考えて作ったわけではないので、たまたまそういう流れがあった。誰が旗振って、やろうとしたわけでもないように思う。気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」
この発言には韜晦している部分もあるのだろうが、「気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」というのはおもしろいし、文芸が盛り上がるときの機運はそんなふうであればいいなと思う。
「連句懇話会会報」第1号(1981年12月)の「連句懇話会創立総会記」で阿片瓢郎は次のように語っている。
「けだし最近連句ブームの声が高いですが、俳句人口なり俳誌の数を比べると格段の相違があります。その上一部には連句をすると俳句が下手になるとの俗説があります。併し連句人の俳句には面白さがあります。文士方の連句も週刊誌を賑わせており、名古屋では連画制作の企てもあり、海外でも連句愛好者が増えていると伝えられ、連句ブームは多面的に拡がりつつあります。従って現在の連句ブームを一時的なものでなく定着させるには、各結社の伝統と特徴を守りながら、それぞれ連句の錬磨に努力し、後世に残し得る立派な作品を創ることが必要と思います。そのためには各結社が自由に交流できるよう垣根を設けず風通しをよくすることが大切で、本会はその機会を増やすことを念頭としております」
その後、俳誌に連句特集が組まれたり、連句イベントが興行されたり、詩人をはじめ他ジャンルの表現者が連句に参加するなどの動きがあったが、それも2000年代初めまでで、連句に対する一般読者の関心は薄れていった。「連句ブーム」にしても、もともとブームと呼べるほどのものではなかったという意見もある。 けれども共同制作(座の文芸)としての連句に対する潜在的な表現意欲はいつの時代にも存在しているのであって、それがどのような形で噴出してくるのかは予測しがたいものがある。連句愛好者は全国に散在しており、「座」という場がいったん提示されれば個別に参加者たちが現れてくる。
次に挙げるのは連句誌「みしみし」11号。「みしみし」は2009年からネット上で歌仙を巻いている三島ゆかりによる座。不定期刊で冊子版も出している。歌仙「休日」の巻の表六句より。
休日や筍の皮うづ高し 苑を
匂ひ立ちたる首夏の手間ひま ゆかり
売るための石ころいくつ持ち寄つて りゑ
ほそきゆびもて掬ふさざなみ 青猫
水もまた満ちて迎ふる月今宵 らくだ
椋鳥のしづまる並木をゆけば 槐
話の順番として、まず「連句」について触れておくが、昨年から今年にかけて現代連句のアンソロジーが2冊出ている。3月に発行された『連句新聞』増刊号は、高松霞と門野優がネットで運営している「連句新聞」の冊子版である。「連句新聞」は2021年春にスタートし、年に4回更新、四季に合わせた連句作品と連句内外の表現者のコラムを掲載している。今回の冊子は二周年を記念して編集されたもの。巻頭に別所真紀子が「江戸俳諧に見るフェミニズム」を寄稿している。別所は現代連句を牽引する連句誌のひとつ「解纜」のリーダー。『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『「言葉」を手にした市井の女たち』(オリジン出版センター)など俳諧における女性史の第一人者であり、『つらつら椿・浜藻歌仙帖』(新人物往来社)など俳諧小説の作者でもある。ちなみに五十嵐浜藻は小林一茶などとも交流があった江戸期の女性俳諧師。『連句新聞』増刊号で別所は次のように書いている。
「江戸期を通して百冊以上の女性選集が出版されているこの国は、世界に類をみないフェミニズムの先進国であった。そしてそれは、俳諧という形式あればこその成就と言えるであろう」
コラムは中村安伸・堀田季何・中山奈々・竹内亮・北大路翼・暮田真名・大塚凱・福田若之が執筆。現代連句作品が9巻収録されているが、歌仙のほかに非懐紙・箙・胡蝶・獅子・短歌行などの形式があり、ヴァラエティに富んでいる。あと、山地春眠子のインタビューが掲載されていて貴重だ。
もう一冊の連句アンソロジーは『現代連句集Ⅳ』で、日本連句協会創立40周年記念として発行されたもの。小津夜景「連句の愉しみ」、堀田季何「連句が好きだから」の二本のエッセイ、「日本連句協会の歩み」、座談会「現代連句の伝統と多様性」などのほか全国の連句グループ作品84巻が収録されている。「連句新聞」とともに現代連句を展望するのに便利である。
「連句ブーム」と言われたのは1970年代後半から80年代にかけてのことで、正岡子規によって否定されたと思われていた連句復興のきざしがあらわれてきた。伊勢派の俳諧師・根津芦丈の指導のもと1959年に「都心連句会」が、1961年に「信州大学連句会」が創立された。さらに、1971年には野村牛耳の指導で「東京義仲寺連句会」が開かれた。野村牛耳の師系は根津芦丈だからいずれも旧派の系譜につながるが、「東京義仲寺連句会」には林空花、わだとしお、高藤馬山人、真鍋天魚、珍田弥一郎など俳諧復興の新風を志すメンバーがそろっていた。
ここで俳諧における旧派と新派の説明をしておくと、根津芦丈は『芦丈翁俳諧聞書』(東明雅)でこんなふうに言っている。「それで儂はね、何の、子規が明治二十六年頃、その新聞の『日本』でね、旧派ひっぱたいてね、いる最中に儂ら旧派の凌冬(馬場凌冬)という人にならって、旧派のヘエその先生が日本一いいと思って習っている時にまあ、旧派ひっぱたくだね。くそみそに、今に旧派のえらい人にたたかれるぞと思っていたが、たたく人は一人も出っこなしで、子規の独り舞台で、新派おこしちまって…(後略)」
子規が連句を否定して起こしたのが新派、従来の伊勢派・美濃派などの伝統的俳諧が旧派である。根津芦丈は旧派の俳諧師だが、新派でも高浜虚子は連句肯定の立場で、高浜年尾や阿波野青畝に連句を受け継ぐよう指示した。
さて、1972年に東明雅の『夏の日』(角川書店)が刊行され、1978年には東明雅『連句入門』(中公新書)、1978年に山地春眠子『現代連句入門』(杏花村叢書。1987年再版・沖積舎)が上梓された。70年代後半から80年代にかけて連句入門書が書店の店頭に並ぶようになった。そういう機運のなかで1981年、連句懇話会(日本連句協会の前身)が結成される。発起人は阿片瓢郎(「連句研究」)・大林杣平(「都心連句会」)・岡本春人(「連句かつらぎ」)。
『連句新聞』増刊号のインタビューで山地春眠子は「なぜそういう運動が起こったのでしょう」という質問に答えて次のように言っている。
「なんとなくじゃない?誰がなにをしたということではない。もちろん、明雅さんとか、瓢左さん、牛耳さんが、連句のグループ、信大連句会とか義仲寺連句会とかを作ってくれたからなんだけれど、それはそれぞれ、日本のことを考えて作ったわけではないので、たまたまそういう流れがあった。誰が旗振って、やろうとしたわけでもないように思う。気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」
この発言には韜晦している部分もあるのだろうが、「気がついてみたらあっちでもこっちでも仲間ができていた」というのはおもしろいし、文芸が盛り上がるときの機運はそんなふうであればいいなと思う。
「連句懇話会会報」第1号(1981年12月)の「連句懇話会創立総会記」で阿片瓢郎は次のように語っている。
「けだし最近連句ブームの声が高いですが、俳句人口なり俳誌の数を比べると格段の相違があります。その上一部には連句をすると俳句が下手になるとの俗説があります。併し連句人の俳句には面白さがあります。文士方の連句も週刊誌を賑わせており、名古屋では連画制作の企てもあり、海外でも連句愛好者が増えていると伝えられ、連句ブームは多面的に拡がりつつあります。従って現在の連句ブームを一時的なものでなく定着させるには、各結社の伝統と特徴を守りながら、それぞれ連句の錬磨に努力し、後世に残し得る立派な作品を創ることが必要と思います。そのためには各結社が自由に交流できるよう垣根を設けず風通しをよくすることが大切で、本会はその機会を増やすことを念頭としております」
その後、俳誌に連句特集が組まれたり、連句イベントが興行されたり、詩人をはじめ他ジャンルの表現者が連句に参加するなどの動きがあったが、それも2000年代初めまでで、連句に対する一般読者の関心は薄れていった。「連句ブーム」にしても、もともとブームと呼べるほどのものではなかったという意見もある。 けれども共同制作(座の文芸)としての連句に対する潜在的な表現意欲はいつの時代にも存在しているのであって、それがどのような形で噴出してくるのかは予測しがたいものがある。連句愛好者は全国に散在しており、「座」という場がいったん提示されれば個別に参加者たちが現れてくる。
次に挙げるのは連句誌「みしみし」11号。「みしみし」は2009年からネット上で歌仙を巻いている三島ゆかりによる座。不定期刊で冊子版も出している。歌仙「休日」の巻の表六句より。
休日や筍の皮うづ高し 苑を
匂ひ立ちたる首夏の手間ひま ゆかり
売るための石ころいくつ持ち寄つて りゑ
ほそきゆびもて掬ふさざなみ 青猫
水もまた満ちて迎ふる月今宵 らくだ
椋鳥のしづまる並木をゆけば 槐
2023年3月31日金曜日
中山奈々の俳句と川柳
「川柳スパイラル」17号の特集は中山奈々の俳句と川柳で、それぞれ10句ずつ掲載されている。見開きの右ページに俳句、左ページに川柳が載っているので、作者が両形式をどのように使い分けているか、興味をそそられる。
末つ子として一番に着膨れる
母歩き疲れて恋猫の区域
左下奥歯に教化されている
物分かりいいひとたちの指相撲
それぞれ二句ずつ引用したが、前の二句が俳句、後の二句が川柳である。俳句は旧かな、川柳は新かなで書かれており、俳句には季語と切れ字が使われているという表層的な相違はあるが、表現内容としては微妙な相違があるとしか言いようがない。素材や主題としては前者には家族が、後者には身体用語が取り上げられているけれど、引用しなかった他の句を混ぜてみると、そのような明確な対比は混濁したものになってゆく。俳句には「そわか」、川柳には「にょぜがもん」という仏教的なタイトルが付けられていて、そこはかとなく統一感を与えている。
四ッ谷龍と榊陽子が作家論を書いている。まず、中山の俳句について、四ッ谷は「強い葛藤には強い表現」で次のように述べている。
「私が中山奈々に注目したのは、『俳句』2019年6月号に彼女が発表した作品『真摯』二十句を読んだ時であった。二十句すべてが菫をテーマとするという思い切った試みであった。中には荒っぽい句もあったが、全句を貫通するエネルギーがこちらを圧倒した」
四ッ谷が挙げている菫の句とは次のような作品である。
ひと指に弱るすみれや日の薄き
耳鳴りの昼を埋めゐるすみれかな
菫および吐き気がずつと通勤す
経血の漏れを隠して菫の夜
陰嚢の骨かもしれぬ菫なり
「強い声調を維持するには、響きを支える技術的な蓄積が必要で、自分の思いだけではなかなか切迫した勢いは出てこないものである」というのが四ッ谷のアドヴァイス。
川柳については中山と交流の深い榊陽子がこんなふうに書いている。
「中山の句は簡単に幻想や虚構の世界に向かわせない。(中略)常軌を逸しながら現実っぽさを怠らないことが中山の川柳への責任の取り方なのかもしれない」(榊陽子「しぶとさという武器」)
私が中山奈々にはじめて会ったのは三宮の生田神宮会館で開催された「俳句Gatherinng」のときだった。中山はパネラーとして登壇し、今後に望むことという質問に対して「仏陀に俳句を書かせたい」と発言した。私はびっくり仰天して、中山奈々の名前をしっかり心に刻み込んだ。その後あちらこちらの集まりで会うことがあったが、当時BL読みということが試みられていて、拙句「プラハまで行った靴なら親友だ」はBLとしても読めるという。そういうものかなと思った。「庫内灯」3号から。
旗に五色きみに毛布を引き寄せて なかやまなな
手袋を取り合ひ李香蘭を観に
久留島元と中山奈々と私の三人で俳句についての勉強会をはじめたことがある。テクストは『昭和の俳句を読もう』(「蝶」俳句会篇)、会名は「昭和俳句なう」。船団の『関西俳句なう』が出たころだ。𠮷田竜宇や佐々木紺なども加わったが、それぞれ忙しくなって自然消滅。
少し古いが「しばかぶれ」第一集の中山奈々特集に佐藤文香が選出した中山の百句から紹介しておこう。
耳使ふ一発芸や鳥帰る
蟻穴を出て狛犬の口の中
首に湿疹半分がエロ本の店
霜を舐め尽くせと犬を放ちをり
春眠の舌より剥がしたる鱗
四月馬鹿とはなんだ好きなんだけど
きみんちのわけわかんない秋はじめ
息白くゴジラゴジラと遊びけり
中山は川柳も書いてみたいという意向をもっていた。私の悪い癖で、他ジャンルの才能ある若い人に対しては、そのジャンルで頑張った方がいいという態度をとることがある。俳句や短歌ではジャンル意識が強固で、別の詩形に手をだす表現者は疎外されるケースがあるからだ(現在ではやや緩和されているかも)。とりあえず、ゲスト作品として「川柳スパイラル」2号に川柳を書いてもらったが、3号からは会員投句を続け現在に至っている。
中山は連句にも興味をもち、柿衞文庫で開催された和漢連句の会に参加している。2014年11月のことだったが、このときのことは、「連句新聞」2021年秋号のコラムに中山が書いている。
「川柳スパイラル」に掲載された中山の句から十句選んでおきたい。
NASA以外から出品の月の石
明日は空腹指を膣から抜いて
カップルでどうぞと象の肺の枕
エンジンを直す豆腐(できれば絹)
三びきのこぶた製作の前貼り
返品をされてアダムの生理痛
膵臓にいつまでも花咲か爺さん
コロッケにホックがひとつ取れている
カメヤマローソク燃えあがるほどの唾
鯵というより鯖の匂いの黒子
さて、「川柳スパイラル」17号には若手俳人のゲスト作品として細村星一郎と日比谷虚俊の作品が掲載されている。
森に来てトーガは鹿を呼び寄せる 細村星一郎
梯子酒・雑学・隠元豆・衂 日比谷虚俊
細村は俳誌「奎」のなかでも注目していた作者。暮田真名の「月報こんとん」文フリ特別号(2022年6月16日)にも細村の作品が掲載されていた。「門をくぐって以来全部が寿司」「海亀が嘘の高度で嗚咽する」「モノクロの花が咲き乱れる臭気」「二光年先の小さなソーセージ」など。
日比谷は浅沼璞の「無心の会」で連句も巻いているし、堀田季何の「楽園俳句会」にも参加している。今回の俳句では「衂」(はなぢ)という普段見慣れない漢字を使っている。
最後に細村の個人サイト「巨大」から何句か紹介する。
イグアナがいつも重心にある円 細村星一郎
水になる木がほんとうに水になる
石庭がひとりでに歪みはじめる
自立不可能な四角い和菓子
末つ子として一番に着膨れる
母歩き疲れて恋猫の区域
左下奥歯に教化されている
物分かりいいひとたちの指相撲
それぞれ二句ずつ引用したが、前の二句が俳句、後の二句が川柳である。俳句は旧かな、川柳は新かなで書かれており、俳句には季語と切れ字が使われているという表層的な相違はあるが、表現内容としては微妙な相違があるとしか言いようがない。素材や主題としては前者には家族が、後者には身体用語が取り上げられているけれど、引用しなかった他の句を混ぜてみると、そのような明確な対比は混濁したものになってゆく。俳句には「そわか」、川柳には「にょぜがもん」という仏教的なタイトルが付けられていて、そこはかとなく統一感を与えている。
四ッ谷龍と榊陽子が作家論を書いている。まず、中山の俳句について、四ッ谷は「強い葛藤には強い表現」で次のように述べている。
「私が中山奈々に注目したのは、『俳句』2019年6月号に彼女が発表した作品『真摯』二十句を読んだ時であった。二十句すべてが菫をテーマとするという思い切った試みであった。中には荒っぽい句もあったが、全句を貫通するエネルギーがこちらを圧倒した」
四ッ谷が挙げている菫の句とは次のような作品である。
ひと指に弱るすみれや日の薄き
耳鳴りの昼を埋めゐるすみれかな
菫および吐き気がずつと通勤す
経血の漏れを隠して菫の夜
陰嚢の骨かもしれぬ菫なり
「強い声調を維持するには、響きを支える技術的な蓄積が必要で、自分の思いだけではなかなか切迫した勢いは出てこないものである」というのが四ッ谷のアドヴァイス。
川柳については中山と交流の深い榊陽子がこんなふうに書いている。
「中山の句は簡単に幻想や虚構の世界に向かわせない。(中略)常軌を逸しながら現実っぽさを怠らないことが中山の川柳への責任の取り方なのかもしれない」(榊陽子「しぶとさという武器」)
私が中山奈々にはじめて会ったのは三宮の生田神宮会館で開催された「俳句Gatherinng」のときだった。中山はパネラーとして登壇し、今後に望むことという質問に対して「仏陀に俳句を書かせたい」と発言した。私はびっくり仰天して、中山奈々の名前をしっかり心に刻み込んだ。その後あちらこちらの集まりで会うことがあったが、当時BL読みということが試みられていて、拙句「プラハまで行った靴なら親友だ」はBLとしても読めるという。そういうものかなと思った。「庫内灯」3号から。
旗に五色きみに毛布を引き寄せて なかやまなな
手袋を取り合ひ李香蘭を観に
久留島元と中山奈々と私の三人で俳句についての勉強会をはじめたことがある。テクストは『昭和の俳句を読もう』(「蝶」俳句会篇)、会名は「昭和俳句なう」。船団の『関西俳句なう』が出たころだ。𠮷田竜宇や佐々木紺なども加わったが、それぞれ忙しくなって自然消滅。
少し古いが「しばかぶれ」第一集の中山奈々特集に佐藤文香が選出した中山の百句から紹介しておこう。
耳使ふ一発芸や鳥帰る
蟻穴を出て狛犬の口の中
首に湿疹半分がエロ本の店
霜を舐め尽くせと犬を放ちをり
春眠の舌より剥がしたる鱗
四月馬鹿とはなんだ好きなんだけど
きみんちのわけわかんない秋はじめ
息白くゴジラゴジラと遊びけり
中山は川柳も書いてみたいという意向をもっていた。私の悪い癖で、他ジャンルの才能ある若い人に対しては、そのジャンルで頑張った方がいいという態度をとることがある。俳句や短歌ではジャンル意識が強固で、別の詩形に手をだす表現者は疎外されるケースがあるからだ(現在ではやや緩和されているかも)。とりあえず、ゲスト作品として「川柳スパイラル」2号に川柳を書いてもらったが、3号からは会員投句を続け現在に至っている。
中山は連句にも興味をもち、柿衞文庫で開催された和漢連句の会に参加している。2014年11月のことだったが、このときのことは、「連句新聞」2021年秋号のコラムに中山が書いている。
「川柳スパイラル」に掲載された中山の句から十句選んでおきたい。
NASA以外から出品の月の石
明日は空腹指を膣から抜いて
カップルでどうぞと象の肺の枕
エンジンを直す豆腐(できれば絹)
三びきのこぶた製作の前貼り
返品をされてアダムの生理痛
膵臓にいつまでも花咲か爺さん
コロッケにホックがひとつ取れている
カメヤマローソク燃えあがるほどの唾
鯵というより鯖の匂いの黒子
さて、「川柳スパイラル」17号には若手俳人のゲスト作品として細村星一郎と日比谷虚俊の作品が掲載されている。
森に来てトーガは鹿を呼び寄せる 細村星一郎
梯子酒・雑学・隠元豆・衂 日比谷虚俊
細村は俳誌「奎」のなかでも注目していた作者。暮田真名の「月報こんとん」文フリ特別号(2022年6月16日)にも細村の作品が掲載されていた。「門をくぐって以来全部が寿司」「海亀が嘘の高度で嗚咽する」「モノクロの花が咲き乱れる臭気」「二光年先の小さなソーセージ」など。
日比谷は浅沼璞の「無心の会」で連句も巻いているし、堀田季何の「楽園俳句会」にも参加している。今回の俳句では「衂」(はなぢ)という普段見慣れない漢字を使っている。
最後に細村の個人サイト「巨大」から何句か紹介する。
イグアナがいつも重心にある円 細村星一郎
水になる木がほんとうに水になる
石庭がひとりでに歪みはじめる
自立不可能な四角い和菓子
2023年3月10日金曜日
「川柳ねじまき」9号
3月×日
市立伊丹ミュージアムで開催されている特別展「芭蕉―不易と流行と―」を見にいく。柿衞文庫が伊丹ミュージアムに統合され、改装のためしばらく休館になっていたので、芭蕉関係の俳諧資料を久しぶりに見ることができた。東京では2021年に永青文庫で開催された展覧会である。宗祇にはじまる連歌関係の展示や時期によって書風の変化する芭蕉短冊、芭蕉筆の「旅路の画巻」など見どころがいろいろあった。統合された伊丹ミュージアムは立派なものだが、難点を言えば、以前は柿衞文庫に申し込めば講義室が使えたのに、市のイベントが優先されるようになって、個人では使えなくなったことだ。
展覧会の刺激を受けて、芭蕉関連の本をぼつぼつ読んでいるが、芭蕉の言葉として伝えられている「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶべからず」ということが心に響く。虚とは言葉のことだ。
3月×日
「川柳ねじまき」9号が届く。昨年11月27日に名古屋で開催された『くちびるにウエハース』の批評会の様子が記録されている。何が語られたのか気になっていたので、参加できなかった者にとってはありがたい。
パネラーと参加者の発言が克明にテープ起こしされていて、内容が多岐に渡っているので、全体は本誌をご覧いただきたいが、ここではパネラーの平岡直子の発言をたどっておきたい。平岡は『くちびるにウエハース』をまず「時事詠」の句集ととらえている。その時々の社会や政治の出来事が反映された句集だという。『脱衣場のアリス』が「あたし」の句集(フェミニズムやシスターフッドのテーマ)なのに対して、『くちびるにウエハース』は「ぼくたち」という一人称で始まっている。
ぼくたちはつぶつぶレモンのつぶ主義者
次に平岡は言葉のカテゴリーということを言っていて、正岡豊の短歌となかはらの川柳を比べている。
中国も天国もここからはまだ遠いから船に乗らなくてはね 正岡豊
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
正岡の短歌について穂村弘が「言葉のカテゴリーの越境」という切り口で批評を書いていることを紹介したうえで、平岡はなかはらの川柳の場合は「中国」と「天国」の間に「越境」ではなく「言葉のカテゴリーの無効化」が起こっているという。
「越境」にせよ「無効化」にせよ、AとBという次元の異なった単語を並べる技法は川柳にはよくあるので、平岡の指摘を興味深く読んだ。意識的に効果的に使わないといけない川柳技術である。
3月×日
挨拶句について考える。
芭蕉は挨拶句の名手だった。芭蕉最後の旅で大阪に来たとき、園女邸で詠んだのが次の句である。
しら菊の目に立て見る塵もなし 芭蕉
白菊は主の園女のことをたとえているのである。女性を花にたとえるのは常套的とはいえ、なかなか心にくい挨拶ではないか。園女はよほど嬉しかったとみえて、のちに『菊の塵』という撰集を編んでいる。
けれども芭蕉はもっと激しい挨拶句も詠んでいる。「野ざらし紀行」の旅で名古屋にやって来た芭蕉は連衆に対して次の句をぶつけている。『冬の日』の第一歌仙「狂句こがらし」の巻である。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
狂句に身を焦がしている我が身は竹斎に似ているというのだ。仮名草子の『竹斎』は都で食い詰めた藪医者の竹斎が郎党の「にらみの介」を連れて東海道を江戸に下る道中記。固有名詞は知っている者にはイメージの喚起力が強いが、知らない者にはイメージが湧きにくい。「竹斎」はこの時代によく読まれたようで、芭蕉=木枯らし=竹斎のイメージにはインパクトがあったのだろう。挨拶といっても私性の強い句であり、述志の句でもある。挨拶句にもいろいろなやり方があるのだ。
『芭蕉七部集』を読んでいると、はっとする付句に出会うときがある。『冬の日』第三歌仙の「仏喰たる魚解きけり」もそのひとつ。前句が津波の句なので、津波で流出した仏像を魚が飲み込んでいて、魚の腹を裂いてみると仏像が出てきたという衝撃的な情景となる。
まがきまで津波の水にくづれ行 荷兮
仏食ひたる魚ほどきけり 芭蕉
県ふるはな見次郎と仰がれて 重五
三句の渡りで示すと、三句目に花見次郎という人物が登場する。旧家の当主は代々、花見次郎と呼ばれているというのだが、津波の悲劇から転じるのに架空人名を使っているところが興味深い。
3月×日
我妻俊樹の歌集『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房)が刊行されるという。我妻の歌集を待ち望んでいた人は多くて、ツイッターなどで即座に反響があった。我妻の短歌は「率」10号(2016年)の誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」で読むことができるが、歌集のかたちで出版されればより広範な読者に届くことになる。
バスタブの色おしえあう電話口できみは水からシャツをひろった
あの青い高層ビルの天井の数を数えてきたらさわって
手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
「川柳スパイラル」で我妻をゲストに迎えたときに、参加者へのおみやげとして我妻の川柳作品百句を収録した冊子「眩しすぎる星を減らしてくれ」を作成した。今までにも何度か紹介したことがあるが、歌集に続いて我妻の川柳句集が出ることを祈念して、何句か挙げておく。
沿線のところどころにある気絶 我妻俊樹
サーカスに狙われ胸を守ってね
足音を市民と虎に分けている
くす玉のあるところまで引き返す
流星があみだくじではない証拠
最後にはぼくたちになる旅だった
弟と別れて苔の中華街
おにいさん絶滅前に光ろうか
3月×日
川柳句会に参加するため京都に行く。京都御所を散策。梅林のほか「黒木の梅」が満開だった。九条家の遺構「拾翠亭」が開いていたので、久し振りに入ってみる。九条池には翡翠が飛び、庭にはジョウビタキの姿があった。句会の句案をひねることは後回しにして、雰囲気に浸る。申し込めば句会・茶会にも利用できるそうだ。
次に京都に行くのは「らくだ忌」のときになる。どんな人が参加するのか楽しみだ。
市立伊丹ミュージアムで開催されている特別展「芭蕉―不易と流行と―」を見にいく。柿衞文庫が伊丹ミュージアムに統合され、改装のためしばらく休館になっていたので、芭蕉関係の俳諧資料を久しぶりに見ることができた。東京では2021年に永青文庫で開催された展覧会である。宗祇にはじまる連歌関係の展示や時期によって書風の変化する芭蕉短冊、芭蕉筆の「旅路の画巻」など見どころがいろいろあった。統合された伊丹ミュージアムは立派なものだが、難点を言えば、以前は柿衞文庫に申し込めば講義室が使えたのに、市のイベントが優先されるようになって、個人では使えなくなったことだ。
展覧会の刺激を受けて、芭蕉関連の本をぼつぼつ読んでいるが、芭蕉の言葉として伝えられている「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶべからず」ということが心に響く。虚とは言葉のことだ。
3月×日
「川柳ねじまき」9号が届く。昨年11月27日に名古屋で開催された『くちびるにウエハース』の批評会の様子が記録されている。何が語られたのか気になっていたので、参加できなかった者にとってはありがたい。
パネラーと参加者の発言が克明にテープ起こしされていて、内容が多岐に渡っているので、全体は本誌をご覧いただきたいが、ここではパネラーの平岡直子の発言をたどっておきたい。平岡は『くちびるにウエハース』をまず「時事詠」の句集ととらえている。その時々の社会や政治の出来事が反映された句集だという。『脱衣場のアリス』が「あたし」の句集(フェミニズムやシスターフッドのテーマ)なのに対して、『くちびるにウエハース』は「ぼくたち」という一人称で始まっている。
ぼくたちはつぶつぶレモンのつぶ主義者
次に平岡は言葉のカテゴリーということを言っていて、正岡豊の短歌となかはらの川柳を比べている。
中国も天国もここからはまだ遠いから船に乗らなくてはね 正岡豊
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
正岡の短歌について穂村弘が「言葉のカテゴリーの越境」という切り口で批評を書いていることを紹介したうえで、平岡はなかはらの川柳の場合は「中国」と「天国」の間に「越境」ではなく「言葉のカテゴリーの無効化」が起こっているという。
「越境」にせよ「無効化」にせよ、AとBという次元の異なった単語を並べる技法は川柳にはよくあるので、平岡の指摘を興味深く読んだ。意識的に効果的に使わないといけない川柳技術である。
3月×日
挨拶句について考える。
芭蕉は挨拶句の名手だった。芭蕉最後の旅で大阪に来たとき、園女邸で詠んだのが次の句である。
しら菊の目に立て見る塵もなし 芭蕉
白菊は主の園女のことをたとえているのである。女性を花にたとえるのは常套的とはいえ、なかなか心にくい挨拶ではないか。園女はよほど嬉しかったとみえて、のちに『菊の塵』という撰集を編んでいる。
けれども芭蕉はもっと激しい挨拶句も詠んでいる。「野ざらし紀行」の旅で名古屋にやって来た芭蕉は連衆に対して次の句をぶつけている。『冬の日』の第一歌仙「狂句こがらし」の巻である。
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
狂句に身を焦がしている我が身は竹斎に似ているというのだ。仮名草子の『竹斎』は都で食い詰めた藪医者の竹斎が郎党の「にらみの介」を連れて東海道を江戸に下る道中記。固有名詞は知っている者にはイメージの喚起力が強いが、知らない者にはイメージが湧きにくい。「竹斎」はこの時代によく読まれたようで、芭蕉=木枯らし=竹斎のイメージにはインパクトがあったのだろう。挨拶といっても私性の強い句であり、述志の句でもある。挨拶句にもいろいろなやり方があるのだ。
『芭蕉七部集』を読んでいると、はっとする付句に出会うときがある。『冬の日』第三歌仙の「仏喰たる魚解きけり」もそのひとつ。前句が津波の句なので、津波で流出した仏像を魚が飲み込んでいて、魚の腹を裂いてみると仏像が出てきたという衝撃的な情景となる。
まがきまで津波の水にくづれ行 荷兮
仏食ひたる魚ほどきけり 芭蕉
県ふるはな見次郎と仰がれて 重五
三句の渡りで示すと、三句目に花見次郎という人物が登場する。旧家の当主は代々、花見次郎と呼ばれているというのだが、津波の悲劇から転じるのに架空人名を使っているところが興味深い。
3月×日
我妻俊樹の歌集『カメラは光ることをやめて触った』(書肆侃侃房)が刊行されるという。我妻の歌集を待ち望んでいた人は多くて、ツイッターなどで即座に反響があった。我妻の短歌は「率」10号(2016年)の誌上歌集「足の踏み場、象の墓場」で読むことができるが、歌集のかたちで出版されればより広範な読者に届くことになる。
バスタブの色おしえあう電話口できみは水からシャツをひろった
あの青い高層ビルの天井の数を数えてきたらさわって
手がとどくあんなにこわい星にさえ 右目が見たいものは左目
この話のつづきは箱の中で(いま、開けたばかりできれいなので)
その森がすべてうれしくなるまでにわたしたちは二匹に減っておく
「川柳スパイラル」で我妻をゲストに迎えたときに、参加者へのおみやげとして我妻の川柳作品百句を収録した冊子「眩しすぎる星を減らしてくれ」を作成した。今までにも何度か紹介したことがあるが、歌集に続いて我妻の川柳句集が出ることを祈念して、何句か挙げておく。
沿線のところどころにある気絶 我妻俊樹
サーカスに狙われ胸を守ってね
足音を市民と虎に分けている
くす玉のあるところまで引き返す
流星があみだくじではない証拠
最後にはぼくたちになる旅だった
弟と別れて苔の中華街
おにいさん絶滅前に光ろうか
3月×日
川柳句会に参加するため京都に行く。京都御所を散策。梅林のほか「黒木の梅」が満開だった。九条家の遺構「拾翠亭」が開いていたので、久し振りに入ってみる。九条池には翡翠が飛び、庭にはジョウビタキの姿があった。句会の句案をひねることは後回しにして、雰囲気に浸る。申し込めば句会・茶会にも利用できるそうだ。
次に京都に行くのは「らくだ忌」のときになる。どんな人が参加するのか楽しみだ。
2023年3月4日土曜日
飯島章友と社会性川柳
昨年8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集い(「川柳スパイラル」16号に掲載)、第二部の飯島章友と川合大祐の対談を聞いていて、おや?と思ったのは飯島が政治風刺や社会性川柳に関心をもっていることだった。今まで社会性の視点から飯島の作品を意識したことがなかったので、遅ればせながら『成長痛の月』(素粒社)を改めて読み直してみることにしたい。
飯島の句を紹介する前に「社会性川柳」について触れておくと、石田柊馬や渡辺隆夫以後、「社会性」という言葉はあまり聞かない。戦前には「プロレタリア川柳」があり、戦後でも松本芳味は「川柳はプロレタリアの芸術だ」と言ったらしいが、今では「時事川柳」はあっても「社会性川柳」は成立しにくくなっている。社会性俳句が過去のものになったように、川柳においても社会性が唱えられることもないようだ。
現代川柳が同時代の現実と向き合うのは当然だが、川柳の実作者が高齢化しているために、時代の最先端で起きている状況について実感をもって表現することがむずかしい。氷河期とかロスジェネ世代とかいう言葉は理解できるけれど、身をもって体験しているわけではないから、切れば血の出るような表現を詠んだり読んだりすることができないのだ。
カネ出せよあんたのネクタイむかつくぜ 石田柊馬
鶴彬以後安全な川柳あそび 渡辺隆夫
社会性はこのあたりで止まっているのだ。
飯島は『成長痛の月』の「あとがき」で「この十二年間、現代川柳・伝統川柳・社会性川柳・狂句的川柳・前句付・短句など、いろいろなスタイルを経験してきました」と述べている。「世界の水平線」の章から社会性が感じられる句を挙げてみよう。
夜の帰路コンビニの灯を信じますか
地上では蠢くものが展く地図
荊棘線に変わる世界の水平線
仕事が終わって立ち寄るコンビニが一種の救済の場になっている。さまざまな人間がそこに集まってくるが、本当に癒しになっているかは疑わしい。屯している人間たちは地を蠢くものとして捉えられている。「荊棘線」は有刺鉄線。水平線が有刺鉄線に変わるのだから、世界に閉じ込められているのだ。フロンティアなどどこにもなく、閉塞感だけがある。
非正規がくっ付いている蓋のうら
氷河期がつづく回転ドアのなか
遮断機がるさんちまんと下りてくる
非正規社員や派遣はすでに珍しいことではない。経済効率を優先することで、日本的経営方式が崩壊し、格差社会が進行した。富の再分配ということも簡単にはいかない。その時代の経済状況によって順調な生活が保障されたり、逆境にさらされたりして、世代間格差が生まれてくる。氷河期、ゆとり教育を受けた世代、失われた十年など、マイナス・イメージの状況でも生きていかなければならない。
グローバル化の果てに喰う塩むすび
新自由主義(ネオリベラリズム)にはプラス・マイナス両面があるだろうが、貧困や格差などのマイナス面が問題になることが多い。
米帝の東京裁判支持します
アメリカ製憲法だから丈夫なの
「社会性川柳」を書くときの飯島の技法がうかがえる二句である。
アメリカ帝国主義という言葉を耳にしなくなって久しいが、作者が東京裁判を支持しているわけではない。「支持します」というのはもちろん反語なのだが、「支持しない」とも言っていない。言葉には二面性があり、固定したひとつのイデオロギーには収まらない。同様に「丈夫なの」も肯定・否定両方に受け取れる。護憲派・改憲派のそれぞれの議論から距離を置いた立場で表現されたアイロニカルな表現なのだ。
さまざまな価値観が乱立する現代において、誰もが納得するような風刺対象は成立しにくく、Aを批判するBに対してBを批判するCが必ず現れる。風刺の毒は相対的に弱まり、何が正しいかもわからなくなってゆく。では川柳にできることは何だろう。飯島は対立する二つのイデオロギーのどちらからも距離を置く。アイロニーは川柳の武器となる。昨年8月の「川柳スパイラル」5周年の集いで飯島が社会性川柳の例として挙げたのは「マルクスもハシカも済んださあ銭だ」(石原青龍刀)だった。
かつて飯田良祐が次のような川柳を詠んだことがある。私はすぐれた社会性川柳だと思っている。
経済産業省に実朝の首持参する 飯田良祐(句集『実朝の首』)
飯島の句を紹介する前に「社会性川柳」について触れておくと、石田柊馬や渡辺隆夫以後、「社会性」という言葉はあまり聞かない。戦前には「プロレタリア川柳」があり、戦後でも松本芳味は「川柳はプロレタリアの芸術だ」と言ったらしいが、今では「時事川柳」はあっても「社会性川柳」は成立しにくくなっている。社会性俳句が過去のものになったように、川柳においても社会性が唱えられることもないようだ。
現代川柳が同時代の現実と向き合うのは当然だが、川柳の実作者が高齢化しているために、時代の最先端で起きている状況について実感をもって表現することがむずかしい。氷河期とかロスジェネ世代とかいう言葉は理解できるけれど、身をもって体験しているわけではないから、切れば血の出るような表現を詠んだり読んだりすることができないのだ。
カネ出せよあんたのネクタイむかつくぜ 石田柊馬
鶴彬以後安全な川柳あそび 渡辺隆夫
社会性はこのあたりで止まっているのだ。
飯島は『成長痛の月』の「あとがき」で「この十二年間、現代川柳・伝統川柳・社会性川柳・狂句的川柳・前句付・短句など、いろいろなスタイルを経験してきました」と述べている。「世界の水平線」の章から社会性が感じられる句を挙げてみよう。
夜の帰路コンビニの灯を信じますか
地上では蠢くものが展く地図
荊棘線に変わる世界の水平線
仕事が終わって立ち寄るコンビニが一種の救済の場になっている。さまざまな人間がそこに集まってくるが、本当に癒しになっているかは疑わしい。屯している人間たちは地を蠢くものとして捉えられている。「荊棘線」は有刺鉄線。水平線が有刺鉄線に変わるのだから、世界に閉じ込められているのだ。フロンティアなどどこにもなく、閉塞感だけがある。
非正規がくっ付いている蓋のうら
氷河期がつづく回転ドアのなか
遮断機がるさんちまんと下りてくる
非正規社員や派遣はすでに珍しいことではない。経済効率を優先することで、日本的経営方式が崩壊し、格差社会が進行した。富の再分配ということも簡単にはいかない。その時代の経済状況によって順調な生活が保障されたり、逆境にさらされたりして、世代間格差が生まれてくる。氷河期、ゆとり教育を受けた世代、失われた十年など、マイナス・イメージの状況でも生きていかなければならない。
グローバル化の果てに喰う塩むすび
新自由主義(ネオリベラリズム)にはプラス・マイナス両面があるだろうが、貧困や格差などのマイナス面が問題になることが多い。
米帝の東京裁判支持します
アメリカ製憲法だから丈夫なの
「社会性川柳」を書くときの飯島の技法がうかがえる二句である。
アメリカ帝国主義という言葉を耳にしなくなって久しいが、作者が東京裁判を支持しているわけではない。「支持します」というのはもちろん反語なのだが、「支持しない」とも言っていない。言葉には二面性があり、固定したひとつのイデオロギーには収まらない。同様に「丈夫なの」も肯定・否定両方に受け取れる。護憲派・改憲派のそれぞれの議論から距離を置いた立場で表現されたアイロニカルな表現なのだ。
さまざまな価値観が乱立する現代において、誰もが納得するような風刺対象は成立しにくく、Aを批判するBに対してBを批判するCが必ず現れる。風刺の毒は相対的に弱まり、何が正しいかもわからなくなってゆく。では川柳にできることは何だろう。飯島は対立する二つのイデオロギーのどちらからも距離を置く。アイロニーは川柳の武器となる。昨年8月の「川柳スパイラル」5周年の集いで飯島が社会性川柳の例として挙げたのは「マルクスもハシカも済んださあ銭だ」(石原青龍刀)だった。
かつて飯田良祐が次のような川柳を詠んだことがある。私はすぐれた社会性川柳だと思っている。
経済産業省に実朝の首持参する 飯田良祐(句集『実朝の首』)
2023年2月24日金曜日
ヒヤシンスと黒百合
2月×日
大阪城の梅林に行く。西の丸庭園には何度か行ったことがあるが、梅林ははじめて。好天気に恵まれ、人出が多い。紅梅・白梅・黄梅などいろいろな種類の梅があり、メジロが花の蜜を吸っている。城のお堀にはオオバンやヒドリガモなどの水鳥が泳いでいた。
豊国神社の東側に鶴彬の句碑がある。場所がわかりにくく、以前来たときは探せなかったが、今回は見つけることができた。
暁をいだいて闇にゐる蕾 鶴彬
2008年に建立されたもので、金沢の卯辰山にある句碑と同じ句だが、金沢の方は表記が「抱いて」となっている。鶴彬の直筆短冊には「抱いて」と漢字になっているので、金沢のはそれに従っている。一方、「蒼空」第4号(昭和11年3月)に掲載された初出では「いだいて」となっているので、大阪城のはそれに従っている。 そういう書誌的なことはさておいて、この句を前にして私が思い浮かべたのは小熊秀雄の「馬車の出発の歌」だった。小熊の詩の冒頭を引用する。
仮りに暗黒が
永遠に地球をとらえていようとも
権利はいつも
目覚めているだろう、
薔薇は闇の中で
まっくろに見えるだけだ、
もし陽がいっぺんに射したら
薔薇色であったことを証明するだろう
鶴彬と小熊秀雄。
鶴彬の句では「蕾」とだけ言っていて、薔薇とは限らないが、小熊の詩が頭の中にあったので私は薔薇のイメージを思い浮かべた。
内野健児(新井徹)が創刊した「詩精神」1935年2月号に鶴彬の作品が掲載されている。
瓦斯タンク! 不平あつめてもりあがり
明日の火をはらむ石炭がうづ高い
ベルトさえ我慢が切れた能率デー
生命捨て売りに出て今日もあぶれ
小熊秀雄は「詩精神」の同人で、小熊秀雄選の詩の募集に鶴彬が応募したこともあったらしい。この時期、鶴彬の川柳と小熊秀雄のプロレタリア詩の交流があったが、やがて小熊は1940年に死んでしまう。
2月×日
「アンソロジスト」4号、ようやく手に入れることができた。
特集「短歌アンソロジー あこがれ」に小島なお・初谷むい・東直子・平岡直子・山崎聡子の五人が作品を出している。「序文」で永山裕美は分厚い小説が読まれるのに短歌や俳句が読んでもらえないという壁について述べている。「昨今、短歌ブームと言われているように、短歌、俳句、川柳、現代詩といったような短詩系文学が、今までと違った読者層に届き始めている、そんな予兆は確かに感じられる。けれども、それでも依然として、この壁はまだ高くそびえたっている」
そして五人の短歌を紹介したあと、永山は次のようにまとめている。「短歌の裾野は今、確かに広がっている。でも、今の百倍くらい読まれてもいいはずだ。短歌だけでなく、俳句や川柳、現代詩、そして、その他の短詩系文学についても同様に、詩歌の良さがより身近に分かちあえる、そんな光景を書店の片隅で、私はずっと夢見ている」
掲載された短歌は本誌のほかにそれぞれの歌人の作品リファイルとしても刊行・販売されている。ここでは平岡直子の二首だけ紹介しておく。
ヒヤシンスみたいに薄い息をするわたしを客席にみつけたの? 平岡直子
黒い百合 井戸の底ではひとときのとてもつめたいみずにさわった
他に小津夜景の「流星の味」や「スケザネ図書室」など、読みどころが満載だが、最後に暮田真名の「音程で川柳をつくる」に触れておきたい。 音程で川柳を?どういうことかわからなかったが、次のようなことらしい。
お話にならない2が増えて行く
2の部分には2音の文字が入るという。従来の川柳入門書では穴埋め川柳というかたちで
お話にならない( )が増えてゆく
( )の中に2音の言葉を入れる練習問題になるだろう。入れる言葉は意味や韻律や作者の言語感覚によって決まってゆくが、暮田の独自性は「音程」が聞こえるかどうかという点だ。暮田のいう音程とはイントネーションということらしくて、同じ2音の単語でも、「椅子」「岐阜」「棋譜」は候補になるが、「ニス」「キス」「畏怖」は候補にならない。イントネーション(東京弁)が異なるからだ。
たぶん実作の場合はそんな単純なことではないだろうし、詳しいことは暮田の文章をお読みいただきたいが、ふつう作句工房の秘密は伏せておくことが多いので、こんなにオープンにして大丈夫なのかと思ったりする。句の作り方は人それぞれで異なり、単純に模倣しておもしろい川柳ができるとは限らない。
大阪城の梅林に行く。西の丸庭園には何度か行ったことがあるが、梅林ははじめて。好天気に恵まれ、人出が多い。紅梅・白梅・黄梅などいろいろな種類の梅があり、メジロが花の蜜を吸っている。城のお堀にはオオバンやヒドリガモなどの水鳥が泳いでいた。
豊国神社の東側に鶴彬の句碑がある。場所がわかりにくく、以前来たときは探せなかったが、今回は見つけることができた。
暁をいだいて闇にゐる蕾 鶴彬
2008年に建立されたもので、金沢の卯辰山にある句碑と同じ句だが、金沢の方は表記が「抱いて」となっている。鶴彬の直筆短冊には「抱いて」と漢字になっているので、金沢のはそれに従っている。一方、「蒼空」第4号(昭和11年3月)に掲載された初出では「いだいて」となっているので、大阪城のはそれに従っている。 そういう書誌的なことはさておいて、この句を前にして私が思い浮かべたのは小熊秀雄の「馬車の出発の歌」だった。小熊の詩の冒頭を引用する。
仮りに暗黒が
永遠に地球をとらえていようとも
権利はいつも
目覚めているだろう、
薔薇は闇の中で
まっくろに見えるだけだ、
もし陽がいっぺんに射したら
薔薇色であったことを証明するだろう
鶴彬と小熊秀雄。
鶴彬の句では「蕾」とだけ言っていて、薔薇とは限らないが、小熊の詩が頭の中にあったので私は薔薇のイメージを思い浮かべた。
内野健児(新井徹)が創刊した「詩精神」1935年2月号に鶴彬の作品が掲載されている。
瓦斯タンク! 不平あつめてもりあがり
明日の火をはらむ石炭がうづ高い
ベルトさえ我慢が切れた能率デー
生命捨て売りに出て今日もあぶれ
小熊秀雄は「詩精神」の同人で、小熊秀雄選の詩の募集に鶴彬が応募したこともあったらしい。この時期、鶴彬の川柳と小熊秀雄のプロレタリア詩の交流があったが、やがて小熊は1940年に死んでしまう。
2月×日
「アンソロジスト」4号、ようやく手に入れることができた。
特集「短歌アンソロジー あこがれ」に小島なお・初谷むい・東直子・平岡直子・山崎聡子の五人が作品を出している。「序文」で永山裕美は分厚い小説が読まれるのに短歌や俳句が読んでもらえないという壁について述べている。「昨今、短歌ブームと言われているように、短歌、俳句、川柳、現代詩といったような短詩系文学が、今までと違った読者層に届き始めている、そんな予兆は確かに感じられる。けれども、それでも依然として、この壁はまだ高くそびえたっている」
そして五人の短歌を紹介したあと、永山は次のようにまとめている。「短歌の裾野は今、確かに広がっている。でも、今の百倍くらい読まれてもいいはずだ。短歌だけでなく、俳句や川柳、現代詩、そして、その他の短詩系文学についても同様に、詩歌の良さがより身近に分かちあえる、そんな光景を書店の片隅で、私はずっと夢見ている」
掲載された短歌は本誌のほかにそれぞれの歌人の作品リファイルとしても刊行・販売されている。ここでは平岡直子の二首だけ紹介しておく。
ヒヤシンスみたいに薄い息をするわたしを客席にみつけたの? 平岡直子
黒い百合 井戸の底ではひとときのとてもつめたいみずにさわった
他に小津夜景の「流星の味」や「スケザネ図書室」など、読みどころが満載だが、最後に暮田真名の「音程で川柳をつくる」に触れておきたい。 音程で川柳を?どういうことかわからなかったが、次のようなことらしい。
お話にならない2が増えて行く
2の部分には2音の文字が入るという。従来の川柳入門書では穴埋め川柳というかたちで
お話にならない( )が増えてゆく
( )の中に2音の言葉を入れる練習問題になるだろう。入れる言葉は意味や韻律や作者の言語感覚によって決まってゆくが、暮田の独自性は「音程」が聞こえるかどうかという点だ。暮田のいう音程とはイントネーションということらしくて、同じ2音の単語でも、「椅子」「岐阜」「棋譜」は候補になるが、「ニス」「キス」「畏怖」は候補にならない。イントネーション(東京弁)が異なるからだ。
たぶん実作の場合はそんな単純なことではないだろうし、詳しいことは暮田の文章をお読みいただきたいが、ふつう作句工房の秘密は伏せておくことが多いので、こんなにオープンにして大丈夫なのかと思ったりする。句の作り方は人それぞれで異なり、単純に模倣しておもしろい川柳ができるとは限らない。
2023年2月18日土曜日
川柳の青春
かつて川柳が青春の文学である時代があった。
明治の関西川柳界の草分けは小島六厘坊である。東京では阪井久良岐や井上剣花坊が「新川柳」を提唱したが、新川柳が大阪に定着したのは小島六厘坊の力による。
毎日新聞の社員だった西田当百は明治39年ごろ「大阪新報」柳壇の小島六厘坊選へ投句した。句会ではじめて六厘坊に会ったときの思い出を当百は次のように書いている。
「僕が六厘坊ですと太い声で挨拶したのが、眉の濃い鼻の大きい荒削りの顔の若い男、見渡した処いずれも二十歳左右の人々で、老人連とは元より思っていなかったが、去りとは大分予想を裏切られた。この川柳家の年若については、その後も会場へ訪れて来た人が、宗匠はどこに、六厘坊先生はどなたでと尋ねて、呆気にとられて帰ったこと一再ならずあった」
六厘坊と久良岐との会見も六厘坊面目躍如のエピソードである。六厘坊は久良岐に対して反抗心をもっていたようで、喧嘩腰の会見だったという。「僕を困らせようと古い題を出しよったが、僕は知らんがな、それで負けん気で議論して来た」とは六厘坊の談である。
明治42年5月、六厘坊は22歳で夭折。関西の川柳界は関西川柳社から「番傘」の時代へと入ってゆく。
岸本水府の青春につては田辺聖子の小説に詳しく描かれているので触れないことにする。ここでは麻生路郎について述べておく。
大正4年、麻生路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
最後に川上三太郎の場合はどうだっただろうか。三太郎は19歳のときに「現川柳作家の労働及び其の価値」という文章を書いている。
「混沌たる柳壇、泥酔せる川柳作家、彼らはたとえ幾百千万句作るとも、その筆にその活字にその雑誌に、いたずらなる労働に過ぎないのである。たとえ幾多の柳壇対努力をしても、無益な労働に過ぎないのである。現川柳及び現川柳作家の作句する努力の価値こそ、実に無益な下らない愚劣なものはない。それを自覚した僕ら若い青年、まじめな熱に燃えている若い人々はなんで見ているわけにいこう。否なんでそれに盲動、服従していられよう」(「矢車」明治43年12月)
青年らしい過激な文章だ。川柳人にもそれぞれの青春があり、夭折した者もあれば「成熟」の道をたどった者もあるが、それはまた別の話題である。
明治の関西川柳界の草分けは小島六厘坊である。東京では阪井久良岐や井上剣花坊が「新川柳」を提唱したが、新川柳が大阪に定着したのは小島六厘坊の力による。
毎日新聞の社員だった西田当百は明治39年ごろ「大阪新報」柳壇の小島六厘坊選へ投句した。句会ではじめて六厘坊に会ったときの思い出を当百は次のように書いている。
「僕が六厘坊ですと太い声で挨拶したのが、眉の濃い鼻の大きい荒削りの顔の若い男、見渡した処いずれも二十歳左右の人々で、老人連とは元より思っていなかったが、去りとは大分予想を裏切られた。この川柳家の年若については、その後も会場へ訪れて来た人が、宗匠はどこに、六厘坊先生はどなたでと尋ねて、呆気にとられて帰ったこと一再ならずあった」
六厘坊と久良岐との会見も六厘坊面目躍如のエピソードである。六厘坊は久良岐に対して反抗心をもっていたようで、喧嘩腰の会見だったという。「僕を困らせようと古い題を出しよったが、僕は知らんがな、それで負けん気で議論して来た」とは六厘坊の談である。
明治42年5月、六厘坊は22歳で夭折。関西の川柳界は関西川柳社から「番傘」の時代へと入ってゆく。
岸本水府の青春につては田辺聖子の小説に詳しく描かれているので触れないことにする。ここでは麻生路郎について述べておく。
大正4年、麻生路郎と川上日車は「番傘」を脱退し、8月に「雪」を創刊する。「川柳」という呼称を用いず、「新短歌」と称している。大正6年2月の終刊まで19号を発行。
日車は後年、次のように回想している。
「古川柳には、古川柳独特の味いと響をもっている。私たちは久しくそれに浸って川柳作家としての揺籃期を過ごした。だが少年期はやがて迎える青年期の前提である。少年期に『紅い』と映ったもの、それは、伝承的『紅い』であって自己の発見した『紅い』ではなかった。ここに少年期と青年期との間に一つの曲り角がある。その曲り角を意識にとめず一直線に歩みつづけるのも、透徹した一つの道ではあるが、自己に厳しい執着を持つ者にはそれが出来ない。そこに青年期の浮氷が横たわる。路郎と私が手を携えて『雪』を発行したのは、まさに此の曲り角に立った時であった。
くろぐろと道頓堀の水流る
行末はどうあろうとも火の如し
こうして路郎の眼は次ぎ次ぎと人生のあらゆる角度に拡がっていった」(「雪の頃―路郎と私」、「川柳雑誌」昭和32年7月)
「行末は」の句は路郎の心意気をよく示しているように思えるが、橘高薫風の調査によると「雪」の中にはないという。また、「くろぐろと」の句は「くろぐろとうき川竹の水流る」の形で「雪」に収録されているということだ。
「雪」終刊の翌年、大正7年7月に「土団子」が創刊される。表紙は小出楢重。創刊号の巻頭言は路郎が書いている。「現代の柳界は例せば青い玉と赤い玉の時代である」
「青い玉は静的である。池の中の水である。水底に沈殿せる黒い土である。その土に圧せられたる朽葉である。彼等は遂に自己の流れ行く運命をさへ知らないのである」
「赤い玉は動的である。天上に燃ゆる太陽である。世にありとあらゆるものを焼かんとする火である。この故に頗る危険である。しかしながら此の危険のない処に真の革命はない筈である」
「茲に我等は青い玉の上に赤い玉を建設することを宣言する。我が『土団子』は、柳界の平和を打破して、新しい川柳王国を築くために放たれたるピストルの一弾である」
過激な宣言であるが、「土団子」もその年の10月には4号で廃刊になってしまう。
大正8年、路郎一家は萩の茶屋三日路に移り住んだ。『麻生路郎読本』巻頭の「路郎アルバム」の中には半文銭と路郎のふたりが写っている写真が掲載されている。「大正9年の春、大阪市萩の茶屋三日路の路郎居にて。左は半文銭。近所に住んでいたので、頻繁に行き来していた」とある。
やがて新興川柳運動が起こり、半文銭と日車はその中心作家となるが、路郎は同調しなかった。
「日車氏は半文銭氏と共に『小康』を出したが、私は日車の強請を断じてしりぞけ、これには参加しなかった」「お互ひ川柳家同志がいかに、可なりとして褒めちぎったところで、一歩社会へ出て見れば、まるで社会から川柳の存在が認められてゐないではないか。これではいけない。ここに眼をつけた私は日車氏等の強請懇望これつとめてくれた友情をも振り切って、社会的な柳誌、社会を対象とする柳誌刊行の計画をすすめたのであった」(「苦闘四十年」、「川柳雑誌」昭和18年2月)
ここで路郎は現実路線へと舵を切ったのである。
新興川柳との路線の違いは田中五呂八に対する次のような言葉にも表われている。
「あなたが『氷原』のために闘っていられる態度、同志のための詩集を出すための努力などに対しては涙ぐましさを感じます。けれども、あなたの評論や創作に対しては僕は唯厳正な一批評家の立場で拝読していることに心づきます」「一体革新の名によって奮闘?をしている人達は気短過ぎる共通性の欠点を持っていると思います。薄っぺらな雑誌すら出たり出なんだりで、社会から川柳に対する従来の誤解を一掃しようなどと考えて見ることすらあまりに虫のいい話だと思います」(「三十年計画―田中五呂八氏に与ふ」)
最後に川上三太郎の場合はどうだっただろうか。三太郎は19歳のときに「現川柳作家の労働及び其の価値」という文章を書いている。
「混沌たる柳壇、泥酔せる川柳作家、彼らはたとえ幾百千万句作るとも、その筆にその活字にその雑誌に、いたずらなる労働に過ぎないのである。たとえ幾多の柳壇対努力をしても、無益な労働に過ぎないのである。現川柳及び現川柳作家の作句する努力の価値こそ、実に無益な下らない愚劣なものはない。それを自覚した僕ら若い青年、まじめな熱に燃えている若い人々はなんで見ているわけにいこう。否なんでそれに盲動、服従していられよう」(「矢車」明治43年12月)
青年らしい過激な文章だ。川柳人にもそれぞれの青春があり、夭折した者もあれば「成熟」の道をたどった者もあるが、それはまた別の話題である。
2023年2月11日土曜日
多行川柳入門
多行書きの川柳として川柳界で最もよく知られているのは、松本芳味の次の作品だろう。
これはたたみか
芒が原か
父かえせ
母かえせ
松本芳味の句集『難破船』の第二部は多行川柳で占められている。短歌・俳句にあるものはすべて川柳でも試みられている。川柳には自由律もあれば、短句(七七句)もあり、多行川柳もある。私は基本的に川柳は口語一行詩だと思っているので、自分では多行川柳を書くことはないが、ひとりの作者が多行作品に向かうときの必然性は否定しない。今回は川柳における多行書きの作品を振り返ってみたい。
多行川柳の試みとしてまず注目されるのは、新興川柳期の中島國夫である。新興川柳期には自由律についての議論が盛んで、それと関連して多行川柳も書かれている。中島國夫の作品から、定型・自由律・二行書き・三行書きを並べて紹介する。引用は『新興川柳選集』(たいまつ社)より。
カラクリを知らぬ軍歌が勇ましい
みんなドクロとなる日烏がくん章ぶら下げる
私有のドン慾に
ケシ粒の地球
縛られた手で
ひとの紙幣ばかり
数へさせられ
二句目の「くん章」は勲章。四句目の「紙幣」には「さつ」とルビがふってある。中島は井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人で、「川柳人」の編集もしている。プロレタリア川柳も勃興していて、中島の句にも権力批判の傾向が強い。プロレタリア川柳の鶴彬にも多行川柳がある。
これしきの金に 鶴彬
主義!
一つ売り 二つ売り
中島の多行川柳はあまり評価されていないが、次の作品はおもしろいと思う。
ショウウインドウに化石している
媚
媚
媚
ここには木村半文銭の「夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛」とも共通する視覚表現が見られる。
さて松本芳味に話を戻すと、『難破船』の序で松本はこんなふうに書いている。
「二十歳ごろから川柳を始め、約十年ひたすら青春の感傷と抒情をうたった。その一行作品を第一部にまとめ、多行形式十五年間の作品を第二部としてまとめた」
「三十歳になってから、創作に行き詰まり、多行形式に踏切ると共に、意識的に従来の感傷をふりきり、社会と個の結合を志向し、主張し、現代川柳の確立に努力した」
月光や「救われたいとおもいます」
鶴の名を呼びて狂わば こうふくに
蓬髪の眼がうつくしいときに雪
白蝶は明日の方へ飛ぶ―僕は!?
花びらは虚空に炎える 賭けようか
こういう句が松本芳味の感傷と抒情の世界である。多行形式はそれを超克するための作者にとって必然的な道程だったことが理解できる。芳味の多行川柳をもうすこし挙げておこう。
少女の中に
不吉な
蝶が育ってゆく
地表より
虫湧き
虫湧く
炎天の飢餓
くらい性器
玩具のハーモニカ
は鳴るか
次に取り上げるのは河野春三である。春三の『無限階段』には多行書きの作品が十数句収録されている。
歪んだ季節の
落下傘から
飛び下りる胎児
起重機沈む
孕みしことは
舌打ちされ
現代川柳における定型と自由律、一行詩と多行詩の関係には錯綜した歴史があり、それを整理することは私の手に余るが、作品の内容と形式には有機的な関連があり、ひとりの作者が素材やテーマによって複数の形式を書き分けることはありうると思う。ただ、成功するか失敗するかは作品次第なので、五七五の定型のリズムをなぜわざわざ三行書きにするのか疑問に思うこともある。
最後に松本仁の作品を紹介しておこう。
股間から
富士をながめる
情死考
ゴッホ
明恵
いずれの耳か
高く舞う
蝶
これはたたみか
芒が原か
父かえせ
母かえせ
松本芳味の句集『難破船』の第二部は多行川柳で占められている。短歌・俳句にあるものはすべて川柳でも試みられている。川柳には自由律もあれば、短句(七七句)もあり、多行川柳もある。私は基本的に川柳は口語一行詩だと思っているので、自分では多行川柳を書くことはないが、ひとりの作者が多行作品に向かうときの必然性は否定しない。今回は川柳における多行書きの作品を振り返ってみたい。
多行川柳の試みとしてまず注目されるのは、新興川柳期の中島國夫である。新興川柳期には自由律についての議論が盛んで、それと関連して多行川柳も書かれている。中島國夫の作品から、定型・自由律・二行書き・三行書きを並べて紹介する。引用は『新興川柳選集』(たいまつ社)より。
カラクリを知らぬ軍歌が勇ましい
みんなドクロとなる日烏がくん章ぶら下げる
私有のドン慾に
ケシ粒の地球
縛られた手で
ひとの紙幣ばかり
数へさせられ
二句目の「くん章」は勲章。四句目の「紙幣」には「さつ」とルビがふってある。中島は井上剣花坊の柳樽寺川柳会の同人で、「川柳人」の編集もしている。プロレタリア川柳も勃興していて、中島の句にも権力批判の傾向が強い。プロレタリア川柳の鶴彬にも多行川柳がある。
これしきの金に 鶴彬
主義!
一つ売り 二つ売り
中島の多行川柳はあまり評価されていないが、次の作品はおもしろいと思う。
ショウウインドウに化石している
媚
媚
媚
ここには木村半文銭の「夕焼の中の屠牛場牛牛牛牛牛牛牛牛牛牛」とも共通する視覚表現が見られる。
さて松本芳味に話を戻すと、『難破船』の序で松本はこんなふうに書いている。
「二十歳ごろから川柳を始め、約十年ひたすら青春の感傷と抒情をうたった。その一行作品を第一部にまとめ、多行形式十五年間の作品を第二部としてまとめた」
「三十歳になってから、創作に行き詰まり、多行形式に踏切ると共に、意識的に従来の感傷をふりきり、社会と個の結合を志向し、主張し、現代川柳の確立に努力した」
月光や「救われたいとおもいます」
鶴の名を呼びて狂わば こうふくに
蓬髪の眼がうつくしいときに雪
白蝶は明日の方へ飛ぶ―僕は!?
花びらは虚空に炎える 賭けようか
こういう句が松本芳味の感傷と抒情の世界である。多行形式はそれを超克するための作者にとって必然的な道程だったことが理解できる。芳味の多行川柳をもうすこし挙げておこう。
少女の中に
不吉な
蝶が育ってゆく
地表より
虫湧き
虫湧く
炎天の飢餓
くらい性器
玩具のハーモニカ
は鳴るか
次に取り上げるのは河野春三である。春三の『無限階段』には多行書きの作品が十数句収録されている。
歪んだ季節の
落下傘から
飛び下りる胎児
起重機沈む
孕みしことは
舌打ちされ
現代川柳における定型と自由律、一行詩と多行詩の関係には錯綜した歴史があり、それを整理することは私の手に余るが、作品の内容と形式には有機的な関連があり、ひとりの作者が素材やテーマによって複数の形式を書き分けることはありうると思う。ただ、成功するか失敗するかは作品次第なので、五七五の定型のリズムをなぜわざわざ三行書きにするのか疑問に思うこともある。
最後に松本仁の作品を紹介しておこう。
股間から
富士をながめる
情死考
ゴッホ
明恵
いずれの耳か
高く舞う
蝶
2023年2月3日金曜日
松林尚志の仕事
松林尚志(まつばやし・しょうし)とは直接会ったことはないが、彼の書いた文章は折に触れて読んできた。川柳に関しては、渡辺隆夫の第三句集『かめれおん』(北宋社、2002年)の序が思い浮かぶ。松林はこんなふうに書いている。
「私は以前、といっても昭和四十年のことであるから四十年近い昔であるが、『川柳しなの』という雑誌に、石曽根民郎氏に頼まれ『現代川柳雑感』という文章を書いたことがある。何冊かお借りした句集には時実新子、河野春三、片柳哲郎、佐藤正敏氏らの句集があった。私には現代川柳の水準の高さにおおおいに学ぶところがあったのだが、一部の作品が俳句と同じ発想、同じ水準に来ていることを実感した。それは共通の詩を求めることの当然の結果といえるが、そこには川柳の本来持つ風刺やうがちが自己に向けられることからくる、自虐的傾向とそれ故の暗さや深刻さが気になり、そのことに懸念を表明した」
それに対して渡辺隆夫の川柳はどのようなものか。松林は「現代川柳と現代俳句はある面ではほとんど交叉している。しかし『亀れおん』では逆に現代俳句と競う位置から遠ざかり、かつての川柳の持った逞しい転合精神を復活させようとしている。渡辺氏はどうやら本来的川柳の在り方からの出直しを企んでいるようだ」と見ている。
渡辺隆夫の川柳をどう評価するかは「私川柳」や「現代俳句」に対してどのようなスタンスをとるかという問題とからみあっている。また「現代川柳」と「狂句」との関係にも歴史的な経緯がある。松林の見方は、「現代川柳は俳句の真似をしないで川柳本来の在り方に戻るべきだ」という俗論とは次元を異にするが、困ったことに、そのような俗論を唱える論者が「いいね」と評価するのが渡辺隆夫であることだ。私自身の渡辺隆夫論については「渡辺隆夫の孤独」(「MANO」12号)に書いたことがある。
松林は「序」の最後でこんなふうに書いている。「私が渡辺氏の今後に期待するのは、他者に向けられた毒の刃が自己にも向けられることである。諷刺でもたんなる野次馬ではなく、加害者に対する怒り、憎しみ、呪詛としての毒がなければならない」
ここには実作上の微妙な問題があって、自己に向けられる毒は諷刺の力を弱めるのではないかということだ。他者や社会を批判しつつ自己の内部の葛藤も表現しきる、両立させるのは至難の業だろう。
連句に関連して言えば、松林の『日本の韻律 五音と七音の詩学』(花神社、1996年)は連句人にとっても重要である。連句界では短句・七七句の下の七音について、4+3のリズムはよくないと言われている。四三(しさん)の禁である。芭蕉の連句には短句に四三のリズムは一句もないと言うのだが、それは近代以前の話。短歌においては齋藤茂吉の「短歌に於ける四三調の結句」によって四三調の禁から自由になり、現代短歌においては意識もされなくなった。松林の本は連句における四三調の問題を考えるときに必読の一冊である。
『俳句に憑かれた人たち』(沖積舎、2010年)は現代俳句を彩る47人の作家像をまとめたもの。私はその中で現代川柳とも関係の深い津久井理一と野田誠に注目している。
津久井理一は50冊近い「私版・短詩型文学全書」の出版、個人誌「八幡船」(ばはんせん)の発行などで、現代川柳の世界とも交流があった。松林は次のように書いている。
「理一は昭和三十八年六月、個人誌『八幡船』を発足させる。『八幡船』創刊号には野田誠が『鏡部落』を載せ、重信や八田木枯が句を寄せている。『八幡船』を持つことで理一は自らの意図を誌面に反映させつつ作家を発掘し、人脈を広げることが可能になった。私版・短詩型文学全書の第一集が出たのは四十一年二月で、阿部青鞋が最初である。次いで、野田誠、東川紀志男、瀧春一、渡邊白泉、大原テルカズと続く。紀志男、テルカズという関西、関東の最も過激な前衛を取り上げているところにも、理一の反骨精神がよく示されていると思う」
「私版・短詩型文学全書」は俳句篇のほかに川柳篇と一行詩篇があり、川柳篇として『河野春三集』『福島真澄集』『時実新子集』『草刈蒼之助集』が出ている。『山村祐集』が川柳篇ではなくて一行詩篇として発行されたことが当時の川柳界で物議をかもした。「短詩型の広場」ということが言われ、俳句と川柳の違いはジャンルの違いではなくて、エコールの違いだというエコール論が唱えられたのもこの頃である。津久井理一の句から。
ながきながき饂飩を食ひぬ特高と 津久井理一
ストへストへ七階にして螺旋階尽きる
しら髪のさらりと黒い海がある
毛野の地を日本と思ふすみれ濃し
あと、野田誠の句も紹介しておく。「永遠は」の句は私のなかでは優れた川柳作品として記憶されている。
永遠はアルミニウムでありすぎる 野田誠
ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
ことば積む はげしく零へ 近づけて
午後曇天わがこめかみの角砂糖
松林の俳句評論としては『子規の俳句・虚子の俳句』(花神社、2002年)、『桃青から芭蕉へ―詩人の誕生―』(鳥影社、2012年)が挙げられる。
前者の巻頭評論「子規―俳句の出発」では俳句と連句について次のように述べられている。
「子規のいうように連句では付句の展開を見る限り変化が生命なのであって、子規はその変化を非文学と見做したのであった。子規は文学に個の表現の一貫性をみていたから、他者による恣意的な変化を文学とは見做せなかったのである。しかし、文学を発想とは別の観点から、つまり完結した作品そのものとしてみると、変化していくところに微妙な味わいがあればそれはそれで文学として面白いのである」
後者『桃青から芭蕉へ』は芭蕉が談林から脱却していく過程を『桃青門弟独吟二十歌仙』から『虚栗』への歩みのなかにたどっている。
最後に、松林は和歌についても『和歌と王朝・勅撰集のドラマを追う』(鳥影社、2015年)を上梓している。『新古今和歌集』の巻頭歌は摂政太政大臣・藤原良経だが、彼の謎の急死など『新古今和歌集』成立の周辺を探った「藤原良経と後鳥羽院・実朝」、南北朝時代の流浪の歌びとの姿を描いた「宗良親王私記」など興味深い論考が収録されている。
松林尚志の俳人としての業績について私は詳しくないが、評論については『古典と正統』以外はあらかた手元に置いている。著者から贈呈していただいた本も多いが、礼状もださないまま時が過ぎてしまった。改めて読み直してみると、短詩型文学に対する視野の広さに基づいた優れたお仕事だと思う。
「私は以前、といっても昭和四十年のことであるから四十年近い昔であるが、『川柳しなの』という雑誌に、石曽根民郎氏に頼まれ『現代川柳雑感』という文章を書いたことがある。何冊かお借りした句集には時実新子、河野春三、片柳哲郎、佐藤正敏氏らの句集があった。私には現代川柳の水準の高さにおおおいに学ぶところがあったのだが、一部の作品が俳句と同じ発想、同じ水準に来ていることを実感した。それは共通の詩を求めることの当然の結果といえるが、そこには川柳の本来持つ風刺やうがちが自己に向けられることからくる、自虐的傾向とそれ故の暗さや深刻さが気になり、そのことに懸念を表明した」
それに対して渡辺隆夫の川柳はどのようなものか。松林は「現代川柳と現代俳句はある面ではほとんど交叉している。しかし『亀れおん』では逆に現代俳句と競う位置から遠ざかり、かつての川柳の持った逞しい転合精神を復活させようとしている。渡辺氏はどうやら本来的川柳の在り方からの出直しを企んでいるようだ」と見ている。
渡辺隆夫の川柳をどう評価するかは「私川柳」や「現代俳句」に対してどのようなスタンスをとるかという問題とからみあっている。また「現代川柳」と「狂句」との関係にも歴史的な経緯がある。松林の見方は、「現代川柳は俳句の真似をしないで川柳本来の在り方に戻るべきだ」という俗論とは次元を異にするが、困ったことに、そのような俗論を唱える論者が「いいね」と評価するのが渡辺隆夫であることだ。私自身の渡辺隆夫論については「渡辺隆夫の孤独」(「MANO」12号)に書いたことがある。
松林は「序」の最後でこんなふうに書いている。「私が渡辺氏の今後に期待するのは、他者に向けられた毒の刃が自己にも向けられることである。諷刺でもたんなる野次馬ではなく、加害者に対する怒り、憎しみ、呪詛としての毒がなければならない」
ここには実作上の微妙な問題があって、自己に向けられる毒は諷刺の力を弱めるのではないかということだ。他者や社会を批判しつつ自己の内部の葛藤も表現しきる、両立させるのは至難の業だろう。
連句に関連して言えば、松林の『日本の韻律 五音と七音の詩学』(花神社、1996年)は連句人にとっても重要である。連句界では短句・七七句の下の七音について、4+3のリズムはよくないと言われている。四三(しさん)の禁である。芭蕉の連句には短句に四三のリズムは一句もないと言うのだが、それは近代以前の話。短歌においては齋藤茂吉の「短歌に於ける四三調の結句」によって四三調の禁から自由になり、現代短歌においては意識もされなくなった。松林の本は連句における四三調の問題を考えるときに必読の一冊である。
『俳句に憑かれた人たち』(沖積舎、2010年)は現代俳句を彩る47人の作家像をまとめたもの。私はその中で現代川柳とも関係の深い津久井理一と野田誠に注目している。
津久井理一は50冊近い「私版・短詩型文学全書」の出版、個人誌「八幡船」(ばはんせん)の発行などで、現代川柳の世界とも交流があった。松林は次のように書いている。
「理一は昭和三十八年六月、個人誌『八幡船』を発足させる。『八幡船』創刊号には野田誠が『鏡部落』を載せ、重信や八田木枯が句を寄せている。『八幡船』を持つことで理一は自らの意図を誌面に反映させつつ作家を発掘し、人脈を広げることが可能になった。私版・短詩型文学全書の第一集が出たのは四十一年二月で、阿部青鞋が最初である。次いで、野田誠、東川紀志男、瀧春一、渡邊白泉、大原テルカズと続く。紀志男、テルカズという関西、関東の最も過激な前衛を取り上げているところにも、理一の反骨精神がよく示されていると思う」
「私版・短詩型文学全書」は俳句篇のほかに川柳篇と一行詩篇があり、川柳篇として『河野春三集』『福島真澄集』『時実新子集』『草刈蒼之助集』が出ている。『山村祐集』が川柳篇ではなくて一行詩篇として発行されたことが当時の川柳界で物議をかもした。「短詩型の広場」ということが言われ、俳句と川柳の違いはジャンルの違いではなくて、エコールの違いだというエコール論が唱えられたのもこの頃である。津久井理一の句から。
ながきながき饂飩を食ひぬ特高と 津久井理一
ストへストへ七階にして螺旋階尽きる
しら髪のさらりと黒い海がある
毛野の地を日本と思ふすみれ濃し
あと、野田誠の句も紹介しておく。「永遠は」の句は私のなかでは優れた川柳作品として記憶されている。
永遠はアルミニウムでありすぎる 野田誠
ひろしまと書けばすなわちその文字燃ゆ
ことば積む はげしく零へ 近づけて
午後曇天わがこめかみの角砂糖
松林の俳句評論としては『子規の俳句・虚子の俳句』(花神社、2002年)、『桃青から芭蕉へ―詩人の誕生―』(鳥影社、2012年)が挙げられる。
前者の巻頭評論「子規―俳句の出発」では俳句と連句について次のように述べられている。
「子規のいうように連句では付句の展開を見る限り変化が生命なのであって、子規はその変化を非文学と見做したのであった。子規は文学に個の表現の一貫性をみていたから、他者による恣意的な変化を文学とは見做せなかったのである。しかし、文学を発想とは別の観点から、つまり完結した作品そのものとしてみると、変化していくところに微妙な味わいがあればそれはそれで文学として面白いのである」
後者『桃青から芭蕉へ』は芭蕉が談林から脱却していく過程を『桃青門弟独吟二十歌仙』から『虚栗』への歩みのなかにたどっている。
最後に、松林は和歌についても『和歌と王朝・勅撰集のドラマを追う』(鳥影社、2015年)を上梓している。『新古今和歌集』の巻頭歌は摂政太政大臣・藤原良経だが、彼の謎の急死など『新古今和歌集』成立の周辺を探った「藤原良経と後鳥羽院・実朝」、南北朝時代の流浪の歌びとの姿を描いた「宗良親王私記」など興味深い論考が収録されている。
松林尚志の俳人としての業績について私は詳しくないが、評論については『古典と正統』以外はあらかた手元に置いている。著者から贈呈していただいた本も多いが、礼状もださないまま時が過ぎてしまった。改めて読み直してみると、短詩型文学に対する視野の広さに基づいた優れたお仕事だと思う。
2023年1月27日金曜日
別所真紀子『風曜日』(深夜叢書社)
1月22日
朝日新聞朝刊「短歌時評」に山田航の「いま、ネット短歌史」が掲載されている。同人誌「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」について触れているが、「かばん」の特集については本時評の12月25日でも言及したことがある。山田は「ネットはもはや社会的インフラである。ネット短歌も死後になった現在だからこそ、あらためてネット短歌史を振り返ろうという企画だろう」「ネットメディアと短歌の関係の研究は、まだ始まったばかりだ」と述べている。
現代川柳の場合はネット句会がまだ始まったばかりで、2022年に顕在化した感がある。今後どのように展開してゆくのか未知数の部分もあるが、チェックしておく必要がありそうだ。
1月×日
温泉が好きである。 昨年は連句集『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会)の編集と私の第三句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)の発行にエネルギーを費やした。疲労回復には温泉につかるのが一番だ。
草津温泉と伊香保温泉に行くことにした。テレビでよく取り上げられる草津温泉の湯畑の夜間ライトアップと昼間の雪景色を堪能。温泉が「湯水のように」という形容さながら湧き出ている。裏草津と西の河原公園も散策して、次は伊香保石段街へ。ここには伊香保を愛した徳冨蘆花記念文学館がある。蘆花の『順礼紀行』(中公文庫)から。
「今年三月の初め、或る日伊香保の山に雪を踏みて赤城の夕ばえを眺めし時、ふと基督の足跡を聖地に踏みてみたく、かつトルストイ翁の顔見たくなり、山を下りて用意もそこそこ順礼の途に上りぬ」
この旅で蘆花はエルサレムを訪れ、ヤスナヤ・ポリヤーナでトルストイに会っている。もう一冊、蘆花の『謀叛論』(岩波文庫)から引用しておこう。
「諸君、我々は生きねばならぬ、生きるためには常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」
1月×日
別所真紀子の作品集『風曜日』(深夜叢書社)を読む。「句詩付合」「二行詩による半歌仙の試み」「俳句」「連句」の四章から成る多面的な付合文芸の作品集である。
まず「二行詩」から紹介する。俳諧研究誌「解纜」に掲載された作品で、俳句と別所の詩とのコラボレーションになっている。たとえば「筑摩川」という作品。
筑摩川春行水や鮫の髄 其角
断ち割られた頭蓋骨を
おんなは籠に入れていた
まっかに泡だつ半分の口がうたう
ころしたのね ころしたのね
そうよ お酒で煮てあげるわ
おんなはうっとりつぶやいた
其角には「草の戸に我は蓼くふほたる哉」「詩あきんど年を貪る酒債哉」「いなづまやきのふは東けふは西」「切られたる夢は誠か蚤の跡」「十五から酒を呑み出てけふの月」などの有名句があるが、掲出の「筑摩川春行(く)水や鮫の髄」は信濃の筑摩川(千曲川)一帯の地形を鮫にたとえて、そのなかを流れる春の雪解け水を鮫の髄と表現した、いわゆる「見立て」の句。別所はこの句の「鮫の髄」からまったく別のイメージを展開させている。
別所真紀子は詩人・連句人であると同時に『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『江戸おんな歳時記』などの俳諧女性史の第一人者で、五十嵐浜藻を主人公にした歴史小説の書き手でもある。其角については『詩あきんど其角』という小説も書いている。
現代連句の世界では眞鍋天魚(呉夫)、村野夏生、別所真紀子などの東京義仲寺連句会のメンバーの作品がひとつのエポックを画するもので、本書の「連句」の章から別所・村野の両吟歌仙「鈴玲瓏」のウラの部分を紹介しておく。
いるか定食くらふ流亡の民われは 夏生
サマルカンドの月凍るなり 真紀
青無限ハッブル膨張宇宙論
蜂の巣見つけたる一大事
あどけなき老女を捨てに花の奥
湖のおぼろに魂鎮まれる
『風曜日』というタイトルは画家で詩人の佐伯義郎による。佐伯には詩集『風曜日』(1980年)がある。「句詩付合」からもう一篇「蝶飛ぶや」を引用して、本書の紹介を終わりたい。
蝶飛ぶや此世に望みないやうに 一茶
はる という初々しい名の少女は
地平の天際をかろやかに駈けて消えた
青いスカアトをひろげて ひるがえして
アナクシビア・モルフォ 密林の美神
きらめく青いスカアトのような鱗翅を
展げて 展げたまま 永遠に 刺されて
1月×日
「川柳北田辺」128号。巻頭の「放蕩言」で、くんじろうが次のように書いている。
「昔、筒井祥文と『川柳倶楽部・パーセント』を立ち上げたとき、密に『川柳の梁山泊』を目指そう、大勢の漫画家が集った『ときわ荘』にしたいと酒を飲みながら語り合ったものだ」
カンガルーを追う中華鍋振りながら 井上一筒
6Bの雲丹をどなたか貸してくれ くんじろう
鉛筆と消しゴムほどの仲でなし 森茂俊
仙洞御所とは長い廊下で繋がれる 笠嶋恵美子
阿弖流為の叫びシベリア寒気団 宮井いずみ
乱世でござるキティちゃん見え隠れ 酒井かがり
「らくだ忌」第2回川柳大会が3月18日にラボール京都で開催される。兼題と選者は次の通り。「泡立つ」(湊圭伍)、「二周半」(暮田真名)、「生い立ち」(真島久美子)、「無い袖」(八上桐子)、「ぶらり」(新家完司)、「雑詠」(くんじろう)。SNSやネット句会もあれば、座の文芸としてのリアルな句会にこだわっているところもある。それぞれの場が活性化してゆくことが望まれる。
朝日新聞朝刊「短歌時評」に山田航の「いま、ネット短歌史」が掲載されている。同人誌「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」について触れているが、「かばん」の特集については本時評の12月25日でも言及したことがある。山田は「ネットはもはや社会的インフラである。ネット短歌も死後になった現在だからこそ、あらためてネット短歌史を振り返ろうという企画だろう」「ネットメディアと短歌の関係の研究は、まだ始まったばかりだ」と述べている。
現代川柳の場合はネット句会がまだ始まったばかりで、2022年に顕在化した感がある。今後どのように展開してゆくのか未知数の部分もあるが、チェックしておく必要がありそうだ。
1月×日
温泉が好きである。 昨年は連句集『現代連句集Ⅳ』(日本連句協会)の編集と私の第三句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)の発行にエネルギーを費やした。疲労回復には温泉につかるのが一番だ。
草津温泉と伊香保温泉に行くことにした。テレビでよく取り上げられる草津温泉の湯畑の夜間ライトアップと昼間の雪景色を堪能。温泉が「湯水のように」という形容さながら湧き出ている。裏草津と西の河原公園も散策して、次は伊香保石段街へ。ここには伊香保を愛した徳冨蘆花記念文学館がある。蘆花の『順礼紀行』(中公文庫)から。
「今年三月の初め、或る日伊香保の山に雪を踏みて赤城の夕ばえを眺めし時、ふと基督の足跡を聖地に踏みてみたく、かつトルストイ翁の顔見たくなり、山を下りて用意もそこそこ順礼の途に上りぬ」
この旅で蘆花はエルサレムを訪れ、ヤスナヤ・ポリヤーナでトルストイに会っている。もう一冊、蘆花の『謀叛論』(岩波文庫)から引用しておこう。
「諸君、我々は生きねばならぬ、生きるためには常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して」
1月×日
別所真紀子の作品集『風曜日』(深夜叢書社)を読む。「句詩付合」「二行詩による半歌仙の試み」「俳句」「連句」の四章から成る多面的な付合文芸の作品集である。
まず「二行詩」から紹介する。俳諧研究誌「解纜」に掲載された作品で、俳句と別所の詩とのコラボレーションになっている。たとえば「筑摩川」という作品。
筑摩川春行水や鮫の髄 其角
断ち割られた頭蓋骨を
おんなは籠に入れていた
まっかに泡だつ半分の口がうたう
ころしたのね ころしたのね
そうよ お酒で煮てあげるわ
おんなはうっとりつぶやいた
其角には「草の戸に我は蓼くふほたる哉」「詩あきんど年を貪る酒債哉」「いなづまやきのふは東けふは西」「切られたる夢は誠か蚤の跡」「十五から酒を呑み出てけふの月」などの有名句があるが、掲出の「筑摩川春行(く)水や鮫の髄」は信濃の筑摩川(千曲川)一帯の地形を鮫にたとえて、そのなかを流れる春の雪解け水を鮫の髄と表現した、いわゆる「見立て」の句。別所はこの句の「鮫の髄」からまったく別のイメージを展開させている。
別所真紀子は詩人・連句人であると同時に『芭蕉にひらかれた俳諧の女性史』『江戸おんな歳時記』などの俳諧女性史の第一人者で、五十嵐浜藻を主人公にした歴史小説の書き手でもある。其角については『詩あきんど其角』という小説も書いている。
現代連句の世界では眞鍋天魚(呉夫)、村野夏生、別所真紀子などの東京義仲寺連句会のメンバーの作品がひとつのエポックを画するもので、本書の「連句」の章から別所・村野の両吟歌仙「鈴玲瓏」のウラの部分を紹介しておく。
いるか定食くらふ流亡の民われは 夏生
サマルカンドの月凍るなり 真紀
青無限ハッブル膨張宇宙論
蜂の巣見つけたる一大事
あどけなき老女を捨てに花の奥
湖のおぼろに魂鎮まれる
『風曜日』というタイトルは画家で詩人の佐伯義郎による。佐伯には詩集『風曜日』(1980年)がある。「句詩付合」からもう一篇「蝶飛ぶや」を引用して、本書の紹介を終わりたい。
蝶飛ぶや此世に望みないやうに 一茶
はる という初々しい名の少女は
地平の天際をかろやかに駈けて消えた
青いスカアトをひろげて ひるがえして
アナクシビア・モルフォ 密林の美神
きらめく青いスカアトのような鱗翅を
展げて 展げたまま 永遠に 刺されて
1月×日
「川柳北田辺」128号。巻頭の「放蕩言」で、くんじろうが次のように書いている。
「昔、筒井祥文と『川柳倶楽部・パーセント』を立ち上げたとき、密に『川柳の梁山泊』を目指そう、大勢の漫画家が集った『ときわ荘』にしたいと酒を飲みながら語り合ったものだ」
カンガルーを追う中華鍋振りながら 井上一筒
6Bの雲丹をどなたか貸してくれ くんじろう
鉛筆と消しゴムほどの仲でなし 森茂俊
仙洞御所とは長い廊下で繋がれる 笠嶋恵美子
阿弖流為の叫びシベリア寒気団 宮井いずみ
乱世でござるキティちゃん見え隠れ 酒井かがり
「らくだ忌」第2回川柳大会が3月18日にラボール京都で開催される。兼題と選者は次の通り。「泡立つ」(湊圭伍)、「二周半」(暮田真名)、「生い立ち」(真島久美子)、「無い袖」(八上桐子)、「ぶらり」(新家完司)、「雑詠」(くんじろう)。SNSやネット句会もあれば、座の文芸としてのリアルな句会にこだわっているところもある。それぞれの場が活性化してゆくことが望まれる。
2023年1月20日金曜日
文学フリマ京都7
1月15日(日)に「文学フリマ京都7」がみやこメッセで開催された。京都の文学フリマもすでに7回目になる。主催者の発表では出店者・一般来場者あわせて2424名の参加者があり、うち出店者は約615名だったという。
「川柳スパイラル」からも出店し、川柳句集のほかに連句関係の『現代連句集Ⅳ』も販売した。久し振りにお目にかかる方やはじめて川柳のブースを訪れた方ともお話しができてよかった。今回は文フリ当日手に入れた冊子を紹介していきたい。
「西瓜」第7号は江戸雪をはじめ15人の歌人が集う同人誌。
笹川諒「白く複雑な街」は最初に詞書があって次のように書かれている。
こころに白い街を広げながら暮らしている。
白さと複雑さがたびたび同義であることは、優しいことだと思う。
デイリードリーマー 学んだ知識から致命的なひとつを引くのが得意 笹川諒
もし過去に戻るとしたらあの夜に英詩の訳の課題はしない
みなそれぞれに芸術を砥ぐこの白い街の夕べはすべてあなた
三田三郎「ZOZO臓」から。
単に酒が管を通過するだけなのに酔いという脳の自意識過剰 三田三郎
内臓で野球チームを作ったら肝臓はきっと2番セカンド
肝臓を連れ戻したら説教する「辛いときこそ逃げちゃいけない」
三田と笹川の「ぱんたれい」3号が3月には出るそうなので楽しみだ。
もう少し「西瓜」の作品を紹介しておく。
サンドイッチに何を挟むか聞きたくて話が途切れるのを待っていた 嶋田さくらこ
風の音飛行機の音 何の音だろうね答えが欲しいのじゃなく とみいえひろこ
岬まで行こうと歩きだすきみは岬に胸があるように行く 江戸雪
永遠など気持ちが悪い寝転んで喉から奥へ流れる鼻血 虫武一俊
これ以上モラトリアムをこじらせてどうする蟬の抜け殻を踏む 土岐友浩
次に「ぬばたま」7号より。
駆け上る必要はない階段も駆け上がり これ から どうしよう? 乾遥香
話してもオタク友達相手にはあなたを推しと呼ばないでいる 大橋なぎ咲
「ぬばたま」は1996年生まれによる短歌同人誌。同人は現在25~26歳。「ぬばたま世代のリアル」という特集が組まれている。「短歌の友だちいる?」「賞のことどう思ってる?」「結社楽しい?」「あなたの中での総合誌の位置づけは?」「ポリティカル・コレクトネスとその周辺について、ひとこと。数年前の歌壇と比較して何か変わった感じする?」などの質問に同人とゲストの髙良真実が答えている。「短歌ブーム」についてどう思う?という質問には私も興味があるので、書きぬいておく。「なんでブームなんだろうね。純粋読者が増えたのか、他ジャンルの文芸の人たちが短歌を買いはじめたのか、両方?」「もう10年位言われてませんか?」「あんまりブーム感じてない」「SNS(特にツイッター)に合うからかな~」「ブームでたくさん短歌に関する本が出るのはうれしいが、質が保証されないものもあるので最低限は維持されてほしい」「短歌botのフォロワー数の増加を見て、ほんとにブームなんだなと思いました」など様々な見方がある。
俳誌「翻車魚」6号。巻頭に細村星一郎・白野・奥村俊哉による「リアルタイム共作」として俳句10句が掲載されている。次のような作品。
人型兵は朧の猿にしか撃てない
文脈になかった化粧水を買う
三日前なら馬だった桃源郷
Googleドキュメントを利用し、三人の意志で10句連作を完成させたという。まず「猿」「化粧水」「三日」などの単語をドキュメント上の一枚のシートに書き込む。共作者がフレーズを加え、一句が出来上がっていく。「化粧水」に対して「文脈に沿って化粧水」というフレーズがある時点では付いていたが、最終的には掲出句のかたちで三人が合意。「三日」の場合は「三日前なら馬だった」というフレーズに共作者のひとりが「桃源郷」の語を書き込み合意される。プロセスはもっと複雑なようだが、共同制作における連句の三句の渡りや天狗俳諧とはまた違った試みである。
高山れおな「『尾崎紅葉の百句』補遺」が掲載されているのに注目した。高山は『尾崎紅葉の百句』(ふらんす堂)を出したばかりだが、そこには紅葉のいろいろな傾向の句が収録されていて興味深い。
鯨寄る浜とよ人もたゞならず 尾崎紅葉
渾沌として元日の暮れにけり
星既に秋の眼を開きけり
二十世紀なり列国に御慶申す也
『百句』には「紅葉が俳句でめざしたもの」という解説が添えられているが、「翻車魚」の「補遺」ではでは紅葉の句について「新年の句が妙に充実している」「挨拶句が巧い」「女性に視線を向けた句が多い」という三点を挙げている。高山が「補遺」に挙げている句から。
瓦屋根波も静に初日かな 尾崎紅葉
過ぎがてに草摘み居るや小前垂
火を吹くや夜長の口のさびしさに
葱洗ふ女やひとり暮れ残る
最後に「翻車魚」掲載の佐藤文香「愛のほかに」から。
海を来てこの街を迂回する冬 佐藤文香
こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに
Farmers market 蜂蜜がある愛のほかに
「川柳スパイラル」からも出店し、川柳句集のほかに連句関係の『現代連句集Ⅳ』も販売した。久し振りにお目にかかる方やはじめて川柳のブースを訪れた方ともお話しができてよかった。今回は文フリ当日手に入れた冊子を紹介していきたい。
「西瓜」第7号は江戸雪をはじめ15人の歌人が集う同人誌。
笹川諒「白く複雑な街」は最初に詞書があって次のように書かれている。
こころに白い街を広げながら暮らしている。
白さと複雑さがたびたび同義であることは、優しいことだと思う。
デイリードリーマー 学んだ知識から致命的なひとつを引くのが得意 笹川諒
もし過去に戻るとしたらあの夜に英詩の訳の課題はしない
みなそれぞれに芸術を砥ぐこの白い街の夕べはすべてあなた
三田三郎「ZOZO臓」から。
単に酒が管を通過するだけなのに酔いという脳の自意識過剰 三田三郎
内臓で野球チームを作ったら肝臓はきっと2番セカンド
肝臓を連れ戻したら説教する「辛いときこそ逃げちゃいけない」
三田と笹川の「ぱんたれい」3号が3月には出るそうなので楽しみだ。
もう少し「西瓜」の作品を紹介しておく。
サンドイッチに何を挟むか聞きたくて話が途切れるのを待っていた 嶋田さくらこ
風の音飛行機の音 何の音だろうね答えが欲しいのじゃなく とみいえひろこ
岬まで行こうと歩きだすきみは岬に胸があるように行く 江戸雪
永遠など気持ちが悪い寝転んで喉から奥へ流れる鼻血 虫武一俊
これ以上モラトリアムをこじらせてどうする蟬の抜け殻を踏む 土岐友浩
次に「ぬばたま」7号より。
駆け上る必要はない階段も駆け上がり これ から どうしよう? 乾遥香
話してもオタク友達相手にはあなたを推しと呼ばないでいる 大橋なぎ咲
「ぬばたま」は1996年生まれによる短歌同人誌。同人は現在25~26歳。「ぬばたま世代のリアル」という特集が組まれている。「短歌の友だちいる?」「賞のことどう思ってる?」「結社楽しい?」「あなたの中での総合誌の位置づけは?」「ポリティカル・コレクトネスとその周辺について、ひとこと。数年前の歌壇と比較して何か変わった感じする?」などの質問に同人とゲストの髙良真実が答えている。「短歌ブーム」についてどう思う?という質問には私も興味があるので、書きぬいておく。「なんでブームなんだろうね。純粋読者が増えたのか、他ジャンルの文芸の人たちが短歌を買いはじめたのか、両方?」「もう10年位言われてませんか?」「あんまりブーム感じてない」「SNS(特にツイッター)に合うからかな~」「ブームでたくさん短歌に関する本が出るのはうれしいが、質が保証されないものもあるので最低限は維持されてほしい」「短歌botのフォロワー数の増加を見て、ほんとにブームなんだなと思いました」など様々な見方がある。
俳誌「翻車魚」6号。巻頭に細村星一郎・白野・奥村俊哉による「リアルタイム共作」として俳句10句が掲載されている。次のような作品。
人型兵は朧の猿にしか撃てない
文脈になかった化粧水を買う
三日前なら馬だった桃源郷
Googleドキュメントを利用し、三人の意志で10句連作を完成させたという。まず「猿」「化粧水」「三日」などの単語をドキュメント上の一枚のシートに書き込む。共作者がフレーズを加え、一句が出来上がっていく。「化粧水」に対して「文脈に沿って化粧水」というフレーズがある時点では付いていたが、最終的には掲出句のかたちで三人が合意。「三日」の場合は「三日前なら馬だった」というフレーズに共作者のひとりが「桃源郷」の語を書き込み合意される。プロセスはもっと複雑なようだが、共同制作における連句の三句の渡りや天狗俳諧とはまた違った試みである。
高山れおな「『尾崎紅葉の百句』補遺」が掲載されているのに注目した。高山は『尾崎紅葉の百句』(ふらんす堂)を出したばかりだが、そこには紅葉のいろいろな傾向の句が収録されていて興味深い。
鯨寄る浜とよ人もたゞならず 尾崎紅葉
渾沌として元日の暮れにけり
星既に秋の眼を開きけり
二十世紀なり列国に御慶申す也
『百句』には「紅葉が俳句でめざしたもの」という解説が添えられているが、「翻車魚」の「補遺」ではでは紅葉の句について「新年の句が妙に充実している」「挨拶句が巧い」「女性に視線を向けた句が多い」という三点を挙げている。高山が「補遺」に挙げている句から。
瓦屋根波も静に初日かな 尾崎紅葉
過ぎがてに草摘み居るや小前垂
火を吹くや夜長の口のさびしさに
葱洗ふ女やひとり暮れ残る
最後に「翻車魚」掲載の佐藤文香「愛のほかに」から。
海を来てこの街を迂回する冬 佐藤文香
こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに
Farmers market 蜂蜜がある愛のほかに
2023年1月13日金曜日
「文藝」2023春号
すでに鏡開きが済んでいるが、お餅の俳句を。
餅負うて豊旗雲の裾をゆく 橋閒石
梁に雪の重さの雑煮かな
ゆうぐれは不思議かな餅ふくれだし
一句目「豊旗雲」は瑞祥の雲。「わたつみの豊旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」万葉集の中大兄皇子の歌で有名(結句の読みは諸説ある)。「豊旗雲の裾」とは何だろう。二句目の「梁」は「うつばり」と読ませる。三句目、日常の状景が不思議に変化する。この三句は澁谷道のエッセイ集『あるいてきた』(紫薇の会、2005年)の巻頭の文章から。澁谷道といえば、次の句が彼女の俳句開眼の作品として知られる。
馬駆けて菜の花の黄を引伸ばす 澁谷道
彼女の俳句の師は平畑靜塔。この句を差し出したとき靜塔は「あなたは俳句開眼しましたね」と言ったそうだ。「このとき、著者は大阪女子医専の学生であった。西東三鬼や私が時に触れ教導していた同校の俳句会に出席していた頃の作品であり、『天狼』初期の遠星集にも入選したこの句は、はっきり記憶に残っている」(澁谷道第一句集『嬰』、平畑靜塔の序)
個人的に印象の深いのは次の句だ。
ままごとのやうなもてなし蟬羽月 澁谷道
さて、今回取り上げたいのは「文藝」2023春号の特集「批評」。瀬戸夏子と水上文の責任編集である。特集の「はじめに」で瀬戸夏子はこんなふうに書いている。
「もちろん、いま批評をやろうなんて、どうかしているのかもしれない。あまりのも批評が困難な時代だ」「けれど、『困難』だと感じるのはなぜだろう、とも思う。『困難』なのは《これまで》の批評でしかないんじゃないだろうか?」「完璧ではない批評はそれでも、いつでも《これまで》を見つめながら、それぞれの切実さでそれを相対化することで生きながらえてきたのではなかっただろうか?ならば勇気を持って、平凡に、大胆に、《これまで》を裏切りながら言うべきなんじゃないだろうか?」
瀬戸と水上の対談「なぜ、いま『批評』なのか」で水上は瀬戸の文章「誘惑のために」の次の部分に言及している。
「なぜ女の作品を評するのがこわいのか。盗まれたくないから、どれだけこき下ろしてもそこに薄皮一枚の肯定を挾まなければいけないと知っているからだ。その薄皮一枚のことをここで仮にシスターフッドと呼んでみようか?その薄皮一枚の肯定は批評のキレを奪い、その薄皮一枚の言い訳のためにレトリックは精彩を欠き、それを以ってわたしは生涯二流の批評家にしかなれないことを知らされる」
「文藝」2020年秋号に掲載された瀬戸のこの文章は高橋たか子の『誘惑者』について書いている。友人を三原山へと誘う『誘惑者』の主人公、夫の飲み物にヒ素を垂らすモーリヤックの『テレーズ・デスケール―』。矢川澄子、中島梓、森茉莉などのさまざまな人物の姿が揺曳する。
前述の瀬戸の文章を水上は次のように受け止めている。
「女性同士の関係はそこだけで完結できるはずなのに、なぜか外側の男性社会的なものに勝手に消費されたり、利用されたりしてしまう。だから『薄皮一枚の肯定』を挟まないといけない。男性同士の関係だったら挟まなくていいものが発生してしまい、『批評のキレ』を奪うことになる」
女性が女性の表現者について論じるときの困難さ。小説論だけではなくて、短詩型文学のの短歌、俳句、川柳ではどうなんだろう。
「文藝」の特集はまだ充分読みきれていないが、斎藤美奈子インタビュー「文学史の枠を再設定する」、大塚英志インタビュー「ロマン主義殺しと工学的な偽史」など、興味深い内容だ。齋藤美奈子はベテランらしく次のように言っている。
「私から見ても『今ごろ何言ってんのかな』と思うことは正直あります。そんなことは何十年も前から言ってたよって。だけど先行者がそれを言うのは反則なのね。だって、いま初めて考えて、発見して、自分の生き方を問い直そうとする人がいつの時代もいるわけじゃない?フェミニズムって個々の生き方にすごく関わっているし、そのぶん格闘も必要だから」
水上文の「シェイクスピアの妹など生まれはしない」はヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』の「ジェイクスピアの妹はおそらく若くして死んだだろう。当時の女性を取り巻く状況を鑑みるに、たとえ彼女は生まれたとしても一語たりとも書くことなく、無名のまま埋葬されるほかなかっただろう」を導入とする金井美恵子論。瀬戸夏子の「うつしかえされた悲劇」は瀬戸の偏愛する三島由紀夫『豊穣の海』論。ほかに、齋藤真理子の韓国文芸批評についての文章や西森路代の「批評が、私たちを一歩外に連れ出すものだとしたら」など、読みどころが満載である。
すでに旧聞に属するが、「川柳スパイラル」12号では〈「女性川柳」とはもう言わない」〉を特集した(2021年7月)。そのときは瀬戸夏子の短歌のほか歌人の川野芽生、乾遥香、牛尾今日子に川柳を書いてもらった。あと評論として髙良真実の「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」、松本てふこ「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」、小池正博「『女性川柳』とはもう言わない」を掲載した。この特集は外山一機が松本の論を取りあげたほかには特に注目されなかったが、現代川柳においてジェンダーの問題をとりあげた企画が皆無ではなかったことだけ言っておきたい。次に引用するのは「『女性川柳』とはもう言わない」の一節。
〈明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子(麻佐子)の「魚」(一九七八年十二月創刊)である〉
〈川柳には阿木津英も瀬戸夏子も髙良真実もいない。ジェンダー論から現代川柳が本格的に論じられるようになるのはこれからのことである〉
餅負うて豊旗雲の裾をゆく 橋閒石
梁に雪の重さの雑煮かな
ゆうぐれは不思議かな餅ふくれだし
一句目「豊旗雲」は瑞祥の雲。「わたつみの豊旗雲に入日さし今宵の月夜あきらけくこそ」万葉集の中大兄皇子の歌で有名(結句の読みは諸説ある)。「豊旗雲の裾」とは何だろう。二句目の「梁」は「うつばり」と読ませる。三句目、日常の状景が不思議に変化する。この三句は澁谷道のエッセイ集『あるいてきた』(紫薇の会、2005年)の巻頭の文章から。澁谷道といえば、次の句が彼女の俳句開眼の作品として知られる。
馬駆けて菜の花の黄を引伸ばす 澁谷道
彼女の俳句の師は平畑靜塔。この句を差し出したとき靜塔は「あなたは俳句開眼しましたね」と言ったそうだ。「このとき、著者は大阪女子医専の学生であった。西東三鬼や私が時に触れ教導していた同校の俳句会に出席していた頃の作品であり、『天狼』初期の遠星集にも入選したこの句は、はっきり記憶に残っている」(澁谷道第一句集『嬰』、平畑靜塔の序)
個人的に印象の深いのは次の句だ。
ままごとのやうなもてなし蟬羽月 澁谷道
さて、今回取り上げたいのは「文藝」2023春号の特集「批評」。瀬戸夏子と水上文の責任編集である。特集の「はじめに」で瀬戸夏子はこんなふうに書いている。
「もちろん、いま批評をやろうなんて、どうかしているのかもしれない。あまりのも批評が困難な時代だ」「けれど、『困難』だと感じるのはなぜだろう、とも思う。『困難』なのは《これまで》の批評でしかないんじゃないだろうか?」「完璧ではない批評はそれでも、いつでも《これまで》を見つめながら、それぞれの切実さでそれを相対化することで生きながらえてきたのではなかっただろうか?ならば勇気を持って、平凡に、大胆に、《これまで》を裏切りながら言うべきなんじゃないだろうか?」
瀬戸と水上の対談「なぜ、いま『批評』なのか」で水上は瀬戸の文章「誘惑のために」の次の部分に言及している。
「なぜ女の作品を評するのがこわいのか。盗まれたくないから、どれだけこき下ろしてもそこに薄皮一枚の肯定を挾まなければいけないと知っているからだ。その薄皮一枚のことをここで仮にシスターフッドと呼んでみようか?その薄皮一枚の肯定は批評のキレを奪い、その薄皮一枚の言い訳のためにレトリックは精彩を欠き、それを以ってわたしは生涯二流の批評家にしかなれないことを知らされる」
「文藝」2020年秋号に掲載された瀬戸のこの文章は高橋たか子の『誘惑者』について書いている。友人を三原山へと誘う『誘惑者』の主人公、夫の飲み物にヒ素を垂らすモーリヤックの『テレーズ・デスケール―』。矢川澄子、中島梓、森茉莉などのさまざまな人物の姿が揺曳する。
前述の瀬戸の文章を水上は次のように受け止めている。
「女性同士の関係はそこだけで完結できるはずなのに、なぜか外側の男性社会的なものに勝手に消費されたり、利用されたりしてしまう。だから『薄皮一枚の肯定』を挟まないといけない。男性同士の関係だったら挟まなくていいものが発生してしまい、『批評のキレ』を奪うことになる」
女性が女性の表現者について論じるときの困難さ。小説論だけではなくて、短詩型文学のの短歌、俳句、川柳ではどうなんだろう。
「文藝」の特集はまだ充分読みきれていないが、斎藤美奈子インタビュー「文学史の枠を再設定する」、大塚英志インタビュー「ロマン主義殺しと工学的な偽史」など、興味深い内容だ。齋藤美奈子はベテランらしく次のように言っている。
「私から見ても『今ごろ何言ってんのかな』と思うことは正直あります。そんなことは何十年も前から言ってたよって。だけど先行者がそれを言うのは反則なのね。だって、いま初めて考えて、発見して、自分の生き方を問い直そうとする人がいつの時代もいるわけじゃない?フェミニズムって個々の生き方にすごく関わっているし、そのぶん格闘も必要だから」
水上文の「シェイクスピアの妹など生まれはしない」はヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』の「ジェイクスピアの妹はおそらく若くして死んだだろう。当時の女性を取り巻く状況を鑑みるに、たとえ彼女は生まれたとしても一語たりとも書くことなく、無名のまま埋葬されるほかなかっただろう」を導入とする金井美恵子論。瀬戸夏子の「うつしかえされた悲劇」は瀬戸の偏愛する三島由紀夫『豊穣の海』論。ほかに、齋藤真理子の韓国文芸批評についての文章や西森路代の「批評が、私たちを一歩外に連れ出すものだとしたら」など、読みどころが満載である。
すでに旧聞に属するが、「川柳スパイラル」12号では〈「女性川柳」とはもう言わない」〉を特集した(2021年7月)。そのときは瀬戸夏子の短歌のほか歌人の川野芽生、乾遥香、牛尾今日子に川柳を書いてもらった。あと評論として髙良真実の「女性による短歌が周縁化されてきた歴史に抗して」、松本てふこ「俳句史を少しずつ書き換えながら、詠む」、小池正博「『女性川柳』とはもう言わない」を掲載した。この特集は外山一機が松本の論を取りあげたほかには特に注目されなかったが、現代川柳においてジェンダーの問題をとりあげた企画が皆無ではなかったことだけ言っておきたい。次に引用するのは「『女性川柳』とはもう言わない」の一節。
〈明治・大正・昭和前期まで「女性川柳」は男性視点で論じられてきたし、その際に男性川柳人が求めるものは「女の川柳」「恋愛」「抒情」「情念」などであった。人間の知情意のうち主として「情」に関わる部分であり、理知的な部分は副次的となる。当然そこから抜け落ちるものがあり、女性が自らの視点で女性川柳を考えるための場が要請されるのは必然だろう。こうして登場した川柳誌が飯尾マサ子(麻佐子)の「魚」(一九七八年十二月創刊)である〉
〈川柳には阿木津英も瀬戸夏子も髙良真実もいない。ジェンダー論から現代川柳が本格的に論じられるようになるのはこれからのことである〉
2023年1月6日金曜日
「江古田文学」特集・小栗判官のことなど
新年おめでとうございます。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。
まず、歳旦三つ物です。
歳時記の頁を繰れば初山河
さあ召し上がれ福茶一服
NO WAR ロックの響き拡がりて
年末に届いた書籍・雑誌を読んでいる。
「江古田文学」111号の特集は小栗判官。「山椒太夫」や「信太妻」などと並んで有名な説経節の物語である。「信太妻」は葛葉狐の話で、かつて葛葉稲荷の前を通って毎日職場へ通勤していたことがある。「小栗判官」については、一昨年の和歌山の国民文化祭のときに熊野古道を歩き、湯の峰温泉のつぼ湯も見てきたので馴染がある。「江古田文学」の特集では、「小栗判官と照手姫・翻案朗読本」(翻案・上田薫)が収録されていて、熊野の場面は次のようになっている。
餓鬼阿弥殿を担いでいた道者は、湯壺の方に籠を降ろし、
「さあ、これが湯ノ峰温泉の湯壺でござる。これからこの餓鬼阿弥を湯壺にいれて、七七日の間、本復するのを待ちたいところだが、我らはこれから本宮、新宮を廻る道者であるからそれも叶うまい。これから先は、熊野権現様のご加護を祈り、湯守に預けていざ本宮に参ろうではないか」
餓鬼阿弥は病者となった小栗判官の姿である。さて、本誌には浅沼璞が「『をぐり絵巻』大和言葉の変奏—連歌ジャンルとの類似性を視野に」を執筆している。その中に寛正六年、朝倉敏景が杣山城を攻撃したときの陣中での連歌会のエピソードが出てくる。
朝風にもまれて落るかいて哉
鶉に交る水鳥の声
沢沼のほとりかつかつ野となりて
発句の「かいて」は楓だが、敵の杣山城を守っているのが甲斐守祐徳なので甲斐手が掛けてある。朝倉勢によって楓が散るように敵が落城するということのようだ。さらに浅沼は一世紀後、三好長慶の連歌との類似についても言及している。
芦間にまじる薄一村(「すすきにまじる芦の一むら」とする書もある)
古沼の浅き方より野となりて
花田清輝の「古沼抄」(『日本のルネッサンス人』)にもあるエピソードである。花田の文章は個人的には私が連句に関心をもつ根拠のひとつになっているので、この話題をもう少し続けると、吉村貞司の『桃山の人びと』では三好長慶の連歌会について次のように書かれている。
「三月五日、長慶は飯森城に弟冬康・連歌師牧宗養・里村紹巴などと連歌の会を開いていた。あたかもその時、弟三好義賢は岸和田城を討って出て、久米田に敵勢と激戦をまじえていた。長慶はその報を得ていたはずだ。しかし連歌をつづけた。そんなばかなことがあるものかという人もある。私も最初そう思った。私の頭には『太平記』の千早攻めがあり、長期にして無為に苦しむ包囲陣が、ひまつぶしに連歌を催したものぐらいにしか考えていなかった」
『常山紀談』では実休(義賢)討ち死にの報のあと連歌を止めて出陣したことになっている。それにしても、なぜ連歌なのか。吉村貞司は「彼らはいつ戦死するかわからない職業に従い、いつもおのれの死と対決していなければならなかった」「手段を問わず、おのれの存在を、運命を、意義づけるものにすがりつき、むさぼりつきたかった。それが禅であり芸術であり茶であり、花であった」と述べている。
「江古田文学」に戻ると、高橋実里の「自分自身に着地する—説経節『小栗判官』」や人形浄瑠璃猿八座公演「をぐり」の写真(撮影・笹川浩史)、ふじたあさや「御門から閻魔まで」(『小栗判官』に題材をとった『をぐり考』は1999年に熊野本宮大社の大斎原に野外舞台を組んで上演されたという)、三代目若松若太夫の語本「小栗判官一代記」などが掲載されていて、テクストと語り物、芸能とのリンクが総合的に見渡せる内容になっている。
川柳に話題を移すと、京都で発行されている川柳誌「凜」92号に村井見也子の「川柳三十年、この出会い」が掲載されている。京都の川柳界は1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」の三つに分かれたが、「新京都」の北川絢一郎が亡くなったあと、村井見也子が「凜」を立ち上げた。村井は2018年に亡くなったが、今号に掲載されたのは村井が1994年9月に「京都新聞」に執筆した文章の再録である。村井が取り上げているのは次の四人の作者で、現在の川柳の傾向とは異なるところも多いが、先人の作品として知っておかなくてはならないと思われるので、紹介しておく。
百冊の本をまたいでなお飢えに 北川絢一郎
悲の面はたった一つで下りてくる 定金冬二
北川絢一郎は京都の革新川柳を牽引したひとり。北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)から何句か抜き出してみよう。
庶民かな同心円をぬけられぬ 北川絢一郎
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち
定金冬二は津山の出身。津山番傘川柳会を創立。富田林市に移住したあと、「一枚の会」を創立した。冬二の句集『無双』に寄せて北川絢一郎が次のようなエピソードを書いている。句会の帰途、いつもの喫茶店である女性川柳人が「どんなにしたら冬二先生みたいに川柳が上手になりますの…」と問いかけると、冬二は「それはなア、心にいっぱい悲しみを溜めてなアー」と言いかけて、あとの言葉が続かなかったというのだ。「悲の面はたった一つで下りてくる」は冬二の代表作で、確か津山に句碑が建てられている。
おんなとは哀しいときも何か提げ 定金冬二
穴は掘れた死体を一つ創らねば
にんげんのことばで折れている芒
折り鶴が翔ぶ青空が痛くなる
絢一郎・冬二に続いて、村井見也子は次の二人の女性川柳人の作品を引用している。
靴をそろえて償いが一つ済む 前田芙巳代
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中惠美子
ここでは女性川柳人について述べる余裕はないが、時実新子とは異なる傾向の作者として、前田芙巳代、森中惠美子、村井見也子、渡部可奈子などがあげられるだろう。
付合文芸である連句(Linked Petry)も前句付をルーツとする川柳も言葉と言葉の関係性の世界である。今年も連句と川柳を両輪として表現活動をしていくつもりだが、断絶する言葉と人々を何がしかリンクすることができればいいなと思っている。
今年も「週刊川柳時評」をよろしくお願いします。
まず、歳旦三つ物です。
歳時記の頁を繰れば初山河
さあ召し上がれ福茶一服
NO WAR ロックの響き拡がりて
年末に届いた書籍・雑誌を読んでいる。
「江古田文学」111号の特集は小栗判官。「山椒太夫」や「信太妻」などと並んで有名な説経節の物語である。「信太妻」は葛葉狐の話で、かつて葛葉稲荷の前を通って毎日職場へ通勤していたことがある。「小栗判官」については、一昨年の和歌山の国民文化祭のときに熊野古道を歩き、湯の峰温泉のつぼ湯も見てきたので馴染がある。「江古田文学」の特集では、「小栗判官と照手姫・翻案朗読本」(翻案・上田薫)が収録されていて、熊野の場面は次のようになっている。
餓鬼阿弥殿を担いでいた道者は、湯壺の方に籠を降ろし、
「さあ、これが湯ノ峰温泉の湯壺でござる。これからこの餓鬼阿弥を湯壺にいれて、七七日の間、本復するのを待ちたいところだが、我らはこれから本宮、新宮を廻る道者であるからそれも叶うまい。これから先は、熊野権現様のご加護を祈り、湯守に預けていざ本宮に参ろうではないか」
餓鬼阿弥は病者となった小栗判官の姿である。さて、本誌には浅沼璞が「『をぐり絵巻』大和言葉の変奏—連歌ジャンルとの類似性を視野に」を執筆している。その中に寛正六年、朝倉敏景が杣山城を攻撃したときの陣中での連歌会のエピソードが出てくる。
朝風にもまれて落るかいて哉
鶉に交る水鳥の声
沢沼のほとりかつかつ野となりて
発句の「かいて」は楓だが、敵の杣山城を守っているのが甲斐守祐徳なので甲斐手が掛けてある。朝倉勢によって楓が散るように敵が落城するということのようだ。さらに浅沼は一世紀後、三好長慶の連歌との類似についても言及している。
芦間にまじる薄一村(「すすきにまじる芦の一むら」とする書もある)
古沼の浅き方より野となりて
花田清輝の「古沼抄」(『日本のルネッサンス人』)にもあるエピソードである。花田の文章は個人的には私が連句に関心をもつ根拠のひとつになっているので、この話題をもう少し続けると、吉村貞司の『桃山の人びと』では三好長慶の連歌会について次のように書かれている。
「三月五日、長慶は飯森城に弟冬康・連歌師牧宗養・里村紹巴などと連歌の会を開いていた。あたかもその時、弟三好義賢は岸和田城を討って出て、久米田に敵勢と激戦をまじえていた。長慶はその報を得ていたはずだ。しかし連歌をつづけた。そんなばかなことがあるものかという人もある。私も最初そう思った。私の頭には『太平記』の千早攻めがあり、長期にして無為に苦しむ包囲陣が、ひまつぶしに連歌を催したものぐらいにしか考えていなかった」
『常山紀談』では実休(義賢)討ち死にの報のあと連歌を止めて出陣したことになっている。それにしても、なぜ連歌なのか。吉村貞司は「彼らはいつ戦死するかわからない職業に従い、いつもおのれの死と対決していなければならなかった」「手段を問わず、おのれの存在を、運命を、意義づけるものにすがりつき、むさぼりつきたかった。それが禅であり芸術であり茶であり、花であった」と述べている。
「江古田文学」に戻ると、高橋実里の「自分自身に着地する—説経節『小栗判官』」や人形浄瑠璃猿八座公演「をぐり」の写真(撮影・笹川浩史)、ふじたあさや「御門から閻魔まで」(『小栗判官』に題材をとった『をぐり考』は1999年に熊野本宮大社の大斎原に野外舞台を組んで上演されたという)、三代目若松若太夫の語本「小栗判官一代記」などが掲載されていて、テクストと語り物、芸能とのリンクが総合的に見渡せる内容になっている。
川柳に話題を移すと、京都で発行されている川柳誌「凜」92号に村井見也子の「川柳三十年、この出会い」が掲載されている。京都の川柳界は1978年に「平安」が解散したあと、「新京都」「都大路」「京かがみ」の三つに分かれたが、「新京都」の北川絢一郎が亡くなったあと、村井見也子が「凜」を立ち上げた。村井は2018年に亡くなったが、今号に掲載されたのは村井が1994年9月に「京都新聞」に執筆した文章の再録である。村井が取り上げているのは次の四人の作者で、現在の川柳の傾向とは異なるところも多いが、先人の作品として知っておかなくてはならないと思われるので、紹介しておく。
百冊の本をまたいでなお飢えに 北川絢一郎
悲の面はたった一つで下りてくる 定金冬二
北川絢一郎は京都の革新川柳を牽引したひとり。北川絢一郎句集『泰山木』(1995年)から何句か抜き出してみよう。
庶民かな同心円をぬけられぬ 北川絢一郎
どの糸からもマリオネットは血を貰う
草いきれ一揆の性をもっている
川の向こうの影がときどき討ちにくる
灯を消せばきっと溺れるさかなたち
定金冬二は津山の出身。津山番傘川柳会を創立。富田林市に移住したあと、「一枚の会」を創立した。冬二の句集『無双』に寄せて北川絢一郎が次のようなエピソードを書いている。句会の帰途、いつもの喫茶店である女性川柳人が「どんなにしたら冬二先生みたいに川柳が上手になりますの…」と問いかけると、冬二は「それはなア、心にいっぱい悲しみを溜めてなアー」と言いかけて、あとの言葉が続かなかったというのだ。「悲の面はたった一つで下りてくる」は冬二の代表作で、確か津山に句碑が建てられている。
おんなとは哀しいときも何か提げ 定金冬二
穴は掘れた死体を一つ創らねば
にんげんのことばで折れている芒
折り鶴が翔ぶ青空が痛くなる
絢一郎・冬二に続いて、村井見也子は次の二人の女性川柳人の作品を引用している。
靴をそろえて償いが一つ済む 前田芙巳代
子を産まぬ約束で逢う雪しきり 森中惠美子
ここでは女性川柳人について述べる余裕はないが、時実新子とは異なる傾向の作者として、前田芙巳代、森中惠美子、村井見也子、渡部可奈子などがあげられるだろう。
付合文芸である連句(Linked Petry)も前句付をルーツとする川柳も言葉と言葉の関係性の世界である。今年も連句と川柳を両輪として表現活動をしていくつもりだが、断絶する言葉と人々を何がしかリンクすることができればいいなと思っている。