4月からNHK文化センター梅田教室で「はじめまして現代川柳」の講座を開いている。月1回第四土曜日の夜で、第1回「現代川柳とはどういうものか」、第2回「現代川柳の歴史を振り返る」まで終了。ここでは第2回の内容を簡単に述べておきたい。
現代川柳の出発点について定説はないが、戦後の現代川柳の出発は関東では中村冨二、関西では河野春三からはじまったというのが私の考えである。
まず中村冨二の方から話をはじめると、『はじめまして現代川柳』の冨二の解説で私はこんなふうに書いている。
「1948年(昭和23年)の暮れ、まだ闇市の雰囲気の残る川崎駅前で中村冨二はバラック造りの古本屋「なかとみ書房」を開いていた。二坪ほどの仮店舗で、雨が降ると土間には水たまりができた。ある日、ビールの空き箱を逆さにして雑誌を読んでいた冨二の目の前が急に暗くなって、佇んだ一人の青年がいた。この青年・松本芳味と中村冨二の出会いから関東における戦後川柳は始まった」
読者に興味をもってもらえるようにこの部分は物語的に書いている。実際に見てきたわけではないが、いちおう当時の証言にもとづいている。
1950年、冨二は「川柳鴉組」を結成。梅田教室では合同句集『鴉』(1957年)を展示して参加者の手に取ってもらった。冨二のほか星野光一、片柳哲郎、金子勘九郎、山村祐、松本芳味などの作品が収録されている。
『中村冨二・千句集』から5句だけ紹介しておく。
人殺しして來て細い糞をする
セロファンを買いに出掛ける蝶夫妻
たちあがると、鬼である
パチンコ屋 オヤ 貴方にも影が無い
美少年 ゼリーのように裸だね
次に河野春三について。春三は1948年3月に川柳誌「私」を発行。1956年12月に「天馬」創刊。「私」は個人誌だったが、「天馬」は同人誌である。「現代川柳」という呼称が定着したのはこの頃である。
「我々の作品を今後、現代川柳という呼称に統一したい」(「天馬」二号・1957年2月の座談会)
春三の作品を紹介しておく。
水栓のもるる枯野を故郷とす
母系につながる一本の高い細い桐の木
死蝶 私を降りてゆく 無限階段の縄
濁流は太古に発し流木の刑
おれの ひつぎは おれがくぎうつ
「水栓」の句について、『はじめまして現代川柳』では次のように解説している。
「一面の焼野原と化した戦後の情景である。焼け残った水道の蛇口から水がポタポタ滴り落ちている」「終戦後、春三は堺市でバラック小屋に住み、自炊生活をしていた。泥棒に二回も入られたが、警察に捕まった泥棒に「お前のうちはとるものが少なかった」と言われたそうだ。関西における戦後川柳の出発点であり、それが水栓のもれる故郷の原風景と重ねあわされている」
その後、紆余曲折があるのだが、1966年8月に「川柳ジャーナル」が創刊される。「海図」「鷹」「不死鳥」「流木」「馬」の各誌を統合するかたちである。教室ではこれらの雑誌の実物を展示。当時の雰囲気を実感するには川柳誌の実物を手にとるのが一番であるが、「川柳ジャーナル」といっても40ページ足らずの薄い冊子なので、逆に幻滅するかもしれない。しかし、「川柳ジャーナル」の時代には現代川柳の多方向に向かう傾向が共存していたので、さまざまな可能性があった。
神さまに聞える声で ごはんだよ ごはんだよ 山村祐
これはたたみか 松本芳味
芒が原か
父かえせ
母かえせ
風が掛けた鍵 開けて逝く誰か 細田洋二
サルビヤ登る 天の階段 から こぼれ
夜の藻を九官鳥でかいくぐる
山村祐は川柳を一行詩ととらえ、川柳を現代詩に解消しようとした。松本芳味は多行川柳の代表的作者。細田洋二は言葉の復権を唱え川柳における言葉派のルーツとなった。
さて、大正末年から昭和初年にかけて新興川柳運動が起こったが、戦前の新興川柳と戦後の現代川柳とはどのような関係にあるのだろうか。両者は無関係で現代川柳は新興川柳の継承者ではないという立場もあるが、私は継承関係はあるという立場であるし、また新興川柳の遺産を継承しなければならないと思っている。そういう意味で『はじめまして現代川柳』の第三章に川上日車、木村半文銭、河野春三、中村冨二、細田洋二の作品を収録している。
人間を摑めば風が手に残り 田中五呂八
人間を取ればおしゃれな地球なり 白石維想樓
竝べ見る宇宙一つはアメーバの 渡辺尺蠖
錫 鉛 銀 川上日車
元前二世紀ごろの咳もする 木村半文銭
あと、講座では実践編として「第55回玉野市民川柳大会」(平成16年7月)のときの兼題「妖精」の入選句を資料として配布した。石田柊馬の「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」が詠まれた大会である。
次回6月24日の教室では「現代川柳をどう読むか」というテーマで、『はじめまして現代川柳』の第一章・第二章に収録されている作者を中心に取り上げる予定である。
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