年末に当たり、今年の連句界についても振り返っておきたい。
12月に日本連句協会創立40周年記念誌『現代連句集Ⅳ』が発行された。日本連句協会の前身である連句懇話会は1981年に創立。10年ごとに『現代連句集』を発行して、今回で4冊目になる。巻頭に「連句の愉しみ」(小津夜景)・「連句が好きだから」(堀田季何)のエッセイが二編。「日本連句協会の歩み」、座談会「現代連句の伝統と多様性」(小池正博・鈴木千惠子・宮川尚子・高松霞・門野優・山中たけを)のほか連句作品として「国民文化祭文部科学大臣賞等受賞作品」(第27回徳島~第36回和歌山)、各地の連句グループ作品84巻を収録している。
エッセイを寄稿している小津夜景は著書のあちこちで連句について触れている。小津と須藤岳史との往復書簡『なしのたわむれ』は連句の付け合いの呼吸で書かれているし、第二句集『花と夜盗』(書肆侃侃房)のうち「夢擬的月花的」(ゆめもどきてきつきはなてき)は連句の「月花(つきはな)の句」を一句立てにしたものである。月花の句は連句では春季扱いになる。
月を呑む花の廃墟を照らすため 夜景
月と花比良の高ねを北にして 芭蕉
堀田季何は今年最も活躍した俳人のひとりだが、連句の心得もある。堀田の主宰する「楽園俳句会」は6月に冊子版を発行しているが、連句作品も掲載されている。この両人に限らず、連句に対する関心が広がりつつある。
「江古田文学」110号に浅沼璞が「『さんだらぼっち』にみる西鶴的方法」を書いている。『さんだらぼっち』は石ノ森章太郎の時代物漫画だが、西鶴のような俳諧(連句)的な方法が使われているという。そもそも西鶴が漫画的と言うこともできる。浅沼は連句以外のジャンルにおける連句的な要素を分析してゆく「連句への潜在的意欲」という方法をとっているが、小津や堀田のように連句への顕在的意欲を示す表現者がふえてきていることになる。
以下、各地の連句大会を紹介する。
3月20日に日本連句協会の総会と全国大会が両国の江戸東京博物館で開催された。リアルでの参加32名、リモートでの参加が24名というハイブリッド連句会となった。
4月29日、「第26回えひめ俵口全国連句大会」が松山の子規記念博物館で開催。愛媛県知事賞の歌仙「秋高し」の巻(高塚霞捌き)の名残りの表よりご紹介。
口髭に触れてかたびら雪の消え 徹心
三代続く城の門番 忠史
香しき菓子を焼くのを趣味として 孝子
南回りのけふのフライト 孝子
アメリカの株の上下にそはそはし 徹心
桶屋儲かる仕組複雑 千惠子
6月12日、第二回全国リモート連句大会。(日本連句協会主催)
6月26日、第16回宮城県連句大会。コロナ禍の大会が中止になり、後日作品集が送付される。この大会は残念ながら今回で終了になるという。
7月27日~29日。徳島城博物館和室にて「夏休み子ども連句教室」が開催。一日目「俳句をつくろう」、二日目「長句に短句を付けよう」、三日目「句をつないでいこう」の三日間のプログラム。
9月11日、南砺市いなみ全国連句大会2022。
1993年に第一回大会が開催され、ほぼ4年ごとに回を重ね、今年で第八回を迎える。
富山県知事賞受賞の歌仙「冬夕焼」の巻の表六句。
かつてこのやうな恋あり冬夕焼 鈴木了斎
慕情凍てつく文箱の底 杉本聰
除雪車の角曲がりゆく音消えて 了斎
絡繰時計喇叭吹き出す 聰
月からの金糸銀糸に指からめ 了斎
和紙に切り抜く芙蓉一輪 聰
10月は芭蕉にちなんんだイベントが続いた。芭蕉終焉の地・大阪では大阪天満宮の「浪速の芭蕉祭」。まず10月2日にリモートによるプレイベントを開催。浅沼璞と小池正博の対談のあとオン座六句と非懐紙の二座に分かれてリモート連句。一週間後の10月9日には大阪天満宮の梅香学院でリアル句会を開会。天満宮本殿参拝のあと、関西現俳協青年部長の久留島元をゲストに迎えての座談会と実作会。
伊賀上野では10月11日・12日に第76回芭蕉祭(伊賀上野)が開催された。
元禄七年(1694)、芭蕉の帰郷にあわせて、伊賀上野の門人たちが芭蕉実家の敷地に庵を建てる。芭蕉は8月15日に月見の会を催し、料理が振舞われた。芭蕉自筆の「月見の献立」が残っており、昨年、伊賀市に寄贈された。芭蕉祭の前日、10月11日の夜に「月見の献立歓迎会」がハイトピア伊賀で開催され、私も参加することができた。月見の献立にちなんだ料理が提供され、貴重な経験をする。
翌日の12日は俳聖殿の前で芭蕉祭の式典。連句の部では半歌仙「頓て死ぬ」の巻(梅村光明捌き)が特選になっており、その裏の一句目から六句目までを紹介する。
牧閉ざす馬柵遠くまでなだらかに 満璃
逢へぬ日続き募るいとしさ 裕子
女子会のすぐ盛り上がる恋懺悔 光明
ぐうたら亭主まづは槍玉 満璃
議員席スマホ居眠りここかしこ 裕子
熱きおでんのコント大受け 光明
最後に、国文祭おきなわ(美ら島おきなわ文化祭2022)が沖縄県南城市を会場として開催された。10月29日吟行会。30日、南城市文化センターにて表彰式・実作会。一般の部、文部科学大臣賞は二十韻「大試験」の巻(富山県、杉本聰捌き)が受賞した。
大試験終えて少女の顔となる 宇野恭子
たんぽぽの絮飛ばす道端 奥野美友紀
潮干狩りバケツそれぞれ手に提げて 北野眞知子
母が伝授の結び三角 大島朋子
ジュニアの部・文部科学大臣賞は三つ物「かぜのしっぽ」(鈴木千惠子捌き)。
はるのかぜかぜにしっぽはどこにある 植田泰就
にげられちゃったおたまじゃくしに 植田結衣
赤ちゃんの目が光ってるときかわいい 結衣
あと、ネットでは昨年スタートした季刊「連句新聞」が今年も春夏秋冬4号を発信。冊子版の特別編も準備中だという。
個人企画のイベントでは12月、東京アーツ&スペース本郷で高松霞による「連句の赤い糸」が開催。展示のほか連句ライブ、連句盆踊りが実施された。
座の文芸としての連句はコロナ禍の影響を受け苦境に立たされたが、リモート連句をはじめ工夫しながら進んできている。今後も連句は顕在的に・潜在的に続いていくことだろう。
2022年12月25日日曜日
2022年回顧(川柳篇)
年末になったので、一年間を振り返ってみたい。昨年の2021年回顧では川合大祐『スロー・リバー』、湊圭伍『そら耳のつづきを』、飯島章友『成長痛の月』を取りあげたが、ここでは今年刊行された川柳句集を中心に、2022年を回顧してみる。
まず、4月に暮田真名の『ふりょの星』(左右社)が発行された。挿画・吉田戦車、帯文・Dr.ハインリヒ。既成の川柳句集のイメージを打ち破る一冊だが、暮田はすでに川柳歴7年。現代詩歌文学館の朗読・トークイベントに出演、「ねむらない樹」6号、「文学界」2021年5月号、関西現俳協HPなどに寄稿するなど、若手川柳人として注目されていた。
暮田についてはこの時評でもそのつど触れてきたし、「OD寿司」は有名になったので、ここでは「県道のかたちになった犬がくる」について述べてみたい。すでに書いたこともあるが、「かたち」という言葉を使った句は川柳ではしばしば見かける。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
県道のかたちになった犬がくる 暮田真名
では、暮田のどこが新しいのだろうか。「県道が犬のかたちになった」「犬が県道のかたちになった」―言葉の世界では何とでも言えるが、「県道が犬のかたちになった」の方が多少理解しやすいのは、たとえば犬のかたちのビスケットのようにイメージしやすいからだ。「犬が県道のかたちになった」の方は飛躍感が大きく読者の理解を越える。県道と犬との新しい関係性が一句の中で成立している。
言葉と言葉の関係性に対する感覚は人によって異なるが、無関係な言葉を強引に結びつければそれでいいというわけではない。8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集いで、暮田は「私は本当に川柳を作りたくて、今までに読んだ川柳が好きだから、その延長線上にあるものを書きたいという気持ちがある」と発言している。暮田の川柳が既成の川柳人にも受け入れられやすいのは、こういうベースがあるからだ。
『ふりょの星』の内容はもとより、流通の仕方も従来の川柳句集とは異なっている。書店の店頭販売や通販はもちろんだが、ヴィレッジバンガードに並んだことも話題になった。川柳句集といえば贈呈が中心で若干書店に並ぶこともあったが、出版社が営業・流通に尽力してくれるなどということは以前では想像もできなかった。暮田は「川柳句会こんとん」や川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」などで川柳の裾野を広げる活動をしている。
5月には平岡直子『Ladies and』(左右社)が出た。「川柳スパイラル」創刊5周年の集いでは暮田と平岡の対談があったが、両人はこんなふうに語っている(「川柳スパイラル」16号)。
暮田 二冊の句集の印象なんですけれど、『ふりょの星』が取りこぼした層を『Ladies and』がしっかりとキャッチしてくれていると思っています。『ふりょの星』は見た目がポップすぎて、何だこれはと思われた人もあるでしょうし、取りあげられ方も従来の川柳句集とは違っていたと思います。
平岡 いい棲み分け、分業化ができた感じだよね。わたしは『ふりょの星』の外見がすごく好きで、好きなだけじゃなくて、こういう句集を見たのは初めてなのに、ああそうそう川柳ってこういうものだったよね、って、どこか「川柳の本来の姿」を見ているような気持ちにもなります。
平岡の句集評についてはすでに書いたことがあるが(「白鳥の流血と金色に泣く女の子」、「川柳スパイラル」15号)、改めて『Ladies and』を読み直してみると、批評性のある作品が目につく。批評性というのは諷刺や時代批判、政治批判も含めて広くカバーするときの言葉である。
いい水は人が飛び込んだら消える
木漏れ日のようね手首をねじりあげ
絶滅も指名手配も断った
むしゃくしゃしていた花ならなんでもよかった
九月尽でしたか警察呼びますよ
平岡の作品の批評性・諷刺性は『Ladies and』というタイトルのメッセージにもあらわれているが、川柳作品だけでなくて、最近の短歌作品にも顕在化しているように思われるが、それはもともと作者のなかにあったものなのだろう。
続いて6月に発行されたのが、なかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)。
「鉄棒に片足かけるとき無敵」という句は川柳界ではよく知られているので、『脱衣場のアリス』に収録されているような気がしていたが、『アリス』以後の作品。私は『はじめまして現代川柳』の解説でなかはらについて「それまで演歌的な作品が多かった川柳の世界で、なかはらはポップス系川柳の書き手として登場した」と書いている。この句にも同じ傾向が見られるが、問題はなかはらの書き方がどのように進化していったかということだ。
鉄棒に片足かけるとき無敵
魚の腹ゆびで裂くとき岸田森
「~とき」のあとの着地点が後者では明らかに遠くまで飛んでいる。新しい関係性が通常結びつかない語と語の結びつきになっているのだ。人名を使うのは一種のテクニックでもある。キャリアの長い川柳人はそれなりに過去の川柳作品を読んでいるから、先行作品の発想と表現をどう乗り越えるかに苦心する。
電熱器にこっと笑うようにつき 椙元紋太
豆電球が(おやすみ、さくら)ぽっと点く なかはられいこ
この二句の発想には共通点があると思われるが、表現の仕方が進化・深化している。句集のタイトルにもなっている「空に満月くちびるにウエハース」。空の満月と身体性との取り合わせは驚くほどのことではないが、くちびるとウエハースの取り合わせに作者独自の感性がうかがえる。意味ではなくて感覚的な句である。
11月の文フリ東京でササキリユウイチ『馬場にオムライス』を手に入れた。
ふくろうの唾液で目指す不躾さ
ゆらめくものをゆらめきで突く
鳥には餌を丸のみするイメージがあるが、唾液もあるそうだ。けれど「ふくろうの唾液」とはふだん聞きなれない異化効果のある言葉だ。着地点は「不躾さ」。俳句なら季語を持ってきたりするところである。「ふくろう・唾液」と「不躾さ」の関係性のなかに作者の新鮮な感覚がある。
後者は短句(七七句)。川柳では武玉川調とか十四字とか呼ばれるが、暮田真名が愛用するので、若い世代にも浸透してきているようだ。ここでは「ゆらめく」「ゆらめき」という同語反復によって一句を成立させている。
この二句を見るだけでもササキリが現代川柳の技術をマスターしていることがうかがえる。問題はそこからどう新領域を切り開いていくかということだ。
腐った喉でささやく馬場にオムライス
問十二 豆電球で呵責せよ
椅子は椅子だったとしてもママが好き
必ずや無職の天使がやってくる
マダガスカルの治安を乱すな
「問十二 豆電球で呵責せよ」「必ずや無職の天使がやってくる」などは従来の感覚で理解できる作品。この作者独自の言語感覚は「馬場にオムライス」「マダガスカルの治安」にあるだろう。人名を使った川柳もおもしろいが、先行作品として川合大祐などが思い浮かぶ。
サマセット・モームが巨大化する梅雨 川合大祐
エラスムス背中の汗でもらい泣き ササキリユウイチ
12月、小池正博句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)刊行。
川柳句集が次々に発行されるので、キャリアの長い川柳人は自分の現在位置を句集で示す必要がある。感心してばかりもいられないのだ。それなりに長く川柳に関わっていると生まれてくる虚無感について、川上日車は『日車句集』の序で次のように書いている。「人生の果てに辿りついた私は、これでなにもすることはない。ただ、峻烈な世上の批判は、やがて一句も遺さず削ってくれるであろう」
今年読んだ川柳誌の中で印象に残ったのは佐藤みさ子と柳本々々の往復書簡「わたしって、なんですか?」(「What’s」2号)だが、佐藤みさ子の「わたし」がどのようなものなのかは「虚無感との闘い/裁縫箱」(「セレクション柳論」所収)を読めばよくわかる。
昨年から今年にかけて、現代川柳に関心をもつ人が増えたのは、ひとつは短歌界隈の表現者で川柳の実作をする人が現れたこと、もうひとつはネットやSNSを主な発表舞台とする表現者が目立つようになったことによる。個人で発信できるツールが増えたことによって、従来の結社・句会や新聞の川柳欄・同人誌などの紙媒体を中心とした川柳活動とは無縁なところで作品を発表することが可能になっている。
そういう状況が進んでいるのは短歌の世界で、「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」が参考になる。荻原裕幸と東直子の対談が興味深いし、「ネット短歌の歩き方・ガイド」のコーナーでは、短歌の総合サイト、投稿サイト、Twitter、LINE、ツイキャス、Twitterスペース、YouTube、夏雲システム、note、ネットプリント、Zoomなどが紹介されている。川柳の世界でもネットを駆使する世代が今後増えていくのだろう。ネット川柳はリアルの句会で言葉を鍛えられる機会を飛び越して自由に自己表現ができるので、新鮮である反面危ういところもある。リアル句会では新人が次第に既成の川柳イメージにとらわれて面白味のない作品を量産するようになることもある。それぞれプラス・マイナスがあるだろう。どのような方法で川柳にかかわってゆくかは個人が決めることだが、現代川柳の世界が今後どのように進んでゆくのか、来年に向けてのさらなる展開を期待している。
まず、4月に暮田真名の『ふりょの星』(左右社)が発行された。挿画・吉田戦車、帯文・Dr.ハインリヒ。既成の川柳句集のイメージを打ち破る一冊だが、暮田はすでに川柳歴7年。現代詩歌文学館の朗読・トークイベントに出演、「ねむらない樹」6号、「文学界」2021年5月号、関西現俳協HPなどに寄稿するなど、若手川柳人として注目されていた。
暮田についてはこの時評でもそのつど触れてきたし、「OD寿司」は有名になったので、ここでは「県道のかたちになった犬がくる」について述べてみたい。すでに書いたこともあるが、「かたち」という言葉を使った句は川柳ではしばしば見かける。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
県道のかたちになった犬がくる 暮田真名
では、暮田のどこが新しいのだろうか。「県道が犬のかたちになった」「犬が県道のかたちになった」―言葉の世界では何とでも言えるが、「県道が犬のかたちになった」の方が多少理解しやすいのは、たとえば犬のかたちのビスケットのようにイメージしやすいからだ。「犬が県道のかたちになった」の方は飛躍感が大きく読者の理解を越える。県道と犬との新しい関係性が一句の中で成立している。
言葉と言葉の関係性に対する感覚は人によって異なるが、無関係な言葉を強引に結びつければそれでいいというわけではない。8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集いで、暮田は「私は本当に川柳を作りたくて、今までに読んだ川柳が好きだから、その延長線上にあるものを書きたいという気持ちがある」と発言している。暮田の川柳が既成の川柳人にも受け入れられやすいのは、こういうベースがあるからだ。
『ふりょの星』の内容はもとより、流通の仕方も従来の川柳句集とは異なっている。書店の店頭販売や通販はもちろんだが、ヴィレッジバンガードに並んだことも話題になった。川柳句集といえば贈呈が中心で若干書店に並ぶこともあったが、出版社が営業・流通に尽力してくれるなどということは以前では想像もできなかった。暮田は「川柳句会こんとん」や川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」などで川柳の裾野を広げる活動をしている。
5月には平岡直子『Ladies and』(左右社)が出た。「川柳スパイラル」創刊5周年の集いでは暮田と平岡の対談があったが、両人はこんなふうに語っている(「川柳スパイラル」16号)。
暮田 二冊の句集の印象なんですけれど、『ふりょの星』が取りこぼした層を『Ladies and』がしっかりとキャッチしてくれていると思っています。『ふりょの星』は見た目がポップすぎて、何だこれはと思われた人もあるでしょうし、取りあげられ方も従来の川柳句集とは違っていたと思います。
平岡 いい棲み分け、分業化ができた感じだよね。わたしは『ふりょの星』の外見がすごく好きで、好きなだけじゃなくて、こういう句集を見たのは初めてなのに、ああそうそう川柳ってこういうものだったよね、って、どこか「川柳の本来の姿」を見ているような気持ちにもなります。
平岡の句集評についてはすでに書いたことがあるが(「白鳥の流血と金色に泣く女の子」、「川柳スパイラル」15号)、改めて『Ladies and』を読み直してみると、批評性のある作品が目につく。批評性というのは諷刺や時代批判、政治批判も含めて広くカバーするときの言葉である。
いい水は人が飛び込んだら消える
木漏れ日のようね手首をねじりあげ
絶滅も指名手配も断った
むしゃくしゃしていた花ならなんでもよかった
九月尽でしたか警察呼びますよ
平岡の作品の批評性・諷刺性は『Ladies and』というタイトルのメッセージにもあらわれているが、川柳作品だけでなくて、最近の短歌作品にも顕在化しているように思われるが、それはもともと作者のなかにあったものなのだろう。
続いて6月に発行されたのが、なかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)。
「鉄棒に片足かけるとき無敵」という句は川柳界ではよく知られているので、『脱衣場のアリス』に収録されているような気がしていたが、『アリス』以後の作品。私は『はじめまして現代川柳』の解説でなかはらについて「それまで演歌的な作品が多かった川柳の世界で、なかはらはポップス系川柳の書き手として登場した」と書いている。この句にも同じ傾向が見られるが、問題はなかはらの書き方がどのように進化していったかということだ。
鉄棒に片足かけるとき無敵
魚の腹ゆびで裂くとき岸田森
「~とき」のあとの着地点が後者では明らかに遠くまで飛んでいる。新しい関係性が通常結びつかない語と語の結びつきになっているのだ。人名を使うのは一種のテクニックでもある。キャリアの長い川柳人はそれなりに過去の川柳作品を読んでいるから、先行作品の発想と表現をどう乗り越えるかに苦心する。
電熱器にこっと笑うようにつき 椙元紋太
豆電球が(おやすみ、さくら)ぽっと点く なかはられいこ
この二句の発想には共通点があると思われるが、表現の仕方が進化・深化している。句集のタイトルにもなっている「空に満月くちびるにウエハース」。空の満月と身体性との取り合わせは驚くほどのことではないが、くちびるとウエハースの取り合わせに作者独自の感性がうかがえる。意味ではなくて感覚的な句である。
11月の文フリ東京でササキリユウイチ『馬場にオムライス』を手に入れた。
ふくろうの唾液で目指す不躾さ
ゆらめくものをゆらめきで突く
鳥には餌を丸のみするイメージがあるが、唾液もあるそうだ。けれど「ふくろうの唾液」とはふだん聞きなれない異化効果のある言葉だ。着地点は「不躾さ」。俳句なら季語を持ってきたりするところである。「ふくろう・唾液」と「不躾さ」の関係性のなかに作者の新鮮な感覚がある。
後者は短句(七七句)。川柳では武玉川調とか十四字とか呼ばれるが、暮田真名が愛用するので、若い世代にも浸透してきているようだ。ここでは「ゆらめく」「ゆらめき」という同語反復によって一句を成立させている。
この二句を見るだけでもササキリが現代川柳の技術をマスターしていることがうかがえる。問題はそこからどう新領域を切り開いていくかということだ。
腐った喉でささやく馬場にオムライス
問十二 豆電球で呵責せよ
椅子は椅子だったとしてもママが好き
必ずや無職の天使がやってくる
マダガスカルの治安を乱すな
「問十二 豆電球で呵責せよ」「必ずや無職の天使がやってくる」などは従来の感覚で理解できる作品。この作者独自の言語感覚は「馬場にオムライス」「マダガスカルの治安」にあるだろう。人名を使った川柳もおもしろいが、先行作品として川合大祐などが思い浮かぶ。
サマセット・モームが巨大化する梅雨 川合大祐
エラスムス背中の汗でもらい泣き ササキリユウイチ
12月、小池正博句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)刊行。
川柳句集が次々に発行されるので、キャリアの長い川柳人は自分の現在位置を句集で示す必要がある。感心してばかりもいられないのだ。それなりに長く川柳に関わっていると生まれてくる虚無感について、川上日車は『日車句集』の序で次のように書いている。「人生の果てに辿りついた私は、これでなにもすることはない。ただ、峻烈な世上の批判は、やがて一句も遺さず削ってくれるであろう」
今年読んだ川柳誌の中で印象に残ったのは佐藤みさ子と柳本々々の往復書簡「わたしって、なんですか?」(「What’s」2号)だが、佐藤みさ子の「わたし」がどのようなものなのかは「虚無感との闘い/裁縫箱」(「セレクション柳論」所収)を読めばよくわかる。
昨年から今年にかけて、現代川柳に関心をもつ人が増えたのは、ひとつは短歌界隈の表現者で川柳の実作をする人が現れたこと、もうひとつはネットやSNSを主な発表舞台とする表現者が目立つようになったことによる。個人で発信できるツールが増えたことによって、従来の結社・句会や新聞の川柳欄・同人誌などの紙媒体を中心とした川柳活動とは無縁なところで作品を発表することが可能になっている。
そういう状況が進んでいるのは短歌の世界で、「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」が参考になる。荻原裕幸と東直子の対談が興味深いし、「ネット短歌の歩き方・ガイド」のコーナーでは、短歌の総合サイト、投稿サイト、Twitter、LINE、ツイキャス、Twitterスペース、YouTube、夏雲システム、note、ネットプリント、Zoomなどが紹介されている。川柳の世界でもネットを駆使する世代が今後増えていくのだろう。ネット川柳はリアルの句会で言葉を鍛えられる機会を飛び越して自由に自己表現ができるので、新鮮である反面危ういところもある。リアル句会では新人が次第に既成の川柳イメージにとらわれて面白味のない作品を量産するようになることもある。それぞれプラス・マイナスがあるだろう。どのような方法で川柳にかかわってゆくかは個人が決めることだが、現代川柳の世界が今後どのように進んでゆくのか、来年に向けてのさらなる展開を期待している。
2022年12月16日金曜日
小津夜景第二句集『花と夜盗』
京都・南座の顔見世で「松浦の太鼓」を見た。忠臣蔵のサイド・ストーリーで、第一幕では俳諧師の其角が両国橋のたもとで赤穂浪士の大高源吾と出会う。源吾は俳名を子葉といい、其角宗匠とは交流があった。別れ際に二人は俳諧の付合をする。
年の瀬や水の流れと人の身は 其角
あした待たるるその宝船 子葉
第二幕、赤穂浪士びいきの松浦候が吉良邸の隣に屋敷を構えている。其角をまじえて俳諧の座が進行するが、片岡仁左衛門の演じる松浦候は愛嬌のある役で、観客をわかせていた。俳諧(連句)が芝居の背景にあって、楽しく観ることができた。
小津夜景の第二句集『花と夜盗』(書肆侃侃房)を読む。
第一章「四季の卵」は春の句にはじまり、季節の順に進行して、美意識の強い句がならんでいる。
春なれば棺の窓をあけておく
脱皮したのは虹の尾をふんだから
副葬の品のひとつを月として
シャボン玉よりもほろ酔ふ小雪なれ
のっけから渦巻くツバメ探偵社
死者の棺は葬儀の参列者がお別れできるように、顔の部分に窓が開かれている。それが閉じられて葬儀が終るのだが、まるで死者が春なので自ら窓を開けているような感じがする。棺をいくつも置いてある場所があって、春なので管理者がその窓を開けて空気を入れ替えている状景とも考えてみたが、死者が冬眠から目覚めるようにして棺の窓をあけたのだという気がする。「春はまぼろし」というタイトルのなかの一句で、幻想的な世界である。
二句目、何が脱皮したのか書かれていないが、虹の尾という表現があるので、蛇のイメージだろう。虹は蛇と重なる。
三句目は月の句だが、月も副葬品のひとつだという。古墳の副葬品に鏡や勾玉があるように、ここでも死者のイメージが使われている。
四句目、しゃぼん玉は春の季語だが、ここでは「小雪」で冬の句。
五句目、燕は春の季語だが、ここでは「ツバメ探偵社」という固有名詞に変えられている。春夏秋冬と巡行して再び春に戻ってくる。
ところどころに遊び心も見られて、「狂風忍者伝」のタイトルで「甲賀一匹エウレカの野に死にき」、「花と夜盗」のタイトルで「風花の生まれてけふの伊勢屋かな」という時代物の句があったりして、西洋的教養と俳諧の結合が興味深い。
第二章「昔日の庭」では多彩な詩形がちりばめられている。「陳商に贈る」では有名な李賀の漢詩を長句(五七五)と短句(七七)で連句的に訳してある。
長安有男児 長安の都に男の子ありにけり
二十心已朽 はやも朽ちたる二十歳の心
小津はかつてこんなふうに書いている。「李賀の詩は感情のゆらぎが大きいので、訳すときは5・7・5と7・7とを連想でつないでゆく連句の形式を借りると、意味の流れが不自然にならない。ひらめきに重きを置いた作品は、連句的インプロヴィゼーションとおおかた相性がよい、というのが個人的な印象だ」(『カモメの日の読書』)
「二十歳にしてすでに心朽ちたり」とか「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』)などは、かつての文学青年たちが愛誦したフレーズだ。鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によると、李賀には柏梁体(漢詩連句)の詩が二篇ある。その一篇「悩公」(悩ましい人)は男女の恋のかけ合いになっている(原田憲雄訳注『李賀歌詩編』東洋文庫)。
小津の句集に戻ると、武玉川調(七七句)、クーシューの俳句による翻訳、都々逸(七七七五)などの作品が収録されている。さまざまな詩形に習熟している詩人としては高橋睦郎が思い浮かぶが、小津夜景のカバーしている範囲も広い。
山宣死していまは蛍に
マンホールにも霧の追手が
夢の夜を Dans un monde de reve,
渡る舟にて Sur un bateau de passage,
ちよつと逢ふ Rencontre d`un instant.
うその数だけうつつはありやあれは花守プルースト
水に還つた記憶の無地を虹でいろどるフラミンゴ
第三章「言葉と渚」では訓読みの長い漢字を組み合わせた三文字俳句、月花の句など。
全体を通じて、美意識の中に遊びの句がまじり、読んでいて楽しい。知的に処理された俳諧精神に満ちた句集である。
年の瀬や水の流れと人の身は 其角
あした待たるるその宝船 子葉
第二幕、赤穂浪士びいきの松浦候が吉良邸の隣に屋敷を構えている。其角をまじえて俳諧の座が進行するが、片岡仁左衛門の演じる松浦候は愛嬌のある役で、観客をわかせていた。俳諧(連句)が芝居の背景にあって、楽しく観ることができた。
小津夜景の第二句集『花と夜盗』(書肆侃侃房)を読む。
第一章「四季の卵」は春の句にはじまり、季節の順に進行して、美意識の強い句がならんでいる。
春なれば棺の窓をあけておく
脱皮したのは虹の尾をふんだから
副葬の品のひとつを月として
シャボン玉よりもほろ酔ふ小雪なれ
のっけから渦巻くツバメ探偵社
死者の棺は葬儀の参列者がお別れできるように、顔の部分に窓が開かれている。それが閉じられて葬儀が終るのだが、まるで死者が春なので自ら窓を開けているような感じがする。棺をいくつも置いてある場所があって、春なので管理者がその窓を開けて空気を入れ替えている状景とも考えてみたが、死者が冬眠から目覚めるようにして棺の窓をあけたのだという気がする。「春はまぼろし」というタイトルのなかの一句で、幻想的な世界である。
二句目、何が脱皮したのか書かれていないが、虹の尾という表現があるので、蛇のイメージだろう。虹は蛇と重なる。
三句目は月の句だが、月も副葬品のひとつだという。古墳の副葬品に鏡や勾玉があるように、ここでも死者のイメージが使われている。
四句目、しゃぼん玉は春の季語だが、ここでは「小雪」で冬の句。
五句目、燕は春の季語だが、ここでは「ツバメ探偵社」という固有名詞に変えられている。春夏秋冬と巡行して再び春に戻ってくる。
ところどころに遊び心も見られて、「狂風忍者伝」のタイトルで「甲賀一匹エウレカの野に死にき」、「花と夜盗」のタイトルで「風花の生まれてけふの伊勢屋かな」という時代物の句があったりして、西洋的教養と俳諧の結合が興味深い。
第二章「昔日の庭」では多彩な詩形がちりばめられている。「陳商に贈る」では有名な李賀の漢詩を長句(五七五)と短句(七七)で連句的に訳してある。
長安有男児 長安の都に男の子ありにけり
二十心已朽 はやも朽ちたる二十歳の心
小津はかつてこんなふうに書いている。「李賀の詩は感情のゆらぎが大きいので、訳すときは5・7・5と7・7とを連想でつないでゆく連句の形式を借りると、意味の流れが不自然にならない。ひらめきに重きを置いた作品は、連句的インプロヴィゼーションとおおかた相性がよい、というのが個人的な印象だ」(『カモメの日の読書』)
「二十歳にしてすでに心朽ちたり」とか「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』)などは、かつての文学青年たちが愛誦したフレーズだ。鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によると、李賀には柏梁体(漢詩連句)の詩が二篇ある。その一篇「悩公」(悩ましい人)は男女の恋のかけ合いになっている(原田憲雄訳注『李賀歌詩編』東洋文庫)。
小津の句集に戻ると、武玉川調(七七句)、クーシューの俳句による翻訳、都々逸(七七七五)などの作品が収録されている。さまざまな詩形に習熟している詩人としては高橋睦郎が思い浮かぶが、小津夜景のカバーしている範囲も広い。
山宣死していまは蛍に
マンホールにも霧の追手が
夢の夜を Dans un monde de reve,
渡る舟にて Sur un bateau de passage,
ちよつと逢ふ Rencontre d`un instant.
うその数だけうつつはありやあれは花守プルースト
水に還つた記憶の無地を虹でいろどるフラミンゴ
第三章「言葉と渚」では訓読みの長い漢字を組み合わせた三文字俳句、月花の句など。
全体を通じて、美意識の中に遊びの句がまじり、読んでいて楽しい。知的に処理された俳諧精神に満ちた句集である。
2022年12月3日土曜日
八上桐子の「夜」
11月×日
昨年11月に京都の連句人に誘われて柚子の里に行った。保津峡近くの水尾は柚子発祥の地とも言われ、この季節には一帯に柚子が実っている。気持ちのよいところだったので、今年も連句の会に参加させてもらうことにした。料理屋が数件あり、宿泊はできないが柚子風呂に入ってリフレッシュしたあと、鶏スキを食べながら連句を巻く。近くに清和天皇社があり、神さびたところだった。清和天皇は陽成天皇に譲位したあと、出家して畿内巡幸。水尾に隠棲し、31歳で崩御。柚子の里では雲海も見られるという。
11月×日
日本現代詩歌文学館の館報「詩歌の森」が届く。暮田真名の「三十一文字の川柳?」を読む。このタイトルはどういう意味だろうと思っていたが、読んでみて話の筋道が少し理解できた。
「川柳スパイラル」東京句会(2018年5月)のトークで我妻俊樹は「短歌は上の句と下の句の二部構成で、二つあるということは往復するような感覚がありますから、行って戻ってくるところに自我が生じるのが短歌だと感じます。そういうこと抜きに、引き返さず抜けるというのが私が川柳を作るときの感覚なんです」「短歌は引き返すけれど、川柳は引き返さないで通り抜ける」「もっと川柳のような短歌を作りたい」と述べている(「川柳スパイラル」3号)。
暮田はこの発言を念頭に置きながら、笹井宏之の短歌に触れている。
ぱりぱりとお味噌汁まで噛んでいる平年並みの氷河期らしい 笹井宏之
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
暮田は前者を「引き返している」歌、後者を「通り抜けている」歌としている。後者では上の句の作中主体と下の句の作中主体は別の人間という解釈である。「三十一文字の川柳」とは微妙な表現だが、短歌から川柳へという暮田の道筋が何となく納得できる。
11月×日
「川柳木馬」173・174合併号が届く。作家群像は八上桐子。ここ二年あまりの作品から60句が掲載され、暮田真名と西原天気の作品論が付いている。
花の夜を平すちいさい木の楽器 八上桐子
三つ編みのうしろへ伸びてゆく廊下
桔梗剪る鋏が夜も切ってしまう
噴水を夜の子どもが降りてくる
増えすぎた鳩を空へと敷きつめる
Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら
うたいましょうこれを夜だと言うのなら
『はじめまして現代川柳』の解説で私は八上の句に表れる「水」と「闇」(夜)のペアについて、「清浄な水の世界は背後に闇をかかえることによって屈折したものになる。水は闇を中和する存在でもあるし、水の背後にちらりと見える闇は、日常を破綻させないように適度にコントロールされている」と分かったようなことを書いているが、夜のモティーフは更に多彩に展開されている。注目されるのは私性から出発した八上が「こころ」や「たましい」にまで表現領域を拡げていることだ。
Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら
前者では鳩のオノマトペに重ねられているし、後者のひらかな表記の句は今回の60句のなかで最も印象に残る作品となっている。八上は「作者のことば」として、若い世代の川柳人が続々と現れている状況にふれ、自己の「現在位置」を確かめたい、という意味のことを書いている。先行世代の川柳人はそれぞれの現在位置を示す用意が必要だろう。
11月×日
「里」205号を読む。叶裕の文章で「屍派」が10月に解散したことを知る。特集は「U-50が読む句集『広島』」。昭和30年に発行された合同句集『広島』が大量500冊発見されたニュースは他の俳誌でも取り上げられているが、アンダー50歳の俳人がこの句集について述べている。堀田季何の文章に引用されている句から紹介しておこう。
屍の中の吾子の屍を護り汗だになし
みどり児は乳房を垂るる血を吸へり
蟬鳴くな正信ちゃんを思い出す
廃墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる
『広島』には専門俳人の句も収録されている。「広島や卵食ふ時口ひらく」(西東三鬼)は有名である。「里」には川嶋ぱんだ選の百句も掲載されている。
11月×日
「オルガン」31号を読む。
じきにコスモス古く古びていく僕らだ 福田若之
立ちすくむ秋多羅葉がすべて見る 宮本佳世乃
蛇轢かれ菊の姿となりにけり 田島健一
芋の葉が含み笑ひのかほをする 鴇田智哉
福田若之と鴇田智哉の〈往復書簡「主体」について〉も掲載されている。その中で引用されている「約束の寒の土筆を煮て下さい」(川端茅舎)が印象に残る。他に宮本佳世乃と浅沼璞の両吟・オン座六句「古き沼」の巻。またゲスト作品に宮崎莉々香の俳句が載っており、久しぶりに彼女の作品を読むことができて嬉しかった。
鶏頭は生命体に囲まれる 宮﨑莉々香
芒も群れのなまあぱや群れながらぱや
わたくしを出てぽろんぽはからすうり
柿に心をあなたは家で届かない
11月×日
「外出」8号を読む。
憐れむべき髪の多さと思いつつ自分の髪を押さえていたり 花山周子
ちがふと答へるのも差別のやうでだまつてゐるがだまるのも罪 染野太朗
グラタンは一夜を冷えて壊れたりかたちのなかのもの壊れたり 内山晶太
刑事ドラマのなかで刑事はひざまずきわたしのことを知りたいという 平岡直子
それぞれエッセイを書いていて、花山周子「振動」、平岡直子「ゴジラ」、内山晶太「ハレー彗星」、染野太朗「J-POP Review:ミセスマーメイド」。
海外の竜が炎を吐いていて 停止 そのずっと手前の酢の物 平岡直子
昨年11月に京都の連句人に誘われて柚子の里に行った。保津峡近くの水尾は柚子発祥の地とも言われ、この季節には一帯に柚子が実っている。気持ちのよいところだったので、今年も連句の会に参加させてもらうことにした。料理屋が数件あり、宿泊はできないが柚子風呂に入ってリフレッシュしたあと、鶏スキを食べながら連句を巻く。近くに清和天皇社があり、神さびたところだった。清和天皇は陽成天皇に譲位したあと、出家して畿内巡幸。水尾に隠棲し、31歳で崩御。柚子の里では雲海も見られるという。
11月×日
日本現代詩歌文学館の館報「詩歌の森」が届く。暮田真名の「三十一文字の川柳?」を読む。このタイトルはどういう意味だろうと思っていたが、読んでみて話の筋道が少し理解できた。
「川柳スパイラル」東京句会(2018年5月)のトークで我妻俊樹は「短歌は上の句と下の句の二部構成で、二つあるということは往復するような感覚がありますから、行って戻ってくるところに自我が生じるのが短歌だと感じます。そういうこと抜きに、引き返さず抜けるというのが私が川柳を作るときの感覚なんです」「短歌は引き返すけれど、川柳は引き返さないで通り抜ける」「もっと川柳のような短歌を作りたい」と述べている(「川柳スパイラル」3号)。
暮田はこの発言を念頭に置きながら、笹井宏之の短歌に触れている。
ぱりぱりとお味噌汁まで噛んでいる平年並みの氷河期らしい 笹井宏之
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい
暮田は前者を「引き返している」歌、後者を「通り抜けている」歌としている。後者では上の句の作中主体と下の句の作中主体は別の人間という解釈である。「三十一文字の川柳」とは微妙な表現だが、短歌から川柳へという暮田の道筋が何となく納得できる。
11月×日
「川柳木馬」173・174合併号が届く。作家群像は八上桐子。ここ二年あまりの作品から60句が掲載され、暮田真名と西原天気の作品論が付いている。
花の夜を平すちいさい木の楽器 八上桐子
三つ編みのうしろへ伸びてゆく廊下
桔梗剪る鋏が夜も切ってしまう
噴水を夜の子どもが降りてくる
増えすぎた鳩を空へと敷きつめる
Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら
うたいましょうこれを夜だと言うのなら
『はじめまして現代川柳』の解説で私は八上の句に表れる「水」と「闇」(夜)のペアについて、「清浄な水の世界は背後に闇をかかえることによって屈折したものになる。水は闇を中和する存在でもあるし、水の背後にちらりと見える闇は、日常を破綻させないように適度にコントロールされている」と分かったようなことを書いているが、夜のモティーフは更に多彩に展開されている。注目されるのは私性から出発した八上が「こころ」や「たましい」にまで表現領域を拡げていることだ。
Kokoro kokoro こぼしつづける鳩
たましいはなべてすずしいえびかずら
前者では鳩のオノマトペに重ねられているし、後者のひらかな表記の句は今回の60句のなかで最も印象に残る作品となっている。八上は「作者のことば」として、若い世代の川柳人が続々と現れている状況にふれ、自己の「現在位置」を確かめたい、という意味のことを書いている。先行世代の川柳人はそれぞれの現在位置を示す用意が必要だろう。
11月×日
「里」205号を読む。叶裕の文章で「屍派」が10月に解散したことを知る。特集は「U-50が読む句集『広島』」。昭和30年に発行された合同句集『広島』が大量500冊発見されたニュースは他の俳誌でも取り上げられているが、アンダー50歳の俳人がこの句集について述べている。堀田季何の文章に引用されている句から紹介しておこう。
屍の中の吾子の屍を護り汗だになし
みどり児は乳房を垂るる血を吸へり
蟬鳴くな正信ちゃんを思い出す
廃墟すぎて蜻蛉の群を眺めやる
『広島』には専門俳人の句も収録されている。「広島や卵食ふ時口ひらく」(西東三鬼)は有名である。「里」には川嶋ぱんだ選の百句も掲載されている。
11月×日
「オルガン」31号を読む。
じきにコスモス古く古びていく僕らだ 福田若之
立ちすくむ秋多羅葉がすべて見る 宮本佳世乃
蛇轢かれ菊の姿となりにけり 田島健一
芋の葉が含み笑ひのかほをする 鴇田智哉
福田若之と鴇田智哉の〈往復書簡「主体」について〉も掲載されている。その中で引用されている「約束の寒の土筆を煮て下さい」(川端茅舎)が印象に残る。他に宮本佳世乃と浅沼璞の両吟・オン座六句「古き沼」の巻。またゲスト作品に宮崎莉々香の俳句が載っており、久しぶりに彼女の作品を読むことができて嬉しかった。
鶏頭は生命体に囲まれる 宮﨑莉々香
芒も群れのなまあぱや群れながらぱや
わたくしを出てぽろんぽはからすうり
柿に心をあなたは家で届かない
11月×日
「外出」8号を読む。
憐れむべき髪の多さと思いつつ自分の髪を押さえていたり 花山周子
ちがふと答へるのも差別のやうでだまつてゐるがだまるのも罪 染野太朗
グラタンは一夜を冷えて壊れたりかたちのなかのもの壊れたり 内山晶太
刑事ドラマのなかで刑事はひざまずきわたしのことを知りたいという 平岡直子
それぞれエッセイを書いていて、花山周子「振動」、平岡直子「ゴジラ」、内山晶太「ハレー彗星」、染野太朗「J-POP Review:ミセスマーメイド」。
海外の竜が炎を吐いていて 停止 そのずっと手前の酢の物 平岡直子