京都・南座の顔見世で「松浦の太鼓」を見た。忠臣蔵のサイド・ストーリーで、第一幕では俳諧師の其角が両国橋のたもとで赤穂浪士の大高源吾と出会う。源吾は俳名を子葉といい、其角宗匠とは交流があった。別れ際に二人は俳諧の付合をする。
年の瀬や水の流れと人の身は 其角
あした待たるるその宝船 子葉
第二幕、赤穂浪士びいきの松浦候が吉良邸の隣に屋敷を構えている。其角をまじえて俳諧の座が進行するが、片岡仁左衛門の演じる松浦候は愛嬌のある役で、観客をわかせていた。俳諧(連句)が芝居の背景にあって、楽しく観ることができた。
小津夜景の第二句集『花と夜盗』(書肆侃侃房)を読む。
第一章「四季の卵」は春の句にはじまり、季節の順に進行して、美意識の強い句がならんでいる。
春なれば棺の窓をあけておく
脱皮したのは虹の尾をふんだから
副葬の品のひとつを月として
シャボン玉よりもほろ酔ふ小雪なれ
のっけから渦巻くツバメ探偵社
死者の棺は葬儀の参列者がお別れできるように、顔の部分に窓が開かれている。それが閉じられて葬儀が終るのだが、まるで死者が春なので自ら窓を開けているような感じがする。棺をいくつも置いてある場所があって、春なので管理者がその窓を開けて空気を入れ替えている状景とも考えてみたが、死者が冬眠から目覚めるようにして棺の窓をあけたのだという気がする。「春はまぼろし」というタイトルのなかの一句で、幻想的な世界である。
二句目、何が脱皮したのか書かれていないが、虹の尾という表現があるので、蛇のイメージだろう。虹は蛇と重なる。
三句目は月の句だが、月も副葬品のひとつだという。古墳の副葬品に鏡や勾玉があるように、ここでも死者のイメージが使われている。
四句目、しゃぼん玉は春の季語だが、ここでは「小雪」で冬の句。
五句目、燕は春の季語だが、ここでは「ツバメ探偵社」という固有名詞に変えられている。春夏秋冬と巡行して再び春に戻ってくる。
ところどころに遊び心も見られて、「狂風忍者伝」のタイトルで「甲賀一匹エウレカの野に死にき」、「花と夜盗」のタイトルで「風花の生まれてけふの伊勢屋かな」という時代物の句があったりして、西洋的教養と俳諧の結合が興味深い。
第二章「昔日の庭」では多彩な詩形がちりばめられている。「陳商に贈る」では有名な李賀の漢詩を長句(五七五)と短句(七七)で連句的に訳してある。
長安有男児 長安の都に男の子ありにけり
二十心已朽 はやも朽ちたる二十歳の心
小津はかつてこんなふうに書いている。「李賀の詩は感情のゆらぎが大きいので、訳すときは5・7・5と7・7とを連想でつないでゆく連句の形式を借りると、意味の流れが不自然にならない。ひらめきに重きを置いた作品は、連句的インプロヴィゼーションとおおかた相性がよい、というのが個人的な印象だ」(『カモメの日の読書』)
「二十歳にしてすでに心朽ちたり」とか「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」(井伏鱒二『厄除け詩集』)などは、かつての文学青年たちが愛誦したフレーズだ。鈴木漠『連句茶話』(編集工房ノア)によると、李賀には柏梁体(漢詩連句)の詩が二篇ある。その一篇「悩公」(悩ましい人)は男女の恋のかけ合いになっている(原田憲雄訳注『李賀歌詩編』東洋文庫)。
小津の句集に戻ると、武玉川調(七七句)、クーシューの俳句による翻訳、都々逸(七七七五)などの作品が収録されている。さまざまな詩形に習熟している詩人としては高橋睦郎が思い浮かぶが、小津夜景のカバーしている範囲も広い。
山宣死していまは蛍に
マンホールにも霧の追手が
夢の夜を Dans un monde de reve,
渡る舟にて Sur un bateau de passage,
ちよつと逢ふ Rencontre d`un instant.
うその数だけうつつはありやあれは花守プルースト
水に還つた記憶の無地を虹でいろどるフラミンゴ
第三章「言葉と渚」では訓読みの長い漢字を組み合わせた三文字俳句、月花の句など。
全体を通じて、美意識の中に遊びの句がまじり、読んでいて楽しい。知的に処理された俳諧精神に満ちた句集である。
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