年末になったので、一年間を振り返ってみたい。昨年の2021年回顧では川合大祐『スロー・リバー』、湊圭伍『そら耳のつづきを』、飯島章友『成長痛の月』を取りあげたが、ここでは今年刊行された川柳句集を中心に、2022年を回顧してみる。
まず、4月に暮田真名の『ふりょの星』(左右社)が発行された。挿画・吉田戦車、帯文・Dr.ハインリヒ。既成の川柳句集のイメージを打ち破る一冊だが、暮田はすでに川柳歴7年。現代詩歌文学館の朗読・トークイベントに出演、「ねむらない樹」6号、「文学界」2021年5月号、関西現俳協HPなどに寄稿するなど、若手川柳人として注目されていた。
暮田についてはこの時評でもそのつど触れてきたし、「OD寿司」は有名になったので、ここでは「県道のかたちになった犬がくる」について述べてみたい。すでに書いたこともあるが、「かたち」という言葉を使った句は川柳ではしばしば見かける。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
県道のかたちになった犬がくる 暮田真名
では、暮田のどこが新しいのだろうか。「県道が犬のかたちになった」「犬が県道のかたちになった」―言葉の世界では何とでも言えるが、「県道が犬のかたちになった」の方が多少理解しやすいのは、たとえば犬のかたちのビスケットのようにイメージしやすいからだ。「犬が県道のかたちになった」の方は飛躍感が大きく読者の理解を越える。県道と犬との新しい関係性が一句の中で成立している。
言葉と言葉の関係性に対する感覚は人によって異なるが、無関係な言葉を強引に結びつければそれでいいというわけではない。8月に開催された「川柳スパイラル」創刊5周年の集いで、暮田は「私は本当に川柳を作りたくて、今までに読んだ川柳が好きだから、その延長線上にあるものを書きたいという気持ちがある」と発言している。暮田の川柳が既成の川柳人にも受け入れられやすいのは、こういうベースがあるからだ。
『ふりょの星』の内容はもとより、流通の仕方も従来の川柳句集とは異なっている。書店の店頭販売や通販はもちろんだが、ヴィレッジバンガードに並んだことも話題になった。川柳句集といえば贈呈が中心で若干書店に並ぶこともあったが、出版社が営業・流通に尽力してくれるなどということは以前では想像もできなかった。暮田は「川柳句会こんとん」や川柳講座「あなたが誰でもかまわない川柳入門」などで川柳の裾野を広げる活動をしている。
5月には平岡直子『Ladies and』(左右社)が出た。「川柳スパイラル」創刊5周年の集いでは暮田と平岡の対談があったが、両人はこんなふうに語っている(「川柳スパイラル」16号)。
暮田 二冊の句集の印象なんですけれど、『ふりょの星』が取りこぼした層を『Ladies and』がしっかりとキャッチしてくれていると思っています。『ふりょの星』は見た目がポップすぎて、何だこれはと思われた人もあるでしょうし、取りあげられ方も従来の川柳句集とは違っていたと思います。
平岡 いい棲み分け、分業化ができた感じだよね。わたしは『ふりょの星』の外見がすごく好きで、好きなだけじゃなくて、こういう句集を見たのは初めてなのに、ああそうそう川柳ってこういうものだったよね、って、どこか「川柳の本来の姿」を見ているような気持ちにもなります。
平岡の句集評についてはすでに書いたことがあるが(「白鳥の流血と金色に泣く女の子」、「川柳スパイラル」15号)、改めて『Ladies and』を読み直してみると、批評性のある作品が目につく。批評性というのは諷刺や時代批判、政治批判も含めて広くカバーするときの言葉である。
いい水は人が飛び込んだら消える
木漏れ日のようね手首をねじりあげ
絶滅も指名手配も断った
むしゃくしゃしていた花ならなんでもよかった
九月尽でしたか警察呼びますよ
平岡の作品の批評性・諷刺性は『Ladies and』というタイトルのメッセージにもあらわれているが、川柳作品だけでなくて、最近の短歌作品にも顕在化しているように思われるが、それはもともと作者のなかにあったものなのだろう。
続いて6月に発行されたのが、なかはられいこ『くちびるにウエハース』(左右社)。
「鉄棒に片足かけるとき無敵」という句は川柳界ではよく知られているので、『脱衣場のアリス』に収録されているような気がしていたが、『アリス』以後の作品。私は『はじめまして現代川柳』の解説でなかはらについて「それまで演歌的な作品が多かった川柳の世界で、なかはらはポップス系川柳の書き手として登場した」と書いている。この句にも同じ傾向が見られるが、問題はなかはらの書き方がどのように進化していったかということだ。
鉄棒に片足かけるとき無敵
魚の腹ゆびで裂くとき岸田森
「~とき」のあとの着地点が後者では明らかに遠くまで飛んでいる。新しい関係性が通常結びつかない語と語の結びつきになっているのだ。人名を使うのは一種のテクニックでもある。キャリアの長い川柳人はそれなりに過去の川柳作品を読んでいるから、先行作品の発想と表現をどう乗り越えるかに苦心する。
電熱器にこっと笑うようにつき 椙元紋太
豆電球が(おやすみ、さくら)ぽっと点く なかはられいこ
この二句の発想には共通点があると思われるが、表現の仕方が進化・深化している。句集のタイトルにもなっている「空に満月くちびるにウエハース」。空の満月と身体性との取り合わせは驚くほどのことではないが、くちびるとウエハースの取り合わせに作者独自の感性がうかがえる。意味ではなくて感覚的な句である。
11月の文フリ東京でササキリユウイチ『馬場にオムライス』を手に入れた。
ふくろうの唾液で目指す不躾さ
ゆらめくものをゆらめきで突く
鳥には餌を丸のみするイメージがあるが、唾液もあるそうだ。けれど「ふくろうの唾液」とはふだん聞きなれない異化効果のある言葉だ。着地点は「不躾さ」。俳句なら季語を持ってきたりするところである。「ふくろう・唾液」と「不躾さ」の関係性のなかに作者の新鮮な感覚がある。
後者は短句(七七句)。川柳では武玉川調とか十四字とか呼ばれるが、暮田真名が愛用するので、若い世代にも浸透してきているようだ。ここでは「ゆらめく」「ゆらめき」という同語反復によって一句を成立させている。
この二句を見るだけでもササキリが現代川柳の技術をマスターしていることがうかがえる。問題はそこからどう新領域を切り開いていくかということだ。
腐った喉でささやく馬場にオムライス
問十二 豆電球で呵責せよ
椅子は椅子だったとしてもママが好き
必ずや無職の天使がやってくる
マダガスカルの治安を乱すな
「問十二 豆電球で呵責せよ」「必ずや無職の天使がやってくる」などは従来の感覚で理解できる作品。この作者独自の言語感覚は「馬場にオムライス」「マダガスカルの治安」にあるだろう。人名を使った川柳もおもしろいが、先行作品として川合大祐などが思い浮かぶ。
サマセット・モームが巨大化する梅雨 川合大祐
エラスムス背中の汗でもらい泣き ササキリユウイチ
12月、小池正博句集『海亀のテント』(書肆侃侃房)刊行。
川柳句集が次々に発行されるので、キャリアの長い川柳人は自分の現在位置を句集で示す必要がある。感心してばかりもいられないのだ。それなりに長く川柳に関わっていると生まれてくる虚無感について、川上日車は『日車句集』の序で次のように書いている。「人生の果てに辿りついた私は、これでなにもすることはない。ただ、峻烈な世上の批判は、やがて一句も遺さず削ってくれるであろう」
今年読んだ川柳誌の中で印象に残ったのは佐藤みさ子と柳本々々の往復書簡「わたしって、なんですか?」(「What’s」2号)だが、佐藤みさ子の「わたし」がどのようなものなのかは「虚無感との闘い/裁縫箱」(「セレクション柳論」所収)を読めばよくわかる。
昨年から今年にかけて、現代川柳に関心をもつ人が増えたのは、ひとつは短歌界隈の表現者で川柳の実作をする人が現れたこと、もうひとつはネットやSNSを主な発表舞台とする表現者が目立つようになったことによる。個人で発信できるツールが増えたことによって、従来の結社・句会や新聞の川柳欄・同人誌などの紙媒体を中心とした川柳活動とは無縁なところで作品を発表することが可能になっている。
そういう状況が進んでいるのは短歌の世界で、「かばん」12月号の特集「ネット短歌の歩き方」が参考になる。荻原裕幸と東直子の対談が興味深いし、「ネット短歌の歩き方・ガイド」のコーナーでは、短歌の総合サイト、投稿サイト、Twitter、LINE、ツイキャス、Twitterスペース、YouTube、夏雲システム、note、ネットプリント、Zoomなどが紹介されている。川柳の世界でもネットを駆使する世代が今後増えていくのだろう。ネット川柳はリアルの句会で言葉を鍛えられる機会を飛び越して自由に自己表現ができるので、新鮮である反面危ういところもある。リアル句会では新人が次第に既成の川柳イメージにとらわれて面白味のない作品を量産するようになることもある。それぞれプラス・マイナスがあるだろう。どのような方法で川柳にかかわってゆくかは個人が決めることだが、現代川柳の世界が今後どのように進んでゆくのか、来年に向けてのさらなる展開を期待している。
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