「川柳スパイラル」13号に正岡豊は「勾玉のつづきを」という文章を書いている。湊圭伍の川柳句集『そら耳のつづきを』の句集評なのだが、正岡自身の川柳観・文学観が強く表現されている。正岡はこんなふうに書いている。
〈句集『そら耳のつづきを』のあとがきを読むと、出てくる会やグループ、川柳作家の名前を通すことによって、ここ十数年の川柳の流れの中で湊さんが腰を据えたりふらふらしたりしながら「川柳」を生きて来たのだな、と私には思えてくる。そういう「腰を据えたりふらふらしたりする」ことを、私はとても「うつくしい」ものだと思う。現在の世界に於いて「栄光」があるのは「悲惨」があるからだが、その二項対立からの「脱出」は、実は「非望」なのではない。「脱出」が求めるものは、「結実」なのである〉
正岡は現代川柳の変遷を数十年に渡って見続けてきた表現者である。彼は「獏」の時代はもちろん、山村祐の短詩運動も知っているし、「MANO」以後の現代川柳の動きも知悉している。一方、湊圭伍は2000年代の終わりごろから川柳と関わりはじめている。句集の「あとがき」には湊が参加したことのある「北の句会」「ふらすこてん」「バックストローク」「川柳カード」などの名が挙げられているし、「点鐘」「木馬」「杜人」「触光」「ねじまき」などの川柳誌も列挙されている。正岡はそういう流れのなかで湊の『そら耳のつづきを』の位置をとらえている。
現代川柳の変遷、特に「MANO」以後の20年間の歩みはまだ歴史化されていない。すでにこの時期のことを知らずに川柳を書き始めている作者もあるが、湊はゼロ年代以降の現代川柳の動きをある程度体験していることになる。その上で『そら耳のつづきを』を上梓しているのだから、正岡のいう二項対立からの脱出と結実が問われることになる。
湊は「あとがき」で筒井祥文・石部明・石田柊馬の三名を自分の「師」にあたるひとたちであると言っている。正岡が挙げているこの三名の作品例は次のような句である。
めっそうもございませんが咲いている 筒井祥文
もし生まれ変われるのなら酢か煙 石部明
首噛めば首から櫻噴きあがる 石田柊馬
〈筒井には奇想をてのひらですくうような接近の感覚がある。石部の句には死と生を常に一句に引き寄せる形で作句してきた者の持つ乾いた無頼がある。石田には底深い「現在」への沈潜した怒りがある〉―ただし、簡単に言えるほどこれらの作者は単純なわけではないと断わったうえで、正岡は次のように言う。
〈ただそれでも、湊はこれらの川柳作家が達したところを確認しながら、なお「以降」を書いてゆかねばならない。「以降」はどこにあるだろう。私は結局はどこにでもあるのだと思う。逆に言えばもう「以前」はどこにもない、という実感からくる「希望と閉塞のダブルバインド」を生きること、それが「以降」ということであろう〉
私は『はじめまして現代川柳』で「ポスト現代川柳」という言葉を使ったが、本当に「現代川柳」以後の新たな可能性が生まれているのかというと、そのようなものはまだないとも言えるし、いま生まれつつあるのだとも言える。現代川柳の遺産とは無関係なところで現在の作品を書くことは別に否定されるべきことではないが、過去の作品を少しでも乗り越えて「以後」を書くことはそれほど簡単ではない。
ところで、正岡の関心のひとつに「短詩」「一行詩」がある。
〈「川柳」に対する私の関心のひとつは、川柳作家たちが時として意識無意識的に一種の「一行詩」という形式へ流れてゆく部分のあることである〉と正岡は言う。『そら耳のつづきを』には「短律」と「長律」の句が収録されている。湊の短律と長律の句を二句ずつ挙げておく。
おい思想だな
蘭体動物
饅頭が降りしきる中で口づけを交わす敵同士
マーク・トウェインからハックルベリーへ短い手紙
かつて山村祐は「川柳は現代詩として堪え得るか」という評論を書き、一行詩誌「短詩」を主宰した。短詩は長律派と短律派に分かれていて、それぞれ相容れない要素があって解体していったが、川柳が一行詩に近づいた時期があり、川柳を一行詩に解消してよいのかという議論があったことは事実である。湊が現代川柳の遺産を踏まえたうえで作品を書いていることは、句集の帯に「川柳の伝統を批判的に受け継ぐ」とあることからも明らかだ。
そら耳のつづきを散っていくガラス 湊圭伍
この句について、正岡は次のように言っている。
〈私は「そら耳」に対して「勾玉」を思ってみたりした。意味のあるようなないような、装飾品や祭祀の品であるといわれれば納得はするが、形にもその名前にも、なじみと違和の両方を思うようなものを。そこでこの一文にそういう題をつけてみた。短詩型の一作品というのは、ひとによっては「御守り」のようなものとして抱きかかえられるように愛されることがある〉
確かな実体を感じとることがむずかしいけれど、それがないとも言えない現代川柳の世界で、手応えのある「結実」を得ることは困難な作業となっている。「現代川柳」が曖昧なままで「ポスト現代川柳」を論じることは本当はできないのだが、曖昧なまま論じざるを得ないところもあって、事態は朦朧としている。そのなかで「つづき」を語ることは、正岡のいうように「勾玉」のようなものかも知れない。
〈流れる時間の中で、ものがきらめくのは一瞬のことだろうか〉
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