2022年2月4日金曜日

上田信治の『成分表』と俳句

上田信治のエッセイ集『成分表』(素粒社)が好評である。
俳誌「里」に連載されたものだが、裏表紙の部分に掲載されているので、「里」が届くと裏表紙から読み始める人が多かったのではないだろうか。俳誌に連載されたときと比べて、本書では俳句の要素を少し抑えてより一般読者を対象としているようだ。
上田自身が「定義」の章で触れているように、これはアランのプロポや定義集と同じような試みである。たとえば、次のような一節がある。

「私たちはきっと、言うほど他人に興味がない」(「フェイスブック」)
「アイロニーは『やられたらやりかえす』ための武器ではない。むしろ逆に『やられている』状況を味わいつくすための、自己本位の道具だ」(「アイロニー」)
「表現が進歩しなければいけない理由の一つは、飽きるからだ」(「発泡酒」)
「表現において『分かる』『分からない』の区別などは、わりとどうでもいいことだ。分かるも分からないも、表玄関の話であって、言葉にならないものは、いつも、裏口を開けて勝手に入ってくるから」(「あふれる」)
上田は「あふれる」の文章の最後に次の俳句を引用している。

遅き日の手にうつくしき海の草  田中裕明

現代川柳についても「成分表」のスタイルで何か書いてもらえないかと思って、上田に原稿を依頼したことがある。「川柳スパイラル」2号に掲載された「成分表『声』」というエッセイで、そこで取り上げられたのは次の句だった。

その森にLP廻っておりますか   石田柊馬

私が本書『成分表』に少し不満なのは、帯に「『あたしンち』の共作者にして俳人、漫画家のオットでもある著者の日常と思索」あることだ。私にとって上田信治は「漫画家のオット」ではなくて「俳人・上田信治」である。
上田信治句集『リボン』(邑書林)から抜き出しておこう。

朝顔のひらいて屋根のないところ
鶏頭に西瓜の種のやうな虫
中くらゐの町に一日雪降ること
紅葉山から蠅がきて部屋に入る
絨毯に文鳥のゐてまだ午前
夢のやうなバナナの当り年と聞く
山にいくつ鹿のさびしい鼻のある

意味性と作意に満ちた現代川柳の書き方とは異なるが、ふつうなら見過ごしてしまうような情景を言葉で言い留める上田独自の世界である。私には波多野爽波の俳句のよさがよく分からないのだけれど、例えば空なら空について、何かの言葉を当ててみることによって、初めてここはこんな場所だったのかと気づく、と上田は述べている(「似合う」)。引用されているのは爽波の次の句である。

冬の空昨日につづき今日もあり  波多野爽波

句集『リボン』が出たとき「あとがき」も評判になった。上田はこんなふうに書いている。
「さいきん、俳句は『待ち合わせ』だと思っていて。
言葉があって対象があって、待ち合わせ場所は、その先だ」
「せっかくなので、すこし遠くで会いたい」
「いつもの店で、と言っておいて、じつはぜんぜん違う店で。
あとは、ただ感じよくだけしていたい」
『リボン』の栞は中田剛、柳本々々、依光陽子が書いていて、柳本は上田の句「今走つてゐること夕立来さうなこと」に注目している(「今、走っている」)。

2018年3月に「信治&翼と語り尽くす夕べ」というイベントが大阪・梅田で開催されて、上田信治と北大路翼という異色の顔合わせだった。語られた内容はもう忘れてしまったが、屍派の誰かが酔って床に転がっているなど、濃くて衝撃的な集まりだった。

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