第35回国民文化祭・みやざき2020「連句の祭典」の『入選作品集』が届いた。宮崎の国文祭は昨年開催されるはずのところをコロナ禍で一年延期になったので、2020がそのまま使われている。さらに残念なことに、今年の8月22日に日南市で開催予定だった「連句の祭典」も中止になり、『入選作品集』だけがかたちとして残った。これまで準備に全力を傾けてきた関係者の無念は察するに余りある。まことに報われることが少ない世の中である。ちなみに今年の「連句の祭典」は和歌山県上富田町で10月31日に開催されることになっている。
さて宮崎の『入選作品集』だが、大賞部門のうち文部科学大臣賞が歌仙「グラデーション」の巻(捌・東條士郎)、国民文化祭実行委員会会長賞が歌仙「宇宙のみこんだか」(捌・谷澤節)の二巻を紹介したい。まず「グラデーション」の巻の表六句から。
寂しさのグラデーションや秋夕焼 東條士郎
各駅停車やがて月の出 都築ひな子
残菊のなほ誇らしき姿して 関真由子
一羽の雀いつも顔見せ 丸山陽子
ランドセルカタカタ鳴らし小学生 三輪和
厚着にかすかナフタリンの香 執筆
徳島の連衆である。ここまで穏やかに付け進めておいて、裏あるいは名残りの表でがらりと雰囲気を変えてゆく。表六句は序破急の序の部分で、破の部分のたとえば名残りの表では、
解決の糸口ほぐす抱卵期
おすましポアロ髭を手直し
三角形二辺の和より近いのは
丈不揃ひに並ぶ墓石
のような付句になっている。もう一巻、「宇宙のみこんだか」はまったく傾向の異なる作品である。
宇宙のみこんだか鯉幟 谷澤 節
無重力の麦笛 松本奈里子
すべての遺伝子情報細胞に 木戸ミサ
おとぎ話が好きな父 もりともこ
月を待ちかねる龍頭船は蕭条と 奈里子
金木犀が香り ミサ
奈良の連衆で、自由律になっている。歌仙形式のなかで変化・冒険しようとすれば、自由律、尻取り、地名・人名を詠み込んだ賦物など、いろいろなことが考えられる。自由律の例もないわけではないが、今回の応募作品のなかでも特徴的な作品となっている。選者の言葉でも「一巻は肩の力が抜け流れがスムーズ。自由律に挑戦された心意気に脱帽。自由律の醍醐味を味わわせていただきました」(木之下みなみ)、「全巻の中で際立っていたのが、自由律で歌仙に挑んだ『宇宙のみこんだか』の巻でした。こうした試みがあらたな現代連句の道を拓くひとつの方途であったかと目を開かれたことを最後に付け加えておきます」と高評価を受けている。
連句の話題を続けると「季語研究会」184号掲載の「一茶連句鑑賞」で佛渕健悟は連句の採点基準として東明雅の「私の連句採点法」(『新炭俵』)を引用している。
1 一句一句のおもしろさ
2 前句と付句との付心・付味のおもしろさ
3 三句目の転じのおもしろさ
4 一巻全体の序・破・急のおもしろさ
連句界でもこの基準に従って選をするものは多い。そのうえで佛渕はこんなふうに書いている。
〈連句の本質は「付け」と「転じ」にあるとされますが、「三句目の転じのおもしろさ」について言えば、付句が打越句から転じること以外のどこに「おもしろさ」があるのか、と考えてみたことはないでしょうか。分析的なまなびの便法のはずが、「付け」と「転じ」と二分法的に言い習わすことで同時発現の機微を見失うという別面もあります。「付け転じ」は、連句の実際の付合い場面では、一体的なもの、「付け即転じ」と感じられているのではないでしょうか〉
佛渕は蕪村連句の「もゝすもゝ」の巻の次の部分を引用している。
見し恋の児ねり出でよ堂供養 蕪村
つぶりにさはる人にくき也 几董
問題になるのは付句の方の主語はだれかということだが、ふつうは堂供養の稚児行列を見物している娘が人に押されて髪が崩れるのを嫌がっていると解釈する。これに対して佛渕は、付句の「人」を行列の稚児をかわいがっている念者と読んで、稚児が主語だとし、何かといえば触ってくる相手をうとましく思っていると解釈している。前句に対して人物を付ける場合、どのような人物を想定するかで連句は変化してゆく。
俳誌「里」(編集・発行、島田牙城)は休刊状態が続いていたが、このたび復刊のはこびになったようで、第192号(9月9日発行)が届いた。天宮風牙が「俳を見つけた」を書いていて、現代川柳について次のように言っている。「この連載で何度か川柳を取り上げた。俳人から現代川柳がわからないと聞くことがあるが、現代川柳は言葉の共通認識を変化させる(裏切る)面白さである。故に俳句的な読み方では読み解くことはできない」
天宮が例に挙げているのは、暮田真名の「OD寿司」である。
寿司として流星群は許せない 暮田真名
音楽史上で繰り返される寿司
良い寿司は関節がよく曲がるんだ
そして天宮は「『寿司』を詩語としてその共通イメージと寿司以外の措辞との関係で読み解くのではなく、措辞が変化させた寿司のイメージを楽しむものなのだ。どちらが文学的かと言えば現代川柳であろう」と述べている。天宮は俳諧にも造詣が深く、「俳諧と現代連句はサッカーとラグビー程異なる文芸である」とも言っている。おもしろい見方だが、笑ってばかりもいられない。
あと、「里」復刊号では特集「隣の歌集は何色でした?」で森本直樹が木下こう歌集『体温と雨』を、叶裕が『藤原月彦全句集』を取りあげているのが印象に残った。また月湖が青本瑞季の「めくる頁はねる鳥ゐるすずしさに」に自らの詩を付けている。月湖は「川柳スパイラル」に川柳漫画を掲載しているし、連句人でもある。
短歌誌「井泉」101号、リレー小論のテーマ「日常の歌を考える―コロナ禍に何を見るか」では「社会詠の私的クロニクル」(荻原裕幸)、「社会詠のゆくえ」(佐藤晶)が掲載されている。荻原は湾岸戦争、阪神大震災、アメリカで起きた同時多発テロ、東日本大震災に対する私的対応を振り返りつつ、現在のコロナ禍の状況を詠んだ短歌として次の三首を挙げている。
「山川さん、体の一部が消えてる」と口々に指摘する画面越し 石川美南
冥王星にある居酒屋は金曜も午後八時には暖簾をおろす 田村元
ずっとなにかの音がなってる部屋のなかに探してるものはあるのかもしれない 平出奔
短歌のコロナ詠に対して、川柳ではどうか。「川柳 カモミール」No.5(発行人・笹田かなえ)から二句だけ挙げておこう。
私語禁止パスタ巻くとき抜刀のとき 守田啓子
GO・TOのあとは野となれ春になれ 滋野さち
最後にネットプリント「ウマとヒマワリ」14から平岡直子の川柳。「17人の選者による17題のネット句会」(ねじまき句会)の入選句も含まれている。
白鳥のように流血しています 平岡直子
ご両家が切手サイズにまで縮む
五十音順に紙幣の顔になる
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