暮田真名の第二句集『ぺら』が発行された。これはユニークな句集でB1用紙一枚に200句が印刷されている。ふだんB1サイズを使うことはないが、B4の8枚分の大きさで、ページをめくって読む句集ではない。みなさん、壁に貼ったりして読んでおられるようで、句集の概念を超越している。上段に大きな活字ポイントで10句、中段二列に中くらいの大きさで50句、下段二段に小さなサイズで140句が印刷されている。
ここでは上段に掲載されている句を紹介する。暮田にはこれまで書かれてきた現代川柳の継承と、そこから先に進んでゆく冒険とがあるが、先行する現代川柳を受け継ぐような川柳性を彼女の句のどこに感じるかということを中心に述べてみたい。
県道のかたちになった犬がくる
「県道を犬がくる」なら当たり前だが、「犬が県道のかたちになって、その犬がやってくる」というのは当たり前のことではない。西脇順三郎の『詩学』では〈「犬が無花果をたべた」という思考は自然の関係と現実の関係をのべているが、「無花果が犬をたべた」というともう自然の関係も現実の関係も破壊されて、とにかく新しい関係がのべられている。そしてそれはポエジイの思考である〉と説明されている。ここでは県道と犬の関係が日常的現実とは異なった関係として結びつけられている。意味の伝達という点では意表をついたことが述べられているから、このような川柳は「意表派」と言われることがあり、実作もちらほら見かける。「県道のかたちになった犬が県道をやってくる」というふうに読めば、ユーモアやイロニーも感じられる。
そもそも「かたち」という語は現代川柳でしばしば使われる言葉だ。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
「指切り」はたぶん恋愛の場面を想定しているのだろうが、指切りをした約束も今では灰になってしまって、しかもかたちだけは灰になったまま残っているのは生々しいことだ。人間を詠んでいる川柳だが、暮田は犬のかたちについて考えた。犬が県道のかたちになるとはどういうことかと比喩的な意味を考える必要はなくて、ナンセンスな笑いとして受け取るのがいいのだろう。もちろん読み方は自由だ。
家具でも分かる手品でしょうか
「家具でも分かる暮田真名展」が8月に開催されて、句集『ぺら』もそこで販売されたようだ。「猿でも分かる~」というタイトルがあって、『猿でもわかるパソコン入門』という類の本に私もお世話になったが、当然そのパロディになっている。その際、「~でも分かる」という部分にどの言葉を選ぶかというところに川柳性が表れる。二音の言葉であり、「猿」からは距離が離れていなければならない。暮田は「家具」という言葉を選ぶことによって、比喩的な意味のニュアンスを消している。
掲出句の方は家具と手品の関係性に加えて、「~でしょうか」という文体を採用している。穴埋め問題ではないが、「( )でも分かる( )でしょうか」という空欄の部分に何を入れるかによって、川柳として成功したり、失敗したりすることになる。「手品」が意味を生じやすい言葉だから、「家具」との取り合わせが効果的となっている。「手品」の部分は動くかもしれない。
飴色になるまで廊下に立っている
この句では主語が省略されている。短詩型文学では主語が省略されている場合、とりあえず「私」を補って読むことが多いが、短歌的な「私性」をとうに超越している暮田のことだから、「私」が廊下に立っているという読みではおもしろくないだろう。では何が廊下に立っているのかというと、たとえば「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡邊白泉)という句が思い浮かぶ。暮田の場合、社会性はなじまないが、何かの抽象的な存在が飴色になるまでじっと立っているという時間感覚になるのだろう。この場合「飴色」にニュアンスが生まれるので、桃色とか藍色とかではないわけだ。ひとつの言葉の背後には常に選ばれなかった別の言葉が存在するが、透明でもなく灰色でもない、「飴色」にこの句の発見がある。
みんなはぼくの替え歌でした
この発想は分かりやすくて、飯島章友に「毎度おなじみ主体交換でございます」という句がある。「主体交換」であれ「替え歌」であれ、確固とした「私」のアイデンティティはすでに信じられていない。だから暮田の「ぼく」は私性の支点となるようなものではない。ただ、おもしろいと思うのは、「ぼくはみんなの替え歌」ではなくて、「みんなはぼくの替え歌」と言っている点だ。すべては「ぼく」のヴァリエーションであり、パロディとなる。替え歌の中で自己は拡散するが、拡散しつつ自己は拡充すると考えれば、けっこうしたたかなのかもしれない。
暗室に十二種類の父がいる
「父」や「母」は特に伝統的な川柳でよく詠まれる。家族に対する愛憎だから、どうしても感情過多になるが、そのことが読者の共感を呼ぶという面もある。では、感情過多にならずに距離感を保ちながら父を詠むにはどうしたらいいか。暮田はトランプのカードのように十二種類の父を並べてみせた。ひとりの父の中に十二の別人格が存在するというのではなく、実際に十二種類の父がいると読んだ方がおもしろい。しかも、十二人ではなくて十二種類である。動物の種を数えるように、父にも種類があるというのだ。場所は暗室。父に対する二律背反的な感情やコンプレックスとは完全に絶縁している。
本棚におさまるような歌手じゃない
「多目的ホールを嫌う地霊なり」(石田柊馬)という句がある。様々な目的に対応できるように便利に作られた建物ではなく、それぞれの個性や資質に応じた存在であるべきだと地霊は思っている。暮田の場合は本棚という狭くて固定された場からはみだす存在が肯定されている。発想のベクトルは反対だが、共通する認識も感じる。現実や場に対する違和感は多かれ少なかれだれでも持っているが、特に川柳の場合、違和感やズレは表現の起動力になることが多い。柊馬が「~なり」と文語を使っているのに、暮田が「~じゃない」と軽やかな表現をしているのは世代の差かもしれない。
実作と並行して、暮田真名は現代川柳についてのエッセイを発表している。「川柳は人の話を聞かない」(「文学界」5月号)、「川柳は上達するのか?」(「ねむらない樹」vol.6)、「川柳はなぜ奇行に及ぶのか」(関西現代俳句協会・青年部HP「隣の◇(詩歌句)」8月)などである。「川柳は~」というのは一種のキャッチ・コピーで、もし川柳は人の話を聞くし、上達するし、奇行に及んだりはしないと言う人がいれば、それは暮田の術中にはまっているのだ。
私は句集に関しては保守的なので、暮田真名の製本された句集をいつか読んでみたいと思っている。そういうときが来れば、きっと本棚の川柳書といっしょに彼女の句集を並べるだろう。知らんけど。
0 件のコメント:
コメントを投稿