2025年5月10日土曜日

三田三郎『よいこのための二日酔い入門』

酒にまつわるエッセイは数多く書かれていて、吉田健一や開高健、内田百閒、池波正太郎、安藤鶴夫など限りがないが、旅先での美味しいものや銘酒の話など、酒肴とからめた食と酒の話が多かった。今回の三田三郎のエッセイは純粋に酒を飲むことそのものがテーマであり、食べ物の話は出てこない。飲酒という行為は酒を飲むこと自体が目的であり楽しみなのであって、嫌なことを忘れるためのヤケ酒などは、酒に対して不純な行為である。本書にはひたすら酒をのむこと、それにまつわるエピソード、飲酒についての考察が書かれているのであって、この著者は純粋な酒徒だと言える。
酒を飲み過ぎて泥酔する人間は「だらしない」「社会人失格だ」という社会の眼に対して、三田はこんなふうに書いている「しかしながら私は、この時勢に抗して、泥酔には人間を倫理的に望ましい方向へと導くような効用があるという説を唱えたい。その効用とは、『泥酔の経験は人間を謙虚にする』というものである」
なんでそうなるんだ?という理由が読みどころなのだが、この手法はどこかで見たことがあるような気がする。常識とは正反対の発想と表現で相手にインパクトを与える。それは川柳で私たちがよく使う常識からのズリ落としの手法ではないか。
こんな一節もある。「連日のように深酒をして酔っ払っている私としては、酒飲みに対する世間からの様々なお叱りの声について、どんなものであってもまずは貴重なご意見として真摯に傾聴すべきだと考えているが、時にはどうしても容認できない内容の主張を耳にすることがある。その一つに、『人間は酔うと本性が出るから飲酒はよくない』というものがある。こうしたふざけた主張に対しては、温厚な私でもさすがに憤りの念を禁じ得ないので、この場を借りて徹底的に反論しておきたい」
本書のおもしろさは、エッセイのあとに三田三郎の短歌がそえられていることだ。

お客様の中に獣はいませんか(全員が一斉に手を挙げる)
駄目押しのドライ・マティーニ 幸せな人間に負けるわけにはいかない
自己という虚妄に酒をぶち込めば涙の代わりに尿が出てくる

私が三田三郎にはじめて会ったのは葉ね文庫でだった。そのとき彼の歌集『もうちょっと生きる』(風詠社)を手に入れた。読んでみると川柳人の私にもおもしろいと思える歌が多かった。次のような作品である。

人類の二足歩行は偉大だと膝から崩れ落ちて気付いた
転ぶのは一つの自己というよりも七十億の他者たる私
ほろ酔いで窓辺に行くと危ないが素面で行くともっと危ない
水道を出しっぱなしにすることは反抗とすら呼べないだろう

この人は川柳も書けるのではないかと思った。歌集の帯には「シニックでブラックなユーモアに満ちた」とある。これは川柳が得意としてきた領域である。川柳性のある題材を短歌形式で書いているところがこの作者の逆説的なおもしろさなのかなと思った。
病院に運ばれる途中でこの歌集を出す決心をしたという話は、どこかで読んだことがあるが、『よいこのための二日酔い入門』でも次のように書かれている。
「私は仕事中に急性胃腸炎で救急搬送されたから、歌人として活動するようになった」「病院へ搬送されている最中に、ひとつ確かに抱いた思いがあった。それは、どうせ死ぬなら歌集を出せばよかった、という思いだった」
歌集を出すにはいろいろなハードルがあったことだろうが、とにかくこうして第一歌集が生まれたのである。
三田三郎は笹川諒と二人でネットプリント「MITASASA」や同人誌「ぱんたれい」を発行していた。そこには短歌のほかに川柳も掲載されているので、「川柳スパイラル」9号(2020年7月)のゲスト作品を三田に依頼してみた。こんな作品である。

横領のモチベーションが保てない
UFOになりそこなったポリ袋
後悔の数だけ庭に海老を撒く
自らの咀嚼の音で目が覚める
概念としての火事だけ買い占める

三田の第二歌集『鬼と踊る』(左右社)からも紹介しておこう。

不味すぎて獏が思わず吐き出した夢を僕らは現実と呼ぶ
杖をくれ 精神的な支えとかふざけた意味じゃなく木の杖を
今日は社会の状態が不安定なため所により怒号が降るでしょう
第一に中島みゆきが存在し世界はその注釈に過ぎない
マウンドへ向かうエースのようでした辞表を出しに行く後輩は
特急も直進だけじゃ飽きるだろうたまには空へ向かっていいぞ

三田三郎は短歌と川柳だけではなく、エッセイストとしての才能も発揮している。彼の川柳句集をいつか読むことができる日が来るかもしれないと想像するのは楽しいではないか。

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