昨年は『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が発行されて、現代川柳に対する関心がある程度高まってきた。今年はその続きとして、注目すべき川柳句集が何冊か上梓された。
川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(2021年4月、書肆侃侃房)
湊圭伍『そら耳のつづきを』(2021年5月、書肆侃侃房)
飯島章友『成長痛の月』(2021年9月、素粒社)
道長をあまりシベリアだと言うな 川合大祐
そら耳のつづきを散っていくガラス 湊圭伍
あれが鳥それは森茉莉これが霧 飯島章友
1970年代生まれの三人である。現代川柳界では中堅というところだろうか。このなかでは川合がいちばん実験的であり、湊は先鋭な作品と伝統的な作品の両方が書けるひと、飯島は短歌・川柳・十四字など短詩型文学のさなざまな詩形に通暁している作者である。この三人について私はこれまでにもそのつど取り上げてきたので、今回は他の川柳人や表現者たちが彼らのことをどう評価しているか、という観点から述べてみよう。
「川柳スパイラル」13号の特集は〈「ポスト現代川柳」の作者たち〉で、柳本々々が川合の句集について次のように書いている。
「句集『リバー・ワールド』を考えるにあたり大事なテーマとして上がってくるのが、圧倒的な過剰さです」「川合さんから『じぶんは世界を書きたいと思っているんです』と聞いたことがあります。世界を書きたいと思っているなんて、とわたしはその時正直思ったのですが、しかし今回川合さんのこの『ワールド』と世界が銘打たれた句集を読んでいて感じたことがあります。この句集が提示するものは、圧倒的な世界にひとがコンタクトすることそのものを表しているんじゃないか」「ひとりの人間が世界を、世界について、世界にふれたことを、書くということ」(『リバー・ワールド』の世界 いつ、泣くの)
柳本は『リバー・ワールド』の句集の編集にもかかわっているから、川合の作品については知悉している。そして柳本は川柳について「ことばをとおしてなにかを語る、のではなくて、ことばをとおしてことばそのものを語る、のが川柳なのではないかとおもうのです」と述べている。ここには柳本自身の川柳観が語られているが、川合の「道長を」の句の場合でも、言葉を通して言葉そのものを語る、ということがうなずける。そもそも道長をシベリアだと言う人はいないのだし、この一句は川柳のことばとしてだけ成立している。
逆に、川合は柳本をどう見ているだろうか。「川柳木馬」170号の作家群像は「柳本々々篇」で、川合は「伝道の書に捧げる薔薇、あるいは柳本々々氏の〈語り〉を〈読む〉ということ」という柳本論を書いている。
「何を今さらだが、川柳とは『誰』に向けられた発話なのだろうか。いや、発話という用語は適切ではないかもしれない。これを語る、と言い換えたとして、語っていない句作品もあまたある。ただ、『誰』かに対して語ろうとしている作品を、ひたすら作り続けている作家も間違いなくいる。柳本々々はそんな作家だ」
夏目漱石(CV:柳本々々) 柳本々々
川合はこの作品について、「CVとはキャラクターヴォイス、すなわち声優の意味だが、ここにおいて『誰』に『何』が『語られている』のか」と問う。「夏目漱石」の声を「柳本々々」が語っている。しかし、「柳本々々」は声優なのだから、語られているのは「柳本々々」の言葉ではない。ここではいったい「何」が語られているのか。そして「誰」に語られているのか。この句は「『語る』ということ、『誰』ということの重要性を端的に示した句である」と川合は書いている。
川合の作品も柳本の作品も「言葉/ことば」に対する先鋭な意識がベースにあるが、川合の場合は世界とどのようにコンタクトするか、柳本の場合は誰に語るかというコミュニケーションの問題が浮かび上がってくる。
次に飯島章友から見た湊圭伍について取り上げてみよう。
飯島は「川柳スープレックス」2021年8月16日に「湊圭伍著・現代川柳句集『そら耳のつづきを』を読む」を掲載している。
〈湊圭伍さんの第一句集『そら耳のつづきを』が出ました。わたしと湊さんは、2009年から柳誌「バックストローク」に投句を開始しました。その後「川柳カード」を経て、現在も「川柳スパイラル」で一緒なのですから、言ってみれば「同じ釜の飯を食ってきた」間柄です〉〈「とは言え、当時の湊さんは俳句や現代詩を通過してきたからかも知れませんが、五七五(前後)の長さで表現する力量がわたしよりもありました。ずっと短歌をやってきたわたしではありますが、川柳は下の句のない短歌みたいなもの。その短さには正直、困惑するばかりだったのです〉〈五七五に四苦八苦していた当時のわたし。他方、湊さんは、2010年3月7日の週刊俳句【川柳「バックストローク」まるごとプロデュース】(バックストローク30号)、2011年4月9日の「第4回BSおかやま川柳大会」での選者(バックストローク35号)、同年9月17日の「バックストロークin名古屋シンポジウム」でのパネラー(バックストローク36号)、短詩サイト「s/c」での「川柳誌『バックストローク』50句選&鑑賞」など、新人ながらその句作センスと批評力にみあった役目が与えられ、みごとその期待にこたえていたのでした。こうして文章で記すだけだと何とも簡単ですが、リアルタイムで見た者からするとまさに飛ぶ鳥を落とす勢い。現代川柳界に出現した新星でありました〉
続きは「川柳スープレックス」をご覧いただきたいが、ここには川柳界に登場した当時の湊の姿がとらえられている。その後、湊には川柳に対する関心が少し薄らいだかに見える時期があったが、第一句集の発刊を機に再び意欲的に川柳に取り組む気配を見せている。
飯島章友の句集については「川柳スパイラル」13号に久真八志が「上向きの蛇口の空を渡る」を書いている。久真は飯島と同じ歌人集団「かばん」のメンバーだから、飯島のことはよく知っている。
上向きにすれば蛇口は夏の季語 飯島章友
久真はこの句や飯島の十四字作品などをあげながら、飯島章友の作家性について次のように言っている。
「詩型を横断的に扱うこと自体、作者の文学的姿勢を問われるものである。『成長痛の月』から受ける印象は、色々な詩型の良さを愛で、それぞれの良さを楽しんでいる雰囲気だ。蛇口の句にはその点が特によく表れていて、三つの詩型を渡り歩きながら、機知で締める。その懐の広さが飯島さんの作家性なのだ」
飯島の川柳はこれまでにもさまざまに論じられてきた。「川柳カード」11号(2016年3月)では小津夜景が「ことばの原型を思い出す午後」を書いて、「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という切り口で飯島作品を論じた。「川柳木馬」160号(2019年4月)の「作家群像」は飯島章友篇で、川合大祐、清水かおりが飯島の句を読んでいる。そのときの「作者のことば」で飯島はこんなふうに語っている。「もともと私は前衛歌人の寺山修司や春日井建が大好きで、彼らの短歌に通じるような川柳を書きたいと考えていました」「前衛短歌を意識した川柳を作句し始めて以来、伝統川柳の句会では入選率がぐっと下がりました。しかし、自分の好みには素直でありたい」
飯島の強みは伝統川柳の世界もよく知っていて、そのうえで自分の川柳作品を自覚的に追求しているところにある。この点は湊圭伍や川合大祐も同じで、彼らの先鋭的な作品はこれまでの現代川柳の伝統を踏まえたうえでの冒険であって、恣意的な思いつきによる作品ではない。
以上、今年発行された三冊の句集を取りあげたが、そのほかにも現代川柳のさまざまな動きがあったことは言うまでもない。リアルの川柳句会も復活してきているし、来年は思いがけないところから現代川柳に新しい渦が生まれることを期待したい。
(次回は1月7日に更新します。)
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