とりあえず今はダチョウに乗ってゆけ 樹萄らき
「あざみエージェント」(冨上朝世)が発行しているオリジナルカレンダーの2022年版1月の掲載句。応募作35名の中から6人の選者が佳作・準特選・特選を選び、さらにその中からカレンダーに載せる12句が選ばれている。掲出句は柳本々々選の佳作から。
樹萄らきは川柳の仲間「旬」所属。啖呵の効いた威勢のいい句を書く人だ。「とりあえず」だから、いろいろ面倒なことがあり他に手段があるかもしれないが、とにかく出発しようということだろう。それも電車や車ではなくて、ダチョウに乗るのだという。ダチョウは時速60キロのスピードで走るから、乗り心地はともかくけっこう遠くまでゆけるかもしれない。高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」をはじめ、ダチョウには私たちにさまざまな連想を誘うイメージがある。ダチョウに乗る人のほかに、「乗ってゆけ」と言っているもう一人の人がいるのだと考えると、出発する人と送り出す人の姿も浮かんでくる。ダチョウになど乗れない現実のなかで、一瞬の爽快感が生まれる。
そろそろ来年の手帳を買うことにしよう。
ふつうです特殊ケースのほとんどは 佐藤みさ子
10月に創刊された川柳誌「What`s」vol.1(編集発行人・広瀬ちえみ)から。
佐藤みさ子は箴言(アフォリズム)のような句をいくつも書いている。「正確に立つと私は曲がっている」などはその代表的な作品だが、掲出句も「ふつう」と「特殊」の関係を独自の川柳眼で言い当てている。世間で特殊だと言われていることも当人にとっては「ふつう」なのであって、それを「特殊」だと言う世間の方が実はふつうではない。「ふつう」と「特殊」の関係が逆転し、問い直される。ベースにあるのは、人間はひとりひとり違うのであり、違いのなかに譲れない大切なものがあるという認識である。
ほかにも佐藤は「死ぬはずはないさ生まれていないもの」「空気には音があるのよねむれない」などの句を書いている。
体のなかの音組み立ててから起きる 加藤久子
同じく「What`s」vol.1から。この雑誌には終刊になった「杜人」のメンバーが多く参加している。加齢や低血圧、心身の不調などさまざまな事情で起きられないことがある。そんなとき体内で不安定に鳴っている音を組み立ててから、さあ起きるぞと自分を奮い立たせて起き上がる。「体のなかの音」という表現が魅力的で、考えてみれば体内には血液やリンパ液などが流れているのだし、それぞれの器官が動いている。そういう体内感覚と同時にデリケートな心の働きもある。この句では目覚めのときの感覚をまず音としてとらえている。「海岸線おいしい音をたてている」「雪の日の椅子に積もってゆくバッハ」などの句も掲載されている。
コロナ振り向く「こんな顔ではなかったかい?」 小野善江
「川柳木馬」170号から。小泉八雲の「むじな」の話を踏まえている。
コロナ禍の生活もほぼ二年に及ぶ。川柳でもコロナを詠んだ句はいろいろあるが、まとまった形で読む手立てがない。短歌誌「井泉」102号の〈リレー小論〉のテーマは「日常の歌を考える―コロナ禍に何をみるか」で、今井恵子と彦坂美喜子が執筆している。両人が取り上げているのは現代歌人協会が編集した『二〇二〇年コロナ禍歌集』という冊子。引用されているのは次のような歌である。
リモートの会話はどこかぎこちなく中の一人の画面が消える 佐藤よしみ
扉を開けてしばしためらうマスク越し判然としないあなたはどなた 松山馨
「手指酒精消毒液」が染み込んであなたに触れた事実も消える 松村正直
自粛ポリスとふ新語おそろし過剰なる監視者となる普通の人が 結城千賀子
陽性者は恥じよ恥じよと迫りくる舌を持たざる声群がりて 吉川宏志
「オンライン会議やリモート授業、またZoom歌会などが、一年のうちに、ごく当たり前のようにわたしたちの日常のなかに取り込まれていった」「遠隔地に接続できるので、物理的な距離を解消し、少ない労力で多くの情報が得られる便利さはある。人的交流が苦手の人にとっては楽に感じられるかもしれない」(今井恵子「これからの暮しと言葉」)しかし、やむをえずオンラインに切り替えた多くの人たちは不安定感をかかえているのであり、対面する会話の言葉との質的な違いは、よく覚えておきたい体感だと今井は言う。
川柳ではオンラインへの切り替えが限定的で対応のスピードも鈍いが、夏雲システムやZoomを利用した句会も徐々に現れてきている。川柳は時事や時代の反映を得意とするはずなので、まとまった形でコロナ禍の生活と向き合った句集があればいいのにと思う。小野善江の掲出句はCOVID‐19を擬人化して、のっぺらぼうのような無気味さを感じさせている。
家出するには古本が多すぎる 古谷恭一
同じく「川柳木馬」170号から。家出できない理由は古本が多いからというのは、本の置き場に困っている者には実感としてよく分かる。すべて捨ててしまえば出発できるのだろうが、本に対する愛着が強いのだ。
本誌の巻頭言で古谷恭一はこんなふうに書いている。「コロナ禍で、土佐では、二年続けてよさこい祭りが中止になった。よさこい祭りが無いと、高知の町もひっそりである。それに加えて、八月は長雨が続き、はりまや橋もさみしく濡れそぼっていた」そして恭一は北村泰章の句を引用している。
朱に染めてはりまや橋に雨が降り 北村泰章
北村泰章没後14年。時代の変化のなかで、それぞれの土地で川柳活動が続けられている。
ねえ似てるんだけど、ではじまる手紙 柳本々々
「川柳木馬」170号の「作家群像」は柳本々々篇である。真島久美子と川合大祐が作家論を執筆している。
掲出句は「ねえ」という呼びかけで始まっている。誰に対して呼びかけているのか。「ねえ似てるんだけど」が手紙の書きだしだから、手紙を送る相手なのだろう。そもそも何が似ているのかも書かれていない。書き手と相手との共通性だとすると、何か話が通じあい共感できるところがあるという関係性。たとえば、リチャード・ブローティガンが好きだとか、フギュアを集めるのが趣味だとか、お互いが同じタイプの人間であるというところから交流がはじまる。友情であれ恋愛であれ、異なったタイプ、正反対の性格だからうまくいくという場合もあるが、ここでは「似ている」ということが大切になっている。あるいは、そういうことではなくて、手紙の書き手が自分とそっくりな第三者と出会ったという報告かもしれない。自分と外見が似ているが正体不明の人物が不意にやってくる。そういう状況だとミステリーの発端になる。
柳本の句のなかでよく知られているものに「ねえ、夢で、醤油借りたの俺ですか?」があって、同じように「ねえ」で呼びかけられていてもこの句の場合は句意が読みとりやすい。掲出の手紙の句は読みの範囲が限定されずに、読者に放恣な想像を誘うところがある。誰に呼びかけているのかというのは「宛名」の問題である。この手紙はいったい誰に宛てて書かれているのか。宛名は手紙の相手というより、架空の誰かかも知れないし、川柳の読者なのかも知れない。
川合大祐は作品論で「川柳とは『誰』に向けられた発話なのだろうか」「柳本は『誰』に向けて作句しているのだろう?」(「伝道の書に捧げる薔薇、あるいは柳本々々氏の〈語り〉を〈読む〉ということ」)と書いている。今月末に発行される「川柳スパイラル」13号では逆に柳本々々が川合大祐の『スロー・リバー』について書いているので、あわせて読めば興味深いと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿