「現代詩手帖」2021年10月号の特集は「定型と/の自由」。「定型と自由/定型の自由」ということらしい。副題は「短詩型の現在」。座談会は佐藤文香・山田航・佐藤雄一による「俳句・短歌の十年とこれから」。作品は俳人・歌人の書いた現代詩。あと俳人・歌人・川柳人による論考とアンケート〈詩人に聞く「刺激を受けた歌集・句集」〉が付いている。
川柳と関係があるのは最初の座談会で、佐藤文香・山田航が『はじめまして現代川柳』などにふれている。論考では柳本々々が「でも川柳だと信じてる」を書いていて、川合大祐『リバー・ワールド』、石部明、石田柊馬、暮田真名『補遺』などを取りあげている。
佐藤文香は川柳との交流が長く、現代川柳の動向もよく知っているから、次のように的確な発言をしている。「小池正博編著のアンソロジー『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房)が出てから、外の読者に読まれることを意識した川柳の句集が立て続けに刊行され、現代川柳の波が来ているように思います。2018年の八上桐子『hibi』(港の人)が、ブームのさきがけでした」「歌人の瀬戸夏子や平岡直子が川柳を書きはじめたことで、興味を持った短歌や俳句の若手が川柳に目を向けるようになったのもよかったですね。柳本々々や暮田真名にも注目しています」
山田航は書評で川柳アンソロジーを紹介するなど、川柳に好意的で「『はじめまして現代川柳』に入っている人ではぼくは丸山進がとくに好きです」「邑書林の『セレクション柳人』シリーズはだいぶ前から集めていて、現代川柳はずっと注目していたんだけど、なんでもっと読まれないんだろうと思っていますね」と述べている。
詩人の佐藤雄一は「私も食わず嫌いで読んでなかった川柳を、今日のお二人のお話を伺って読んでみたいと思いました」と言っているが、川柳についてよく知らないことを中途半端に発言する評者が世間には多いなかで、正直な感想だと思う。佐藤雄一は以前「週刊俳句」でHIP HOPについてロングインタビューを受けたことのある人だ。
さて、今回の「現代詩手帖」の特集では2010年代の動きがテーマになっている。まず俳句について、佐藤文香の発言に基づいて整理しておく。『新撰21』(2009年)『超新撰21』(2010年)『俳コレ』(2011年)のあと、新しい書き方の俳人や伝統系の俳人たちの多彩な活躍が目立ってきた。『天の川銀河発電所』(2017年)以降は「俳句好きによる俳句の時代」がおとずれ、佐藤は生駒大祐、西村麒麟の名を挙げている。短歌については山田航が2000年代の「短歌ヴァーサス」と歌葉新人賞を挙げたあと、ニューウェーブ、笹井宏之、AI短歌などに触れている。近代短歌の歴史はリアリズムと反リアリズムを繰り返しながら進んできたが、2010年代を口語短歌の洗練とリアリズムへの回帰の時代としている。
「現代詩手帖」では取りあげられなかったが、ひるがえってこの十年間の現代川柳の動きはどのようなものだっただろうか。
テン年代を語る前に、その前のゼロ年代について見ておくと、まず2000年7月に『現代川柳の精鋭たち』(北宋社)が発行された。2001年4月には「WE ARE」が創刊。2001年4月15日には大阪で「川柳ジャンクション」が開催され、『現代川柳の精鋭たち』をめぐって荻原裕幸・藤原龍一郎・堀本吟が鼎談している。2003年1月に「バックストローク」創刊。同年9月に「バックストローク」記念大会が京都で開催されている。同年12月6日には「WE ARE 」川柳大会が東京で開催。これは午前中にフリマ、午後に川柳大会と一日がかりのイベントだった。2005年5月「セレクション柳人」刊行開始。2011年9月に「バックストロークin名古屋」が開催されたが、同年11月に「バックストローク」は36号で終刊。ここまでが2000年代の現代川柳の主な流れである。「私性川柳」を乗り越えて、「思い」を書く川柳から「言葉」で書く川柳へと移行してゆく時期だったと言える。
では2010年代はどうかというと、ゼロ年代の成果を受けて表現が多様化していった。2012年11月に「川柳カード」創刊。2014年7月「川柳ねじまき」創刊。文学フリマの影響を受けて、大阪で「川柳フリマ」が開催され、一度目が2015年5月、二度目が2016年5月(このときはゲストに山田消児を迎えた)。2017年3月「川柳カード」14号で終刊。2017年5月、中野サンプラザで「瀬戸夏子は川柳を荒らすな」が開催。同年11月「川柳スパイラル」創刊。2019年5月、『hibi』句評会が東京・北とぴあで開催。2019年9月、梅田蔦屋書店で「川柳と短歌の交差点」開催(パネラー:岡野大嗣・平岡直子・八上桐子・なかはられいこ)。テン年代はさまざまな川柳作品が同時並行的に存在している過渡の時代であり、実際に川柳の句会・大会を体験してきた作者とネットや活字だけで川柳を発信している作者との乖離が徐々に進みつつある。コロナ禍でリアルの川柳句会・大会が開きづらい情況も加わっている。
「現代詩手帖」に話を戻すと、この詩誌ではときどき俳句・短歌のことが取り上げられる。私の手元にあるのは、2010年9月号「短詩型新時代」と2013年9月号「詩型の越境」の二冊である。私がこの「川柳時評」をはじめたのが2010年で、「短詩型新時代」の方は何も書いていないが、「詩型の越境」については2013年9月6日の時評に書いているので、興味のある方はアーカイヴをご覧いただきたい。
2010年の「短詩型新時代」には、アンソロジー「ゼロ年代の短歌100選」(黒瀬珂瀾編)、「ゼロ年代の俳句100選」(高柳克弘編)が付いている。今回の2021年版が俳句・短歌の新作を掲載せず、逆に生駒大祐、井上法子、小津夜景、大森静佳、川野芽生、千種創一、鴇田智哉、中島憲武に現代詩を書かせているのと対照的だ。どちらが編集方針としておもしろいかは微妙なところで、俳句・短歌の実作を現代詩の読者に紹介するよりも、俳人・歌人の書く現代詩がどのようなものになるかということの方に重きを置いているのだろう。あと論考の書き手(俳句)が、福田若之・西村麒麟・安里琉太・松本てふこなどフレッシュになっていることや、詩人に聞く「刺激を受けた歌集・句集」のコーナーで高塚謙太郎が木下こう『体温と雨』を、文月悠光が平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』を挙げていることなどが印象に残った。どんな句集・歌集に注目するかは、その人のアンテナの感度を如実に示すものだ。
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