第35回国民文化祭・みやざき2020「連句の祭典」の『入選作品集』が届いた。宮崎の国文祭は昨年開催されるはずのところをコロナ禍で一年延期になったので、2020がそのまま使われている。さらに残念なことに、今年の8月22日に日南市で開催予定だった「連句の祭典」も中止になり、『入選作品集』だけがかたちとして残った。これまで準備に全力を傾けてきた関係者の無念は察するに余りある。まことに報われることが少ない世の中である。ちなみに今年の「連句の祭典」は和歌山県上富田町で10月31日に開催されることになっている。
さて宮崎の『入選作品集』だが、大賞部門のうち文部科学大臣賞が歌仙「グラデーション」の巻(捌・東條士郎)、国民文化祭実行委員会会長賞が歌仙「宇宙のみこんだか」(捌・谷澤節)の二巻を紹介したい。まず「グラデーション」の巻の表六句から。
寂しさのグラデーションや秋夕焼 東條士郎
各駅停車やがて月の出 都築ひな子
残菊のなほ誇らしき姿して 関真由子
一羽の雀いつも顔見せ 丸山陽子
ランドセルカタカタ鳴らし小学生 三輪和
厚着にかすかナフタリンの香 執筆
徳島の連衆である。ここまで穏やかに付け進めておいて、裏あるいは名残りの表でがらりと雰囲気を変えてゆく。表六句は序破急の序の部分で、破の部分のたとえば名残りの表では、
解決の糸口ほぐす抱卵期
おすましポアロ髭を手直し
三角形二辺の和より近いのは
丈不揃ひに並ぶ墓石
のような付句になっている。もう一巻、「宇宙のみこんだか」はまったく傾向の異なる作品である。
宇宙のみこんだか鯉幟 谷澤 節
無重力の麦笛 松本奈里子
すべての遺伝子情報細胞に 木戸ミサ
おとぎ話が好きな父 もりともこ
月を待ちかねる龍頭船は蕭条と 奈里子
金木犀が香り ミサ
奈良の連衆で、自由律になっている。歌仙形式のなかで変化・冒険しようとすれば、自由律、尻取り、地名・人名を詠み込んだ賦物など、いろいろなことが考えられる。自由律の例もないわけではないが、今回の応募作品のなかでも特徴的な作品となっている。選者の言葉でも「一巻は肩の力が抜け流れがスムーズ。自由律に挑戦された心意気に脱帽。自由律の醍醐味を味わわせていただきました」(木之下みなみ)、「全巻の中で際立っていたのが、自由律で歌仙に挑んだ『宇宙のみこんだか』の巻でした。こうした試みがあらたな現代連句の道を拓くひとつの方途であったかと目を開かれたことを最後に付け加えておきます」と高評価を受けている。
連句の話題を続けると「季語研究会」184号掲載の「一茶連句鑑賞」で佛渕健悟は連句の採点基準として東明雅の「私の連句採点法」(『新炭俵』)を引用している。
1 一句一句のおもしろさ
2 前句と付句との付心・付味のおもしろさ
3 三句目の転じのおもしろさ
4 一巻全体の序・破・急のおもしろさ
連句界でもこの基準に従って選をするものは多い。そのうえで佛渕はこんなふうに書いている。
〈連句の本質は「付け」と「転じ」にあるとされますが、「三句目の転じのおもしろさ」について言えば、付句が打越句から転じること以外のどこに「おもしろさ」があるのか、と考えてみたことはないでしょうか。分析的なまなびの便法のはずが、「付け」と「転じ」と二分法的に言い習わすことで同時発現の機微を見失うという別面もあります。「付け転じ」は、連句の実際の付合い場面では、一体的なもの、「付け即転じ」と感じられているのではないでしょうか〉
佛渕は蕪村連句の「もゝすもゝ」の巻の次の部分を引用している。
見し恋の児ねり出でよ堂供養 蕪村
つぶりにさはる人にくき也 几董
問題になるのは付句の方の主語はだれかということだが、ふつうは堂供養の稚児行列を見物している娘が人に押されて髪が崩れるのを嫌がっていると解釈する。これに対して佛渕は、付句の「人」を行列の稚児をかわいがっている念者と読んで、稚児が主語だとし、何かといえば触ってくる相手をうとましく思っていると解釈している。前句に対して人物を付ける場合、どのような人物を想定するかで連句は変化してゆく。
俳誌「里」(編集・発行、島田牙城)は休刊状態が続いていたが、このたび復刊のはこびになったようで、第192号(9月9日発行)が届いた。天宮風牙が「俳を見つけた」を書いていて、現代川柳について次のように言っている。「この連載で何度か川柳を取り上げた。俳人から現代川柳がわからないと聞くことがあるが、現代川柳は言葉の共通認識を変化させる(裏切る)面白さである。故に俳句的な読み方では読み解くことはできない」
天宮が例に挙げているのは、暮田真名の「OD寿司」である。
寿司として流星群は許せない 暮田真名
音楽史上で繰り返される寿司
良い寿司は関節がよく曲がるんだ
そして天宮は「『寿司』を詩語としてその共通イメージと寿司以外の措辞との関係で読み解くのではなく、措辞が変化させた寿司のイメージを楽しむものなのだ。どちらが文学的かと言えば現代川柳であろう」と述べている。天宮は俳諧にも造詣が深く、「俳諧と現代連句はサッカーとラグビー程異なる文芸である」とも言っている。おもしろい見方だが、笑ってばかりもいられない。
あと、「里」復刊号では特集「隣の歌集は何色でした?」で森本直樹が木下こう歌集『体温と雨』を、叶裕が『藤原月彦全句集』を取りあげているのが印象に残った。また月湖が青本瑞季の「めくる頁はねる鳥ゐるすずしさに」に自らの詩を付けている。月湖は「川柳スパイラル」に川柳漫画を掲載しているし、連句人でもある。
短歌誌「井泉」101号、リレー小論のテーマ「日常の歌を考える―コロナ禍に何を見るか」では「社会詠の私的クロニクル」(荻原裕幸)、「社会詠のゆくえ」(佐藤晶)が掲載されている。荻原は湾岸戦争、阪神大震災、アメリカで起きた同時多発テロ、東日本大震災に対する私的対応を振り返りつつ、現在のコロナ禍の状況を詠んだ短歌として次の三首を挙げている。
「山川さん、体の一部が消えてる」と口々に指摘する画面越し 石川美南
冥王星にある居酒屋は金曜も午後八時には暖簾をおろす 田村元
ずっとなにかの音がなってる部屋のなかに探してるものはあるのかもしれない 平出奔
短歌のコロナ詠に対して、川柳ではどうか。「川柳 カモミール」No.5(発行人・笹田かなえ)から二句だけ挙げておこう。
私語禁止パスタ巻くとき抜刀のとき 守田啓子
GO・TOのあとは野となれ春になれ 滋野さち
最後にネットプリント「ウマとヒマワリ」14から平岡直子の川柳。「17人の選者による17題のネット句会」(ねじまき句会)の入選句も含まれている。
白鳥のように流血しています 平岡直子
ご両家が切手サイズにまで縮む
五十音順に紙幣の顔になる
2021年9月18日土曜日
2021年9月10日金曜日
暮田真名の川柳性
暮田真名の第二句集『ぺら』が発行された。これはユニークな句集でB1用紙一枚に200句が印刷されている。ふだんB1サイズを使うことはないが、B4の8枚分の大きさで、ページをめくって読む句集ではない。みなさん、壁に貼ったりして読んでおられるようで、句集の概念を超越している。上段に大きな活字ポイントで10句、中段二列に中くらいの大きさで50句、下段二段に小さなサイズで140句が印刷されている。
ここでは上段に掲載されている句を紹介する。暮田にはこれまで書かれてきた現代川柳の継承と、そこから先に進んでゆく冒険とがあるが、先行する現代川柳を受け継ぐような川柳性を彼女の句のどこに感じるかということを中心に述べてみたい。
県道のかたちになった犬がくる
「県道を犬がくる」なら当たり前だが、「犬が県道のかたちになって、その犬がやってくる」というのは当たり前のことではない。西脇順三郎の『詩学』では〈「犬が無花果をたべた」という思考は自然の関係と現実の関係をのべているが、「無花果が犬をたべた」というともう自然の関係も現実の関係も破壊されて、とにかく新しい関係がのべられている。そしてそれはポエジイの思考である〉と説明されている。ここでは県道と犬の関係が日常的現実とは異なった関係として結びつけられている。意味の伝達という点では意表をついたことが述べられているから、このような川柳は「意表派」と言われることがあり、実作もちらほら見かける。「県道のかたちになった犬が県道をやってくる」というふうに読めば、ユーモアやイロニーも感じられる。
そもそも「かたち」という語は現代川柳でしばしば使われる言葉だ。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
「指切り」はたぶん恋愛の場面を想定しているのだろうが、指切りをした約束も今では灰になってしまって、しかもかたちだけは灰になったまま残っているのは生々しいことだ。人間を詠んでいる川柳だが、暮田は犬のかたちについて考えた。犬が県道のかたちになるとはどういうことかと比喩的な意味を考える必要はなくて、ナンセンスな笑いとして受け取るのがいいのだろう。もちろん読み方は自由だ。
家具でも分かる手品でしょうか
「家具でも分かる暮田真名展」が8月に開催されて、句集『ぺら』もそこで販売されたようだ。「猿でも分かる~」というタイトルがあって、『猿でもわかるパソコン入門』という類の本に私もお世話になったが、当然そのパロディになっている。その際、「~でも分かる」という部分にどの言葉を選ぶかというところに川柳性が表れる。二音の言葉であり、「猿」からは距離が離れていなければならない。暮田は「家具」という言葉を選ぶことによって、比喩的な意味のニュアンスを消している。
掲出句の方は家具と手品の関係性に加えて、「~でしょうか」という文体を採用している。穴埋め問題ではないが、「( )でも分かる( )でしょうか」という空欄の部分に何を入れるかによって、川柳として成功したり、失敗したりすることになる。「手品」が意味を生じやすい言葉だから、「家具」との取り合わせが効果的となっている。「手品」の部分は動くかもしれない。
飴色になるまで廊下に立っている
この句では主語が省略されている。短詩型文学では主語が省略されている場合、とりあえず「私」を補って読むことが多いが、短歌的な「私性」をとうに超越している暮田のことだから、「私」が廊下に立っているという読みではおもしろくないだろう。では何が廊下に立っているのかというと、たとえば「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡邊白泉)という句が思い浮かぶ。暮田の場合、社会性はなじまないが、何かの抽象的な存在が飴色になるまでじっと立っているという時間感覚になるのだろう。この場合「飴色」にニュアンスが生まれるので、桃色とか藍色とかではないわけだ。ひとつの言葉の背後には常に選ばれなかった別の言葉が存在するが、透明でもなく灰色でもない、「飴色」にこの句の発見がある。
みんなはぼくの替え歌でした
この発想は分かりやすくて、飯島章友に「毎度おなじみ主体交換でございます」という句がある。「主体交換」であれ「替え歌」であれ、確固とした「私」のアイデンティティはすでに信じられていない。だから暮田の「ぼく」は私性の支点となるようなものではない。ただ、おもしろいと思うのは、「ぼくはみんなの替え歌」ではなくて、「みんなはぼくの替え歌」と言っている点だ。すべては「ぼく」のヴァリエーションであり、パロディとなる。替え歌の中で自己は拡散するが、拡散しつつ自己は拡充すると考えれば、けっこうしたたかなのかもしれない。
暗室に十二種類の父がいる
「父」や「母」は特に伝統的な川柳でよく詠まれる。家族に対する愛憎だから、どうしても感情過多になるが、そのことが読者の共感を呼ぶという面もある。では、感情過多にならずに距離感を保ちながら父を詠むにはどうしたらいいか。暮田はトランプのカードのように十二種類の父を並べてみせた。ひとりの父の中に十二の別人格が存在するというのではなく、実際に十二種類の父がいると読んだ方がおもしろい。しかも、十二人ではなくて十二種類である。動物の種を数えるように、父にも種類があるというのだ。場所は暗室。父に対する二律背反的な感情やコンプレックスとは完全に絶縁している。
本棚におさまるような歌手じゃない
「多目的ホールを嫌う地霊なり」(石田柊馬)という句がある。様々な目的に対応できるように便利に作られた建物ではなく、それぞれの個性や資質に応じた存在であるべきだと地霊は思っている。暮田の場合は本棚という狭くて固定された場からはみだす存在が肯定されている。発想のベクトルは反対だが、共通する認識も感じる。現実や場に対する違和感は多かれ少なかれだれでも持っているが、特に川柳の場合、違和感やズレは表現の起動力になることが多い。柊馬が「~なり」と文語を使っているのに、暮田が「~じゃない」と軽やかな表現をしているのは世代の差かもしれない。
実作と並行して、暮田真名は現代川柳についてのエッセイを発表している。「川柳は人の話を聞かない」(「文学界」5月号)、「川柳は上達するのか?」(「ねむらない樹」vol.6)、「川柳はなぜ奇行に及ぶのか」(関西現代俳句協会・青年部HP「隣の◇(詩歌句)」8月)などである。「川柳は~」というのは一種のキャッチ・コピーで、もし川柳は人の話を聞くし、上達するし、奇行に及んだりはしないと言う人がいれば、それは暮田の術中にはまっているのだ。
私は句集に関しては保守的なので、暮田真名の製本された句集をいつか読んでみたいと思っている。そういうときが来れば、きっと本棚の川柳書といっしょに彼女の句集を並べるだろう。知らんけど。
ここでは上段に掲載されている句を紹介する。暮田にはこれまで書かれてきた現代川柳の継承と、そこから先に進んでゆく冒険とがあるが、先行する現代川柳を受け継ぐような川柳性を彼女の句のどこに感じるかということを中心に述べてみたい。
県道のかたちになった犬がくる
「県道を犬がくる」なら当たり前だが、「犬が県道のかたちになって、その犬がやってくる」というのは当たり前のことではない。西脇順三郎の『詩学』では〈「犬が無花果をたべた」という思考は自然の関係と現実の関係をのべているが、「無花果が犬をたべた」というともう自然の関係も現実の関係も破壊されて、とにかく新しい関係がのべられている。そしてそれはポエジイの思考である〉と説明されている。ここでは県道と犬の関係が日常的現実とは異なった関係として結びつけられている。意味の伝達という点では意表をついたことが述べられているから、このような川柳は「意表派」と言われることがあり、実作もちらほら見かける。「県道のかたちになった犬が県道をやってくる」というふうに読めば、ユーモアやイロニーも感じられる。
そもそも「かたち」という語は現代川柳でしばしば使われる言葉だ。
指切りのかたちのままの灰がある 西秋忠兵衛
「指切り」はたぶん恋愛の場面を想定しているのだろうが、指切りをした約束も今では灰になってしまって、しかもかたちだけは灰になったまま残っているのは生々しいことだ。人間を詠んでいる川柳だが、暮田は犬のかたちについて考えた。犬が県道のかたちになるとはどういうことかと比喩的な意味を考える必要はなくて、ナンセンスな笑いとして受け取るのがいいのだろう。もちろん読み方は自由だ。
家具でも分かる手品でしょうか
「家具でも分かる暮田真名展」が8月に開催されて、句集『ぺら』もそこで販売されたようだ。「猿でも分かる~」というタイトルがあって、『猿でもわかるパソコン入門』という類の本に私もお世話になったが、当然そのパロディになっている。その際、「~でも分かる」という部分にどの言葉を選ぶかというところに川柳性が表れる。二音の言葉であり、「猿」からは距離が離れていなければならない。暮田は「家具」という言葉を選ぶことによって、比喩的な意味のニュアンスを消している。
掲出句の方は家具と手品の関係性に加えて、「~でしょうか」という文体を採用している。穴埋め問題ではないが、「( )でも分かる( )でしょうか」という空欄の部分に何を入れるかによって、川柳として成功したり、失敗したりすることになる。「手品」が意味を生じやすい言葉だから、「家具」との取り合わせが効果的となっている。「手品」の部分は動くかもしれない。
飴色になるまで廊下に立っている
この句では主語が省略されている。短詩型文学では主語が省略されている場合、とりあえず「私」を補って読むことが多いが、短歌的な「私性」をとうに超越している暮田のことだから、「私」が廊下に立っているという読みではおもしろくないだろう。では何が廊下に立っているのかというと、たとえば「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡邊白泉)という句が思い浮かぶ。暮田の場合、社会性はなじまないが、何かの抽象的な存在が飴色になるまでじっと立っているという時間感覚になるのだろう。この場合「飴色」にニュアンスが生まれるので、桃色とか藍色とかではないわけだ。ひとつの言葉の背後には常に選ばれなかった別の言葉が存在するが、透明でもなく灰色でもない、「飴色」にこの句の発見がある。
みんなはぼくの替え歌でした
この発想は分かりやすくて、飯島章友に「毎度おなじみ主体交換でございます」という句がある。「主体交換」であれ「替え歌」であれ、確固とした「私」のアイデンティティはすでに信じられていない。だから暮田の「ぼく」は私性の支点となるようなものではない。ただ、おもしろいと思うのは、「ぼくはみんなの替え歌」ではなくて、「みんなはぼくの替え歌」と言っている点だ。すべては「ぼく」のヴァリエーションであり、パロディとなる。替え歌の中で自己は拡散するが、拡散しつつ自己は拡充すると考えれば、けっこうしたたかなのかもしれない。
暗室に十二種類の父がいる
「父」や「母」は特に伝統的な川柳でよく詠まれる。家族に対する愛憎だから、どうしても感情過多になるが、そのことが読者の共感を呼ぶという面もある。では、感情過多にならずに距離感を保ちながら父を詠むにはどうしたらいいか。暮田はトランプのカードのように十二種類の父を並べてみせた。ひとりの父の中に十二の別人格が存在するというのではなく、実際に十二種類の父がいると読んだ方がおもしろい。しかも、十二人ではなくて十二種類である。動物の種を数えるように、父にも種類があるというのだ。場所は暗室。父に対する二律背反的な感情やコンプレックスとは完全に絶縁している。
本棚におさまるような歌手じゃない
「多目的ホールを嫌う地霊なり」(石田柊馬)という句がある。様々な目的に対応できるように便利に作られた建物ではなく、それぞれの個性や資質に応じた存在であるべきだと地霊は思っている。暮田の場合は本棚という狭くて固定された場からはみだす存在が肯定されている。発想のベクトルは反対だが、共通する認識も感じる。現実や場に対する違和感は多かれ少なかれだれでも持っているが、特に川柳の場合、違和感やズレは表現の起動力になることが多い。柊馬が「~なり」と文語を使っているのに、暮田が「~じゃない」と軽やかな表現をしているのは世代の差かもしれない。
実作と並行して、暮田真名は現代川柳についてのエッセイを発表している。「川柳は人の話を聞かない」(「文学界」5月号)、「川柳は上達するのか?」(「ねむらない樹」vol.6)、「川柳はなぜ奇行に及ぶのか」(関西現代俳句協会・青年部HP「隣の◇(詩歌句)」8月)などである。「川柳は~」というのは一種のキャッチ・コピーで、もし川柳は人の話を聞くし、上達するし、奇行に及んだりはしないと言う人がいれば、それは暮田の術中にはまっているのだ。
私は句集に関しては保守的なので、暮田真名の製本された句集をいつか読んでみたいと思っている。そういうときが来れば、きっと本棚の川柳書といっしょに彼女の句集を並べるだろう。知らんけど。
2021年9月3日金曜日
関係性の文学(連句・川柳・俳句)
去る6月6日に日本連句協会主催の全国リモート連句大会が開催されたが、そのレポートが「俳句界」(文学の森)9月号に掲載されている。日本連句協会の会報「連句」8月号に吉田酔山が書いている報告によると、参加者は79名、東京・大阪をはじめ新潟・北陸・大分・岡山など各地在住の連句人が15座に分かれて連句を巻いた。「俳句界」に掲載されたのは半歌仙「走り梅雨」の巻(高尾秀四郎捌き)、二十韻「二度目の芒種」の巻(牛木辰夫捌き)、獅子「梅雨晴れや」(東條士郎捌き)の巻の三巻。獅子という形式は一般には馴染みがないかもしれないが、表裏各4句(4×4=16句)で一花一月。ここでは半歌仙「走り梅雨」の巻から紹介する。
おもちゃのこびと七つ並べて 山中たけを
園庭の雲梯照らす月明かり 平林香織
ふと草むらに鳴くは鈴虫 高尾秀四郎
越後より来ぬか来ぬかと新ばしり 吉田酔山
念のため前句と付句の関係を見ておくと、前の二句は七人のこびとのイメージから月の座へ。三句の渡り(三句目の転じ)については、月明と鈴虫の世界から酒どころ・越後から新酒の到来を待ち望む人物へ転じている。引用では分かりにくいが、「鈴虫」の句は表の六句目で、「新ばしり」の句は裏の一句目。表では出せない地名を詠んで、裏に移ったことを明確に打ち出している。
藤原定家の『毎月抄』に「すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、歌詞の優劣侍るべし」とあるが、言葉そのものに良し悪しはなく、すべては言葉と言葉の関係性の世界である。
コロナ禍でリアル句会・大会が開催できないこともあって、ネットを利用した川柳句会が目につくようになってきた。暮田真名の「ぺら句会」は先日結果が発表されたが、湊圭伍が「海馬万句合」を募集中で、締切りは9月15日。「17人の選者による17題のネット句会」として評判になった「ねじまき句会」(なかはられいこ他)も結果が発表されている(ただし大賞の発表は9月30日)。ユニークなネット句会が現代川柳を活性化させる一助となるかも知れない。
上記の17人の選者のひとりである八上桐子が「ねむらない樹」vol.7(書肆侃侃房)に川柳作品12句を寄稿している。
一輪の椿が占める四畳半 八上桐子
三つ編みのうしろへ伸びてゆく廊下
藤へ首そらすかたちのままに灰
「古い家」というタイトルで、旧家の四畳半や廊下などの場所が設定されている。「椿」「藤」は季語ではなく、場の雰囲気を醸し出すために使われているのだろう。八上には「藤という燃え方が残されている」という句があり、『はじめまして現代川柳』の解説で私は「炎は上に立ち昇ってゆくが、藤の花房は下へと垂れ下がってゆく。それも一種の燃え方だという」と書いている。ここでは更に燃えたあとの灰になっているが、灰になったのは藤そのものではなさそうだ。八上の作品は葛原妙子トリビュートとして書かれたもの。他に紀野恵、井上法子、鴇田智哉などが作品を寄せている。鴇田は〈『朱霊』の魚に寄す〉とベースになる歌集を明らかにしているが、八上の場合は何だろう。特定の歌、歌集ではなくて葛原妙子の全体的なイメージを踏まえたものだろうか。
「ねむらない樹」vol.7の特集1は「葛原妙子」(「女人短歌」についても詳しく取り上げている)、特集2が「川野芽生」。いずれも興味深い内容である。
水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし 葛原妙子
「川柳木馬」169号の招待作品は広瀬ちえみの40句。新作かと思ったら昨年発行された句集『雨曜日』(文学の森)からの抄出だった。
遅刻するみんな毛虫になっていた 広瀬ちえみ
笑ってもよろしいかしら沼ですが
夜行性だから夜行性に会う
咲くときはすこしチクッとしますから
うっかりと生まれてしまう雨曜日
作家論が欲しいところだが、誌面には何も書いていないので、「凜」86号に石田柊馬が掲載している文章を紹介しておく。
〈昨年、句集『雨曜日』(広瀬ちえみ)が刊行された。先の句集刊行から「もう十五年も経ちました」と作者。それ以前にも個人句集や共著が在って、何れも収載作品の作句の時期があきらか。「いい年をして、夢を見ながらふわふわ生きて来たように思います」と「あとがき」にあるが、先に出た合同句集やアンソロジーと共に読み返せば、現代川柳の諸々の活動シーンに広瀬ちえみの存在が欠かせないことが歴然〉
「木馬」誌の会員作品から。
シマウマもキリンも睡魔もてあます 小野善江
言い訳がとまらなくなる雛の檀 同
讃美歌が悲鳴に変る日曜日 古谷恭一
ドーナツを残して女逃げてゆく 同
じゃんけんで負けてランプの鳥になる 大野美恵
山ひとつ百字以内に要約せよ 清水かおり
何語しゃべっても顎は気にしない 山下和代
押しあいへしあい溶けてゆくんだね 同
そんなんじゃ残り時間は食べられる 同
「じゃんけんで負けて」というフレーズは安易に使わない方がいいと思う。
「触光」71号。「特高が見た川柳」(野沢省悟)、「高田寄生木賞を読んで―アンソロジーについて」(広瀬ちえみ)、「おしゃべりタイム」(芳賀博子)まど。「第12回高田寄生木賞」の募集は2022年2月末日締切。掲載作品から。
東京五輪返上過去の事ですが 津田暹
摩崖仏人は神より素晴らしい 濱山哲也
三島由紀夫の胸毛に触れたことがない 野沢省悟
追い風も向い風もないホーム 岩渕比呂子
白く咲いたのね黙って咲いたのね 小野善江
消えてゆく虹の時間とキーワード 青砥和子
ほほえみの無果実墓の前にいる 勝又明城
俳句短歌誌「We」に、しまもと莱浮の川柳作品が掲載されている。彼は熊本市在住の若手川柳人。
笛を盗られて鴉に戻る しまもと莱浮
立場上二年で和訳した縫い目
まだ卵殻だけがいきつづけている
俳誌も紹介しておくと、「LOTUS」48号は「多行形式の論理と実践」を特集。同人作品から。
花人を大軽率鳥は右繞して 九堂夜想
にび光るハシビロコウも地震雲 同
万物に抱かれし貴腐の姉ならん 同
地のなかは草木の寓話でいつぱいだ 志賀康
野の花よ眼を逸らしたらもう会えぬ 同
わが指を巻く哄笑の蔓であれ 同
おもちゃのこびと七つ並べて 山中たけを
園庭の雲梯照らす月明かり 平林香織
ふと草むらに鳴くは鈴虫 高尾秀四郎
越後より来ぬか来ぬかと新ばしり 吉田酔山
念のため前句と付句の関係を見ておくと、前の二句は七人のこびとのイメージから月の座へ。三句の渡り(三句目の転じ)については、月明と鈴虫の世界から酒どころ・越後から新酒の到来を待ち望む人物へ転じている。引用では分かりにくいが、「鈴虫」の句は表の六句目で、「新ばしり」の句は裏の一句目。表では出せない地名を詠んで、裏に移ったことを明確に打ち出している。
藤原定家の『毎月抄』に「すべて詞に、あしきもなくよろしきも有るべからず。ただつづけがらにて、歌詞の優劣侍るべし」とあるが、言葉そのものに良し悪しはなく、すべては言葉と言葉の関係性の世界である。
コロナ禍でリアル句会・大会が開催できないこともあって、ネットを利用した川柳句会が目につくようになってきた。暮田真名の「ぺら句会」は先日結果が発表されたが、湊圭伍が「海馬万句合」を募集中で、締切りは9月15日。「17人の選者による17題のネット句会」として評判になった「ねじまき句会」(なかはられいこ他)も結果が発表されている(ただし大賞の発表は9月30日)。ユニークなネット句会が現代川柳を活性化させる一助となるかも知れない。
上記の17人の選者のひとりである八上桐子が「ねむらない樹」vol.7(書肆侃侃房)に川柳作品12句を寄稿している。
一輪の椿が占める四畳半 八上桐子
三つ編みのうしろへ伸びてゆく廊下
藤へ首そらすかたちのままに灰
「古い家」というタイトルで、旧家の四畳半や廊下などの場所が設定されている。「椿」「藤」は季語ではなく、場の雰囲気を醸し出すために使われているのだろう。八上には「藤という燃え方が残されている」という句があり、『はじめまして現代川柳』の解説で私は「炎は上に立ち昇ってゆくが、藤の花房は下へと垂れ下がってゆく。それも一種の燃え方だという」と書いている。ここでは更に燃えたあとの灰になっているが、灰になったのは藤そのものではなさそうだ。八上の作品は葛原妙子トリビュートとして書かれたもの。他に紀野恵、井上法子、鴇田智哉などが作品を寄せている。鴇田は〈『朱霊』の魚に寄す〉とベースになる歌集を明らかにしているが、八上の場合は何だろう。特定の歌、歌集ではなくて葛原妙子の全体的なイメージを踏まえたものだろうか。
「ねむらない樹」vol.7の特集1は「葛原妙子」(「女人短歌」についても詳しく取り上げている)、特集2が「川野芽生」。いずれも興味深い内容である。
水かぎろひしづかに立てば依らむものこの世にひとつなしと知るべし 葛原妙子
「川柳木馬」169号の招待作品は広瀬ちえみの40句。新作かと思ったら昨年発行された句集『雨曜日』(文学の森)からの抄出だった。
遅刻するみんな毛虫になっていた 広瀬ちえみ
笑ってもよろしいかしら沼ですが
夜行性だから夜行性に会う
咲くときはすこしチクッとしますから
うっかりと生まれてしまう雨曜日
作家論が欲しいところだが、誌面には何も書いていないので、「凜」86号に石田柊馬が掲載している文章を紹介しておく。
〈昨年、句集『雨曜日』(広瀬ちえみ)が刊行された。先の句集刊行から「もう十五年も経ちました」と作者。それ以前にも個人句集や共著が在って、何れも収載作品の作句の時期があきらか。「いい年をして、夢を見ながらふわふわ生きて来たように思います」と「あとがき」にあるが、先に出た合同句集やアンソロジーと共に読み返せば、現代川柳の諸々の活動シーンに広瀬ちえみの存在が欠かせないことが歴然〉
「木馬」誌の会員作品から。
シマウマもキリンも睡魔もてあます 小野善江
言い訳がとまらなくなる雛の檀 同
讃美歌が悲鳴に変る日曜日 古谷恭一
ドーナツを残して女逃げてゆく 同
じゃんけんで負けてランプの鳥になる 大野美恵
山ひとつ百字以内に要約せよ 清水かおり
何語しゃべっても顎は気にしない 山下和代
押しあいへしあい溶けてゆくんだね 同
そんなんじゃ残り時間は食べられる 同
「じゃんけんで負けて」というフレーズは安易に使わない方がいいと思う。
「触光」71号。「特高が見た川柳」(野沢省悟)、「高田寄生木賞を読んで―アンソロジーについて」(広瀬ちえみ)、「おしゃべりタイム」(芳賀博子)まど。「第12回高田寄生木賞」の募集は2022年2月末日締切。掲載作品から。
東京五輪返上過去の事ですが 津田暹
摩崖仏人は神より素晴らしい 濱山哲也
三島由紀夫の胸毛に触れたことがない 野沢省悟
追い風も向い風もないホーム 岩渕比呂子
白く咲いたのね黙って咲いたのね 小野善江
消えてゆく虹の時間とキーワード 青砥和子
ほほえみの無果実墓の前にいる 勝又明城
俳句短歌誌「We」に、しまもと莱浮の川柳作品が掲載されている。彼は熊本市在住の若手川柳人。
笛を盗られて鴉に戻る しまもと莱浮
立場上二年で和訳した縫い目
まだ卵殻だけがいきつづけている
俳誌も紹介しておくと、「LOTUS」48号は「多行形式の論理と実践」を特集。同人作品から。
花人を大軽率鳥は右繞して 九堂夜想
にび光るハシビロコウも地震雲 同
万物に抱かれし貴腐の姉ならん 同
地のなかは草木の寓話でいつぱいだ 志賀康
野の花よ眼を逸らしたらもう会えぬ 同
わが指を巻く哄笑の蔓であれ 同