2021年5月21日金曜日

平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』と川野芽生『Lilith』


平岡直子の第一歌集『みじかい髪も長い髪も炎』(本阿弥書店)が刊行され、話題を集めている。『桜前線開架宣言』(山田航編著・左右社)以来(平岡のファンにとってはもっと以前から)、単独歌集の刊行を待ちわびていたが、歌集の帯文にあるように「この歌集が事件でなくて何だろうか」。歌集がなくても平岡直子には歌人としての存在感があったが、歌集の刊行によって、これまで断片的に読んできた彼女の作品の全貌が立ち上ってくる。

巻頭には連作「東京に素直」が置かれている。文学ムック『たべるのがおそい』創刊号に発表された作品。東京生活の点綴だろうが、表現内容はそれほど素直なものではない。

きみの頬テレビみたいね薄明の20世紀の思い出話  平岡直子

「きみ」という二人称は誰だろう。恋人と読むのがふつうだろうが、「東京」への呼びかけかもしれないとも思う。けれども、それもしっくりしない。頬がテレビみたいに映像化している。20世紀は戦争と革命の時代。「映像の世紀」とも呼ばれるが、すでに「薄明の20世紀」と思い出話化してしまっている。川合大祐の『リバー・ワールド』の巻頭句に「ミニ四駆ずっと思い出だましつつ」とあるが、この川柳では思い出が騙されるものとしてとらえられている。平岡の短歌では「頬」という身体が「テレビ」のように映像化され、20世紀へと広がっていく。思い出は朧化しつつ誰かと語り合うものとして歌われている。

メリー・ゴ―・ロマンに死ねる人たちが命乞いするところを見たい

メリー・ゴ―・ラウンドではなくて、「ロマン」へと言葉をつなげて、ロマンに死ねる人がいるという。現実的には人はすべて死ぬ運命にあるが、ロマンをもっている人は自分の夢を実現できないうちは死んでも死に切れないだろう。だからじたばたして命乞いをしたりするのだが、その姿を見たいというのは一種の悪意なのだろう。

こぼされてこんなかなしいカルピスの千年なんて見たことがない

「カルピス百年」ではなくて、もっとスパンの長い千年である。「見たことがない」というかたちで何かが見えていて、それはかなしいものなのだ。

ああきみは誰も死なない海にきて寿命を決めてから逢いにきて

「記憶を頬のようにさわって」から。喚起力の強い歌なので、映像化したい誘惑にかられる人が多いようだ。「死なない海」なのに寿命を決めてほしいという。「水からも生きる水しかすくわないわたしの手でよかったら、とって」という歌もあり、生と死、記憶と思い出、水と身体、恋のイメージが複雑にからみあっている。

この朝にきみとしずかに振り払うやりきれないね雪のおとだね

「ね。」というタイトルの連作。平岡の作品は少数の例外を除いて口語短歌である。川柳は口語を基本とするから、現代の口語短歌の文体や文末の止めに無関心ではいられないが、ここでは文末の「ね」の使い方が心地よい。あと、「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音」(「紙吹雪」)などの「~よ」も効果的である。

海沿いできみと花火を待ちながら生き延び方について話した
三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった

前者は2012年の歌壇賞を受賞した「光と、ひかりの届く先」から。
後者は歌壇賞受賞第一作「みじかい髪も長い髪も炎」から。
ともに人口に膾炙している歌なので、ここでは引用だけにする。

「外出」創刊号で平岡は「引き算のうちはよくてもかけ算とわり算でまずしくなっていく」(永井祐)を引いて、「かけ算やわり算によって都合よく情報のサイズを変更したり、正確に復元したりできるかもしれないというのは幻想だと思う。短歌にはたし算しかない。作者にできるのは書き加えることだけで、読者にできるのは歌にさらになにかを書き加えることだけである」と書いている。
『みじかい髪も長い髪も炎』を読んでいると、作品とは直接関係のないさまざまな想念が去来するので、何度も途中でページを閉じて勝手な思いにふけることが多かった。

口語主流の現代短歌の世界のなかで、文語の現代短歌として注目されているのは川野芽生の歌集『Lilith』(書肆侃侃房)である。
帯文を山尾悠子が書いている。

「叙情の品格、少女の孤独。
端正な古語をもって紡ぎ出される清新の青。
川野芽生の若さは不思議だ。
何度も転生した記憶があるのに違いない」

山尾悠子の小説はまだ読んだことがなかったので、『ラピスラズリ』を手にとってみた。幻想文学は最初に迷宮に引き込まれる冒頭部分が特におもしろい。川野は雑誌「夜想」などで山尾の小説について論じているから、彼女の短歌ともシンクロするところがあるのだろう。
『Lilith』の巻頭は「借景園」の連作である。

羅の裾曳きてわが歩みつつ死者ならざればゆきどころなし
夜の庭に茉莉花、とほき海に泡 ひとはひとりで溺れゆくもの

文語・旧かなである。「死者ならざればゆきどころなし」「ひとはひとりで溺れゆくもの」というフレーズが印象に残る。死者にはゆきどころがあり、ひとは死ぬときは独りなのだという認識である。
「借景園」という場所を設定して、言葉によってひとつの世界を構築している。廃園ではないが一種の閉ざされた空間で、古い藤棚がある。白い蛇が棲んでいて、「わたし」は巫女のような存在(「執政」と言っている)。隣家には惚けた女主人がおり、垣根越しの交流があるが、それも稀だ。雉鳩がやってきて藤の上に巣を作っているが、この藤はやがて取り壊されることになっている。外の世界を微妙に意識させながら、ひとつの閉鎖空間を詠みあげている。
『Lilith』のもう一つの面は「Lilith」のタイトルで歌われている、現実世界への痛烈な批判である。

Harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
青年とわれは呼ばるることなくて衛つてやると言はれてゐるも
魔女を焼く火のくれなゐに樹々は立ちそのただなかにわれは往かなむ

神話のリリスは最初の女性で、イブ以前にアダムの妻だったとも言われる。悪霊たちを産んだ「夜」のイメージがあるが、現代では女性解放運動の象徴としても使われる。アニメではエヴァンゲリオンにも出てくる。
川野は歌集の「あとがき」で「言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに」と書いている。
「世界は言葉でできている」はずなのに、その言葉を専門に使っている人間が醜悪だとしたら、なんと憤ろしいことだろう。現実とは異次元の言語空間の構築と、それを裏切る現実に対する鋭い批評性という二つの方向性。しかもそれを文語で行おうとする川野の短歌はとても刺激的である。

山尾悠子は深夜叢書社から歌集『角砂糖の日』(1882年)を出している。私は実物を見ていないので孫引きになるが、最後に山尾の短歌を紹介しておく。

角砂糖角ほろほろと悲しき日窓硝子唾もて濡らせしはいつ  山尾悠子
腐食のことも慈雨に数へてあけぼのの寺院かほれる春の弱酸

「角ほろほろと」の「角」は「かど」、「唾」は「つ」と読むようだ。「世界は言葉でできている」というのは表現者にとって本質的なことだが、川柳人の私はそこまで言いきれない。川柳には不純な現実と散文性が含まれているからだ。

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