川合大祐の第二句集『リバー・ワールド』(書肆侃侃房)は4月に発行されて以来、好評のうちに読まれているようだ。『はじめまして現代川柳』の「ポスト現代川柳」の章に収録されている作者のなかでは、川合に続いて湊圭伍が『そら耳のつづきを』を上梓している。湊については改めて語る機会があると思うので、今回は川合の句集についての感想を書いておきたい。
「川柳は意味で屹立する文芸」だとか「川柳の意味性」ということがよく言われるが、川合の作品に何かの意味をもとめる読み方は無効だと思っている。句集全体の世界観は何となく感じられるけれど、一句一句にどんな意味があるかを探っても何も出てこない。私が興味をもつのは、川合の言葉がどんなふうにして出てくるのかという、言葉の生まれ方・出し方についてだ。
第一章「零頭の象」から「忌日」を使った句を抜き出してみよう。
警棒の長さオスカー・ワイルド忌
鏡割る以上のことを桜桃忌
横綱を言葉で言うと桜桃忌
金の粉あたまはりつくナウシカ忌
ガチャガチャが集まるジャンボ鶴田の忌
失った世界ガソリンスタンド忌
忌日俳句というものがあって、歳時記には「実朝忌」「獺祭忌」「時雨忌」などの忌日が収録されている。忌日を季語として使った句が成功しにくいのは、実朝とか子規とか芭蕉のイメージが強いので、それと何かを取り合わせるときの距離感がとりにくいからだ。
獺祭忌明治は遠くなりにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり
この二句のうち「降る雪や」の方が名句として残り、「獺祭忌」が忘れ去られているのは、獺祭忌・子規・明治というイメージの連鎖が当然すぎておもしろくないからだろう。「降る雪」の天象と「明治は遠くなりにけり」の述懐のほうが取り合わせとしては効果的だと言われる。
川合の場合は「桜桃忌」は季語ではないけれど、読者は太宰治のことを当然思い浮かべる。けれども句のなかでは太宰とはまったくかけ離れたことが言われている。「鏡割る以上のことを桜桃忌」はまだおとなしい方で「横綱を言葉で言うと桜桃忌」となるとムチャクチャに飛躍している。「桜桃忌」の意味やイメージは破壊されているから、「横綱を」の方がより川柳的である。川合はさらにエスカレートしてアニメの「ナウシカ忌」、プロレスの「ジャンボ鶴田の忌」を作りだしている。
取り合わせや配合はAとBの二つの言葉の関係性だが、川合はさらに進んでA・B・Cの三つを構築する。たとえば次の句はどうだろう。
春の雪キングコングを和訳する 川合大祐
素材分類でいえば「春の雪」は天象、キングコングは動物(怪獣)、「和訳する」は人情(人間が出てくる句)となる。三行に分けて書くと次のようになる。
春の雪
キングコングを
和訳する
これを連句の三句の渡りへと私流に翻訳してみよう。
春の雪孤島の山に降りしきる
キングコングの続く足跡
原作を三週間で和訳する
まあ、こんな感じで遊んでみたが、うまくいかなかったので、もう一句お付き合いを。
風死して新体操の卑怯な手 川合大祐
風死して秒針の音かすかなり
新体操の演技はじまる
卑怯な手使うライバル傍らに
川合の句は文脈がわかれば意味が理解できるというものではなく、言葉の生成と飛躍を楽しめばいいのだと思う。こういう作り方は昔からあって、たとえば天狗俳諧では三人の作者が作った上五・中七・下五を無関係に合わせて一句にする。これをひとりで行えば同じ効果が生まれる。
道 彼と呼ばれる長い新経路 川合大祐
この句は「道」という題があって、その連想で言葉を付けているように見える。雑俳のうち「冠句」に次のような作品がある。
宝石箱 いちどに春がこぼれ出る
羊飼い まさか俺が狼とは
秋の道 ちちははの樹が見当たらず
風光る すでに少女の瞳が解禁
川柳は題詠を基本とするから、最初の言葉からどの方向に連想を飛ばすかが重要になる。川柳の題と連句の前句の間に私はそれほど違いを感じていない。どのような言葉を生成するかというときに、作者の意識のなかにある言葉のストック、一種の辞書が効果を発揮する。川合の場合、哲学用語やサブカルなどと並んで固有名詞が作句の契機になっているようだ。第二章「プレパラート再生法」から人名を使った句を抜き出しておく。
義経を十二分間眠らせよ
道長をあまりシベリアだと言うな
サマセット・モームが巨大化する梅雨
パズル解く樋口可南子の庭先で
後方の宗兄弟へ超音波
千年後タモリの墓の祟りにて
弁慶の骨盤ならぶ美術館
その人名が一般的に喚起するイメージからずいぶん離れた内容になっている。疾走する固有名詞。既成概念を裏切り続けるのは楽なことではない。
0 件のコメント:
コメントを投稿