2019年3月1日金曜日

彦坂美喜子『子実体日記』(思潮社)

雑事が重なって二月は時評を更新できなかった。三月に入り、気分一新して時評に取り組みたい。
休んでいる間に読んだものの中から、彦坂美喜子の詩集『子実体日記 だれのすみかでもない』(2019年2月、思潮社)を取り上げることにする。彦坂は短歌誌『井泉』のメンバーなので、歌集かと思って本を開いてみると詩集なのだった。
冒頭の詩「つれてゆきたい」はこんなふうにはじまっている。

つれてきてやりたいつれてゆきたいと男同士の道行きである
両手で湯のみを抱く
たぶん理由なんてないよナァ
からだがなだれてくずれていく
帰ってきて笹川のほとりへ
石と水の接触点に
解凍した魚から流れる液汁
きれいに拭いてやってください
マニキュアの剥がれた爪と長い髪どこで私をすてたのだろう
頭からハナサナギタケが生えている夜はゆっくり起だしてきて

このあとまだ続くのだが、五七五七七の短歌形式と自由詩形式がミックスされていて、全体として現代詩になっていることがわかる。作品の成立過程については、栞の倉橋健一の文章「口語自由律のあらたな地平へ」で詳しく説明されている。倉橋は次のように書いている。

〈 詩集として編まれることになったこの『子実体日記』は、主な初出は私たちの同人誌「イリプス」で、2009年4月刊の三号にはじまって2017年6月刊の二十二号まで、二十回に亘って、一貫して短歌として発表された。詩として別に発表した作品もあったから、私自身短歌であることを訝しげに思ったことなど一度もなかった。〉
〈 それが今回ゲラ校を見ておどろいた。そのまま姿をかえて詩集となり、三十のタイトルがつけられて、それぞれ連作詩のたたずまいをとりながら独立した詩篇となり、そのための大幅な、改稿というよりは、編むための手順そのものを喩的な了解事項としつつ、ま新しい装いをもって、こうして私たちの前に姿をあらわしてきたからである。〉

短歌として発表されたものを現代詩として再編する。あるいは、読者が短歌と受けとった作品を現代詩のかたちにリサイクルする。これは大胆な試みに違いない。
最初の一行が「男同志の道行き」とあるからにはことは恋愛にかかわっている。「どこで私をすてたのだろう」というフレーズは「私性」との関連を思わせる。ハナサナギタケ(花蛹茸)は実在する菌類で、セミに寄生するいわゆる冬虫夏草の一種である。
タイトルの「子実体(しじつたい)」とは聞き慣れない用語なので、調べてみると菌類のキノコのことなのだった。キノコは菌類の本体ではなくて、地下に隠れている菌糸体が本体なのだそうだ。キノコの部分は胞子を発射するための装置にすぎない。菌類の生態はけっこうおもしろくて、子実体と菌類についての知識を仕入れるのに数日を費やして回り道をした。子実体のイメージを使って彦坂は何を表現しようとしているのだろうか。

彦坂美喜子とはけっこう以前からの知り合いである。
2004年6月に「短詩型文学における連句の位置」というイベントをアウィーナ大阪で開催したことがあるが、そのとき彼女に短歌のパネラーを依頼した。彦坂は「現代短歌における私性の変化」について語った。『井泉』のことはこの時評でも時々紹介しているが、私がこの短歌誌を毎号読むことができるのは彦坂との縁による。
第一歌集『白のトライアングル』(1998年4月、雁書館)は「あ」の歌から始まっている。

記せないきみとの時間かさねつつただ抱きしめているだけの「あ」
粉々に割れてきらめく三角のミクロの世界で君にあう
まっしろな時間の底に降りてゆくきみとわたしの「あ」がかさなって
キミハキミヲアイする連鎖限りなく作動しているアンチ・オイディプス
三角が白くかがやく海にいて果てまでワタシといきますか

「あ」は「アイ」へと変容してゆき、そこに「白」と「三角(トライアングル)」のイメージが加わってゆく。キイ・イメージを連鎖させ、重ねあわせてゆく方法のようだ。テーマは愛。そこにオイディプス・コンプレックスがからまっている。
短歌の定型に対する疑いが彦坂には見られる。五七五七七の最後の七を五音にするのは、塚本邦雄ばりの「五止め」の手法だろう。
彦坂には最初から短歌形式をはみ出すものがあった。「短歌は私にとって常に『問い』の詩型でした」(あとがき)と彼女は書いている。彦坂には短歌と並行して現代詩に対する強い関心があったのだ。

第一歌集で「白のトライアングル」というモティーフを用いた彦坂は、今度の詩集では「子実体」のモティーフを駆使している。

関係を問い返しているその度にベニテングタケが増えてゆく (「つれてゆきたい」)
わたくしがわたくしを産む瞬間の叫びは土のなかに響いて (「身体は途中から折れ」)
ざっくりと言えばがっつりいくような人がサクッってこどもを産んだ(「執拗に愛する」)
いつでもどこにでもいるいなくてもいることさえもわからないオレ(「ここにいるのに」)
吸根をあなたの身体に刺し入れて枯れるまで一緒にいてあげる
(お礼いうてええのんかしら          (「変態をくりかえし」)
関係のない関係を続けてる擬足のような手をのばしあう(「移動する」)

この詩集のなかから短歌形式の部分だけを抜き出すのは邪道だろうが、詩全体を引用するのは大変なので、やむなくこのようにしている。
子実体は胞子を飛ばし、移動し発芽して増殖、宿主を食い尽くし、「私」を解体する。菌糸は思いがけないところにまでネットワークを伸ばし、そこで新たな子実体を生成する。

「何かを分類し体系づけようとするときに、いつもその枠組みから外れるものたちがあります。それは異質な魅力を持っています。『子実体』は、菌類の生殖体で、胞子を生ずる器官。菌類は分裂し、飛散し、ランダムにアトランダムに拡散増殖し生成を続けます」
「詩とか歌とかも一度その枠組みを外してみたい。春日井建のもとで短歌の世界に関わり、詩も書いてきた私にとって、言葉の表現はジャンルを超えて自由な世界を持っていると思われました」
「五句三十一音だけが短歌ではない、という自由な発想を敷衍して、型を少し崩せば表現は詩にも歌にもなります」(『子実体日記』あとがき)

彦坂は意識的な表現者である。これに私が付け加えることは何もない。ルーツは違うとしても私が彦坂に共感するのはジャンルを相対化する視点である。


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